magaminの雑記ブログ

カテゴリ: マンガ

この映画、ちょっと整合性がとれていない。暴力団があって、主人公は組長の息子に恋人を殺されて復讐を考える。かたやその暴力団に狙い狙われる殺し屋が2人いる。 そして、主人公と殺し屋2人は最後までほとんど接点がない。かといって、真ん中にいる暴力団組織が時間をかけて描かれているかというと、そうではない。  結局。統一性というものがない。主人公パートか殺し屋パートか、どちらかがいらないんじゃないかと思う。  もしくは3部作風にして、1部では主人公パートをやって、2部では殺し屋パートをやって、3部でそれらをじっくり総合するという。これはこれでハードルが高そうだな。  小説が原作の映画なら、もうちょっと統一性というものを大事にしていかないと、観るほうとしても、考えようがない。  殺し屋のキャラクターとか悪くないと思ったから、ちょっともったいない映画だった。

新卒就職活動の話だった。  「自分が自分であることの確信」を最初に本格的に試されるのが、新卒就活だろう。自分らしくとかいうのは、結局自分の都合であって、企業はよろしくやってくれる歯車を求めているというのは今も変わらない。問われているのは、誰もが出来る仕事をしながら、「自分が自分であることの確信」をいかに維持できるか、ということだ。  よりいい大学にいけば、より自分らしく出来るかというと、そうではない。よりいい大学内に自分と同じレベルのヤツが何千人といる。自分が特別ではないということを思い知るだけだ。   この「何者」という映画は、このような若者を取り囲む厳しい現状を、和らげてあげるような映画だった。主人公の男がいて、こいつは学生時代に演劇をやっていた。卒業するから、演劇を引退して就職活動をしようという。極めてまっとう、常識的なヤツだ。主人公の同期の知り合い4人というのが、それぞれに自分らしくあろうと苦闘している。主人公とルームシェアをしている友人は、昔の知り合いを探すために出版社の内定を狙っている。その友人の彼女は、母親と一緒に暮らすために家賃補助の出る会社を狙う。彼女の友人の女の子は、意識高い系を演じて就活でも「自分らしく」をアピールしている。その彼氏も同じ系統だな。   みんなそれぞれに痛々しい。   彼らに影響を受けて、主人公も就活でちょっと自分らしさを出して反抗してみる、というのがエンディングだった。   トータルで考えると、これは主人公が救われる話ではなくて、主人公の周りの人たちが救われる話だろう。この映画を見るものが、主人公以外の誰かに感情移入してくれることを、製作側は期待しているのだろう。    この世界で生きるためには、ある一定以上の精神的頑強さが必要だということだね。

SFの短編集なんだよね。書かれた時代は1970年ころのものらしい。  SFとかあまり読まないし、評価の仕様もないのだけれど、正直あまり面白くないような。  わかりにくくて古臭いような。 ドラッグ的イメージの多用が、時を経て新鮮さを失っているような感じだと思う。  「そして目覚めるとわたしはこの肌寒い丘にいた」とか、ちょっといいかと思わせるようなヤツもあるのだけれど、この短編だって、オヤジが昔の体験を語るという設定だから。この設定、もうちょっと何とかならないかと思う。  世の中、いろんな本があって、全部カバーするっていうわけにはいかないね。

映画「僕だけがいない街」が、個人的には、まずまずだったのではないかと思った。  ヤフー映画の評価は意外と低くて、マンガやアニメよりつまらない、というコメントが多かった。   そんなにアニメ版は面白いのかと思って、全編を見てみた。   結末が違うだけで、そう差はなかったと思うけれど。現代バージョンの表現力は、映画のほうがいいぐらいだろう。  映画「僕だけがいない街」が不満な人というのは、結末が不満なのだろう。  結末において、アニメは犯人の心理説明重視で、映画は主人公のいい所を強調していた。  個人的には映画の方が共感する。だいたい、幼女連続殺人犯の心理解説とか、そんなにこだわることもないだろうと思うけど。アニメ版最終話の、くもの糸がどうとか、あれって別にたいした意味もないだろう。深読みすれば、何らかの哲学みたいなものもあるかもしれないけれど、レアな殺人犯の妄想を、しつこく追跡する気持ちには普通ならないだろう。    最初にアニメを見た人は、アニメの落ちに愛着がわくのかな。 それとも、アニメコミュニティーみたいなものがあって、そこではアニメ「僕だけがいない街」のラストについての刺激的な議論みたいなものがあったのかな。  

もう15年も前なんだな。 訪朝後、小泉総理がテレビで、「4人帰国、8人死亡」と発表した時、胸を締め付けられる寂寞さを感じたことをおぼえている。  小泉総理に関して言えば、4人とはいえ敵地に乗り込んで同胞を帰国させた功績というのは評価するべきだろう。 問題は北朝鮮だ。同胞を多数拉致しておいて、、「4人解放、8人死亡」というふざけきった譲歩で、日本の経済援助を引き出せると考えたという。  本当に日本をなめきっている。  こういうことは本当は言いたくないのだけれど、日本をひどく追い詰めると、また神風みたいなことをやらないとも限らないよ。  現状、北朝鮮はチキンレース外交を展開中だ。ミサイルをグアムに撃ち込むとか、それはやったりやらなかったりすればいい。 しかし拉致問題で、北朝鮮は日本の同情を得る道筋を全く失った。  北朝鮮の自分勝手な論理が、自らをどこに導くか、もうすぐ分かるだろう。     蓮池さんは、この本を読む限り、誠実で有能な人だと思った。拉致という苦境を乗り越えて、日本と朝鮮半島の交流を進めようという姿勢はすばらしい。複雑な状況だから、語れることも語れないこともあるだろう。よくいるんだよ、問題があるなら言えばいいじゃん、ってやつが。語り合って簡単に相互理解が成立するなら、この世界に神経症は存在しなくなるだろう。語るべきでないことは語らない、という蓮池さんの態度は正しいと思う。

この映画は、新海誠の「秒速5センチメートル」系列の話を軸に、都会と田舎の風景を美しくリアルに盛り付けていて、まずまずのアニメ大作だろう。 後、男の子と女の子の意識が入れ替わるという設定が、「秒速5センチメートル」系列の話と親和的であるというのは、新海誠のいいアイデアだと思った。物語がより緊密に、整合的になって、安心して見れる感じだった。  悪い映画ではないとは思ったけれど、日本であれほど爆発的にヒットした理由というのは、実際見てみても分からなかった。  うちの高校生の娘もこの映画のために友達と映画館に行ったらしいけれど、何がよかったのか、というか何が特別よかったのか、聞いてみたい。   もしかしたら、「時間の説明」みたいなものがよかったか? 近代の時間観念というのは、時間は無限の過去から無限の未来に一直線に続いていくというものだ。しかしこの映画内では、タイムリープを説明するために伝統的時間観念を導入している。このあたりが違和感がなくて、成長の終わった日本にとって、ふさわしいというか新しいというか、若い人の心をつかんだのかもしれない。   そういえば、新海誠の「秒速5センチメートル」って、何でそういう題名なんだろう。伝統的時間観念に関係しているのかもしれない。  もし新海誠に次回作があるのなら、この辺のところを深彫りしたらいいと思う。

失敗の研究、なる書物が最近よく出ているみたい。失敗の研究をするより、成功の研究をした方が素直にいいと思うけど。成功は偶然の可能性があるけれど、失敗は必然だから、より学ぶ価値があるという意見がある。失敗を学ぶほうが、成功を学ぶより効果的だという。  ありえない。  そんなら株式市場で空売りをやってみろよ。買いから入るより、売りからのほうが分かりやすいんだろう?  この本を読んで思うのは、失敗の研究の系列というのは、経営者の教養みたいな位置づけにあるんだろう。経営の基準というものを、過去の有名人を教訓で解説したら、より分かりやすいだろうというわけだ。山内容堂や徳川慶喜がもっとこうだったら、もっとうまく組織を維持できたはずだ、みたいな話になってくる。経営者には、経営に関する何らかのヒントがそこにあるかもしれない。  しかし敢えて空気を読まずに語るならば、明治維新とは現代の迷える経営者に何らかのヒントを提供するために存在するわけではない。  なぜ明治維新が成立したのかというと、長州が第二次長州征伐をはねのけたからだ。山内容堂とか徳川慶喜とか、基本的に関係ない。第二次長州征伐において、長州においては祖国防衛戦争の様相を呈した。祖国防衛戦争とは、すなわち総力戦だ。長州における何らかの積み重ねが、長州をここに導いた。高杉晋作とは天才であり、奇兵隊とは結果なんだよ。山縣有朋の父親は足軽だったという。足軽というのは武士ではない。城下町周辺の農民に切り出された武士的仕事に過ぎない。山縣があそこまで立身したのは、総力戦思想に押し上げられたからだろう。失敗の研究などというものでは、現代経営者のなぐさみにはなるかもしれないが、歴史の真理というのは分からない。  ここはよく考えなくてはならない。  幕末、長州は総力戦を戦った。戦前、昭和恐慌の危機の中で総力戦が呼号されて、最後は太平洋戦争だ。現代、戦後システムが崩れる中、安倍内閣は総力戦という言葉を明確に掲げて長期政権を築いている。  すべてはつながっている。  失敗の研究とか、ネガティブなことを考えている時間はないと思うけど。   最後に、瀧澤中なる人物は優秀だと思う。幕末研究としてこの本を読むなら、傾聴すべき部分もある。このような優秀な民間の研究者が、本を売らなくてはならないという要請に従って、必要のない言説を自著のなかに追加しなくてはならないというのは、残念なことではあるだろう。

認知症の母親を抱えたバツイチ息子の話だった。  長崎を舞台にして、ゆっくりした見やすい映画だった。しかしうがった見方をすれば、親が認知症になるのはしょうがないとして、後はこうだったらまだマシなんだけどという願望交じりの話だったと思う。    世の中、できた人間ばかりではないから、ボケ老人に誰もが優しく接してくれるわけではない。さらに、映画に出てきたグループホーム、かなり高そうだよ。誰でも入れるレベルではないだろう。  未婚男子が50歳になって、80歳の母親がぼけたらどうする? この映画のように、ボケた母親の世界にとことんまで寄り添えるだろうか。こういうことは、出来そうで出来ない。日頃から人の話を聞かない人間が、親とはいえボケた人間の話を聞けるわけない。この映画の息子というのは、ハゲのダメオヤジ的な描かれ方をしているが、かなり優秀な部類だろう。私と同年代の団塊ジュニアは、親がボケた時のための心の訓練をする必要はあるだろう。  私個人は、20年以上前に両親が死んでいるので関係ないのだけれど。

時代小説だね。舞台は幕末らしい。酔いどれ小籐次(ことうじ)留書、というのはシリーズものらしく、「状箱騒動」は第19弾という。結構な人気シリーズらしい。  この本を読み終わって、驚くことばかりだった。文庫本のカバーの裏にあらすじみたいなのが短く書いてある。  そこにこうある、「無事に仲人を務めた小籐次は水戸に旅立った。だが、街道筋で状箱が盗まれたことを耳にする。その強奪は何を意味するのか......」  小籐次という主人公が、江戸から水戸に旅することで話が始まるのだろうと、普通思う。しかしこの主人公、なかなか旅に出ない。最初の20ページぐらいは、仲人の話だ。続き物だから前巻で何かあったのだろう。その後30ページ、旅に出る前の近所のあいさつ回りだ。まあまあ、もしかしたらあいさつ回りは必要かもしれない。その後20ページ、近所に住むボケ老人が行方不明になって、みんなで探すという話。この辺は必要なのかな。  70ページ以降、小籐次はやっと旅に出る。旅に出たのはいいのだけれど、30ページほど、どうでもいい旅の描写が続く。荒川の先は何橋だとか、水戸藩が用意してくれたかごに乗るだとか乗らないだとか。そして、100ページ以降にやっと水戸藩の状箱騒動なるものがでてくる。  その状箱騒動自体は170ページの分量だ。  ここまでで270ページ。  残り70ページある。どうするんだこれ? と思うよね。  小籐次は水戸の職人に竹細工を教える。そもそも小籐次は竹細工を教えに水戸藩に旅している。だから真剣に教えちゃう。アイツの竹細工はいいとか悪いとか、これで70ページ。   要するに、小説の半分がイントロダクションとエピローグなんだよね。おまけに、真ん中の状箱騒動の核心部分も、内容的には薄い。  かなりのレベルの「ゆっくり小説」だと思った。  世の中のジジババって、こんなゆっくりな小説を読んでいるんだ、と驚いた。   読みたいものを読みたい、という気持ちはわかるのだけれど、ここまで来るとひどいよ。歳をとっても、チャレンジというのはだいじだと思う。楽をしよう、楽な小説を読もう、そんなことを思ってはダメだ。

同じテーマの3つの短編映画を、一つにまとめたみたいな感じの映画だった。 これはこれで悪くないと思った。    3人の主人公のうちの誰が殺人犯か? というのがトータルでのミステリー要素ではあるのだが、その辺はべつに詮索する必要もないだろう。可能性としては誰でも犯人でありえるわけだし。  問題は、殺人犯以外の犯人候補までが、最後の言葉を回収されてしまうということだ。周りのやつらが、善意という名の下に、自分のぶっちゃけ話をてこに犯人候補に最後の言葉を要求する、というのが3つの話に共通している。  漁港のオヤジは、自分の娘は歌舞伎町で働いていたから、もうまともな結婚相手は見つからないだろう的な話をする。これはいいすぎだろう。 都会暮らしのホモは、自分の母親のホスピスに犯人候補の友達を連れて行く。そんなところまで行って、母親に友達を紹介することもないだろう。  こいつらの場合は、その知り合いは犯人ではなかったのだから、結果的に相手に対する要求が過大だったということになるだろう。そもそも殺人犯でもないのに、告白を求められる筋合いはない。  論理的につめれば、このようなことになるのだけれど、誰もが告白を求められてしまうということがありえるというね、この世界のささやかな苦しさを、この映画は地味に表現している。

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