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長男ドミートリーが父親のフョードルを殺したという容疑で逮捕される。

このフョードルを殺したのは誰なのか。「カラマーゾフの兄弟」では殺人が起こって、犯人が誰なのかという謎があるわけで、この小説は推理小説としても読めるという意見もある。

そもそも推理小説とはなんなのだろうか。

推理小説の形式というのは極めて近代的なものだと思う。推理小説の形式とは何かを説明するために、一つ例を出しましょう。

「古畑任三郎」という推理テレビドラマがある。
古畑任三郎は刑事で、犯人をいろいろ推理するというドラマなんだけど、この犯人というのが将棋の棋士だったり、有名な女優だったり、医者だったりする。犯人は自分の社会的名声を守るために殺人を犯す。
さらに言うなら、犯人は自らが所属する知の体系を維持するためには殺人もしょうがないと思っている。この世界には様々な知の体系があって、それぞれがお互いに切磋琢磨している。頭がいいと思われたい人間は、結局どこかの知の体系に所属しなくてはいけない。それぞれの人間がそれぞれの知の体系に所属して、それぞれの論理を持つ。自分そして自分の所属する知の体系を否定しようとするものは、簡単に排除されてしまう。

しかしこの世界にはより大きな秩序があって、個別の知の体系といえども、全くばらばらに存在することは許されない。殺人などという一線を越えた体系維持運動は認められない。古畑任三郎という探偵は、はみ出た知の体系のオルガナイザーを摘発し、知を回収して回る国家体系の番人なんだよね。

「カラマーゾフの兄弟」でおこる殺人と解決は、この探偵小説の形式とは全く異なる。アリョーシャはいきなり次兄イワンに

「あなたは犯人ではない」


という。当たり前だ、そもそも長男ドミートリーが容疑者として逮捕されているんだから。しかし話の結末というのは、イワンが父親が死んで欲しいと密かに願っていたので、スメルジャコフというヤツがイワンの代わりにフョードルを殺したというものだった。スメルジャコフにしてみれば、イワンは殺人の共犯だが、アリョーシャにしてみれば、「イワンは犯人ではない」ということになる。それぞれにそれぞれの真実がある。アリョーシャは知の体系をより上位の体系に回収しようなんて思っていない。ただただ真実を喝破するだけ。

そこには推理小説特有のカタルシスはなく、巨大な愛があるだけだ。

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アリョーシャはコーチャという14歳の少年と知り合いになる。コーチャという少年は中二病なんだよね。既成の権威を否定するために、より大きな権威をよそから(特に外国)から借りてくるということ。

コーチャの行為自体は間違ってはいないと思う。

そもそも近代以降における既成の権威というものは怪しげなのが多すぎる。近代において科学というのは権威である。数学と理論物理は第一級の科学であると私も認める。ただほかのものはどうだろうか。

例えば生物学とか医学とか、こいつらは科学としては二流だ。
生物学においては、生物の進化というのがなぜ起こるのか全く解明されていない。生物学ではいまだに150年前のダーウィンの進化論がメインフレームだ。ありえないでしょ。150年前の学説を超える論理がいまだに出てこないなんて。
医学においては、人間の意識というものが全く解明されていない。意識の座が脳のどこの部分にあるのかとかは分かっているのだけれど、意識そのものとは何であるのか、ということが分かっていない。人間存在の中核である意識の存在体制を理解できない現代医学なんていうものは、こういう言葉を使うと申し訳ないけれども、片手落ちでしょう。

生物学や医学でさえこのありさま。さらに経済学とか精神分析学とかは科学としては推して知るべし、三流。こいつらは、正直オカルトの部分もかなりあると思う。このように科学の中にもランクがあるにもかかわらず、それぞれの科学が、われこそは数学並みに一流であるという顔をする。

ここがコーチャのような力あふれる少年には気に入らない。だからより大きな権威を借りてきて既存の権威、この小説の中では教育学とか医学とかということになるのだけれど、を否定しようとする。

コーチャの考えは間違っていない。そもそも医学とか精神分析学なんていう二流以下の学問が、数学並みの一流の科学でございという、そのずうずうしさが間違っている。フーコーだね。

しかし何故二流以下の学問の知が、この社会において異常な力を持つのか。

この世界では何らかの知のヒエラルキーに参加していないと馬鹿だと判断されてしまうからだと思う。コーリャも既成の知の権威を否定するために、よそから別の知の権威を借りてくる。既成の知の権威を拒否するだけだと、馬鹿だと判断されてしまう、それがコーリャには耐えられない。

このコーリャにたいしてアリョーシャはこのように言う。
渾身のアリョーシャの言葉を堪能してほしい。

「この節では才能をそなえたほとんどすべての人が、こっけいな存在になることをひどく恐れて、そのために不幸でいるんです。ほとんど狂気のさたですね。悪魔がそうした自負心の形を借りて、あらゆる世代に入りこんだんです。自己批判の必要さえ見いださぬようになってしまったんです。君だけはそうじやない人間になってください」

悪魔が自負心の形を借りてだって。
悪魔がだよ、自負心の形を借りるんだよ。

誰もが心当たりがあると思う。

アリョーシャは、そのような悪魔を拒否するというのではなく、悪魔を寄せ付けないのがすごい。さすが主人公。

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カラマーゾフ3兄弟の父親であるフョードルが、何者かに殺されてしまった。

長男ドミートリーが父親殺しの罪で警察に捕まる。彼が殺したという確証はないのだけれど、持っているはずのない大金を持っていたりと、いかにも怪しい。

警察がドミートリーを発見した時、彼は彼女とドンちゃん騒ぎをしていたのだけれど、そのまま拘束されて尋問。そこでは警察当局との思想の対決みたいなことになる。


たんたんとした尋問において、ドミートリーは、

「私の私生活に干渉するのは許しませんよ。あなたの質問は事件に関係ないし、事件に関係ないことはすべて、僕の私生活ですからね」

更にドミートリー、

「あなた方もずいぶん暇なんですね」

近代の尋問というのは、何が証拠になるか分からないということで細かいところまでいろいろ聞かれるというのは、現代日本人でも共通のイメージだと思う。
細かい質問にドミートリーはイライラするのだが、これは勘違いしているから。ドミートリーは魂の対話というのを予定しているのだが、警察当局は、調査管理というのを予定している。このアンバランスをこの9編では明確に描き出される。

魂の対話と調査管理の相克。

卑近な例えを出してみよう。

私の職場で中島さんという70歳のおじいさんは、昼休み毎日はいている靴の裏にガムテープを貼っている。

「中島さん、毎日ビリビリガムテープを貼るんなら、新しく靴を買ったほうが早いんじゃないの?」
「そう思うんだけど、なんだかこの靴に愛着がわいちゃって」
「えっ? このワークマンで1980円で買った靴に愛着?」
「うん、なんとなくね。今月いっぱいは粘ろうと思うんだ」

靴の裏にガムテープを貼って靴の寿命を延ばすことが、靴に対する愛着の表現だとは考えもつかなかった。中島さんと靴との魂の対話というのがあったと思う。私は調査管理の論理を中島さんにぶつけてみた。中島さんは愛着という表現でそれを拒否する。
ただ私だから中島さんも拒否できた。しかしこれがもっと巨大な知の体現者から強制されたとするなら、中島さんは自分の愛着に執着し続けることが出来ただろうか。中島さんと靴との魂の対話はどこまで深くなれるものなのだろうか。

結局、ドミートリーの最後の言葉が警察当局に回収されてされてしまったら、話はそれで終わってしまう。最後の言葉を自分のために取っておく、そんな矜持あるいは狂気をもつものこそ立体的な人間だと思う。狂気をはらむ人間こそ生々しい存在で、ギリギリまで近づいてみたいという、心の底を覗き込んでみたいという、そう思わせるものがあるのではないか。

近代と人間との相克。人間と人間との相克。

「蛇が蛇の頭を食べようとしている」

ドミートリーはこのように言うけど、本当にそう。何が正しいとかというのではなく、その相克が美しいという。

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カラマーゾフの3兄弟の長男はドミートリー、ドミートリーの愛称がミーチャ。

ドミートリーはどこからか3000ルーブルのお金を調達してきて、どんちゃん騒ぎをやる。ドストエフスキーはこのどんちゃん騒ぎの描写がうまい。もっと正確に言うとも、ドストエフスキーとはどんちゃん騒ぎそのもの。

ドミートリーはこのように言う。

「僕はもっと高い秩序のことを言ってるんです。その秩序が僕にはないんだ、もっと高い秩序が.....」

ドミートリーはグルーシェニカという女を好きになって周りが見えなくなってしまう。もちろんグルーシェニカという女を好きになる前は別のことに夢中になっていて、周りが見えなかったのだろうけど。彼はこの繰り返し。崇高なものに一直線につながる自分があるだけで、彼には周りとの協調、すなわち秩序というものがない。

私の会社に50歳くらいの独身の男がいて、この人は両親の仏壇に供えた菓子パンを毎朝朝食として食べるんだという。このようなものが典型的な、古典的な秩序だと思う。50歳にもなって独身なら子孫を次につなげるなんていうなんていう可能性はほとんどないわけだから、祖先からの風習を自分が継続する必然性というものはすでにないんだよね。墓参りヤーメタなんて言ったとしても、別に祖先から呪われるなんていうこともないだろう。家を継続するという祖先のかたたちの最大の希望を果たしていない以上、墓参りとか仏壇のお供えとかもうどうでもいいのではないかとも思うのだけれど、まあそういうわけにもいかないのだろう。

これが古典主義的秩序。

ドミートリーは、「その秩序が僕にはないんだ」と叫ぶ。
いいよ、どんどんやれ。

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主人公アリョーシャが尊敬するゾシマ長老の若いころの話。

ゾシマ長老、今はロシアのある修道院で尊敬を集める修道僧であるけれども、若いころはかなりヤンチャをした。つまらないことで決闘沙汰にまでなる。ところが決闘当日の朝、突然神に目覚めるんだよね。優しくて敬虔だった、若くして死んだ兄の事を思い出した。
決闘で相手の先行の一発、ピストルの弾丸を耐えた後、修道院に行く宣言をする。

人よりも仕事が出来るアピールとか、私の家系は由緒あるアピールとかいろいろな世間体みたいなものが誰にでもある。そういうものをすべて切り捨てて神に直結するという、そんな願望はありえる。
若きゾシマ長老にあこがれた人が、自分は昔、人を殺したなんていう告白をしてくる。ゾシマ長老はその人に自首を勧めるんだけど、これは苦しいよ。殺人宣言なんてすれば、神と直結できる代わりに世間体は崩壊してしまうから。世間体というものは空気のようなもので、どうでもいいように思えて、なくなると思うと急に苦しくなるようなものなんだよね。

人間世界における、神とのつながりと人とのつながり。このベクトルの異なる二つのつながりというのは、何らかの関係があるのだろうか。あるといえばあるし、ないといえばない。

ゾシマ長老は最後にこのようなことを言う。

「行って、人々に告白なさい。何もかもがやがて過ぎ去り、真実だけが残るのです」

この孤独にどれだけの人間が耐えられるのだろうかという。

大審問官の独白とゾシマ長老の昔話はシンクロしている。縦の強調と横の強調。人間の強さと弱さ。ただ、何もかもがやがて過ぎ去り、真実だけが残る、っていうことがありえるとするなら、それは歴史の偉大さであると思う。

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「カラマーゾフの兄弟」における大審問官とはなにか?  簡単に説明します。

「大審問官」はカラマーゾフの兄弟、次男と三男、イワンとアリョーシャの会話から始まる。
神の創った世界を認めるかどうかというこということについての話。

イワンは認めないと言う。なぜなら多くの子供達が虐げられているから。神がが与えたもうたこの世界の秩序に犠牲が必要だというのなら、少なくとも無垢な子供達はこの犠牲から排除されていなくてはいけない。にもかかわらず現状はどうだろうか。最近の新聞にこのような話があるとイワンは言う。


「真冬の寒い日に5つの女の子を一晩中便所に閉じ込めたんだよ。それも女の子が夜中にうんちを知らせなかったという理由でね。それも実の母親がだよ。真っ暗な寒い便所の中で、悲しみに張り裂けそうな胸をちっぽな拳で叩き、血をしぼるような涙を恨みもなしにおとなしく流しながら、神様に守ってくださいと泣いて頼んでいるというのに。いったい何のためにこんなバカな話が必要なのか」


この意見に対してアリョーシャは

「キリストの犠牲によってすべては許される」

と答える。
この答えに対して、イワンは自分の創った「大審問官」という叙事詩を語る。

「大審問官」

場面は15世紀スペインのセヴィリア、異端審問の最も激しい時代。そこにキリストが降り立つ。人々はそれがキリストだとわかってキリストの周りに集まりだす。厳しい異端審問によって秩序を維持するセヴィリアにとって、これは秩序の危機だ。枢機卿である大審問官はキリストを捕らえて牢獄に閉じ込める。そして大審問官は夜中、キリストをを訪れて、自らの告白をする。
この大審問官の告白の何を重要視するかで、「大審問官」の意味というのは変わってくるとは思うのだけれど、私が重要だと思うところのその告白を要約する。

人間はキリストによって自由を与えられた。しかし人間は何が善で何が悪であるかという選択の自由の重みに耐えられない。キリストの自由では秩序が保てない。ここセヴィリアではキリストの代わりに我々が市民のために善悪を判断してやっている。三つの力によって、すなわち奇跡と神秘と権威。だから愛などという雲をつかむようなお前の言説はここセヴィリアでは必要ない。

この要約は私なりの要約で、ここは本当は原文を読んでもらった方がいいとは思う。

幼児虐待の話から何故秩序の維持の話になるのか。さらに言えば、この世界はかろうじてとはいえ何故秩序が維持されているのか。秩序維持の根源たる奇跡と神秘と権威とはなんなのか。

この世界の秩序の根源は何かという話。

人間世界はなんらかの秩序体系によって、その社会性が維持されている。この人間世界の秩序体系は、何らかの確固としたものによって保障されているのか、それとも合理的秩序体系であれば何でもいいというレベルのものなのか。

イワンは「保障されていない」と考える。世界と人間秩序がつながっているとするなら、この世界で罪のない子供たちが虐げられるなんていうことはありえない、と主張する。これに対してアリョーシャは、人間秩序には不都合な個別現象があるけれど、キリストの存在によってそれらは贖罪されるという。

このアリョーシャの意見に対する再反論が大審問官の物語だ。

キリストというのは、神もしくは世界と個々の人間との繋がりを保障しているものであって、個々の人間同士の繋がりを保障するものではない。親が偉大だからといって、兄弟同士が仲良くするというものでもない。人間社会の秩序の起源というものは、神と人間なんていう高尚なものではなく、もっと卑近な必要に迫られた結果みたいなものである。
大審問官は15世紀のセヴィリアで、放っておけばバラバラになってしまうような人間集団を、異端審問という過激な手段でかろうじて一つにまとめているという。これは大審問官の罪ではなく功績だということだ。大審問官も状況が許せば異端審問などという手段ではなく、もっと緩やかな、例えば民主主義とか憲法体制などで民衆を統合するということもありえる。

このように大審問官の物語とは、西洋の大哲学者が語ろうとした、この近代世界とはなんなのかという巨大な問いの、一つの出発点であると思う。


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誰もが何かに寄りかかって生きている。出た大学とか、勤めている会社とか、ネトウヨの場合は日本ということになる。だけど子供時代というのは、何に寄りかかるべきなのか判然としない時期で、だからこそあの時は濃密な時間が流れていたということはあると思う。

ドミートリーは酒場で酔っ払って、スネギリョフっていうオヤジに因縁をつけた。相手のあごひげを引っつかんで、酒場の外まで引きずり出した。そこに学校帰りのスネギリョフの息子が通りかかった。その子は9歳。
スネギリョフの回想。

「あの子は手前のそんなざまを見るなり、とんできて、「パパ、パパ」と叫びながら、しがみつき、抱きついて、手前を引き離そうとしたり、手前を痛めつけている相手に「放して、放してあげて、これは僕のパパなんです」と叫んだりいたしましてね。「赦してちょうだいよ」と言うなり、ちっちゃな手でお兄さまにすがりつくと、ほかならぬお兄さまの手に接吻するじゃございませんか」

スネギリョフの息子はこのこと以来、学校で馬鹿にされるようになる。親父のあだ名が「へちま」になって、へちまの息子って言われる。
これはきつい。
小さいながらも彼は父親の名誉を守るためにクラスの中で孤立してしまう。

ドミートリーの弟のアリョーシャがスネギリョフの家に、200ルーブル持って謝りに行く。そのときのスネギリョフの発言。

「軽蔑されてはいても高潔な心を失わぬ貧乏人の子供というものは、生まれて9年かそこらで、この世の真実を知るんでごさんすね。うちのイリュージャは広場でお兄さまの手に接吻したあの瞬間、まさにあの一瞬に真理をすっかり究めつくしてしまいましたんです。そしてその真理があの子の心に入り込み、あの子を永久にたたきのめしたんでございます」

イリュージャという男の子は寄りかかるもののない虚空のなかを真っ直ぐに堕落して、生々しい真理に到達した。これがスネギリョフの言葉の迫力を生む。この迫力には、何かに寄りかかっているものどうしがいくら会話を積み重ねでも、決して到達することはできない。

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カラマーゾフの兄弟は3兄弟。全部男で、上からドミートリー、イワン、アリョーシャ。
この長男ドミートリーがアリョーシャに対してこのような告白をする。

「どうせ奈落に落ちるんなら、いっそまっしぐらに、頭からまっさかさまにとびこむほうがいい、まさにそういう屈辱的な状態で堕落するのこそ本望だ、それをおのれにとっての美と見なすような人間だからなんだ。ほかならぬそうした恥辱の中で、突然俺は讃歌をうたいはじめる。呪われたってかまわない、ただそんな俺にも神のまとっている衣の裾に接吻させて欲しいんだ」

これは坂口安吾だ。

センセイはまだとらわれているんだ。オレみたいな才能のないやつが何を分かったってダメなんだ。センセイに分かってもらって、そしてそれを書いてもらいたいんだ。旅にでれば必ず分かる、人間のふるさとがね。オヤジもオフクロもウソなんだ。そんなケチなもんじゃないんだ。人間にはふるさとがあるんだ。そしてセンセイもそれがきっと見える

同じことを言っていると思う。

ドミートリーは真実の大地に降り立つために、わざと卑劣漢になろうということ。
ドミートリーが軍隊にいた頃、その上官、中佐の娘というのが評判の美人だった。名前はカテリーナ。ドミートリーは隊でも有名なあそび人で、軍隊内での鼻つまみ者。父親のフョードルからせしめた金で当時は金回りもよかった。カテリーナに

「俺はいつでもお前のために金を用意できる」

なんてモーションをかけていた。カテリーナはもちろんムシ。
中佐は軍の資金4000ルーブルを預かっていた。金利をかせごうと堅実な商人にその金を回していたのだが、それが全く焦げ付いてしまった。追い詰められた中佐は自殺未遂までしてしまう。娘のカテリーナは父親をみかねて、ドミートリーの部屋に金を借りに来た。

さてどうするか?

「4000ルーブルですって? いやあれはちょいと冗談を言っただけでさ。それをあなたは、あんまり人がよすぎやしませんか、お嬢さん。無駄なご心配をなさいましたな」

といって追い返すというのも魅力的だ。この構想のいいところは、カテリーナの女性としての魅力を無視することによってカテリーナ自身も傷つけることができるという点だ。
ドミートリーは3秒も5秒もカテリーナをじっと見つめた後、もう一つの選択肢を選んだ。

「ふりかえって、テーブルのところに行くと、引き出しを開けて、4000ルーブルの無記名債権をとりだした。それから無言のまま彼女にそれを見せて、二つ折りにし、玄関へ通ずるドアをじぶんで空けてやって、一歩しりぞき、この上なく丁寧な、まごころのこもった最敬礼をしてやった」

そもそも美人であるということにアグラをかいている女性は多い。物心ついたころからちやほやされているんだろう、ふざけきった態度の女というのはいる。どうすればこのような女に
「おまえはツラの皮一枚でただ勘違いした世界を生きているだけなんだよ」
なんていうことを悟らせることが出来るか。
ドミートリーはこんな女に一発かましてくれたわけです。これは美人をちやほやする男社会からの堕落ということだね。

ドミートリーとはこんなヤツです。


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「カラマーゾフの兄弟」を最初に読んだのは、もう30年も昔、16歳の時。その圧倒的なリアリズムに驚嘆した記憶がある。そして私の短くない読書人生の中で、「カラマーゾフの兄弟」以上の本に出会ってはいない。この本の一体何がすごいのか? その辺のところを今日から何回かに分けて書いていこうと思う。

ゾシマ長老に対するある貴婦人の発言

「来世信仰なんていうものは、それは全て最初は恐ろしい自然現象に対する恐怖から起こったもので、そんなものは全然ないのだ、などと説く方もおられますわね。いったい何によって、来世を証明できるのでしょう。あたくし、あなたの前にひれ伏して、その回答をお願いするために、今こうして参ったのでございます」

この貴婦人の問に対する、ゾシマ長老の回答

「証明は出来ませんが、確信は出来ます。実効的な愛を積むことによってです。やがて完全な自己犠牲の境地にまで到達されたなら、その時こそ疑うことなく信ずるようになるのです」

この問答は結局、人間の認識と現実世界はどのように一致するのかという問いに、世界を丸ごと自分の中に受け入れることによってその二つは一致するという、ロマン主義的問答といえるだろう。現代においても有力な一つの回答だと思う。スマートな生き方だ。人間の認識を制限されたものであると宣言する人は信用されやすい。大きい意味で空気を読んでいるということにもなるだろう。

これに対して、空気を読まないという選択肢もありえる。カラマーゾフ3兄弟の父親、フョードル.カラマーゾフなる人物は馬鹿ではないくせに空気を読まないという特別設定の人間だ。上品さよりも誠意を優先すると宣言して、場所柄をわきまえず本当の事を言ってしまう。
修道院内のゾシマ長老を囲む会合で、フョードルはこんなことを言ってしまう。

「あの女は若いころ、環境にむしばまれて身をもちくずしたかもしれないけど、でも数多く/愛しました/からね、数多く愛した女はキリストもお許しになったではありませんか。神父さん、あんたがたはここでキャベツなんぞで行いすまして、自分達こそ敬虔な信徒だと思ってらっしゃる。一日一匹ずつウグイを食べて、ウグイで神様が買えるとおもっているんだ!」

せっかくゾシマ長老がロマン主義で世界を収束させようとしていたのに、もうめちゃくちゃだ。フョードルは要所要所でこれをやる。

「カラマーゾフの兄弟」とは収束する物語ではなく、収束を拒否する物語だ。そしてこの現実世界において、収束する現実なんていうものがあるだろうか? ある人間が自分の思ったとおりの人間に収束するということがあるのだろうか? 

拡散する物語「カラマーゾフの兄弟」。


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ニーチェの「権力への意思」は、ニーチェの死後にその遺稿をニーチェの妹がまとめたもの。このニーチェの妹、エリザベートというのだけれど、後世の評判があまりよくなくて、それに伴って「権力への意思」という本の評価も低めだ。

しかし実際読んでみての内容は素晴らしい。



【「権力への意思」解説】

ニーチェが難解だとされるのは、言っていることが難しいというのではなく、まあ何というか、誰もが持っている固定観念を、誰もが相対化できないからだと思う。


人間というのは、それなくしては生存できないような観念を、普遍的真理だと思い込む習性がある。例えば、潔癖症の人が手を洗ってばかりいたとする。正常とされる人は、そのような人を不思議に思う。そんな手が荒れるまで洗う必要もないのにと。しかし、潔癖症の人にとって、手を洗うことが自分の生存を保障すると確信していたとするなら、その人にとって手を洗うことは真理となるだろう。

キリスト教などのような一神教の宗教を信じる人は多い。キリスト教を信じなければ、社会の一体性や秩序が保てないとするなら、その社会においてキリスト教は真理となるだろう。

原因と結果が転倒している。もう一発いこう。

1という数は1だ。1が1ではないなどということはありえない、と普通考える。しかし、1がいつでもどこでも1であるということは、いったい何によって保障されているんだ? 

何によっても保障されてはいない。

人間個人にとって、その自己同一性と、1がいつでもどこでも1であるということはリンクしている。1=1というのは、何らかの真理何らかの原因というものではなく、社会がその維持のために個人に要請している自己同一性というものの結果なんだよね。

このような考え方が正しいとか正しくないとか、そのような判断はおいといてだよ、この予備知識をもってニーチェを読んでみる。

「権力への意思」484

「思考作用がある、したがって思考するものがある、デカルトの論拠は結局こういうことになる。しかしこのことは、実体概念に対する私たちの信仰を当たり前のものとして設定することに他ならない。デカルトのやりかたは、達せられるのは何か絶対に確実なものではなく、一つのきわめて強い信仰の事実にすぎない。このデカルトの形式においてでは思想の仮象性を退けることはできない」

デカルトの「我思うゆえに我あり」というやつ。ニーチェは、これを当たり前ではないと言う。「我思うゆえに我あり」と認識するためには、認識主体に何らかの一体性がなくてはいけない。しかし、この一体性というものはあたりまえではない。

「我思うゆえに我あり」という言説は、正確に語るなら、「我思うゆえに我あり」と認識できる程度の自己同一性を、近代世界に参加する人なら備えておくべきだ、という価値判断なんだよね。

ではなぜ私たちは、たんなる価値判断を真理だと思ってしまうのか。

それは社会的要請だろう。近代という厳しい時代では、社会秩序を維持するために個人の自己同一性というのが、かつての時代よりもより必要とされているということだろう。

田舎の話なんだけれど、今から40年ぐらい前は、頭のおかしい人というのは案外その辺をふらふらしていて、地域の人もひどく悪いことをしないのなら、まあしょうがないよね、みたいな雰囲気があった。福沢諭吉の「福翁自伝」のなかに、村の中をふらふらするキグルイ女の話があった。「カラマーゾフの兄弟」でのスメルジャコフの母親は、村のキグルイ浮浪女だった。

現代ではもうありえない。

かつて個人の自己同一性というのは、あればよりいいという程度の価値判断だったのだろう。ところが現代では、自己同一性の価値が高まって、ほとんど真理のような扱いだ。自己同一性のあやしげなやつは、とりあえず排除の勢いだ。

いいとか悪いとかいう物ではないのだけれど、単なる価値判断が真理かのように語られるということはある。ニーチェは、真理だと思われているあらゆるものは、単なる価値判断だ、というのだけれど。

近代教育は、近代人にふさわしい知識を与えるところの教育であり、発展途上国なんかは、教育制度が整備されていないからいつまでも途上国であると考えられたりする。現代日本においても、教育、啓蒙というものには、かなりの価値比重が与えられている。

しかし、この現代教育における啓蒙の比重というのは、はたしてふさわしいものなのだろうか? 

精神科医の木村敏による、人間の存在構造についての仮説。

3層に分かれている、というもの。最下層は外界と直接接するところの、生存本能や情動が支配する世界。これは全ての生物に存在する。

第2層は、その種に特有の価値判断によって、情報がカテゴリー化されている世界。これは、犬や牛や馬にも存在する。牛は馬には興味が全くないらしいが、牛同士は興味が存在するらしい、見つめあったりするし。価値の差異というのが存在するのだろう。

人間の最上層は論理の世界。合理的推論が支配する。

人間の存在構造とは、最下層からエネルギーを調達しながら、第2層と最上層との情報の循環が、人格というものを形成するという。

精神疾患を図式的に理解するなら、最下層からのエネルギーの調達が弱いと、分裂病になり、第2層と最上層との接続が弱いと境界例になり、第2層の形成が弱いと離人症になるという。

例えばこのような仮説があるとして、教育的啓蒙というのは、最上層の論理世界にしか影響を及ぼせないわけで、啓蒙と言うだけでは人格の十全な形成には不十分だということになる。啓蒙が無条件に真理だということはありえないわけだ。

職場とかにおかしいヤツっていると思うんだよね。話が通じないみたいな。

なぜ話が通じないのか? 可能性は2つある。

おかしいヤツの人間存在構造の最上層以下のどこかの部分がいかれているか、もしくは、自分自身の存在構造のどこかがいかれているか。

現代においては、何が普遍的観念なのか、かつてに比べて怪しくなってきている。さまざまな意見の百家争鳴がこの自由世界のいいところだという意見もあるだろうが、それは社会の一体性というものの犠牲の上に成り立つ論理となってしまった。

ニーチェはこのようにぐらついた世界観を一掃して、新しい秩序を形成しようとしていたのだろう。すなわち、ニーチェ哲学には二つの柱がある。全ての価値観を相対化するということ、相対化された世界に新しい価値世界を形成するということ。

全ての価値観を相対化するということについては、よく語られる。ポストモダニズムのネタ元というのはだいたいにおいてニーチェだ。フーコー柄谷行人も、ニーチェのパクリだと言われてもしょうがない部分がある。

「相対化された世界に新しい価値世界を形成するということ」

ニーチェのこの部分については、あまり語られない。だからここで、「権力への意思」の第4書「訓育と育成」のなかから、ニーチェの構想を紹介してみたい。

ニーチェの構想は2つあると思ったね。一つ目。「権力への意思」898にこのようにある。

「この平均化された種は、それが達成されるやいなや、是認されることを要する。それは、主権をにぎる高級種に奉仕しているのであって、この高級種は、それを地盤としており、それを地盤としてはじめておのれの課題へと高まることができるからである。彼らは、その課題が統治することにつきる君主種族であるのみならず、おのれ独自の生活圏をもっている種族であり、美、勇気、文化、最も精神的なものにまでおよぶ手法のための力をあり余るほどもっている種族である」

高級種と枠組みを区切っているあたり、生活圏という言葉から、ナチス思想の起源であることは明らかだろう。一つの考え方ではあると思うけれども、いうなれば覇道だね。

では、二つ目。「権力への意思」980

「価値評価の立法者である哲学者。哲学者を、偉大な教師であり、孤独の高所からいく世代かの長い連鎖をおのれのところへと引き上げるほど強力であると考えるなら、その人は哲学者に偉大な教育者の不気味な特権を認めなければならない。教育者というものは、おのれ自身が考えていることをけっして言わない。そうではなくて、つねにただ、彼が教育するものの利益を考慮しながら、ある事柄について考えていることを言うにすぎない。このように偽装するので彼の本心は推測を許さず、彼の真実性が信ぜられるということは彼の名人芸に属する。  そのような教育者は善悪の彼岸にいる。しかし誰一人としてこのことを知ってはならない」

王道だ。しかし、これほど難しい道はない。ニーチェでさえ、さらにいえば、ニーチェ程度ではこの「王道の書」を記すことはできなかった。

私は思うのだけれど、古代と近代って似ているところがあるよね。普遍観念で広範な地域で社会の秩序を維持しようとするところ。プラトン哲学って、いうなれば覇道だよね。枠組みを区切ってその中で観念世界を形成しようとする。その考えはローマ帝国に引き継がれて、ローマ帝国は最後は滅び、そして二度と復活しなかった。

ギリシャ哲学の覇道なるが所以だろう。

現代の日本も含めての西洋文明というのが、まあ何百年後かに滅びたとして、かつてのように中世に移行したとして、おそらくローマ帝国末期のように悲惨なことになるだろう。

アウグスティヌスはアッティラのことを神の鞭と表現していた。

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