今月の二十日に安倍晋三の首相在任日数が桂太郎を抜いて歴代一位になるという。ちょっと普通ではないですよ。桂太郎というのは日露戦争時の総理大臣であり、日露戦後は西園寺公望と組んで政権を交互に担当して、明治大正にまたがり3度も総理大臣になったという人物です。
安倍総理の政策の根拠というのがどこにあるのかというと、彼が「総力戦」という言葉を好んで使うところからして、戦前の準戦時体制にあることはたぶん間違いないと思います。
岸信介は安倍総理の母方の祖父に当たります。戦後も総理大臣をしたりして有名な人物なのですが、彼の原点は戦前の革新官僚時代にあると思いますし、安倍総理も戦前の祖父をイメージして総力戦などという言葉をつかっていると思われるので、戦前の岸信介が何をしたかについて本人がどのように語っているのかということを紹介したいと思います。
岸信介は1896年生まれです。商工省の官僚として1926年にドイツに渡って、国家統制化運動というものを研究します。
第一次世界大戦の終結が1918年です。第一次世界大戦以前の世界というのは、自由主義的思想というのが主流だったのですが、第一次世界大戦中から、自由主義などというものでは国家間の闘争を勝ち抜けないだろうということになります。自由主義でダメならどうするかというと、国内をより合理的に再編成しようという国家統制化運動ということになります。
これは直ちにファシズムというわけでもないです。例えば国を挙げてのメートル法の採用というのも、国家合理化運動の結果だったりします。
私は似てると思うんですよね、第一次世界大戦終結と冷戦終結で自由主義が勝利を収めた瞬間から国家統制化運動が始まるという皮肉なところが。
昭和5年に浜口内閣が金解禁を断行するとものすごい不況になって、これはヤバいということで、かつて国家統制化運動を研究していた岸を、もう一度ドイツに行かせて研究させろ、ということになったそうです。
当時の金解禁政策というのは、簡単に言うと通貨の切り上げみたいなものです。デフレ政策です。当時の浜口内閣などの民政党内閣は自由主義政策をとっていて、その内実はというと、より厳しい条件(例えば円高)に日本を置けば、日本経済はより強くより筋肉質になるだろうというものです。
これがまた歴史の皮肉というか、直近の民主党政権の政策に似ています。
昭和3年にソ連が第一次五か年計画という経済政策を始めます。五か年計画とか懐かしいですね。昭和8年に第二次五か年計画が始まります。
昭和7年に満州国ができるのですが、昭和11年、岸信介は満州に派遣されて満州五か年計画という経済政策を発動させます。これはソ連の丸パクリだそうです。本書で本人がそのように語っています。
この満州五か年計画では、資本と人材を当時新興財閥であった日産コンツェルンに頼ったそうです。
岸と日産というのはつながりがあるんですね。私、あまり陰謀論とかは好きではないのですが、このあたりから先日のゴーン事件というのは国策捜査ではないのかと疑っています。
岸信介は満州に3年いた後、昭和14年に商工次官として中央に復帰します。昭和14年ですから、日中戦争がはじまって2年、第二次世界大戦が欧州で始まっています。
国家総動員法はすでに制定されていて、この法律を実効あるものにするために岸は呼び寄せられたらしいですよ。
国家総力戦の中心に企画院という部署があったのですが、昭和14年から昭和16年にかけて企画院事件というものが起こります。企画院の職員がアカの容疑で逮捕されたという。この事件は、自由主義者の統制派に対する反撃で、岸信介もターゲットになっていたらしいです。
現在の自民党にも同じような闘争ってあると思います。自民党丸ごと統制派というわけでもないでしょう? 前回の衆院選で希望の党に民主党が合流したという事がありましたが、あのまま希望の党に風が吹いていたら、自民党から自由主義グループが離脱して希望の党に合流するなんて言うこともあり得たのではないでしょうか。分かんないのですけど。
この企画院事件を切り抜けて、岸信介は昭和16年10月、東条内閣の商工大臣として入閣します。同年12月8日が真珠湾攻撃です。
なぜあのような無謀な戦争を始めてしまったのか、誰もが不思議に思うところでしょう。開戦内閣の大臣であった岸信介が当時を振り返ってどのように語っているか、少し引用してみましょう。
「ハルノートがショックだったですね。それで我々文官としてはあれこれ言う立場にないし、ですから軍部を押さえつけるほどの非常に偉い人が出てくるというようなことがあれば話は別ですが、開戦に至る経過をずっと見ていくと、大勢としてはしょうがなかった。それに軍の一部が勝手にやろうということで戦争になったわけではないし。やはり石が坂道を転がっていくという情勢でしたね」
何だか漠然としたようなことを語っていますが、いつでも未来というのは見えないわけで、当事者とすればこういうものかと思います。
戦争中、岸信介自身はサイパンが落ちたら手を上げようと思っていたそうです。サイパンが落ちたら、そこからB29が飛んでくるわけで、官僚的合理性から考えると、もう総力戦は戦えないという事にはなるでしょう。
昭和19年7月に東条内閣が倒れ、岸信介は野に下ったという。
安倍総理の政策の根拠というのがどこにあるのかというと、彼が「総力戦」という言葉を好んで使うところからして、戦前の準戦時体制にあることはたぶん間違いないと思います。
岸信介は安倍総理の母方の祖父に当たります。戦後も総理大臣をしたりして有名な人物なのですが、彼の原点は戦前の革新官僚時代にあると思いますし、安倍総理も戦前の祖父をイメージして総力戦などという言葉をつかっていると思われるので、戦前の岸信介が何をしたかについて本人がどのように語っているのかということを紹介したいと思います。
岸信介は1896年生まれです。商工省の官僚として1926年にドイツに渡って、国家統制化運動というものを研究します。
第一次世界大戦の終結が1918年です。第一次世界大戦以前の世界というのは、自由主義的思想というのが主流だったのですが、第一次世界大戦中から、自由主義などというものでは国家間の闘争を勝ち抜けないだろうということになります。自由主義でダメならどうするかというと、国内をより合理的に再編成しようという国家統制化運動ということになります。
これは直ちにファシズムというわけでもないです。例えば国を挙げてのメートル法の採用というのも、国家合理化運動の結果だったりします。
私は似てると思うんですよね、第一次世界大戦終結と冷戦終結で自由主義が勝利を収めた瞬間から国家統制化運動が始まるという皮肉なところが。
昭和5年に浜口内閣が金解禁を断行するとものすごい不況になって、これはヤバいということで、かつて国家統制化運動を研究していた岸を、もう一度ドイツに行かせて研究させろ、ということになったそうです。
当時の金解禁政策というのは、簡単に言うと通貨の切り上げみたいなものです。デフレ政策です。当時の浜口内閣などの民政党内閣は自由主義政策をとっていて、その内実はというと、より厳しい条件(例えば円高)に日本を置けば、日本経済はより強くより筋肉質になるだろうというものです。
これがまた歴史の皮肉というか、直近の民主党政権の政策に似ています。
昭和3年にソ連が第一次五か年計画という経済政策を始めます。五か年計画とか懐かしいですね。昭和8年に第二次五か年計画が始まります。
昭和7年に満州国ができるのですが、昭和11年、岸信介は満州に派遣されて満州五か年計画という経済政策を発動させます。これはソ連の丸パクリだそうです。本書で本人がそのように語っています。
この満州五か年計画では、資本と人材を当時新興財閥であった日産コンツェルンに頼ったそうです。
岸と日産というのはつながりがあるんですね。私、あまり陰謀論とかは好きではないのですが、このあたりから先日のゴーン事件というのは国策捜査ではないのかと疑っています。
岸信介は満州に3年いた後、昭和14年に商工次官として中央に復帰します。昭和14年ですから、日中戦争がはじまって2年、第二次世界大戦が欧州で始まっています。
国家総動員法はすでに制定されていて、この法律を実効あるものにするために岸は呼び寄せられたらしいですよ。
国家総力戦の中心に企画院という部署があったのですが、昭和14年から昭和16年にかけて企画院事件というものが起こります。企画院の職員がアカの容疑で逮捕されたという。この事件は、自由主義者の統制派に対する反撃で、岸信介もターゲットになっていたらしいです。
現在の自民党にも同じような闘争ってあると思います。自民党丸ごと統制派というわけでもないでしょう? 前回の衆院選で希望の党に民主党が合流したという事がありましたが、あのまま希望の党に風が吹いていたら、自民党から自由主義グループが離脱して希望の党に合流するなんて言うこともあり得たのではないでしょうか。分かんないのですけど。
この企画院事件を切り抜けて、岸信介は昭和16年10月、東条内閣の商工大臣として入閣します。同年12月8日が真珠湾攻撃です。
なぜあのような無謀な戦争を始めてしまったのか、誰もが不思議に思うところでしょう。開戦内閣の大臣であった岸信介が当時を振り返ってどのように語っているか、少し引用してみましょう。
「ハルノートがショックだったですね。それで我々文官としてはあれこれ言う立場にないし、ですから軍部を押さえつけるほどの非常に偉い人が出てくるというようなことがあれば話は別ですが、開戦に至る経過をずっと見ていくと、大勢としてはしょうがなかった。それに軍の一部が勝手にやろうということで戦争になったわけではないし。やはり石が坂道を転がっていくという情勢でしたね」
何だか漠然としたようなことを語っていますが、いつでも未来というのは見えないわけで、当事者とすればこういうものかと思います。
戦争中、岸信介自身はサイパンが落ちたら手を上げようと思っていたそうです。サイパンが落ちたら、そこからB29が飛んでくるわけで、官僚的合理性から考えると、もう総力戦は戦えないという事にはなるでしょう。
昭和19年7月に東条内閣が倒れ、岸信介は野に下ったという。
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