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カテゴリ: 中国思想

耳順(じじゅん)とは60歳の異称です。

論語の為政篇に

   吾十有五にして学に志し (志学 しがく)
   三十にして立つ (而立 じりつ)
   四十にして惑はず (不惑 ふわく)
   五十にして天命を知る (知命 ちめい)
   六十にして耳順ひ (耳順 じじゅん)
   七十にして心の欲する所に従ひて矩を踰えず (従心 じゅうしん)

とありまして、「六十にして耳順ひ」 から耳順が60歳の異称として使われるようになりました。

耳順(みみしたが)ひ、とは、そもそも「人の言うことを素直に聞けるようになった」という意味です。

しかしなかなか60歳になったからといって、人の言うことを素直に聞けるようになるのも難しいです。
宮崎一定という論語学者は、


「論語の為政篇のこの節は、孔子が50歳までは力があふれていて天命を知るまでになったが、それ後は衰えて、60歳になったら人の言うことには従うようになったり、70歳になったらやりたいことをやってもたいしたことは出来なくなってしまった、という嘆きだ」

と言っていました。

ですから、60歳になっても人のいうことを素直に聞けない、というのはまだまだ元気である証拠ともいえます。


ただ、故事成語として60歳は、人のいうことを素直に聞けるようになる歳、すなわち耳順(じじゅん)ということになっています。

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もし「論語」を、整合性のない教訓集だと考えたとするなら、「論語」にたいした価値はない。ヘーゲルやウェーバーが、論語を評価しなかったのも、このあたりに由来するだろう。しかし本当に「論語」は、整合性のない教訓集なのだろうか?

憲問第十四 386 にこのようにある。 

「子路君子を問う 己を修めてもって敬す かくのごときのみか? いわく、己を修めてもって人を安んず かくのごときのみか? いわく、己を修めてもって百姓(ひゃくせい)を安んず 己を修めてもって百姓を安んずるは、尭舜(ぎょうしゅん)もなおこれを病めり」 

これを私なりに現代語に変換してみる。

「弟子の子路は孔子に、君子とは何か、と問う。孔子は答える、自分をしっかり持ってそれを維持する。子路はさらに、それだけか、と問う。孔子は答える、自分をしっかり持ってさらに回りの人心も安心させるように助ける。子路はさらに、それだけか、と問う。孔子は答える、自分をしっかり持ってさらに人民全ての心を安心させる、しかし子路よ、このことの実現は古代の聖王でも悩んだことなんだぞ」

君子というものは、仁を体現している人のことだ。 そして狭義の仁の概念というのは、自分が自分であるという自己同一性のことだろう。 論語をトータルで読むと、そもそも孔子は、個人の独力で仁が達成できるとは考えていない。孔子の考えというのは、自己同一性の確立を目指す個人が、同じ道を目指す他者と補い合って、自己と社会の自己同一性を高め合った結果、多くの人たちの思いは尭舜に凝固するであろう、その尭舜の伝説が、仁を求める個人にフィードバックして、その仁を高める。高まった個人個人の仁が、さらに大きく尭舜に凝固する。このような循環によって社会の秩序が強化されることを孔子は期待したのだろう。

これは驚くべき思想だ。一神教的絶対神を導入することなく、広域の地域に秩序を形成しようと言うのだから。この論語の世界観というのは、古代人の空想ではないと思うんだよね。例えば現代日本は、キリスト教やイスラム教のような確固とした宗教もないのに、どうしてその秩序を維持しているんだ? 日本人の精神の根底に、論語の世界観、すなわち個人と世界とがその一体性を互いに強化しあうシステムのようなものが存在しているからではないだろうか。

よく言われるのが、西洋には哲学があって東洋には哲学はないということ。
ふざけるな。ありえない。
そもそも哲学とは何か? 哲学者とは何か?

ニーチェ 「権力への意思」 972 にこのようにある。

「私は最後にこう認めるに至った、哲学者には異なった2種類があると。すなわち、
 1 価値評価の何らかの偉大な事実を確立しようとする哲学者。
 2 そうした価値評価の立法者である哲学者。
前者は全ての過去の事物をその未来の有用のためにつかうという人間の課題に奉仕している。
しかるに後者は命令者である。彼らは言う、かくあるべしと」

前者の哲学者は二流、後者は一流の哲学者だ。西洋近代の大哲学者は全て二流だ。価値評価の立法者である哲学者というのを、私はプラトンと孔子以外に知らない。そして、二つを読み比べた場合、孔子の論語はプラトンをはるかに凌駕している。

論語を、何か役に立つ教訓集だと思ってはダメだよ。論語というのは、これは驚くべきことなのだけれど、その一節一節が互いに互いを保障しあい、互いに互いを持ち上げあい、普遍的世界観というものを形成している。この論語的普遍的世界観が妥当なものであったのかどうかという判断なのだけれど、現在、日本や中国がまとまりとして存在しているところを思えば、妥当であったと判定して問題ないだろう。

この論語的世界観の強力さというのは、プラトン的世界観と比べて明らかだ。西洋は、プラトン的世界観を保障するものとして、一神教のキリスト教を必要とした。東洋には絶対神は存在しない。その理由は、論語的世界観が一定以上の強度を持っていたので、社会の秩序を保障するところの絶対神を必要としなかったからだろう。

論語のすごさを知ってもらうには、実際に読んでもらうしかないのだけれど、一つ論語の深さを紹介します。

論語 里仁第四 073 にこのようにある。

「子日わく、人の過ちや、各々其(そ)の党に於(おい)てす。過ちを観て斯(ここ)に仁を知る」

これをどう読むか。 私なんかは、人の振り見てわが身を、みたいな感じで読んでしまう。例えば、東洋哲学の碩学、宇野 哲人は、
「過失を見ると仁者が不仁者かがわかる」
と解釈している。妥当な線だと思う。

ところが、吉田松陰はこの部分を、講孟箚記の告子上第11章の箚記で以下のように解釈している。

「人を殺すは不仁なり、殺すの心は必ず仁なり。仁は愛を主とす。人を愛する。己を愛する。同じく仁なり。もし愛するところなくんば、憎むところなく、殺すところなし」

驚くべき論理を展開している。「論語」の「過ちを観てここに仁を知る」のなかの「ここ」を、過ちを犯した本人その人自身をさしていると、吉田松陰は判断しているわけだ。

そして、この吉田松陰の強力な論語解釈によって、論語の世界観は崩れるのかというと、そうはならない。論語世界はより強化されている。

論語とは計り知れない強度を備えた命令的言論体系なんだよね。


このシステムは磐石ではない、揺れているよ。この現代日本では、多くの人が精神的に苦しんでいると思う。不登校や引きこもり、分裂症や神経症、しかし彼ら彼女らは、なぜ苦しんでいるんだ? 引きこもりは本人の弱さだと言われるけれど、彼らはなぜ弱いんだ? 突き詰めて考えれば、それは自分が自分であるという自己同一性が、ある一定水準以下だからだろう。さらに、自分の自己同一性を高めるための道が、この世界には存在しないとされているからだろう。 

確かに神経症のやつってめんどくさい。どこの職場にも複数いるだろう。細かいことをぐだぐだと、個人的なこだわりがあるのなら、職場でやらずに家でやれ、とは思う。夏目漱石の「こころ」の先生や「行人」のお兄さんとのような神経症予備軍は、回りにとって迷惑千万なんだけれど、やっぱり本人がいちばん苦しいのだろうと思う。  このようなことを言うとなんなのだけれど、救われるためには「論語」を読めばいいと思うんだよね。 論語みたいな忘れられた言説をアピールするというのも、個人的には気が引けるのだけれど。

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「孟子」とは中国戦国時代に生きた孟子の現行集です。「孟子」における論語の解釈を書いていきたいと思います。

まず儒教の説明から。
儒教における聖典というのがあって、四書五経(ししょごきょう)という。


五経というのは、「易経」「書経」「詩経」「礼記」「春秋」を指すのだけれど、正直この辺は読んでもよく分からない。中国の宋代に入って、この五経を棚上げして、論語「大学」「中庸」「孟子」の四書を重視しようという流れができた。この流れを集大成したのが朱子学だ。

しかし、「大学」「中庸」というのは「礼記」のなかのそれぞれ1篇であって、すなわち近世以降の儒教においては、論語と孟子が二本柱となっている。

では、「孟子」なる書物にはどのようなことが書いてあるのか。全文紹介するというのはだいそれたことであって私なんかにはムリなのだけれど、「孟子」の最後のところだけ、私なりに紹介します。

「万章曰く、孔子は我が門を過ぎて我が家に入らざるも、我恨みざる者はそれただ郷原(きょうげん)か。郷原は徳の賊なりとのたまえり 問う。いかなればすなわちこれを郷原(きょうげん)と言うべき」

論語の陽貨第十七 457 に

子日わく、郷原(きょうげん)は徳の賊なり

とある。孟子の弟子の万章は、論語のこの部分の意味を問う。まず郷原とはなにかということだ。普通、郷原というのは、村の誠実な人という意味なのだけれど、万章の質問に対して、孟子はこのように答える。

「この世に生まれてこの世の為す所を為さんのみ。(人からよく言われれば)すなわち可なりといいて、えん然として世に媚びる者は、これ郷原なり」

つまり、この世に生まれて世間の期待通りに生きて、よろしくやれればそれでいいという、これが郷原なわけだ。ちょっと物足りないヤツらだとは思うけれど、徳の賊なんて言われるほどのこともないのではないだろうか。

万章も同じようなことを考えて、孔子が郷原を「徳の賊」とまで言ったのはなぜかと問う。これに対して孟子は答える。

「これを非(そし)らんとしても言うべきなく、これを刺(そし)らんとしても刺るべきなし。流俗に同じくし、汚世に合わせ、ここにおること忠信に似、これを行うこと廉潔に似たり。衆皆なこれを喜び、自らはもって是となさんも、しかももって尭舜(ぎょうしゅん)の道に入るべからず。故に徳の賊というなり」

尭舜(ぎょうしゅん)とは、中国古代における伝説の聖王。

郷原のよくないところは、いい人であるふりをしているところだと言うわけだ。ふりをすることが罪なんだな。

プラトンも国家という本の中で同じ論理を展開していた。「国家」において、ソクラテスは「正義を救ってくれ」と懇願される。どういうことかというと、この世の中、多くの物や観念は何らかの役に立つという理由で存在が許されているわけなんだけれど、「正義」ほどの重要観念ならそれ自身の中に存在の価値を確立して欲しいという。「正義」というものが、人から評価されるとかお金が儲かるとか、そういう下賎な価値で支えられるというのではなく、正義が自らの足で立つにはどうすればいいのかというわけだ。

孟子もプラトンも、価値は自分の外ではなく自分の内に持つべきだと言うわけだ。

これは極めて近代的な考え方だろう。現代でも道徳の内面化が必要だ、などとよく言われる。私は「道徳の内面化」という言葉は好きではないけれども、このようなことを言っている人の意味するところは、価値を自分の中に持ちたいという渇望だろう。

孟子やプラトンはすごいよね。2300年も昔に、すでに近代的な考え方をしていると言う。本当にすごい、孟子やプラトンは近代的な考え方をしている。

本当に?

論理は逆なのではないだろうか。孟子やプラトンが近代的な考え方をしているのではなく、近代が孟子やプラトン的な考え方をしているのではないだろうか? ヨーロッパがかつてルネッサンスで発見したものはプラトンだろう。日本の明治維新の原動力の根源は孟子だろう。吉田松陰も佐久間象山も魂を傾けて孟子を読んでいた。

孟子における「価値が内在化する世界観」の根拠は何か。「郷原は尭舜(ぎょうしゅん)の道に入るべからず」のあと、孟子はどのように語っているのか。

「尭舜(ぎょうしゅん)の道に入るべからず。故に徳の賊というなり。

孔子いわく、似て非なるものを憎む。雑草を憎むはその苗をみだるを恐るればなり。..言葉巧みを憎むはその信をみだるを恐るればなり。..紫を憎むはその朱をみだるを恐るればなり。郷原を憎むはその徳をみだるを恐るればなり」

社会秩序の強度というのは、価値というものをその社会の外ではなく、内に持つことから立ち現れるということはありえる。郷原は、価値を自分の外に依存しているわけだから、大きい枠組みで見れば秩序のフリーライダーだというわけだろう。

故に、孔子は似て非なるものを憎む、だ。

論語 陽貨第十七 462 にこのようにある。

子日わく、紫の朱を奪うを悪(にく)む。鄭声(ていせい)の雅楽(ががく)を乱(みだ)るを悪む。利口(りこう)の邦家(ほうか)を覆(くつがえ)すを悪む。


孟子は、最後にいたって論語の言葉を重ねてきている。孟子の論理の根拠というのは、けっきょく論語の世界観にある。論語を強力に自分にひきつけることによって、新しい世界観を押し出そうということだろう。プラトンもその語り手はほとんどソクラテスだった。

「孟子」は実質的に最後、このように終わる。

「郷原を憎むはその徳をみだるを恐るればなり。君子は常の道、治まればすなわち庶民興る。庶民興れば、すなわち邪悪なし」

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論語における「仁」とは何か。 

孔子が仁について語るとき、人によって仁についての表現が異なる。これは、孔子において仁の定義が揺れているというものではなく、孔子が仁概念の一部分をそのつど表現しているからだと思われる。 

仁と関連する概念で「君子」というものがある。 

君子とは、仁をある程度体現した個人のことを言う。仁という概念は抽象的だけれども、君子という概念は具体的なものだから、「君子」を手がかりに「仁」を考えてみたい。  

憲問第十四 386 にこのようにある。    

「子路君子を問う 己を修めてもって敬す かくのごときのみか? いわく、己を修めてもって人を安んず かくのごときのみか? いわく、己を修めてもって百姓(ひゃくせい)を安んず 己を修めてもって百姓を安んずるは、尭舜(ぎょうしゅん)もなおこれを病めり」   

百姓とは農民のことではなく、人民のこと。尭舜は古代における伝説の聖王。病めりは、心痛するという意味。 

ここからわかることは、君子にもその仁によってランクがあるということ。 まず、基本的な仁というのは、

「己を修めてもって敬す」
 
すなわち、自分が自分であるという自己同一性を確立するということだ。次の仁のステップは、

「己を修めてもって人を安んず」
 
すなわち、自分の自己同一性が確立されたら、それをてこに周りの人たちの自己同一性の確立に手をかしてあげる、ということだ。そして仁の完成形は、

「己を修めてもって百姓を安んずる」 

すなわち、自分の自己同一性をてこに世界の自己同一性を確立する、ということになる。 たしかにこれは難しい。伝説の聖王でも、おいそれと出来ることではないだろう。  

ここを注意深く考えなくてはならない。 

仁そのものの概念は、自分が自分であるという自己同一性の事なのだけれど、個人の独力で仁が達成できるとは、孔子は考えていない。自己同一性の確立を目指す個人が、同じ道を目指す他者と補い合って、自己と社会の自己同一性を高め合った結果、多くの人たちの思いは尭舜に凝固するであろう、ということになる。 

仁という概念は、狭義の仁が互いに高めあって巨大な仁になることをも含めた多層的概念だ。 

この現代世界では、多くの人が苦しんでいると思う。不登校や引きこもり、自殺や犯罪。しかし彼ら彼女らは、なぜ苦しんでいるんだ? 引きこもりは本人の弱さだと言われるけれど、彼らはなぜ弱いんだ? 突き詰めて考えれば、それは自分が自分であるという自己同一性が、ある一定水準以下だからだろう。さらに、自分の自己同一性を高めるための道が、この世界には存在しないからだろう。

この世界は、整合的にあるように見えるのだけれど、本当にそうか? 論語世界より明らかに一段落ちると思う。


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「孟子」の性善説の解説です。

性善説とは、人間の性質はもともと善である、などというおめでたいような思想ではありません。性善を信じれば社会が強くなり、その強い社会で生きている人は性善を信じなくてはならない、という、一種逆説的な思想です。それなくして生きることのできない思想を人間は「真理」と呼びます。

「孟子」は儒教の経典になっているので、葬式のしきたりだとか長幼の序だとかをくどくど書いているのではないかと思われるかもしれないですが、全然そんなものではないです。

では具体的に何が書かれているのかと言いますと、例えば孟子はこのように言います。

「我よく我が浩然の気を養う」

弟子がですね、先生、浩然の気とは何ですか? とすかさず問います。結論から言いますと、浩然の気とはやる気とか元気とかそのようなものです。
ではどうすれば「やる気」を自分の中で養うことができるのか? この難しい問題を孟子は真正面から答えようとします。

私は思うのですが、個人的社会的な問題の多くは「元気」の払底から起こっているのではないでしょうか。不登校、引きこもり、ニート。さらに、現状の保守と左翼リベラルのギスギスした対立というのは、突き詰めれば、保守の秩序主義と左翼リベラルの自由主義との社会的な限られた「元気」の奪い合いに原因があると思います。

元気を盛り上げようとする時にやってはいけないことを、孟子はこのように言います。

「気を正とすることなかれ。助けて長ぜしむることなかれ」

これは「元気」そのものを直接盛り上げようとしてはいけないという意味で、孟子は以下のような例えをあげています。私の現代語訳で。

「宋人ごとくすることなかれ。宋国のある人が、苗がなかなか大きくならないことを心配して、苗を引っ張って伸ばそうとした。その人は家に帰って息子に語った。
 今日は疲れた。苗を引っ張って伸ばしてきた
息子がびっくりして田に行ってみたら、苗はすべて枯れていた」

元気を直接盛り上げることは出来ないというのは、なんとなく実感できます。やったとしてもカラ元気みたいなことになります。
では元気を滋養するにはどうすればいいのか。これは難しい問題で、現代において明確な答えは存在しないことになっています。ですから、元気の総量は個人個人に前もって与えられていて、出来るだけ元気を節約して生きるのが賢い生き方だとされがちです。現代社会でお金とか周りからの承認とかが重要視されるのも、元気の消費を節約しようとすることの結果だと思います。

では元気を盛り上げるにはどうすればいいのか?
孟子は、この現代において誰も答えることができなくなった問題に真正面から切り込みます。
これが哲学ではなくて何でありましょうか? 真の哲学ここにありです。東洋に哲学がないなどと奇怪な知識人が語ったりするのですが、ふざけきった馬鹿を言うものありです。

ハードルもいい感じに高くなってきたようなので、元気を醸成する方法にいての孟子の論理を紹介したいと思います。

「その気たるや、義と道とに配す。これなければ飢うるなり」
「故に告子は未だかつて義を知らずと言えるは、そのこれを外にせるをもってなり」

やる気は「義」に伴って発生するもので、「義」というものは心の内にあるからこそ意味がある、ということになるでしょうか。
「義」とは何かということはまず置いといて、何らかの根拠というものが心の内にないと「やる気」というものは本当には発生しないのだと孟子は言うわけです。
それはそうでしょうね。
やりたくないことばかりやっていたら、生きることが馬鹿馬鹿しくもなるでしょう。しかし、やりたいことばかりやって生きていくというわけにもいかないですし、この辺の折り合いをどうすればいいのでしょうか? 
野球好きなら野球が「義」となるでしょうし、本好きなら読書が「義」となるでしょう。ないよりはましですが、この程度の「義」だと生活との折り合いということにどうしてもなってしまいます。

ここから論理の跳躍になるのですが、「孟子」には推奨されるべき「義」というのが書かれています。それが何かと言いますと、

性善

ということになります。性善とは、すべての人に天から善の心が付与されている、という思想です。性善思想を心の中心に置くべきだと孟子は言うわけです。
性善と言われて、ちょっと待てと、すべての人に善の心があるというのは無理なんじゃないの、性善なんて考え方は甘いんじゃないの、と誰もが考えます。サイコパスなんていう言葉もあります。
孟子の弟子も、その辺のところを問いただします。先生、善の心を持ってなさそうな人もいるんですけど、その辺はどうなのでしょう? みたいな感じです。
孟子、答えて曰く、ですね

「かの牛山を見よ」

牛山というのは、中国戦国時代最大の都市である臨淄(りんし)の近郊にあった山の名称です。

「かの牛山をみよ。(以下私の現代語訳です) あの山はかつて木に覆われ美しかった。だが薪として、木は切られてしまった。だが山はまだ生きていて、雨や露の潤すところ、切られた切り株にも緑がたちこめた。
ところが人々は牛や羊を放牧する。やわらかい緑もすべて食べられてしまった。
長い月日がたち、何もなくなった山を見て、人々は、この山ははじめから何もなかったと思うようになる。しかしこの今の牛山は、本当にあるべき牛山の姿なのだろうか? 人間の心も、この牛山と同じなのではないだろうか? 人が良心を無くしてしまう理由も、日々において牛山の木が失われてしまったことと同じなのではないだろうか? 日ごとに木を切ったのでは、その美しさを保つことはできない。あの夜明けの緑の芽生えも、良心を失った人が多いことを思うなら、昼間にそれを牛や羊に食べられてしまったのだろう。このようなことを繰り返せば、緑の芽生えも失われる。緑の芽生えが失われれば、人は禽獣と変わらなくなるだろう。人が禽獣であるさまを見て、その人は善であったことはないとして、そのことで本当に人の性善を否定したことになるのだろうか。正しく育てれば成長しないものはないが、育てるのをやめればそれは消えてしまう。
孔子が、「取ればあり、捨てれば失う、出入り時なく、あるところを知らない」と言ったのも、このような意味ではないのか?」

性善を心の中心に置けば、人を信用してフレンドリーにもなれます。どうしようもない人がいたとしても、それは心の善が厚く覆われてしまっているだけであって、腹も立たない、スルーですよ。そのような難しい人を救うのは一般人ではなく、堯舜(ぎょうしゅん)のような聖人の仕事ですし。
このような思考パターンに移行していければ、やる気を滋養するということは不可能ではないと私は思います。
孟子は、この性善思想をあらゆる社会レベルにはめこもうとします。世界、国家、村、家族、個人、などのすべての社会レベルで性善の歯車が回り出せば、元気というのが天地に満ちるようになり、これが「浩然の気」ということになるでしょう。

だから有用な性善思想を復活させるべきだなどと、私は思ったりしないです。
論理は逆です。
「孟子」が存在したから東アジアの世界はこのように膨らんであるわけで、「孟子」が存在したから東アジアは19世紀のウエスタンインパクトを辛うじてではありますが、跳ね返すことができたのではないでしょうか。
ですから、「孟子」とは近代西洋哲学のような世界を説明する哲学ではなく、世界に命令する哲学です。一段高い哲学です。真の哲学とはそのようなものだと思います。

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李煜とは、十国南唐(江南)の第3代(最後)の国主。 宋の趙匡胤がほとんど中国を統一しようかという時代。
この李煜の浪淘沙という詩がすばらしい。 内藤湖南によると、中国の中世と近代の境目は宋にあるという。

中国の近代なんて最近始まったのではないか、なんて思っている人も一定数いると思うけれど、中国をなめちゃいかんよ。内藤湖南の直感が正しいのなら、ヨーロッパより500年早く、中国では近代が始まっていることになる。

内藤湖南的に思い込めば、この浪淘沙(ろうとうさ)とは、中世と近代との境目に咲いた華だろう。


     浪淘沙

  簾外(れんがい)に雨 潺潺(せんせん)

簾外とは、すだれの外。潺潺とは、雨の静かにふるさま。 家の外では、雨がしとしと降っているんだね。

  春意 蘭珊(らんさん)たり
  羅衾(らきん)は耐えず五更(ごこう)の寒きに

羅衾とは、寝間着。五更とは、夜明け真近の時間。 春だと思って、薄着して寝たら、明け方意外に寒かったみたいな。

  夢裏に身は是れ客なるを知らずして
  一餉(しばし) 歓(よろこび)を貪(むさぼり)りぬ

明け方の夢うつつの中で、自分が囚われの身だということを忘れて、春らしくない春を春として喜んでいたという。

  独自(ひと)り欄(らん)にもたるること莫かれ

欄とは欄干の意味。 李煜とは南唐最後の王だった。目の前に宋という近代が迫っていた。 これは古い世界にしがみつくべきではなかたのではないか、という独白だろう。

  無限の江山
  別るる時は容易に見(まみ)ゆる時は難し

時代が移ろうとしているのに、山や川は無情にもそのままなんだよね。歴史は取り返しのつかないあり方で変わっていくという。

  流水 落花 春去れり
  天上と人間(じんかん)と

人間(じんかん)とは、人間世界の意味。 ヘーゲルは、
「かつて世界のあらゆる事物は、金色の糸によって天とつながれていた」
と語っていた。あらゆる物には魂が宿っているという世界観がかつて存在した。近代の味気ない言葉を使えば、アニミズムということになるだろう。 天と事物をつないでいた金色の糸が、まさに消えていくさま、
  流水 落花 春去れり 
そして、天と地とは懸絶してしまったんだな。
  天上と人間(じんかん)と

これ以上のリリシズムって、ちょっと考えられないと思う。







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「民爲貴、社稷次之、君爲輕」
これを書き下し文にしてみると、
「民を貴(たっと)しとなし、社稷これに次ぎ、君を軽(かろ)しとなす」
となる。

「孟子」のここの部分を、吉田松陰は「講孟箚記」で、「異国の事はしばらく置き、わが国はかたじけなくも、うんぬん」と皇国史観を絶叫している。これは吉田松陰の限界というより、日本人の限界の結果だと思う。幕末において西洋の圧力というのが極めて強くなっていて、日本はその一体性を問われていた。一体性を確立できなければ、当時の東南アジアと同じ運命をたどっていただろう。

はたして孟子の総力戦思想だけで、日本はその一体性を維持できただろうか? たまたま続いてきた天皇という制度を利用し日本を救おうとしたとして、日本人にとってだよ、何か問題があるだろうか。

そもそも孟子の言説の眼目や目的は、一つの国なら国の一体性を高めようというものだったと思う。同じ規模の国同士が戦った場合、どちらが勝つかというと、それはその国の一体性の強度に依存している。これは人間個人のぶつかり合いでも全く同じだ。誰もが経験があると思うけれど、同じハードワークをしていても、人格の一体性の怪しげなやつから脱落していく。

大事なポイントは一体性にあるわけだ。

孟子はこの一体性を強調する言説を貫いた結果、「民を貴(たっと)しとなし、社稷これに次ぎ、君を軽(かろ)しとなす」という場所に行き着いたともいえる。だからこの言説は、民主主義というのではなく総力戦思想の一つの表現なんだろう。

戦後、平和な世界が訪れて、明治維新で天皇まで持ち出す必要はなかった、という言論も成り立つようにはなった。しかしそれは結果論であって、私はとてもそのような楽天的な言説を、ギリギリの世界生きた吉田松陰に押し付けることは出来ない。


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吉田松陰は論語をどのように読んだか?
論語 里仁第四 073 にこのようにある。

「子日わく、人の過ちや、各々其(そ)の党に於(おい)てす。過ちを観て斯(ここ)に仁を知る」


これをどう読むか。 私なんかは、人の振り見てわが身を、みたいな感じで読んでしまう。東洋哲学の碩学、宇野 哲人は、「論語新釈」のなかで、「過ちを観てここに仁を知る」の部分を、


「過失を見ると仁者が不仁者かがわかる」

と訳している。

では、この部分を吉田松陰はどのように判断しているのか。 講孟箚記の告子上第11章の箚記にこのようにある。


「人を殺すは不仁なり、殺すの心は必ず仁なり。仁は愛を主とす。人を愛する。己を愛する。同じく仁なり。もし愛するところなくんば、憎むところなく、殺すところなし」


驚くべき論理を展開している。

「論語」の「過ちを観てここに仁を知る」のなかの「ここ」を、過ちを犯した本人その人自身をさしていると、吉田松陰は判断しているわけだ。 

そもそも「論語」というは、たんなる教訓集ではなく、その言説全体で広範な地域に秩序を形成しようという意思を持って成立している。論語の一節一節が互いに互いを持ち上げようとしている。そのような文脈で「論語 里仁第四 073」を考えるならば、常識的な判断よりも、暴論のように聞こえる吉田松陰の説が正しい。  

幕末の不思議というのはいろいろある。  

尊皇攘夷の嚆矢だった水戸藩が内部崩壊したり、高杉晋作が奇兵隊という農民部隊をつくったり、第二次長州征伐で、長州は四面の圧力を跳ね返したり。 

おそらく、幕末における長州藩には、全体としてかなりハイレベルの秩序の一体性が成立していたと推測できる。そして、ほぼ間違いなく長州一体性の源泉は吉田松陰だろう。  

現代においては、吉田松陰なんてたいして評価はされないと思うのだけれど、そのような市民的な判断というのは間違っていると思うんだよね。この世界の秩序というものは、市民的な道徳やフーコーの言うパノプティコン程度のもので、本当に支えられているのだろうか。

東アジアには一神教的な神は存在しないのだから、秩序の源泉というのは注意深く判断するべきだと思う。

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則天武后とは、唐代の女性。 なんと中国史上、空前絶後の女帝。 別に女性が皇帝になって悪いわけでもないと思うのだけれど、いろんな条件が重なって、女性が皇帝になるというのは難しいというのはあるだろう。 現代日本だって、天皇は男しかなれないという法律があるぐらいだから。  

「十八史略」の則天武后について。  

「太宗崩ず。才人、歳二十四。尼となる」  

太宗というのは、唐朝の第2代皇帝李世民だ。武則天は李世民の側室だったから、李世民が死んだから、頭を丸めて尼になったのだろう。24歳は出家するには若い、女ざかりだろうなあ。  

「高宗、寺に幸(みゆき)し、これを見て泣く」  

高宗というのは、李世民の子で第3代皇帝。寺に行って、武則天の美しさにうたれて泣いたという。 もちろん、やっちゃったんだろうなー。 言っておくけれど、武則天というのは、高宗の父親である李世民の側室だからね。ちょっと禁断の愛っぽいよね。 

「時に王皇后、蕭淑妃と寵を争う。密かに髪を長ぜしめ、高宗に勧めてこれをいる。すでに入る。しかして后と淑妃とみな寵を失う。武氏年三十二、ついに昭儀より后となる。王、蕭みなために殺さる」  

まあ、女の争いも恐ろしい。男も恐ろしいけれど、女はなんだか別の恐ろしさがあるよね。武則天、32歳。ついに皇帝の后にまで上り詰めた。 日本では二十歳ぐらいの女性が一番いいと思っている男がメジャーらしいのだけれど、女性の一番いい時期というのはもっと上でしょう。武則天、32歳、最高です。  

「高宗、風眩に苦しみ、百司の奏事を視ることあたわず。あるいは皇后をしてこれを決せしむ。后、性明敏にして文史を渉猟す。事を処して、皆旨にかなう」 

 女性は美しいだけではなくて、頭もよくなくてはいけない。というか、頭のいい女性こそが美しい。これが分からない男が多すぎる。うちの職場にもいるんだよ、自分は高卒だから大卒の女性はちょっと、みたいなのが。 馬鹿の上塗りだ、今汝は画れりだ、あきらめたらそこで試合終了ですよ、だ。  

「高宗の世に在りて、后みずから子の弘を殺し、子の賢を廃す。高宗すでに崩じ、子の哲即位す。  后、朝廷に臨んで制を称し、もって武氏の七廟を立つ」 

鬼気迫るような感じになってきた。そういえば、自分の子供を食べて栄養にする母親の神様っていたよね。 

最後、武則天は皇帝になるのだけれど、この話ってちょっとおかしいよね。 まず、高宗が父親の側室を妻にするのがおかしい。それだけ武則天が美しかったといえばそれまでなのだけれど。 さらに、高宗というのが李世民の九男だということ。普通、長男が跡取りでしょう。まあ、いろいろあったと言われればそれまでなんだけれど。 あと、高宗が直接武則天に政治を任せたということ。普通、誰かをいちまい噛ませるでしょう。まあそれだけ武則天の頭の切れがよかったと言われればそれまでなんだけれど。 トータルで考えて、唐王室って 夷狄の匂いがするよね。 漢帝国とはおもむきが違う。 ローマ帝国と神聖ローマ帝国とが全然違うみたいなことに、ちょっと似ている感じがする。

子供のころから近代小説というのはよく読んだのだけれど、正直、今はあきあきしている。 言文一致形式の文章って、なんだか味気ないよね。 回りくどいのはいいから、結論を早く言え、みたいに思ってしまう。  その点、「十八史略」はいい。 子供のころに絵本を読んで陶然としていたことを思い出す。  今日は、伝説のテロリスト荊軻(けい か)のところをじっくり読んでいく。   

時は戦国最末期、秦の始皇帝がもう世界を統一しようかという。燕の荊軻が秦の始皇帝、当時はまだ秦王政と言っていたのだけれど、これをね、ちょっと暗殺に行くという話。 

「荊軻、行きて易水(えきすい)に至り、歌いて曰く、」 

易水というのは、燕の国の南部国境を流れる川。この川を越えると、もう敵地。荊軻はこの川を越えるに当たって、惜別の歌を歌おうというわけだ。2200年の時を超え、今でも語り継がれる歌がこれ。 

「風蕭々(しょうしょう)として易水寒し。壮士ひとたび去って復(ま)た還(かえ)らず」 

たまらん、説明の必要なし。 

「荊軻、咸陽(かんよう)に至る。秦王政、おおいに喜んでこれを見る。荊軻図を奉じて進む」 

咸陽は秦の首都。図というのは燕の国の地図で、これを渡すと、この土地を献上するという意味になるらしい。 

「図窮まりて匕首あらわる。王の袖をとりてこれを突く。いまだ身に及ばず。王、驚きて袖を断つ。荊軻、これを追う」 

なんか巻物形式の地図の中から匕首が出てきたんだな。これにはたっぷり毒が塗ってあって、一撃コロリなんだよね。渾身の追いかけっこ、始まる。 

「柱をめぐりて走る。秦の法、群臣の殿上に侍する者は、尺寸の兵をとるを得ず。左右、手をもってこれをうつ」 

柱をめぐりて走るだって。場面が急に立体的に思えてくる。殿上では、秦王政しか剣を持つことは許されていないらしい。群臣みな丸腰らしい。どうする? 

「王、剣を負え。ついに剣を抜き、その左股を断つ。荊軻、匕首を引きて王に投げ打つ。当たらず。ついに体解してもってとなう」  

秦王政、剣が長すぎて抜けなかったんだね。そこで一声、「王、剣を背負え」だからね。 たまらん、必要と思える説明さえ削ってくるこの感覚がたまらない。

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