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プラトンの「国家」において、ソクラテスは「正義を救ってくれ」と懇願される。どういうことかというと、この世の中、多くの物や観念は何らかの役に立つという理由で存在が許されているわけなんだけれど、「正義」ほどの重要観念ならそれ自身の中に存在の価値を確立して欲しいという。「正義」というものが、人から評価されるとかお金が儲かるとか、そういう下賎な価値で支えられるというのではなく、正義が自らの足で立つにはどうすればいいのかというわけだ。

結論から言うと、プラトンは「正義」とは一体性というものと同義であると言う。

プラトンは国家というもので正義を考える。

国家とは血縁でもない多数の人々が身を寄せ合う集団だ。このような国家において、正義を彫刻するためには、国家の成員たる個々人が能力に応じてやるべきことをやり、優秀な指導者を選抜して全体を秩序付け、外に対しては独立を保つという。

いわれてみると、このような国家の周辺には「正義」が立ち現れているような気がしてくる。

正義を示現する強固な一体性を保持する国家の指導者には、どのような選抜、どのような教育がふさわしいだろうか。

一番よくないのは、物にとらわれるということだ。役に立つから価値が高いだろうとか、そういうゲスな勘ぐりは、一体性の保持を目指す正義国家の指導者にはふさわしくないだろう。価値は、外にあるのではなくその中にあるのだから。

指導者にふさわしい教育というのは、物の価値を見定めることではなく、物のむこうにある真理を感得することだ。

そしてその指導者は、研ぎ澄まされた知性によって、自らの勇気と欲望をコントロールし、確立された自分の一体性、自己同一性によって、国家の一体性を維持する指導が期待される。正義とは、個人においても国家においても、一体性、確立された自己同一性のことだから。

太郎さんが3個のりんごを持っていて、1個食べました。残りは何個でしょう」

こういう問題に、元気に2個、とか答えているようでは話にならない。物のむこうにある真理を感得することが必要だ。「太郎さん」とか「りんご」とか「食べた」とか「何個」とか、そんなものは物の価値であって意味がない。大事なことは、3-2,1 ということだけだ。 これの延長線上に数学がある。


プラトンは理想国家の指導者にもっとも必要な知識は数学だ、という。数学は物にとらわれず、観念のみを展開する知識だから。

近代教育は啓蒙だとよく言われるのだけれど、思い出してみると、高校数学なんて啓蒙の域を超えているだろう。あれは選抜だっただろう。選抜というのはどこにでもあるのだろうけれど、科挙なんかもそうだけれども、数学で選抜と言うのがプラトンの影響を感じる。


日本は別に西洋から教育制度を借りているだけで、実は変幻自在の国だろうと思う。辺境国家の強みだ。しかし西洋自身にとってはどうだろうか。逃れられない呪いとなっているのではないだろうか。近代西洋哲学は、プラトンをひっくり返そうとして、どうしてもそれが出来ない。ヘーゲルもニーチェもハイデガーもフーコーも。


確かにプラトンの言説は強力なのだけれど、「国家」の7章まで読む限りは、どうしても相対化できないというものでもないようにも思われる。しかしプラトンの本領はここからだ。

プラトンは、「正義」とは一体性というものの中にこそあるという。

正直これだけ聞くと、正義を限定しすぎなのではないかと思ってしまう。正義といっても、人によっていろいろ解釈があるだろう。

名誉が正義だったり、お金が正義だったり、自由が正義だったり、快楽が正義だったり。

例えば、今日なんかすごく寒いのだけれど、家に帰って、暑い風呂なんかに入ったりすると、

「あったかいって正義だな」

なんて思ったりしないだろうか。

プラトンは、あえて「正義」とは一体性のことだという。国家の正義とは、国家の一体性のことであるし、個人の正義とは個人の一体性、すなわち自分が自分であるところの自己同一性の確立のことであり、正義の社会システムというのは、国家と個人が互いにその一体性を強化しあうシステムだというんだよね。

このようなことが証明できるのだろうか。そんなことはとても無理だと、普通思う。ところが驚くべきことに、正義の根拠をプラトンはみごとに証明した。


国家と個人が互いにその一体性を強化しあう社会システムが機能しなくなったとき、国家は堕落を始めるという。正義の国家は、名誉支配制国家、金持ち支配制国家、民主国家、僭主国家と、この順番に堕落していくという。この移行していくありさまを、プラトンは詳細に書いているのだけれど、それが近代の歴史そのものだ。全てを説明すると長くなってしまうので、金持ち支配制国家から民主制国家に移行するあたりをここで紹介してみる。


フランスでもドイツでもいいのだけれど、分かりやすいように、日本近代をプラトンの論理と比べてみる。

まず「金持ち支配制国家」とは何かというと、財産の評価に基づく国制だ。かつて日本の明治憲法下においては、選挙も議会も存在はしていた。しかしその選挙制度というものは大正14年まで制限選挙だった。ある一定の税金を納めた成人男子のみに選挙権と被選挙権が与えられていた。このような状況の国家が「金持ち支配性国家」と判断されてもしょうがないよね。

プラトンはこの「金持ち支配制国家」についてこのように言う、

「このような国はどうしても一つの国ではなく、二つの国であらざるをえないということだ。つまり、一方は貧乏な人々の国、他方は金持ちの国であって、共に同じところに住み、互いに策謀し合っている」

戦前の歴史を少しでも知るなら、プラトンのこの言葉がたちどころに当時の日本に当てはまることは理解できるだろう。さらにプラトンはこのように言う、


「金持ち支配制国家においてその支配者は、怠慢な態度で放埓な消費を許しておくことによって、、しばしば凡庸ならざる生まれの人々を貧困へと追い込むのだ」

「こうして貧乏になった人々は、針で身を武装して、この国の中でなすこともなく座していることになるだろう。彼らは財産を手に入れた人々に憎しみを抱いて、陰謀をたくらみ、革命に思いを寄せているのだ」

大正昭和初期には多くの暗殺事件があった。今から考えると不思議な感じがするのだけれど、戦前には戦前の論理があったのだろうと思う。

「このような状態にある支配者達と被支配者達とが何かの都合で一緒になる時に、危険のさなかにあって互いを観察しあうような機会があるとしたならば、そのような条件の下では貧乏な人々が金持ちたちから軽蔑されることは決してないだろう。むしろ逆に、しばしば痩せて日焼けした貧乏人が、戦闘に対して、日陰で育ち贅肉を沢山つけた金持ちのそばに配置された時、貧乏人は金持ちがすっかり息切れして、なすすべもなく困り果てているのを目にするだろう」

戦前の軍部にはびこった下克上ってなんだったんだろうね。制度の問題というより、人間としての力関係に原因があるだろう。このことを指摘した者を、私はプラトン以外には知らないけれども。

結局、金持ち支配制国家はどうなるのかというと、

「貧しい人々が戦いに勝って、あるものを追放し、そして残りの人々を平等に国制に参与させるようになった時、民主制というものが生まれるのだ」

二二六事件の実行犯である湯川康平は、戦後、このように語っている。

「二二六の精神は大東亜戦争の終結でそのままよみがえった。 あの事件で死んだ人の魂が、終戦と共に財閥を解体し、重臣政治を潰し民主主義の時代を実現した」

「陛下の記者会見で、
 
記者 おしんは見ていますか
陛下 見ています
記者 ごらんになって如何ですか
陛下 ああいう具合に国民が苦しんでいるとは知らなかった
記者 226事件についてどうお考えですか
陛下 遺憾と思っている

遺憾と思っているという言葉で陛下は陳謝されたと」

湯川康平は、分裂した日本国に、陛下は陳謝されたと解釈したわけだ。

プラトンの言説は、なぜこうも当たるのか。ここでは紹介しないが、他の部分も驚くべき予言力を発揮している。古代ギリシャと近代日本との、はるかなる時空を越えてだよ。

答えは一つしかない。プラトンの最初の設定、「正義とは一体性にこそある」というものが正しいからだろう。自由こそが正義だなどという、民主主義の正義というのは甘いということだ。

西洋近代は、プラトンの予言どおり、名誉制国家、金持ち支配制国家、を経て現在民主国家にまでいたっている。民主国家の後に来るのは、僭主制国家だという。

僭主制国家とは、最も悲惨な国家体制だとプラトンは言う。西洋はこの呪いの言葉を解くことが出来るだろうか?

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まず「カラマーゾフの兄弟」における大審問官とはなにか? 簡単に説明します。

「大審問官」はカラマーゾフの兄弟、次男と三男、イワンとアリョーシャの会話から始まる。
神の創った世界を認めるかどうかというこということについての話。
イワンは認めないと言うんだよね。なぜなら多くの子供達が虐げられているから。神が与えたもうたこの世界の秩序に犠牲が必要だというのなら、少なくとも無垢な子供達はこの犠牲から排除されていなくてはいけない。にもかかわらず現状はどうだろうか。最近の新聞にこのような話があるとイワンは言う。
「真冬の寒い日に5つの女の子を一晩中便所に閉じ込めたんだよ。それも女の子が夜中にうんちを知らせなかったという理由でね。それも実の母親がだよ。真っ暗な寒い便所の中で、悲しみに張り裂けそうな胸をちっぽな拳で叩き、血をしぼるような涙を恨みもなしにおとなしく流しながら、神様に守ってくださいと泣いて頼んでいるというのに。いったい何のためにこんなバカな話が必要なのか」
この意見に対してアリョーシャは
「キリストの犠牲によってすべては許される」
と答える。
この答えに対して、イワンは自分の創った「大審問官」という叙事詩を語る。

「大審問官」
場面は15世紀スペインのセヴィリア、異端審問の最も激しい時代。そこにキリストが降り立つ。人々はそれがキリストだとわかってキリストの周りに集まりだす。厳しい異端審問によって秩序を維持するセヴィリアにとって、これは秩序の危機だ。枢機卿である大審問官はキリストを捕らえて牢獄に閉じ込める。そして大審問官は夜中、キリストをを訪れて、自らの告白をする。
この大審問官の告白の何を重要視するかで、「大審問官」の意味というのは変わってくるとは思うのだけれど、私が重要だと思うところのその告白を要約する。

人間はキリストによって自由を与えられた。しかし人間は何が善で何が悪であるかという選択の自由の重みに耐えられない。キリストの自由では秩序が保てない。ここセヴィリアではキリストの代わりに我々が市民のために善悪を判断してやっている。三つの力によって、すなわち奇跡と神秘と権威。だから愛などという雲をつかむようなお前の言説はここセヴィリアでは必要ない。

これで終わりなのだけれど、この部分にどのような意味を見いだすか、ということが問われるわけだ。  この話の根幹というのは、社会の秩序というものには根拠みたいなものがあるのかどうか、ということになる。アリョーシャはあるという。イワンはないという。 社会秩序に根拠がないのなら、大審問官のように強権的に社会を秩序付けなくてはならないということになる。  ここからはちょっと飛躍するのだけれど、私は、大審問官の章というのは、この「カラマーゾフの兄弟」という作品の中の大きなテーマとシンクロしていると思う。その大きなテーマというのは、人間個人が自分が自分であるということ、すなわち自分の自己同一性に根拠があるのか、ということ。イワンが、社会秩序に根拠はない、と言った時点で、イワンの人格を形成しているところの整合性に根拠がない、ということを宣言していることになる。 その結果イワンはどうなったかというと、頭の中で悪魔と対話するようになった。もうこれは統合失調症だろう。 ドストエフスキーは、社会の秩序についての観念と個人の自己同一性とを、イワンの中でシンクロさせている。 社会であれ個人であれ、秩序、すなわち一体性の形成というのは、外部からは与えられないということになる。 

イワンにたいしてアリョーシャは、一体性の根拠は存在すると考えている。 その根拠というのは、この大審問官の章ではキリストということになっているけれども、エピローグでは、アリョーシャは子供達の前でこのように演説する。

「子供のころのなにかすばらしい思い出以上に、尊く、力強く、健康で、ためになるものは何一つないのです。たった一つのすばらしい思い出しか心に残らなかったにしても、それがいつか僕たちの救いに役立ちうるのです。もしかすると、まさにそのひとつの思い出が大きな悪から彼をひきとめてくれ、彼は思い直して、
そうだ、僕はあのころ、善良で、大胆で、正直だった
と言うかもしれません。内心ひそかに苦笑するとしてもそれはかまわない。みなさん、保証してもいいけれど、その人は苦笑したとたん、すぐ心の中でこう言うはずです。
いや、苦笑なぞして、いけないことをした。なぜって、こういうものを笑ってはいけないからだと」

アリョーシャは一体性の根拠を語っている。 しかしこの言説を注意深く読むと、世界というものが個人に少なくても一つ、すばらしい想い出を与えるという前提になっている。持ち上げられた世界にこそ一体性の根拠というものはある。  世界が持ち上げられているかどうかというのは、時代ごとに異なっていて、人間に無条件に与えられているわけではない。 イワン的世界観もありえるし、アリョーシャ的世界観もありえる。 

私は、アリョーシャ的世界観を信じるけれども。 

この「大審問官」というのは、イワン的世界観を視点をちょっとずらす感じで表現しているものだと思う。


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ジルドゥルーズによるニーチェの入門書。ジルドゥルーズはニーチェを説明しきれてないと思う。そのあたりのところをくわしく。

ただニーチェを解説しながら、何だか微妙にニーチェが分かりにくくなっている。ドゥルーズはニーチェを限定しすぎなんだと思う。
例えばドゥルーズはこのように言う。

「哲学は能動的な生と肯定的な思想との統一の代わりに、思想は生を裁くこと、いわゆるより高い価値を生に対立させることを自らの任務として定めるのである」

ニーチェ思想を無理に敷衍して、現代社会における自由意志のエネルギーの衰退を嘆いているような論調だと思う。現代の自由主義社会において、自由意志の旗を高く掲げようというのは悪いことではないとは思うけれども、そのことにニーチェを使うというのはニーチェ思想の限定であり、ちょっと危険だと思う。

そもそも自由意志とは何か?

右手を上げようと発意して右手を上げたとする。これを素晴らしい自由意志の発現と考えるなら、私たちの意識の中枢に「意思」というコアがあって、その意思が右手を動かしたということになる。さらに言えば、「意思」が脳内細胞の特定のシナプスを発火させ、その結果右手が持ち上がったということになる。
「意思」が脳内細胞の特定のシナプスを発火させる?
これではサイコキネシスになってしまう。ありえない。サイコキネシスは存在しない。
近年の研究によると、自由意志が自覚される0.何秒か前に脳内シナプスの発火が認められるという。脳内シナプス発火がある程度自覚できる状況になって初めて、その自覚が自由意志として認識されるというだけだろう。すなわち私たちが普通自由意志だと感じているものは、自由意志というものではなく単なる事後認識みたいなものだと考えるのが合理的判断だろう。

こう考えると、ドゥルーズの「能動的な生と肯定的な思想との統一」というところの「能動的な生」とは、人間情動の事後認識みたいなものになる。
さらに、ドゥルーズの言う「生を裁く思想」とは何か?

自由意志の自覚から実際に行動が起されるまで0.何秒かあるのだけれど、この0.何秒の間のどこかの時点に行動を抑制することができなくなるポイントオブノーリターンの時点が存在する。
逆に言えば、自由意志の自覚から行動抑制のポイントオブノーリターンの時点までは行動抑制が可能だということだ。この行動抑制の判断というのは何によってなされるのかというと、彼我の強弱だとか社会的通念などの価値判断だ。

お腹がすいているからといって、大人はコンビニの商品棚にあるパンをその場でむしゃむしゃ食べたりしない。なぜなら価値判断によって行動抑制の判断をしているからだ。これがドゥルーズの言う「生を裁く思想」ということになるだろう。

結局どういうことになるかというと、ドゥルーズが否定的に語った
「思想が生を裁きより高い価値を生に対立させることを、哲学が自らの任務として定め」て別に何の問題もないということだ。
価値判断という思想が能動的な生と統一されたりしたら情動駄々洩れであって、たぶん人格障害のレベルになってくると思う。

ニーチェは狂気の中で狂気の哲学を展開したわけであって、それはそれで強力なものがあるのだけれど、狂気の哲学をエスタブリッシュメントの教養として限定し取り入れるというのは無理があると思う。

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プラトンの「饗宴」とは】、6人の話者が順番に愛(エロス)について語るという内容。

これだけ聞けば、「愛」などという漠然としたものについて6人が語り継いでいくって、これだいじょうぶか?と思うだろう。6人それぞれが、自分勝手な愛認識を語って終わりなのではないかというのが疑われる。
しかし実際にこの「饗宴」を読んでみると、6人の話者はそれぞれに非常に有能であって、強力な論理を順番に積み上げ、最後のソクラテスに全てをたくすという構造になっていた。さすがヨーロッパ文明の古典中の古典だと思った。


Justitia, 螂ウ逾�, 豁」鄒ゥ縺ョ螂ウ逾�, 螂ウ逾槭・逵溷ョ�, 豌エ蟷ウ, 逶ョ髫縺�, 豁」鄒ゥ



トップバッターはファイドロス。彼の論理の骨格はこれ。

「愛は素晴らしい。何故なら少年愛が素晴らしいから」

いきなりヤバイことを言いだしたんじゃないの? 
ファイドロスの少年愛に対するこだわりは止まるところを知らない。
愛する少年を持つことほど素晴らしいことはこの世界にはない、とか、
愛する少年の前では卑怯なことは絶対にできない、とか、
戦争において武器を投げ出して逃げるところを愛する少年に見られるくらいなら何度でも死んだ方がマシだ、とか、
故に、愛する者と愛される少年とから成る国家があるとするなら、それは全く無敵の国家となるだろう、とか、
なるほどと。価値観は様々だろうから。

2人目の話者はパゥサニアス。愛には下級、上級の二種類があるという。分けて考える、悪くない。下級の愛というのは、女性に対する肉体目当ての愛。オヤジ最低だよね。では上級の愛とは何かというと、これが少年愛。

また少年愛かよ!

女性の肉体に対する愛が何故低級なのかというと、女性の花時が過ぎ去ってしまうと男はたちまち飛び去ってしまうからだという。それに対して少年愛は二人にとって永続的であるから、より価値があるという。
(評価は控えたい)
パゥサニアスは少年愛に匹敵する愛があるという。それは徳(アレテー)に対する愛だという。
女性の肉体や富に対する献身は恥辱であるけれども、徳(アレテー)や少年に対する献身は恥辱ではない。故に愛するものがその少年と共に徳(アレテー)に向かって行進することが最もすばらしいエロスである、ということになるらしい。
結局、少年愛というのは今で言うプラトニックラブのことだろう。プラトニックラブを足場に徳に向かって進軍することが第一級のエロスだということになる。
ギリシャ的だなとは思うけれど、言いたいことは分からなくはない。

3人目の話者はエリュキシマコス。彼の職業は医者だ。
彼は語る。少年愛のような良いエロス、女性の肉体を求めるような悪いエロスがあるというが、それは人間それぞれの個体の中にもある。調和的なエロスは人を健康にするが、放縦なエロスは人を不健康にする。医者の役目というのは、人にとってどのエロスが調和的でまたどのエロスが放縦かを判断することだ、という。

言論レベルがちょっと上がったんじゃないの?

さらにこう続く。
いま医者から診ての人のエロスについて語ったけれども、同じことが多くのことにに当てはまるのではないかという。例えば、音楽や詩や季節など。よい音楽というのは、エロスと和合とを喚起するところの音楽である。
良いエロスとは周りの事象を調和的にするある種の力だということだろう。
素晴らしいアイデアだ。さすがエリュキシマコスはアスクレピオスの末裔を自称するだけある。

4番目の話者はアリストファネス。職業は喜劇作家。
彼は喜劇作家らしいことを語る。
現在、人間の種類は男と女の2種類なんだけれど、太古においては、二人で一人的な男男、女女、男女という合体的なあり方で人類は存在していたという。人間はその一体性に満足していたのだけれど、満足したが故の傲慢のために神によって二つに分けられた。
それ以後、かつて同性同士くっついていたものたちは同性を捜し求め、男女とつながっていたものは異性を求めるようになったという。
この寓話はどういう意味かというと、エロスとは失われた一体性を回復しようとする渇望だ、ということだろう。
これまでの話のつながりから言うと、アリストファネスは「良いエロスこそが和合として価値がある」という話の中での「良い」という意味を相対化してやろうとしているのだろう。
医者という権威に対して寓話で挑もうというのだ。さすが喜劇作家だけある。

5番目の話者はアガトン。職業は役者。
彼のスタンスは、とにかくエロスを褒め倒そうというもの。
エロスは若くて、精神的に柔軟で、姿はしなやかで、物腰が優雅である、という。

アガトン君、君は具体的な少年を眼前に思い浮かべながら語っていないか?

アガトンのエロス賛美は続く。
何人も強制によってエロスに手を触れることはできない、とか、
エロスと共に歩めば勇気が沸きおこり「アレスさえも敵ではない」、とか、
エロスがひとたび触れれば、これまでムーサ神に無縁であった者ですら巧妙な詩人となる、とか、
アガトンは、何と言うか「口説きモード」に入っているだろう。彼の言説は意味がないように見えるのだけれど、口説くことの大事さそれ自体を教えている。男として生まれてきて、(少年は口説かないけれど)女性の一人も口説かないでどうするか。白馬に乗った王女様が自分を迎えに来るだろう、という考え方が一番危険だ。人はエロスの導きによって上昇していかなくてはならない。

6番目、最後の話者はソクラテス。西洋史上最大の哲学者。
ソクラテスはディオティマという女性から聞いた話を語り始める。
人間の寿命は有限だ。故に永遠を求める。この永遠を求める情熱がエロスだという。男は美しい女性をはらませたいと、ぶっちゃけて言えばヤリたいと。わかりやすいエロスだ。子供が生まれて子孫が続いていくなら、これは永遠だから。
これだと動物と同じで、肉欲に止まっていてはいけない。肉欲よりも精神の方がより人を永遠に導くわけで、精神のエロスに人は移行しなくてはならない。精神のエロス、これすなわち少年愛。

徹頭徹尾、少年愛。

ここまでは前の5人の話者と内容レベルは同じだ。
さらにソクラテスの話は続く。
一人の少年の中に精神の美を観取したものは、自然と多くのものの中に精神の美を見るようになるだろう。多くの少年や様々な職業や制度の中に。これらの美は互いにつながっている。
(これは3人目の話者エリュキシマコスが語っていたことと被っている)
全ての美はつながっているのだから、一人の女性や一人の少年や一つの職業活動に執着するのは、もはやみじめな奴隷的こだわりである。人は美の大海に乗り出し、崇高な思想を生み出しつつ、ついにはこれによって人は力を増し成熟していくという。

これはもう予言だろう。ギリシャのポリス世界からローマという大帝国の世界へ。ローマが何故あのような大帝国になったのかというと、細かい諸事情はあるだろうが結局のところは「全ての美がつながっている」という確信が古代世界にあったからだろう。現代の私達の世界が多くの国々に分裂してあるのは、「全ての美がつながっている」という確信が今だ十分に育っていないからだろう。

ソクラテスの話はさらに続く。
愛の道についてここまで教導を受けたものは、今ようやく愛の道の極致に近づく。最後にいたり人は突如として驚くべき性質の美を感得する。独立自存し永遠で圧倒的な美が彼の前に表れるでありましょう。
生がここまで到達してこそ、美そのものを観るに至ってこそ、人生は生き甲斐があるのです。

これこそが本物のイデア論だろう。

長々と「饗宴」について書いてきた。このレベルの書物になると、世界を説明する哲学ではなくて、世界に命令する哲学みたいなものだろう。ド迫力だよ。


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ハイデガー「存在と時間」を木田元の「ハイデガーの思想」を元に解説します。

ハイデガーの「存在と時間」は未完であって、木田元はこの未完部分を推測しようという。

ハイデガーの「存在と時間」は序論に目次が存在していて、以下のようになっている。

第1部  現存在の解釈と時間の解明
 第1編 現存在の基礎分析
 第2編 現存在と時間性
 第3編 時間と存在
第2部  存在論の歴史の現象学的解体
 第1編 カントの時間論について
 第2編 デカルトの「我あり」と「思う」について
 第3編 アリストテレスの時間論について

そして実際には第1部第2編までしか書かれていない。だから「存在と時間」は未完だといっても、その未完レベルはかなり高い。だいたいにおいて、大事なことは後半に記されるわけで、木田元といえども「存在と時間」の全体を推測しようというのは大丈夫かとは思う。

木田元の議論についていくためには、「存在と時間」なる哲学書はどういうものかというのを自分なりにでも知っておく必要がある。
「存在と時間」という題名だけあって、この本は存在とは何か、時間とは何か、ということについて書かれている。存在とは何か、については、まあ何か言い様もあるかとも思うのだけれど、時間とは何か?って、いったいこれどうするよ? 常識的に考えて、いくらハイデガーでも、時間について評論しようもないだろう。

とまあこんな心構えで「存在と時間」を読んでみる。

3分クッキングでもないのだけれど、はい読んでみました、いろいろ考えてみましたということで。
まず存在について。
ハイデガーは、人間というのは「世界内存在」だという。人間とは世界の中に投げ出されてあるという。だから存在とは、人間に前もって与えられている何かだというわけだ。
消極的な考え方のように見える。自由意志はどうなっているのか。人間は意志によって世界を変えることができる、なんて建て前もある。
ところが人間の脳においては、意思を発動する0.2秒前にシナプスの発火が認められるという研究がある。意思によってシナプスが発火するのではなく、シナプスの発火過程において意思が自覚されるだけなんだよね。自由意志だと思っているものはすべからく脳のシステムによって自由意志だと思わされているだけだという。
実はこれ当たり前の話であって、意思によってシナプスが発火したら、それはただちにサイコキネシスだから。
そう考えると、ハイデガーの言うように、人間とは世界の中に投げ出されている「世界内存在」だという説明は説得力がある。

次に時間について。
ハイデガーは「存在と時間」の中で、本来的時間体制と非本来的時間体制があると言うのだけれど、なんだかちょっとゲルマン的道徳臭がする。
例えばジャック・デリダは、人間において存在認識が差異化することによって現在、過去、未来という時間認識が発生する、というのだけれど、正直コイツ何を言っているのか分からない。分からない事を差異化とか言ってしまったら、分からないままだろうと思う。
自分で勝手に考えてみる。
懐かしいという感情が存在したりする。子供のころ慣れ親しんだ情景を時間がたって体感すると懐かしいと感じる。懐かしいという、あの一種安心するような感覚は何なのかという。記憶が勝手に呼び起こされて、あったかい気持ちになる。結局、その情景の中において、過去と未来とがある程度確信を持ってシステマティックに再現されるからだと思う。
ところが、現在過去未来というものが厳然と存在していて、故に人間は時間差異を認識できると考えることも出来るのだけれど、人間の時間認識システムによって私たちは時間的差異が存在すると思わせられているということもありえる。
なにせ「時間」という怪物が相手だし。「存在」について考えるよりもフレキシブルにならなくては、なんて思う。

とここまで「存在」と「時間」について考えてみた。これを予備知識として、木田元の「ハイデガーの思想」における「存在と時間」の未完部分の推論に付いていってみたいという。

ハイデガーの「存在と時間」目次、第1部第3篇に「時間と存在」とある。木田元によると、ここでは時間体制と存在体制の関係性について書かれる予定であったという。時間と存在との関係性って、これが分かったら大変なことだよ。人間は存在の方は直接いじれないとしても、時間の方はいじれるかも。
すなわち、ある時間認識に基づいて、人間は「世界内存在」として世界の中に投げ出されているわけだ。身近な表現をすると、私たちは時代の中に投げ出されている。自分の時代認識を自分の意思で直接変えるというのは不可能だろう。ところが、自分の現在の時間認識を変える事によって、自分の時代認識を変えることは可能かも。
これが出来たら自由意志の復活だろう。サイコキネシスの不存在により自由意志は否定されていたのだけれど。

ところがハイデガーは、時間認識に対する介入の可能性を諦めた。木田元によると、これをハイデガーの転回(ケーレ)という。ここをケーレしてしまうと、「存在と時間」の続きは書けなくなるだろう。

時間認識にも介入できない、存在認識にも介入できない、となると、後はある時代の時間認識と存在認識を受け入れて、その世界を内側から見るということしか出来なくなる。別の世界を内側から見る手法を現象学という。内側から見た世界を時代順につなげていけば、現象学的歴史学ということになる。ハイデガーがそのケーレの後に行ったことは、現象学的哲学史だった。
木田元も、ハイデガーの現象学的哲学史の内容について詳細に語っている。これはこれで非常に興味深いのだけれど、やはり「存在と時間」のあのインパクトはないよね。現象学的歴史学というのではヘーゲルと変わらないだろう。



ハイデガーの思想 (岩波新書) [ 木田元 ]
ハイデガーの思想 (岩波新書) [ 木田元 ]






「わが闘争」を読む限り、ヒトラーが目指したものはドイツの一体性というものだろう。

何かの一体性を形成するというのは、じつは難しい。
国家においても、独裁者が強権によって統一を維持するということは理論上はありえるけれども、その程度の一体性では、その国はたいしたことないだろうということは容易に想像がつく。
風邪を引いたとする。病院にいくといろいろ薬をくれる。しかしあんなものは気休めであって、風邪のウイルスを撃退するのは体の免疫機能だ。免疫とは結局個体の内と外とをわける機構であり、免疫力はその個体の一体性を維持する力に依存している。そして、体の一体性をいかに高めるかというと、これは難しい。

ヒトラーはどのようにドイツの一体性を高めようとしたか。
まずドイツの内と外を区別する。ドイツの内側はアーリア人で、ドイツの外側はユダヤ人だという。ヒトラーのユダヤ人差別というのは、それが目的というよりも、ドイツの一体性を高めようとすることの手段だろう。
ヒトラーのユダヤ人にたいする歴史的事実は確かに極悪だった。だからといって、ヒトラーを知らなくていいということにはならないだろう。それほどヒトラーの思想というのは強力なんだよね。

国家でも人でも、その一体性というのは極めて重要で、それは価値といってもいいくらなものだ。ヒトラーはこのように言う。

「同盟政策についての問題。誰の目にも明白な欠陥に満ちたワイマールのドイツと、およそ同盟する国があるかどうか」

これは男についても同じで、誰の目にも明白な欠陥に満ちた男と、およそ結婚する女があるかどうか、という文章も成り立つ。明白な欠陥とは、国家においても人格においても、その一体性の欠如に由来すると考えてそう的外れでもないと思う。

ヒトラーは、一体性において大事なことはその形式ではなく内実であるという。そりゃそうだ。ではヒトラーの考える一体性ふあれる国家の内実とはどのようなものか。

「ただ健全であるものだけが子供を生むべきで、自分が病身であり欠陥があるにもかかわらず子供をつくることは恥辱であり、むしろ子供を生むことを断念することが最高の名誉である、ということに留意しなければならない。しかし反対に、国民の健全な子供を生まないことは非難されねばならない」
「病身であったり虚弱であったりすることは、恥ではなくただ気の毒な不幸に過ぎない。しかしこの不幸を自分のエゴイズムから、何の罪もない子供に負わすことは犯罪であり、これに対して罪のない病人が自分の子供を持つことを断念し、他日力強い社会の力強い一員になることを約束されている民族の見知らぬ貧しい幼い子供に愛情を注ぐのは賞賛すべき人間性の尊さであると、国家は一人ひとりに教えるべきである」

現代の建前的常識によっては、このようなヒトラーの言論は認められない。人間の価値は平等であるとされている。ところが多くの人の本音はどうか。
ネットでは知的障害者やその親に対する差別の言説があふれている。多くの人がそれを見て、ああ他の人の本音もそうなんだ、と思い安心する。
思考が分裂していて一体性に欠けているわけだ。結果、ヒトラーの一体性のある言説に比べて、このような人が何を語ろうが、言葉の力が劣ることになる。

そう、そして誰もがしょうがないよねって思う。本音と建前を分けるのは、この世界を生きるためにしょうがないと思う。
このような意見に対して、ヒトラーはこのように言う。

「もちろん、今日のあわれむべきおおぜいの俗物どもには、このようなことは決して理解できないであろう。なるほどおまえたちにはとてもできない。おまえたちの世界はこういうためには適当ではないのだ。おまえたちはただ一つだけ心配がある。つまりおまえたち個人の生活だ。そしておまえたちにはただ一つの神かある。つまりおまえたちの金だ。たが、我々はおまえたちに用はない。自分たちの生存を支配しているものを金とは考えずに、他の神を信じているおおぜいの人々に向かうのだ。われわれはなによりもまず青年に呼びかける。彼らの父たちの怠惰と無関心が犯した罪に彼ら自身で挑戦するのだ」

この「わが闘争」という本は口述筆記だという。だからヒトラーは、自らの思想を語ると同時に、それに対する異論への反論を考えているわけだ。ヒトラーというのは、一体性の思想と懸絶した言語能力を併せ持った、ある種の怪物だろう。

一体性の思想が成立するとするなら、それは強力なものとなる。近代以降、一体性の思想というのは基本、存在しない。何らかの一体性の存在には何らかの力が必要だろう。例えば、地球がその一体性を維持しているのは重力という力があるからだ。生物の個体も一体性を維持しているわけだから、おそらく何らかの力が作用していると思うのだけれど、その何というか生物力みたいなものがあるのかないのか、どのようなものか全く問題にされない。

すなわち近代以降においては、生物の一体性、さらには個々の人間精神の一体性まで前提とされてしまっている。人間精神の一体性を直接問題にしてしまうと、生物力みたいなオカルトになってしまう。
この社会では、自分の自己同一性の懐疑に悩む人も多い。しかし現代医学のレベルではこのような人を救うことは難しい。科学というものが、直接精神の一体性の根源を問題にすることができないからだ。

ヒトラーは、このような近代社会の不手際に対して別の世界観を提示する。
国家と個人。国家の一体性と個人の一体性が、互いに互いを強化し合うシステムを形成できれば、今までよりも強力な世界が立ち現れるだろうというわけだ。

西洋近代哲学のなかで一頭地を抜く思想だろう。

経験上、この竹田青嗣という哲学者は信用できる。ちょっと踏み込みが浅いところはあるのだけれど。

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プラトンというと、「プラトン主義」とか「イデア論」とかになって、それに対する批判というのが普通になっている。ありえない批判だと思う。プラトン現物を読んでいないのだろう。竹田先生には、ずばりプラトンを救って欲しいと思う。

竹田先生はまずこのように言う。

「哲学とは、物語を用いず抽象概念を用いて世界説明を行うというルールの設定だ」

いいよー、出だしはいい。
狭い地域の血族集団なら、物語で秩序を維持するということも出来るだろう。しかし広範な地域で秩序を維持しようとするなら、抽象概念を用いた世界説明が人々の間で共有される必要がある。この場合、その抽象的概念は「絶対的真理」よりも「普遍的観念」の方が望ましい。「絶対的真理」というと、排除の論理というものに陥りやすい。「普遍的観念」で秩序を秩序を形成できるなら、より多くの人を巻き込んで秩序を形成できる。
しかしここで問題なのは、「普遍的観念」とは何か、ということだ。

竹田先生はこのように言う。
「プラトンは「客観的真理」という考えではない仕方で、思考の普遍性の可能性を見いだそうとした」

すばらしい。本当にそうなんだよ。イデア論とか言ってしまうと、イデアと物質の二元論ということになってしまう。結局、西洋合理主義はプラトンが源流だということになってしまう。
数学ってあるよね。あれって本当に客観的真理なんだろうか。そりゃー、人類が存在しなくなっても地球は太陽の周りを回り続けるだろうが、客観的真理なんていうものには意味がなくなるのではないだろうか。
「普遍的観念」という場合、人間相互の共通観念という意味が含意されているわけで、神的なものを必要とはしない。そして、プラトンは何をもって「普遍的観念」としたのか。

竹田先生はこのように言う。
「プラトンのイデア論の基本構造は、はじめに世界への欲望とエロスが存在し、これと相関的に世界が分節されているという欲望論的構造を示しているのである」

ちょっと待て、竹田。 詰めが甘いだろう。

欲望が根拠って何なんだ? そこはもっとさかのぼれるだろう。個人的に言わせてもらえば、プラトンの言う「普遍的観念」とは、それぞれの「一体性」のことだろう。国家においては国家の一体性、個人においては、自分が自分であるところの自己同一性。そもそも自己同一性のないところに欲望の充足はないだろう。

竹田青嗣が、プラトンの一体性の思想にたいして詰めが甘いのもしょうがないところがある。ここを掘っていくと、ヒトラーにつながっちゃうんだよね。プラトンの哲人王とヒトラーのナチズムというのは、明確に相関関係がある。せっかく持ち上げたプラトンが、ヒトラーの思想によってけがされるのが忍びないという意識があるのだろう。

この本はすごくいいところまでプラトンを説明していると思う。北村透谷まで持ち出しているのだけれど、この部分は渾身の言説だと思った。


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ヘーゲルの「歴史哲学講義」のなかに、アフリカ中南部の描写がある。これがちょっと衝撃的なんだよね。

かつてアフリカからアメリカに、黒人がひどい扱いで奴隷として運ばれたというのはよく知られている。イギリスひどいみたいな、ネットの議論もある。 

しかしなぜアフリカの黒人は、あのような奴隷船に乗せられ、システマティックに運ばれていったのか不思議ではないだろうか。彼らにも親やふるさとがあっだろう、と普通は考える。

「歴史哲学講義」のなかでヘーゲルは、東から西に向かって文明が進歩していると語っている。中国が最低で、ヨーロッパが最高ということになる。現代日本人としては受け入れにくい論理なのだけれど、19世紀前半という時代背景を考えれば、ヨーロッパの無自覚差別主義者がそのように考えることはありえるだろう。ヘーゲルは中国について書いているのだけれど、これが当たらずとも遠からず、全くでたらめというわけでもない。19世紀前半において、はるか彼方の極東の国について、ある程度は知っているわけだ。  

アフリカは中国よりはるかにヨーロッパに近い。ヨーロッパとの関係性も深いから、勉強熱心なヘーゲルは、中国よりアフリカの方が詳しいだろうという合理的推論が成り立つ。  ヘーゲルのアフリカに対する評価というのはひどい。中国は歴史がある、だから言及する価値があるけれども、アフリカは歴史がないから言及する価値がないという。どのように言及する価値がないかということを、ヘーゲルは例をあげて言及しているのだけれど、これがひどいんだよ。    

「黒人はヨーロッパ人の奴隷にされアメリカに売られますが、アフリカ現地での運命の方がもっと悲惨だといえます」   

このように始まる。どのように悲惨か? 

「現地においてすでに、両親が子供を売ったり、反対に子供が両親を売ったりする」 

本当かよ? と思う。さらに 

「黒人の一夫多妻制は、しばしば子供をたくさんつくって、つぎつぎと奴隷に売り飛ばすという目的を持っていて、ロンドンの黒人がつぶやいたという、自分の親族全員を売ってしまったために貧乏になったという、素朴な嘆きは珍しいものではありません」  

これが本当だとするなら、おそらく本当だろうけれども、結局どういうことなのかって考える。
  
この世界って、無条件に与えられているわけではない。歴史がなければ、奴隷に売ったり売られたりして、それを当たり前だと思ってしまうという。その歴史も、当たり前に形成されるわけではなく、かつて何らかの、先人達のきっかけや努力みたいなものが存在していた結果なのであろう。 ヨーロッパ人は原罪という言葉を使うけれども、これを日本語で言えば、歴史に対して義理があるということになるだろう。

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「魔の山」も終盤になって、ペーペルコルンという人物が現れる。 雰囲気を操れるかのような奇怪な人物。 セテムブリーニとナフタの影響から、カストルプ青年をアウフヘーベン、すなわち上に持ち上げるための人物。  どのようにして持ち上げるのか。ペーペルコルンはこのようにいう。 「「私はくりかえしていいます、だから私たちは感情燃焼の義務、宗教的義務を持っているのです。私たちの感情は、いいですか、生命を目ざます男性的な力です。生命はまどろんでいます。生命は目ざまされて、神聖な感情と陶酔的な結婚を結びたがっています。感情は、若い方、神聖です。人間は感じるから神聖なんです。人間は神の感情の器官です。神は人間によって感じようとして人間をつくりました。人間は、神が目ざまされ陶酔した生命と結婚するための器官にほかならないのです。人間が感情的に無力でしたら、神の屈辱がはじまり、神の男性的な力の敗北、宇宙のおわり、想像を絶する恐怖になります」   どういうことかというと、結局は「男と女」ということだ。ヘーゲルとかニーチェとかいったって、それはこの世界だけの話であって、忘れ去られた過去、忘れ去られた文明、においてはヘーゲルやニーチェを適用することは出来ない。しかし、忘れ去られた世界においても男と女はいて、間違いなく互いを求め合っていただろう。 私は男性だから女性のことはいまいちわからないのだけれど、男性には間違いなく「感情燃焼の義務」というものがあるだろう。男は、少なくとも一人の女は救わなくてはいけないということになる。  会社で同年代の同僚が何人かいる。あいつらいつまでたっても結婚せず、彼女がいたという話すら聞いた事がない。もう40代後半だというのにどうしようもない。昼休みは食い物屋の話ばかりだ、昨日なんか、10年前に喰った遠征先での昼飯の話をしていた。文学の話をしろとは言わない、少なくても女の話をしろよ。「magamin君も、あの店に一緒にいったよね」 いや、覚えてねーよ、10年も前にいった定食屋なんて。「magamin君はミックスフライ定食を食べてたよね、俺も同じだったから覚えてるよ」 おまえキメーよ。どんだけ暇なんだよ。 はっきりいって、怒りすらわいてくる。 彼らの考えているだろうことは分かる。 まじめに働いていたら彼女も出来て、結果、結婚ということになるだろうと思っていたのに、ということだろう。そのうち、話すことが食べ物の話しかなくなったのだろう。 根本から間違っているんだよ。 女を救わなくてはならないのに、自らをまず救おうとしてしまっている。「感情燃焼の義務」が果たせていない。自分は間違っていないと思っているのだろうが、それが間違っている。  なにを語るにしても、仕事をするにしても、哲学を探求するにしても、感情燃焼というのは前提だよな。

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一昨日だったか、セテムブリーニの世界観は進歩史観の自由主義で、ナフタはそれを相対化するものだろう、と書いたのだけれど、下巻も半ばまで読んで、だいたい予想はあっていたと感じている。 ナフタはこのようにいう、岩波文庫下巻313ページ「進歩は純然たるニヒリズムであって、自由思想的市民は、ほんとうは虚無と悪魔との人間であって、悪魔的な反絶対的なものを信奉し、死と同然の平和主義を不思議にもなにか敬虔なものであるかのように考える」   ニーチェだと思うね。ナフタのモデルはニーチェだろう。となると、セテムブリーニはヘーゲルということになるだろうか。     ニーチェとかヘーゲルとかいうと、なんだか私達と関係のない迂遠で難しい話のように思うこともありえるだろうけれど、全然そんなことない。ヘーゲル的世界、すなわち進歩史観の自由主義というのは、今のこの世界の事だ。この世界のマジョリティーがどうなっているのかということをヘーゲルは説明しているだけなんだよ。しかしこの世界のあり方というのは、唯一絶対のものなのだろうか。様々な違和感を殺して大勢を受け入れることだけが、大人になる唯一の道なのだろうか。座間の殺人鬼のもとで、話を聞いてもらいたいだけの自称自殺志願者の女の子が2ヶ月に8人も殺されるなんていうは許容されるのだろうか。  様々な矛盾の中で、多くの人が言葉に出来ない違和感を抱いていた中で、現れた言説がニーチェだろう。   そういう意味での、ヘーゲルとニーチェ、すなわち、セテムブリーニとナフタということになる。  この程度のラインに沿ってセテムブリーニとナフタの議論は理解していけばいいだろうし、そこからはみ出るようなところは流していけばいいのではないかと思う。私はヨーロッパ人ではないし、あまり細かいところまで100パーセント理解する必要もないでしょう。

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