丸山眞男の「超国家主義の論理と心理」は昭和21年発表です。

「超国家主義の論理と心理」では、戦前日本の超国家主義を分析することで、なぜ日本は太平洋戦争であのような惨敗を喫したのか、を明らかにしようとしています。
しかしこの論文の面白いところは、過去の日本についてだけではなく、現在の日本がなぜ経済競争で惨敗を喫しつつあるのかにもつながってくるところです。

まず丸山は、日本人は「近代的人格の前提たる道徳の内面化」ができなかった、と書いています。道徳の内面化というのは簡単に言うと、自分の価値というのは自分の中にある、という考え方です。自分の価値は自分の中にあるという確信が、自分は自分であるという自己同一性を育んでいきます。

では日本人はどのようにして自分というものを維持しているのかというと、「抑圧の移譲による精神的均衡の保持」だという。

「抑圧の移譲による精神的均衡の保持の世界」とは何かというと、上のものにはペコペコして下のものには威張ることによって全体のバランスが維持されている世界ということになります。

徳川封建時代もこのような「抑圧の移譲による精神的均衡の保持の世界」だったのですが、江戸時代は職業によって人が分けられていた時代なので、職業を超えて抑圧が移譲するということは少なかったようです。武士も農民には威張っていたでしょうが、それは武士世界と農民世界との接点にいる人たちの話で、一般の武士と一般の農民が直接、抑圧の移譲を行うということはないです。
これは現代で例えるなら、大企業の協力会社担当社員と協力会社社長間に抑圧の移譲はあるかもしれませんが、大企業の一般社員と協力会社の一般社員とでは抑圧の移譲が行われるような場がないというのと同じです。

江戸時代には並列的にあった抑圧の移譲の場というのが、明治維新以降、国家という枠組みの中で序列化されるようになります。日本国民が一つの場で抑圧の移譲を行うようになります。

この結果、どのような現象が起こるかというと、

「法は抽象的一般者としての治者と被治者を共に制約するとは考えられないで、権威のヒエラルキーにおける具体的支配の手段に過ぎない。だから尊法というのはもっぱら下のものへの要請である。煩雑な規則の適用は上級者へ行くほどルーズとなり、下級者ほどより厳格になる」

このようなことは誰でも知っている、と丸山眞男は言う。

現代の上級国民問題やNHK受信料問題とつながるところがあります。
ある政治家は、NHKのありかたは問題だけれどもNHK受信料は法律に従って払うのが当然だと言います。しかしこの考え方は、「法は権威のヒエラルキーにおける具体的支配の手段に過ぎない」という認識からの帰結でしょう。

また抑圧の移譲日本における別の現象について、丸山眞男は
「思えば明治以降今日までの対外交渉において対外硬論は必ず民間から出ていることも示唆的である」
と語ります。

現代のネット右翼の嫌韓というのは、彼らが抑圧されつつも、その抑圧を国内では移譲する先も移譲する勇気もないので、韓国に抑圧を移譲しているということになるでしょう。
丸山自身はこのように語ります。
「中国やフィリピンでの日本軍の暴虐な振る舞いについて、営内では二等兵で圧迫を移譲すべき場所を持たない者が、ひとたび優越的地位に立つとき、己にのしかかっていた全重圧から一挙に解放されんとする衝動に駆り立てられたのは怪しむに足りない」

明治憲法下で日本人は自分の中に価値を持つという近代的自我形成にトータルとして失敗したと丸山自身は語るのですが、戦後において、日本人は近代的自我形成、すなわち道徳の内面化は出来たのでしょうか。

丸山眞男はこう語ります。

「国体明徴(こくたいめいちょう)は自己批判ではなくして、ほとんど常に他を圧倒するための政治的手段の一つであった。これに対して純粋な内面的な倫理は絶えず無力を宣告され、さらに無力なるがゆえに無価値とされる。倫理がその内容的価値においてではなく、権力的背景を持つかどうかによって評価される傾向があるのは、倫理の究極の座が国家的なものにあるからに他ならない」

国体明徴を憲法9条に言い換えれば、これはそのまま現代左翼リベラル批判として読めるでしょう。丸山眞男は戦後リベラルの最高の知性でした。
戦後リベラル教育は全く失敗して、現在において日本は経済的惨敗を迎えつつあります。