magaminの雑記ブログ

カテゴリ: 明治評論




河上肇(1879-1946)は大正昭和の経済学者です。

戦前という時代は、年金制度も社会保障もなく、驚くほどの自由主義経済です。今で言うところの「自己責任」。現代よりかなりキツイ自己責任世界でした。
本書によると、人間が一日で必要なカロリーは3500カロリーらしいです。1899年のイギリスで一日3500カロリー以下で生活せざるをえない人が、成人の30パーセントに達するという統計があります。世界で最富裕のイギリスでさえこのありさま、遅れて資本主義に参加した日本は推して知るべし。河上肇はこのような世界の現状が道徳的に許せないと感じたのです。

人間は一日3500カロリーを摂取してその日その日を生存していればいいという存在ではない。人間は、生存する事によって知性を磨き、知性を磨く事によって道徳的高みに至るべきものである。肉体、知性、人格を出来うる限り開放する事が、人生における個人の目標である。河上肇はそのような事を本書で言っています。

この河上肇の意見は、現代から見てもそう見当はずれというのではないと思います。

一日3500カロリー以下で肉体もまともに維持できないのなら、自らの潜在的な知性、人格を開放するなんていうことは難しくなります。
しかし、知性、人格を開放するための明治維新だったのではないでしょうか。
明治国家の指導者層は河上肇の言葉に耳を傾けるべきだったのです。ゆっくりとでも自由主義の日本から社会民主主義の日本へと舵を切るべきだったのでしょう。

民衆の情念というものを無視して、日本のエスタブリッシュメントが自分達の貴族生活の維持に心を砕くばかりだった結果、最後は太平洋戦争。わずかの陣地を守るために、全ての陣地を失うという。

河上肇の語る社会民主主義論というのは、今から考えれば当たり前の論理です。しかし日本は資本主義の道程を急ぎすぎたのでしょう。昭和天皇や西園寺の智恵の進歩が、時代についていく事が出来なかった。昭和天皇や西園寺公望が普通の人間だったというのが悪いわけでもなく、日本が遅れて資本主義に参加したのが悪いわけでもなく、ただ現代の私達は太平世戦争の犠牲者に哀悼の意を表すのみです。


長谷川如是閑(1875-1969)

如是閑の評論は簡明で論理的、丁寧な文章で同時代を切るという感じで、きわめて好感が持てます。さらに明治、大正、昭和、戦後と生き抜いてその評論の時代的な幅広さというのも注目です。

官僚制というものはそれ自体が一つの体系になっています。時代が変わらなければ、官僚制国家もそのままで安泰なのですが、外部環境が変われば官僚体系も変化する必要が生じます。そもそも官僚とは国家が何らかの目的を果たすための道具なわけですから、国家の外部環境が変化すれば、官僚体系も変化するのは当たり前の話です。この官僚体系を規定するものというのは二通りあって、何らかの理想によって規定しようとするものと、歴史的な伝統によって規定しようとするものです。

大丈夫ですか? ついてきてくれていますか?

明治官僚制国家を理想によって規定しようとしたのは、福沢諭吉や自由民権運動、それに連なる皇道派、歴史的な伝統によって規定しようとしたのが、陸 羯南や三宅雪嶺、それに連なる統制派。分かりやすく色分けすれば、そういうことになるでしょうか。
長谷川如是閑はどちらかといえば、後者に属します。歴史的な伝統によって官僚制を規定しようとする場合大事なことは、歴史的な伝統とは何か、ということです。普通は楠正成だとか新田義貞だとか言うのです。しかし長谷川如是閑は違います。

長谷川如是閑にとっての英雄とは、「煮立てインゲンの爺さん」です。

長谷川如是閑が子供のころ、明治の半ばごろでしょうか、近所に「煮立てインゲンの爺さん」と呼ばれていた煮豆売りの老人がいたのです。その煮豆売りの老人は商売っ気とは全く別な興味をもって努力をしていて、理想のかまど、理想の火加減、理想の豆によって、最高の煮立てインゲンに到達していたのです。しかしその煮立てインゲンは一定の温度と一定の湿度によってその品質が維持されているわけですから、そのインゲンを味わう時間が限られています。少し早すぎても遅すぎてもその豆は真正の味を失うのです。
おじいさんは適当な時刻に釜から豆を移すや、裸足で家を飛び出し、

「にたてーいんげん」

と怒鳴りながら、町中を大急ぎで走るのです。グズグスしている客は置いてけぼりです。じいさんの走り出す時間は同じですから、客も時間になると豆用の容器をもって街角に立っているのです。買う方も売るほうも真剣です。

長谷川如是閑は、自分が教科書を創ったなら、この「煮立てインゲンの爺さん」の話を載せるであろう、そしてこのような人たちを「英雄」などというあたりまえの人間を軽蔑したような呼び方では呼ばないで、当たり前の人間同士が呼び合う名前で呼んだであろう、と言っています。

伝統から国家を規定していこうということは、突き詰めて考えれば繊細でヒューマンな事なのですね。現代の私達もこのような、誰にでも思い出の中に存在するであろう「煮立てインゲンの爺さん」を思い返すことによって、日本を少しでもよい方向に動かしていくことは可能であるのではないでしょうか。

1 山崎闇斎と荻生徂徠

2 福沢諭吉中江兆民

3 原敬と美濃部達吉



1 山崎闇斎と荻生徂徠

山崎闇斎と荻生徂徠というのは江戸時代の儒者です。

原文を読んで二人の違いをじっくり感得するというのが一番いいのでしょうが、そこまではなかなか出来ないです。誰か簡潔に教えてくれないものか、と思っていたのですが、いい本にめぐり合いました。

山崎闇斎は日本朱子学の正統でしょう。この世界には形而上的な真理が存在していて、その真理が現在の社会のあるべき仕組みを決定している、と闇斎は考えます。そしてここからが重要なのですが、闇斎は社会のあるべき仕組みというのは、ただ与えられるものではなく個人個人の精神力による努力によって達成されるものだ、というのです。

荻生徂徠は朱子学者というより中国古代の法家です。社会の仕組みというのは何らかの真理の顕現というのではなく、人類の歴史の中で獲得されたある種の到達点だというのです。環境が変われば社会の仕組みも変えていかなくてはいけない。可変的だからといって社会の仕組み、すなわち法体系自体は、人間が社会的な生物である以上絶対必要なものである。まあ、功利主義的な考え方です。

この二つが重なることで江戸時代の官僚世界は維持されていたというのです。

「忠臣蔵」における価値判断で山崎闇斎と荻生徂徠を比べてみましょう。
闇斎的に考えれば、幕府の法に逆らってでも主君の恨みをはらすのはギリギリ肯定されます。あるべき真理の法に向かって前進するのが好感が持てるという事でしょう。
徂徠的に考えれば、忠臣蔵は認められません。必要に応じて現在の幕府の法があるわけですから、大石倉之助もその枠組みの中でやってもらわなければ困ります、ということになるのではないでしょうか。

この二つの考え方が、江戸から明治を突き抜け現代に至る、官僚機構の基本思考です。


2 福沢諭吉と中江兆民

「文明論の概略」の中で福沢諭吉が、
文明の究極の理想は世界連邦のようなものであるだろうが、現状の世界は列強国による競争の時代だ。日本は世界連邦という理想を胸に秘めつつも、現状としては独立国としての体裁の維持に努力するべきだ、
と言っていました。

これを最初に読んだときはビックリしました。二重焦点論法です。二つの異なる価値観を相対的なものとみなして、あえて片方を選んでみました、という自由の論理です。

明治の初期に、福沢諭吉は理想と現実の価値観がある中で敢えて現実を選んで、その活動を展開したのでしょう。中江兆民は敢えて理想を選んで、その評論活動を展開したのでしょう。

福沢諭吉は何処からこの論法を引っ張ってきたのか、前から不思議だったのです。いくら天才でも普通に生活していて思いつくものではない。
ここで出てくるのが、山崎闇斎と荻生徂徠です。
山崎闇斎は形而上的な真理は存在していて、人間はその真理に向かって日々前進していくべきだ、と考えます。理想主義なわけです。
荻生徂徠は人間社会を維持していくためには何らかの機構が必要であり、人間社会をよりよく維持していくためにはよりよい機構が必要である、と考えます。現実主義なわけです。
この二つの考えが融合したものが、江戸幕府体制だったのです。
状況が変わって、徳川幕府もその体制を維持できなくなりました。理想主義や現実主義の中身が変わっても、その枠組みは明治維新後も生き残ったのでしょう。福沢諭吉は江戸時代の知的蓄積を新しい時代の言葉で表現したのでしょう。そもそも、バックルやギゾーを読んだだけで、あれだけのものが書けるわけない。

福沢の天才の向こうに、歴史の重みというものをひしひしと感じます。


3 原敬と美濃部達吉

明治憲法によって藩閥政府は正当性を付与され、日清日露の戦争を戦い抜くことで藩閥官僚体制は、その有能性が証明されました。

そして時代はめぐります。

帝国議会というものは、そもそも明治国家権力の外縁部にあって、反藩閥政治、反政府の巣窟でした。藩閥政府が功利主義の官僚体系なら、帝国議会は理想主義の砦でした。
明治後期から大正にかけて、この枠組みを変えたのが原敬です。
原敬は政友会という政党をまとめ上げ、政府の予算を議会で通す代わりに官僚政府内部に自分の子飼の子分を押し込んだりとか、政府の予算配分を恣意的に操作するとかの手法で、議会を政府と敵対するものではなく、政府と一体であるものに変えて行きました。

議会の成員は選挙によって選ばれるわけですから、議会制民主主義のさきがけですね。

美濃部達吉は原敬と同世代の高名な憲法学者です。美濃部は明治憲法を拡大解釈して、大日本帝国を一つの生命体とみなし国民一人ひとりがそこに参加すべきものであると規定しました。国民、議会、政府、これらが一つの生命体を構成するわけです。

こう見ると、原敬と美濃部達吉は互いに高めあうパートナーです。日本国民は一人ひとりが議会を通して国政に参加する、それは明治憲法にもうたわれている国民の正当な権利である。

一見するときわめて現代的な、全く問題ない、大日本帝国には幸せな未来が約束されているかのような。

もちろん現実は違います。原敬は暗殺、美濃部達吉は貴族院で弾劾、日本国民は政党政治に信頼を持たず、政治指導者を軽蔑するのみ。結局は軍部に権力は移行し、最後は太平洋戦争。

原敬と美濃部達吉のコンビネーションの何がダメだったのでしょうか。
原敬の恣意的な予算配分で票を集めるという戦略は、結局利権政治みたいな事になります。利権政治の醜悪さというのは戦後もかなりの間継続しましたから、いま40代以上の人ならその醜悪さをよく知っているでしょう。
美濃部達吉は日本を一つの生命体とみなしました。日本官僚機構はその体系自体によって生命力を付与されるわけです。しかしこの生命体系がうまく機能しない場合はどうすればいいのでしょうか。足が腐れば足を切り捨てればいいのでしょうか、手が腐れば手を切り捨てればいいのでしょうか。手も足も命ある国民で構成されているのですよ。

結局、党派政治というものは自国の安全の確保をやっと獲得したばかりの国家には、許しがたい贅沢だと国民に判断されたという事です。

話は初めに戻るのですが、山崎闇斎の理想主義と荻生徂徠の功利主義をミックスした江戸幕府体制というのはたいしたものです。官僚的功利主義だけでは歴史の厚みを突き抜けてはいけないのですね。


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徳富蘇峰は「八重のさくら」に登場していて、これは蘇峰関係者にとっては画期的なことであったと、徳富蘇峰記念館のお嬢さんが言っておられました。

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徳富蘇峰の「吉田松陰」は明治26年発表です。


徳富蘇峰は民権論者から国家主義者に転向したということで、現代においてはあまり人気がないです。しかし、蘇峰の「吉田松陰」を読むかぎりかなりの名文家で、蘇峰の本があれば、また読んでみたいですね。


この「吉田松陰」という本は、コレ反則だろ、というくらい吉田松陰自身の文章からの引用が多いです。蘇峰が当時の背景を丁寧に語っては松蔭の文章をドーンと押すという繰り返しです。

やっぱ吉田松陰はいい、というのを体感させてくれます。

松蔭を所詮テロリストだと簡単に判断する意見もありますが、それは現代の価値観が絶対正しいという見地から過去を判断しようという、ある種の想像力不足の結果です。

現代の価値観は絶対正しいのでしょうか。個人にとって生きる意味とはなんなのでしょうか。もう現代には生きる意味なんていうものはないのでしょうか。お金を稼いで、いい生活をして、いい女とセックスをすればそれは生きる意味になるのでしょうか。
松蔭は、弟子に生きる意味について聞かれてこう答えます。
「生きる意味が分からないなんていうのは全くぼんやりした考え方だ。そんなことでは何百年生きても満足しないぞ。ぼんやりしている人にははっきり言うしかないな。
人生わずか50年、なにか腹にいえるようなことをやって死ななければ、成仏もできないぞ。いかに生きるかではなく、いかに死ぬかを考えろ」

これはたくましい日本の実存主義です。このような生き方をする人はかっこいい。私もこうありたい。
吉田松陰はすごいし、徳富蘇峰はうまい。


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内藤湖南の支那論は明治の末、新支那論は大正末に書かれたものです。

日本の近代は明治維新から始まりますが、中国の近代は唐末、宋から始まると内藤湖南は言うのです。近代とは何かというと、結局人民が力を持って国を動かす事ができる文明レベル、ということになると思います。中国においては唐末から貴族政治が衰退して、宋代に入って絶対君主の時代が現出したのです。科挙という試験で選ばれた官僚が皇帝をサポートするという体制になるわけです。

現代において中国のイメージは残念ながら発展途上国です。民度は日本の方が高いとか、中国人の年収はまだまだ日本に及ばないとか、ネットではそのような事がよく言われています。しかしそれは中国という国を改革解放以降についてのみ考えた場合であって、長い歴史の上に今の中国があると考えれば、中国という国を簡単に考えてしまうということはやってはいけないことです。

趙匡胤が宋を建てたのは紀元960年です。日本の明治維新は1867年です。ヨーロッパでさえ絶対君主が現れるのは17世紀以降でしょう。内藤湖南によれば、中国は近代に入って1000年以上経っています。中国近代1000年の精神史なるものを研究する事ができれば、今の世界がこの後どうなるかを予見することも出来るでしょう。

人間はせいぜい生きても100年です。人間は生まれてそして死んで終わりなのでしょうか。
私は人間には積み重ねる事ができる何かがあると思うのです。私達はまずまずいい世界に暮らしています。それは過去に死んでいった人間が今生きている私達をここまで押し上げてくれたからなのではないでしょうか。
その押し上げてくれた人類の運動のある部分が歴史といわれているものではないでしょうか。そのものすごい分厚い歴史を体現するものが中国だとするなら、これはものすごい事ではないでしょうか。

私の乏しい能力では、日本の近代を考える事が精一杯です。
誰か中国近代1000年の精神史を考えてくれないでしょうか。そこには絶対何かあると思います。


私は誠実に考える人を信用することにしています。

色川大吉は太平洋戦争終戦の時、20歳。学徒動員で軍隊生活もしています。思想家なら考えたと思うのですよ、何故あんな戦争になったのかということを。
普通の人は、東条が何をしたとか近衛が何をしたとか考えるわけです。しかし、色川大吉は明治の、それも歴史の闇に埋もれかけた自由民権運動から考えるのです。実際に三多摩地域で民衆の中にいた自由民権運動家の足跡を発掘したりしています。

この態度が誠実でなくてなんなのでしょうか。

この色川大吉が昭和史を書いています。一般民衆に視点を据えながら書いているので、現代から見ると内容は左翼的にはなります。どうしていもそうなります。戦争中は庶民はあんなに苦しかった、こんな風に死んだ、沖縄が、広島が、東京が、となるわけです。この「ある昭和史」もほとんどがこの描写です。しかし、さすが色川大吉、ギリギリのところで大衆にも戦争の責任のようなものがあるといいます。
「民衆の負の情念を理解できない歴史は空しい」
といいます。

民衆の負の情念とは何なのか、ということをもっと突き詰めて書いてくれれば、この本ももっと刺激的だったのですが、なかなかそういうわけには行かないのです。

あとは若い者達で考えろということでしょう。
ワクワクしますね。




日本は何であんな戦争をしてしまったのか。大東亜戦争とは何だったのか。天皇制とはなんなのか。戦後左翼のあの言葉の空虚さはなんなのか。現代ねとうよのルサンチマン的言動はなんなのか。

いろいろなことは、戦前の昭和史だけを考えても分からないのです。明治にまで遡らないと。
この「明治の文化」という本は、近代天皇制の本質を明治にまで遡って考えよう、さらに丸山真男や司馬遼太郎を敵に回しての論理を展開しようという非常に刺激的な内容になっています。

話は明治の自由民権運動の研究から始まります。明治15年から18年くらいまでの事になるでしょうか。自由民権運動というと、失敗した民主化運動というただそれだけのイメージだったのですが、色川大吉が掘り出してきた三多摩地区での現実を見ると、それは農村における中下層民を中心とした人間解放運動です。明治維新が結局は下級武士が主導した人間解放運動だった事を考えると、その延長線上にあったのではないでしょうか。

明治15年というと、松方財政といって現代においてはちょっと考えられないデフレ政策が採られた時期です。ものすごい不況で農民は危急存亡のときにたたされます。その中で、三多摩の農民達はある種の一揆を起こすのです。明治政府と勇敢に戦いはしたのですが、結局鎮圧されてそのまま歴史の闇の中に埋もれてしまうのです。

「明治の文化」の前半には、三多摩の農民達がどのような思想で明治政府との戦いを遂行したかが書かれています。
私はこれを読んで「橘孝三郎」を思い出しました。
橘孝三郎をごぞんじでしょうか?
橘孝三郎とは、515事件に参加した民間人です。昭和初期というのは日本の金融危機とアメリカの株価暴落が重なってものすごいデフレ不況だったのです。日本を変革して茨城の農民を救うために、515事件に飛び込んだと自身で言っていました。
226事件に参加した安藤輝三は東北の新兵の窮状を見過ごす事ができず、ぎりぎりになって226に参加する決断をしました。
自由民権運動は歴史の闇に消えましたが、その精神は日本民族の伏流となって昭和維新運動に流れ込んだのではないでしょうか。

515事件や226事件は<日本を太平洋戦争に引きずり込んだきっかけとして否定的な扱いを受けていますが、私はそれは正しい評価ではない、と思います。自由民権運動の日本下層民の自由に対するエネルギーが515や226に流れ込んで、そして太平洋戦争に至ったのだとすれば、太平洋戦争とは日本人が日本人自らを解放するための戦争だったのではないでしょうか。

その証拠に戦後の日本は自由な世界になったでしょう? 過去の日本人の苦闘の上に現在の自由な日本があるのではないでしょうか。

日本人が自らの自由を獲得する過程で、中国や東南アジアに迷惑をかけたとするなら、本当に申し訳なかったと思います。
今の日本が満足すべき自由の枠組みがあるからといって、過去の自由を求めて死んでいった日本人の苦闘を忘れるならば、大東亜戦争において中国や東南アジア諸国にたいして迷惑をかけたという外形的事実しか残らないのは当たり前の事です。戦後左翼の言葉の空虚さというのは、この辺に理由があるのではないでしょうか。




この本は明治26年成立、さらにこの本には鋭い思想の切れ味はありませんが、誠実な男の魂の遍歴みたいなものはあります。

内村鑑三は少年の頃から非常に信心深かかったそうです。神社の前を通るたびにお祈りをするのです。日本は八百万の神の国ですから、内村鑑三はしょっちゅうお祈りをしなくてはいけなかったのです。学校に行く時なんかはお祈りをしなくてもいいように神社のない道を通ったそうです。
しかし彼はキリスト教に出会います。キリスト教は一神教ですから、この宗教を新興すれば、彼は八百万の神に囲まれて絶えず祈らなければならないという脅迫感から解放されたわけです。

この誠実さははどうでしょう。
梶井基次郎の檸檬ですよ。

この魂そのままに、彼は北海道で学園生活を送り、アメリカに渡航して、そこで差別や善意をその誠実な魂に受け止めて、そして帰国するまでの物語が「余は如何にして基督信徒となりしや」となるわけです。

この本は英語で書かれたもので、はじめにアメリカで出版しましたが余り人気が出ず、10年後日露戦争で日本への関心高まっていたドイツでのドイツ語約でメジャーデビューみたいな感じだそうです。さらに日本語訳が出たのは昭和10年です。

岩波文庫の巻末をみると、1938年1刷りとなっています。2013年77刷りです。
ですから本文は英語からの日本語訳とはいえ、比較的重厚な日本語訳になっています。



内村鑑三の「代表的日本人」は明治27年発表です。
明治期の文語というのは、漢文調で読みにくかったりするのですが、この本は英語でかかれたものを日本語に訳したものなので非常に読みやすいです。

この本の内容というのは、5人の日本人(西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮) を紹介したものです。内村鑑三が日本人のすごい人たちの紹介を英語で書いて世界に発信したというわけです。日露戦争で日本が勝ったときには、ヨーロッパの日本に対する興味というのが高まって、この本かなり売れたそうですよ。

この本のリアルな内容というのは、まあ、あれですね、
小学校の図書館なんかに偉人の伝記みたいなのありましたよね、シュバイツァーとかエジソンとかヘレンケラーとか。なんというか、ねっとりとした物語というか。ざっくばらんに言ってしまえば、道徳なるものを無言で押し付けてくるような、そんな感じです。

内村鑑三というのは有名な人ですが、思想的には福沢諭吉や中江兆民よりは落ちるのではないでしょうか。福沢諭吉や中江兆民は民族のエネルギーということを問題にしましたが、内村鑑三は個人のエネルギーを問題にしています。
これは英雄主義です。精神の退化です。
歴史を個人に還元しようとすることは、歴史を簡単に考えてしまう態度につながってきます。例えばですよ、太平洋戦争での一番の悪人は東条英機ということになるでしょう。しかし東条英機の言行録というのを読んでみても、彼が異常人格者ということは言えないですよ。律儀で細かくてまじめな日本人という以外の判断は出来ません。

内村鑑三は1861年生まれです。明治維新の時には7歳ということになりますか。福沢諭吉や中江兆民のように明治維新のときに青年だった人間、すなわち一身にして二生を生きた人間より格が落ちるということなのでしょう。



驚くべき名作というものが日本文学の中に隠されていました。何者なのか、この中江兆民とは。

私はもう44歳です。読書歴というものも長いです。44年という限られた時間しかないわけですから、すべてのものを読むということはできませんが、西洋文学、日本文学、歴史、評論、哲学、漫画、とかなり幅広く読んできました。サリエリではないですが、何がすばらしいか何がつまらないか程度の判断は出来ると思います。
明治評論の質というものはかなり高いです。福沢諭吉の「文明論の概略」のすばらしさには驚きましたが、この中江兆民の「三酔人経綸問答」もすばらしいものがあります。

明治という時代は日本の独立が守れるかどうかというギリギリの時代で、それだけ当時の明治人もギリギリの時間を生きていたという事でしょう。

「三酔人経綸問答」は明治20年発表です。その中身を紹介しましょう。
登場人物は3人です。先生、紳士君、豪傑君、これだけです。
まず紳士君が長々と喋ります。文庫本で50ページ喋ります。
要約すると、
日本は小国であるから、富国強兵のような列強と伍していくなんていう政策はやめて、軍備を放棄し「自由、平等」という旗を高く掲げて道徳国家を目指すべきだ、
というものです。
この意見に対する豪傑君の主張がすごいのです。豪傑君という名前からして紳士君の意見に対して反対の主張をするのかと思いきや、それが微妙に違うのです。豪傑君は言うのです、
今の時代は「当たらし物好き」と「昔なつかしがり」の二種類の人間に分かれている。この二種類の人間集団がいる限り日本が一つにまとまるなんていうことはありえない。紳士君のような「当たらし物好き」人間は日本の本体である。豪傑君、つまり私のような「昔なつかしがり」人間は日本の癌である。日本はこの厳しい世界の中で独立なるものを維持するためには、その武威を世界に示さなくてはならない。戦争に勝てば勝ったでいいだろう。大陸に帝国の足場を築くことが出来る。負けたとしてもかまわないのだ、戦争で日本の癌である「昔なつかしがり」人間を一掃する事ができる。「昔なつかしがり」人間が一掃された時に、紳士君たちが日本を、自由と平等と平和の実験場にすればいい。

これはまったく大日本帝国の運命そのままです。さらに日本の現代は「自由と平等と平和の実験場」ということになりますか。

本当にかわいそうな日本。大陸の東の果ての、さらに海の向こうの島国。
日本に住んでみると、島国だなんて分からないのです。島と言ったって結構広いし。一つの文明圏みたいに考えてしまいがちなのです。しかし中江兆民は日本の辺境性みたいなものをその思想の中心に据えていたのかな。

まだよく分からないのですが。

三酔人経綸問答を読んだら、「カラマーゾフの兄弟」を思い出しました。イワンが紳士君ですね。豪傑君がドミートリー。先生がアリョーシャ。そう考えると、中江兆民はドストエフスキーにかなり肉薄しています。気になる人はカラマーゾフの兄弟と三酔人経綸問答を読み比べてみてください。

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