magaminの雑記ブログ

カテゴリ: 外国文学

魯迅の「狂人日記」は、主人公が美しい月を見ることによって狂い始めるところから始まります。

「狂人日記」の冒頭。

「今夜は大層、月の色がいい。
俺は三十年あまりも月を見ずにいたんだが、今夜見ると気分が殊ことの外ほかサッパリして、前の三十何年間は全く夢中であったことを初めて知った」

これまでの人生が夢の中であり、月を見た後のサッパリした自分が正常であると考えてしまったのですが、周りの人から見るとこれが逆で、主人公は美しい月を見た後に狂気に取りつかれはじめます。

美しい月を見て狂気に沈むというのは近代文学の一つのテーマで、スティーブンソンの「ジキル博士とハイド氏」などはあからさまなのですが、梶井基次郎の「Kの昇天」とか、鬼束ちひろ「月光」の歌詞とか、月に照らされ狂気に沈む人を表現している感じです。



なぜ月に照らされると狂気に沈むのか? 


例えば自分が正しいと思って行動したのに他人に批判された場合、不安になったりすることは誰にでもあることでしょう。このような時には信頼できる人に相談するというのが安定感のある対処法でしょう。自分と世界との折り合いを再調整するというやり方です。

そして狂気とは何か?

再調整のような折り合いをすべて拒否して、世界が間違っていて自分が正しいと考えてしまい、さらに自分が正しいと確信した観念で世界を整合的に説明しようとすること。

狂気と正気の区別が難しいのは、ごくまれに世界が間違っていて個人が正しいということがあり得るということです。
例えば、高杉晋作は農民が戦う奇兵隊という、当時の武士にしてみれば狂気の戦法を編み出したのですが、実際には上級武士よりも勤労農民のほうが戦う気概にあふれているという新しい世界が立ち現れました。

世界が間違っていて高杉晋作個人が正しいということがあり得るのです。

光に照らされて、人は正しい世界に目覚めるということはありえます。

近代の歴史とはまさにそれ。

人は強い光を浴びて、人間は動物とは異なるということを確信する。
人は強い光を浴びて、人間は進歩する世界に存在していることを確信する。
人は強い光を浴びて、人間は自分が自分であるということを確信する。

ここで魯迅の「狂人日記」に戻るのですが、

「狂人日記」の語り手は、月の光という弱い光を浴びて、人間は人間を食べるということを確信します。

「狂人日記」の語り手にとって、自分では理解できないようなことが次々に起こります。

趙家の犬めが何だって奇怪な眼で俺を見る。
往来の人は皆、どれもこれも頭や耳をくっつけて俺の噂をしている。俺に見られるのを恐れている、そんな風だ。
きのう往来で逢った気狂い女にじっと見詰められて「わたしゃお前に二つ三つ咬かみついてやらなければ気が済まない」と言われた。

自分にとって理解できない出来事が次々起こってしまうのは、自分が世界の根拠を形作っているような根拠を理解していないからというという場所に導かれていきます、
月の光によって。

強い光なら人を正しい場所に導いてくれもするでしょうが、なんせ導くのは月の光ですから。

弱い光に導かれた「狂人日記」の主人公は、人が自分を食べようとしているというカニバリズムの論理を確信してしまいます。

人が人を食べるというのは本にも書かれているという。

「易牙(えきが)が彼の子供を蒸して桀紂(けつちゅう)に食わせたのはずっと昔のことで誰だってよくわからぬが、天地が開かれて以来、ずっと易牙の時代まで子供を食い続け、易牙の子からずっと狼村で捕まった男までずっと食い続けて来たのかもしれない。去年も城内で犯人が殺されると、肺病病みの人が彼の血を饅頭にひたして食った」

まず、易牙(えきが)というのは春秋時代の斉という国の桓公という王様の料理人で、自分の子供を蒸して食通の桓公に差し出したという中国史上最大のごますりやです。
桀紂(けつちゅう)の桀とは夏の暴君、紂とは殷の暴君です。
易牙(えきが)と桀紂(けつちゅう)は全然時代が異なります。

月の光の下で、強い光の中で書かれた歴史が混濁しています。

世界には秘密があって、その秘密を理解していないことが自分が世界を理解できない理由であり、世界が自分に隠している秘密とは、
「人が人を食べている」
という確信になります。

五歳で死んだ妹も、人に食べられるためだったということになってしまいます。

「あの時妹はようやく五歳になったばかり、そのいじらしい可愛らしい様子は今も眼の前にある。兄がが家政のキリモリしていた時に、ちょうど妹が死んだ。彼はそっとお菜の中に交ぜて、わたしどもに食わせた事がないとも限らん」

狂人は狂った確信を捨てることができません。狂っているとはいえ、その確信こそが自らの生存の根拠となっていますから。

魯迅の「狂人日記」が書かれたのは1918年です。清王朝が倒れて、中国が近代というものに飛び込もうかという時代です。新時代に飛び込んだ後に中国を待つものは、新世界であるのか狂気であるのかを、この「狂人日記」で魯迅は問うているのだろう思います。

「狂人日記」はこのように終わります。

「人を食わずにいる子供は、あるいはいるかもしれない。救え。子供を救え」

魯迅は、さすが中国近代文学の元祖だけあって、並みの作家とは迫力が桁違いですね。



プラトンの洞窟の比喩の意味を簡単に解説すると、

「より合理的な考え方をしましょう」

みたいなことになります。





【洞窟の比喩とは】


ウィキペディアには、

「洞窟に住む縛られた人々が見ているのは「実体」の「影」であるが、それを実体だと思い込んでいる[1]。「実体」を運んで行く人々の声が洞窟の奥に反響して、この思い込みは確信に変わる。同じように、われわれが現実に見ているものは、イデアの「影」に過ぎないとプラトンは考える」

とあります。
知らずに縛られてしまった人は実体と影を区別することができず、与えられた影を実体と勘違いしてしまうことになるだろうということです。

簡単に考えてしまうと、自分の理解している世界は実体で、気に入らないあいつが理解している世界は影だ、みたいなことになってしまいます。
よくあるのは、韓国の考えている歴史は嘘を教えられた影の歴史であって、日本人である自分の理解する歴史こそが実体である、みたいなことです。

プラトンが語る「洞窟の比喩」というのは、実体と影との二元論ではないです。今いる環境が影だと思って実体の世界に飛び出してみたら、じつはそこも影の世界だったということがありうる、ということが、「洞窟の比喩」の話の中には含まれています。そのように考えないと、プラトンの「国家」という本の中に「洞窟の比喩」が存在する理由が分からなくなってしまいます。

「洞窟の比喩」とは、人間は影の濃い世界から、より実態のある世界へと移行し続けなくてはならないという、知性の決意表明みたいなものだと判断するべきです。


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【夢と現実の差とは】

影を夢、実体を現実、と当てはめてみます。

夢と現実というのは大体は区別のつくものなのでしょうが、厳密に夢と現実の何が違うのかと問われると、ちょっと難しいものがあります。

中国古代の「荘子」のなかに胡蝶の夢というのがあります。書き下し文で書くと、

昔者荘周夢に胡蝶と為る。栩然として胡蝶なり。
自ら喩しみて志に適えるかな。周たるを知らざるなり。 俄然として覚むれば、則ち蘧々然として周なり。
知らず、周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるかを。

とあります。
夢で蝶であるのなら、みじめな現実の自分より蝶である方がましなのではないのか、という含意があると思います。蝶である方がましだと思った瞬間に、夢と現実との区切りが重要ではなくなってくるわけです。

プラトンは「胡蝶の夢」のような、幸福感というか堕落というか、そのような考えを断固拒否するわけです。夢と現実との差というのは、プラトン的に考えれば、より大きくより整合性の高い世界観を上位に置くことによって判断されるべきだ、ということになるでしょう。

【プラトン的世界観の結果】

より大きくより整合性の高い世界観を求めるプラトン的思考は、最後はローマ帝国という巨大な歴史的帝国に結実します。より大きくより整合性の高い社会がより実体的であるとするなら、当時のヨーロッパ地域においてローマ帝国こそが正義の世界であるということになります。少なくても、紀元前後にヨーロッパ地域に暮らしていた人々はローマ帝国こそがより正義を含意していると考えていたでしょう。

中国も同じです。
「荘子」の胡蝶の夢的世界を孔子や孟子の儒家や韓非子などの法家は拒否して、より巨大でより整合性の高い社会こそが実体であるという儒家や法家の考えが主流になります。より巨大な整合性への希求が、秦をへて大漢帝国へと結実します。

【洞窟の比喩の現代的意味】

長い時間の中で大漢帝国やローマ帝国は現れています。
ですから、どちらが影でどちらが実体であるか、というのは長い時間の中で判明してくることがあり得ます。戦前、日本は中国を侵略したということになっています。私は侵略の事実を否定するものではありませんが、当時の日本人には、
「中国がいくら図体がでかいといっても、あんな黄昏の帝国の後に付いていっていたのでは、日本まで西洋の植民地になってしまうだろう。こうなったら、中国を切り従えて日本がアジアの盟主となって西洋と対決するべきだ」
という考えがあっても不思議ではない状況でした。

あれから100年、現状はどうなっているでしょうか。

まさに日本こそが黄昏の帝国。100年前、中国こそが影であると思われていたのですが、冷戦崩壊以降に中国は西洋に猛烈な勢いでキャッチアップしています。

これは中国が蘇ったというより、中国があるべき世界史的地位に復帰しつつあると考えることもできるでしょう。100年前の中国は、影の中に実体を潜めていたわけです。

何が影で何が実体であるかというのは、短い時間軸の中では簡単には知ることは出来ないのです。

【洞窟の比喩再び】

プラトンは洞窟の比喩を「国家」という本の中で語っています。洞窟の比喩とは、国家のような巨大な枠組みの中で語られてこそ意味がある、とプラトンは考えているのでしょう。

「国家」という本は、正義とは何か、という議論から始まります。
正義が何かから与えられるのであれば話は終わりです。私たちはアポロンの神々の言うことに従いましょう、ということになります。

しかしプラトンは、正義ほどの大切な観念は、その根拠を自らの中に持つべきだ、と考えて論理を展開します。
大切な観念は根拠を自らの中に持つべきだ、という思想の中に、より巨大で整合性の高い思想、社会体制、哲学こそが必要だ、という思考パターンが潜んでいます。
ですから「洞窟の比喩」は
単独で理解するべきものではなく、より巨大な歴史の中で理解するべきものでしょう。

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ニーチェの「曙光」には、小言説が575ある。これらは別に体系になっているわけではなく、ニーチェの様々な思いつきの断片みたいなもので、全てを理解できるなどという構造にはなっていない。



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150年前のドイツの価値観の相対化を目指す言説群であるから、理解できない言説部分があってもしょうがないとは思う。一番いいのは、多くの人が智恵を持ち寄って、ニーチェの言説の理解できる部分をそれぞれが競いながら分かりやすく提示するということだと思うけれど、なかなか難しいかな。
  
「曙光」の575の言説では、私にとって理解しやすいものもあれば、全く意味不明のものもある。そこて゛、私がギリギリで理解できたニーチェ「曙光」の言説を解説する。   

「曙光 188 陶酔と養育」   

この言説は、「民衆というものはひどく欺かれる。彼らはいつも欺くものを、つまりその感覚を興奮させる酒を求めるからである」 とはじまる。現代アメリカのトランプなんていうのもそうだけれども、ドイツではナチスという強力な雄蜂があらわれた。民衆は欺かれたと言えるけれども、民衆が強い酒を求めた結果とも言えるだろう。  
                     
ポピュリズム。
   
何故このような結果になってしまったのか。ニーチェは意外にもこのように言う。 

「養育よりも陶酔が重要であると考えるこの俗衆的な趣味は、決して俗衆の胸の奥で起こったものではない」   

ではポピュリズムという堕落はどこから来たのか?  

ニーチェはこのように言う。  

「それはむしろ、そこに選ばれそこに植え付けられ、そしてそこでか辛うじて残り、そして豊かに芽を出したのである。それは最高の知性の持ち主たちにその起源をもち、何千年も長く彼らの間で花盛りであったのであるが、民衆は、この立派な雑草がなおも繁茂することの出来る最後の未開地である」 

 ニーチェの言う何千年前かの最高の知性とは、まあはっきり言えばプラトンのことだろう。ニーチェの皮肉だね。プラトンの強力な言説が、何千年かの時を経て近代ヨーロッパ世界をここまで持ち上げたとするならどうだろう。西洋は全くの無から、世界を圧倒したところの近代以降のあの力を得たわけではないだろう?  
ニーチェのその言説を、私なりの言葉を押し込んで再現してみる。 

プラトンにによって選ばれ植えつけられ、そしてヨーロッパ中世の間に辛うじて残り、そして近代において西洋文明はその芽をだした。そして民衆の陶酔とは、その文明の最後の段階で繁茂するものである」  

はるか古代、プラトンの渾身の言説が、何千年かの時を経て、世界を持ち上げ一つの文明をつくる。ニーチェはそれを相対化して、文明の衰退を予言する。  

すばらしい。



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洞窟の比喩とは簡単に言うと、仮象の世界と真実の世界とがあるのなら、人は仮象の世界から真実の世界へ移行するように努力するべきだ、ということを洞窟に閉じ込められた人々を例として述べたものだ。
映画「マトリックス」みたいな話。

ここで大事なのは、仮象の世界と真実の世界とをどのように区別するのか、ということだ。これ、じつは簡単ではない。この今、生きている世界が仮象なのか真実なのか、下手なことを言うと、精神病あつかいされたりするし。

夢と現実との区別というのは難しくて、厳密に二つを区別するという事は原理的にできない。
だからプラトンは、洞窟の中と外という極端な比喩を用いて、夢と現実の区別をつけようとした。

すなわち、より巨大でより整合性の高い世界観を「現実」だとプラトンは洞窟の比喩によって示したことになる。

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結論から言うと、ツァラトゥストラにおける永劫回帰とは、終わらない祭りの論理だね。
神が死んだというのも、祭りになれば神は祭り上げられてしまうからだろう。





ツァラトゥストラはちょいちょい歌ったり踊ったりする。さらにこのようなことまで言う。


「戦争や祭りを喜ばなければならない。陰気な人間や、夢見るハンスはいらない。どんなに困難なことにも、自分の祭りのように喜んで取り組まなければならない」

ツァラトゥストラは祭り好きなんだろう。

ニーチェはあらゆる価値観の相対化というものを呼号したけれども、このことと祭りというのは関係性がある。

祭りにおいては、既存の価値観というのは軽くなってしまう。秩序と祝祭とは相容れない。近代以降、秩序体制が強化された日本において祭りは強力に管理されている。何かのきっかけで渋谷のスクランブル交差点に若者が集まったりすると、すかさず大量の警官が動員される。

江戸末期の、ええじゃないか、も祭りが止まらなくなったものだろう。明治政府が最初に行った施政は祭りの規制だった。

ニーチェは価値観を相対化した結果祭りに言及したというより、ニーチェ自身がそもそも祭り好きなんじゃないのかな。永遠の祭りを期待した結果、あらゆる価値観の相対化を発見したのではないだろうか。

ツァラトゥストラはキリスト教を辛気臭いといってさんざん攻撃しているわけで、これはよっぽどの祭り好きだと推測される。

ニーチェの思想に永劫回帰というのがある。長い時間の枠組みの中では、同じ瞬間が繰り返されるであろうという。一度でも繰り返されれば、永遠の時間の中で何度でもその瞬間は繰り返されるだろうという。

終わらない祭りの論理だね。

近代における時間の観念というのは、永遠の過去もしくは過去のある始点から、永遠の未来もしくは未来のある終点まで、時間が一直線に続くというものだ。ビッグバン以前の宇宙はどうなっていたのかという疑問があるとして、私たちはこれを当然の疑問だと考える。しかしビッグバンという想定自体が、時間は一直線に続くはずだという想定の結果ではないだろうか。そしてさらにビッグバン以前という観念は、時間は一直線に続くはずだという想定の結果ではないだろうか。

ニーチェはこのような近代的時間観念のアンチテーゼとして、永劫回帰というものを提唱したのではないかと思う。

時間感覚というのは、世界観というものの基本観念であって、ニーチェは近代的世界観の基本観念である直線的時間観念というものを相対化しようとして、永劫回帰という時間観念をぶっこんできたのだと思う。

終わらない祭り、永遠に続く祝祭、そういう世界もなくはないと思う。新しい世界観には新しい時間感覚が必要だということだろう。


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「カラマーゾフの兄弟」あらすじ 大審問官からネタバレ犯人と結末までを、各章に至るまで詳細に語ります。

目次


【登場人物紹介】
【第1.2編 場違いな会合】
【第3篇 好色な男たち】
【第4編 病的な興奮】
【第5編 大審問官】
【第6編 ロシアの修道僧】
【第8篇 ミーチャ】
【第9編 予審】
【第10篇 少年たち】
【第11篇 兄イワン】
【最終第12編 誤審】
【エピローグ】


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【登場人物紹介】


カラマーゾフ3兄弟

長男 ドミートリー
性格 破天荒

次男 イワン
性格 インテリ

三男 アリョーシャ(主人公)
性格 いいやつ 

ドミートリーには二人の彼女がいて

カチェリーナ・イワーノヴナ(お嬢様)

グルーシェンカ      (水商売系)

カラマーゾフ3兄弟の父親
フョードル

カラマーゾフ家の下僕の息子、実はカラマーゾフ3兄弟の腹違いの弟

スメルジャコフ

主要登場人物はこれぐらいです。


【第1.2編 場違いな会合】

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【第3篇 好色な男たち】

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【第5編 大審問官】


まず大審問官とはなにか? 簡単に説明します。

「大審問官」はカラマーゾフの兄弟、次男と三男、イワンとアリョーシャの会話から始まる。
神の創った世界を認めるかどうかというこということについての話。
イワンは認めないと言うんだよね。なぜなら多くの子供達が虐げられているから。神が与えたもうたこの世界の秩序に犠牲が必要だというのなら、少なくとも無垢な子供達はこの犠牲から排除されていなくてはいけない。にもかかわらず現状はどうだろうか。最近の新聞にこのような話があるとイワンは言う。
「真冬の寒い日に5つの女の子を一晩中便所に閉じ込めたんだよ。それも女の子が夜中にうんちを知らせなかったという理由でね。それも実の母親がだよ。真っ暗な寒い便所の中で、悲しみに張り裂けそうな胸をちっぽな拳で叩き、血をしぼるような涙を恨みもなしにおとなしく流しながら、神様に守ってくださいと泣いて頼んでいるというのに。いったい何のためにこんなバカな話が必要なのか」
この意見に対してアリョーシャは
「キリストの犠牲によってすべては許される」
と答える。
この答えに対して、イワンは自分の創った「大審問官」という叙事詩を語る。

「大審問官」
場面は15世紀スペインのセヴィリア、異端審問の最も激しい時代。そこにキリストが降り立つ。人々はそれがキリストだとわかってキリストの周りに集まりだす。厳しい異端審問によって秩序を維持するセヴィリアにとって、これは秩序の危機だ。枢機卿である大審問官はキリストを捕らえて牢獄に閉じ込める。そして大審問官は夜中、キリストをを訪れて、自らの告白をする。
この大審問官の告白の何を重要視するかで、「大審問官」の意味というのは変わってくるとは思うのだけれど、私が重要だと思うところのその告白を要約する。

人間はキリストによって自由を与えられた。しかし人間は何が善で何が悪であるかという選択の自由の重みに耐えられない。キリストの自由では秩序が保てない。ここセヴィリアではキリストの代わりに我々が市民のために善悪を判断してやっている。三つの力によって、すなわち奇跡と神秘と権威。だから愛などという雲をつかむようなお前の言説はここセヴィリアでは必要ない。

これで終わりなのだけれど、この部分にどのような意味を見いだすか、ということが問われるわけだ。  この話の根幹というのは、社会の秩序というものには根拠みたいなものがあるのかどうか、ということになる。アリョーシャはあるという。イワンはないという。 社会秩序に根拠がないのなら、大審問官のように強権的に社会を秩序付けなくてはならないということになる。  ここからはちょっと飛躍するのだけれど、私は、大審問官の章というのは、この「カラマーゾフの兄弟」という作品の中の大きなテーマとシンクロしていると思う。その大きなテーマというのは、人間個人が自分が自分であるということ、すなわち自分の自己同一性に根拠があるのか、ということ。イワンが、社会秩序に根拠はない、と言った時点で、イワンの人格を形成しているところの整合性に根拠がない、ということを宣言していることになる。 その結果イワンはどうなったかというと、頭の中で悪魔と対話するようになった。もうこれは統合失調症だろう。 ドストエフスキーは、社会の秩序についての観念と個人の自己同一性とを、イワンの中でシンクロさせている。 社会であれ個人であれ、秩序、すなわち一体性の形成というのは、外部からは与えられないということになる。 

イワンにたいしてアリョーシャは、一体性の根拠は存在すると考えている。 その根拠というのは、この大審問官の章ではキリストということになっているけれども、エピローグでは、アリョーシャは子供達の前でこのように演説する。

「子供のころのなにかすばらしい思い出以上に、尊く、力強く、健康で、ためになるものは何一つないのです。たった一つのすばらしい思い出しか心に残らなかったにしても、それがいつか僕たちの救いに役立ちうるのです。もしかすると、まさにそのひとつの思い出が大きな悪から彼をひきとめてくれ、彼は思い直して、
そうだ、僕はあのころ、善良で、大胆で、正直だった
と言うかもしれません。内心ひそかに苦笑するとしてもそれはかまわない。みなさん、保証してもいいけれど、その人は苦笑したとたん、すぐ心の中でこう言うはずです。
いや、苦笑なぞして、いけないことをした。なぜって、こういうものを笑ってはいけないからだと」

アリョーシャは一体性の根拠を語っている。 しかしこの言説を注意深く読むと、世界というものが個人に少なくても一つ、すばらしい想い出を与えるという前提になっている。持ち上げられた世界にこそ一体性の根拠というものはある。  世界が持ち上げられているかどうかというのは、時代ごとに異なっていて、人間に無条件に与えられているわけではない。 イワン的世界観もありえるし、アリョーシャ的世界観もありえる。 

私は、アリョーシャ的世界観を信じるけれども。 

この「大審問官」というのは、イワン的世界観を視点をちょっとずらす感じで表現しているものだと思う。


【第6編 ロシアの修道僧】

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【第8篇 ミーチャ】

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【第9編 予審】


カラマーゾフ3兄弟の父親であるフョードルが、何者かに殺されてしまった。

長男ドミートリーが父親殺しの罪で警察に捕まる。彼が殺したという確証はないのだけれど、持っているはずのない大金を持っていたりと、いかにも怪しい。

警察がドミートリーを発見した時、彼は彼女とドンちゃん騒ぎをしていたのだけれど、そのまま拘束されて尋問。そこでは警察当局との思想の対決みたいなことになる。

たんたんとした尋問において、ドミートリーは、

「私の私生活に干渉するのは許しませんよ。あなたの質問は事件に関係ないし、事件に関係ないことはすべて、僕の私生活ですからね」

更にドミートリー、

「あなた方もずいぶん暇なんですね」

近代の尋問というのは、何が証拠になるか分からないということで細かいところまでいろいろ聞かれるというのは、現代日本人でも共通のイメージだと思う。
細かい質問にドミートリーはイライラするのだが、これは勘違いしているから。ドミートリーは魂の対話というのを予定しているのだが、警察当局は、調査管理というのを予定している。このアンバランスをこの9編では明確に描き出される。

魂の対話と調査管理の相克。

卑近な例えを出してみよう。

私の職場で中島さんという70歳のおじいさんは、昼休み毎日はいている靴の裏にガムテープを貼っている。

「中島さん、毎日ビリビリガムテープを貼るんなら、新しく靴を買ったほうが早いんじゃないの?」
「そう思うんだけど、なんだかこの靴に愛着がわいちゃって」
「えっ? このワークマンで1980円で買った靴に愛着?」
「うん、なんとなくね。今月いっぱいは粘ろうと思うんだ」

靴の裏にガムテープを貼って靴の寿命を延ばすことが、靴に対する愛着の表現だとは考えもつかなかった。中島さんと靴との魂の対話というのがあったと思う。私は調査管理の論理を中島さんにぶつけてみた。中島さんは愛着という表現でそれを拒否する。
ただ私だから中島さんも拒否できた。しかしこれがもっと巨大な知の体現者から強制されたとするなら、中島さんは自分の愛着に執着し続けることが出来ただろうか。中島さんと靴との魂の対話はどこまで深くなれるものなのだろうか。

結局、ドミートリーの最後の言葉が警察当局に回収されてされてしまったら、話はそれで終わってしまう。最後の言葉を自分のために取っておく、そんな矜持あるいは狂気をもつものこそ立体的な人間だと思う。狂気をはらむ人間こそ生々しい存在で、ギリギリまで近づいてみたいという、心の底を覗き込んでみたいという、そう思わせるものがあるのではないか。

近代と人間との相克。人間と人間との相克。

「蛇が蛇の頭を食べようとしている」

ドミートリーはこのように言うけど、本当にそう。何が正しいとかというのではなく、その相克が美しいという。


【第10篇 少年たち】


アリョーシャはコーチャという14歳の少年と知り合いになる。コーチャという少年は中二病なんだよね。既成の権威を否定するために、より大きな権威をよそから(特に外国)から借りてくるということ。

コーチャの行為自体は間違ってはいないと思う。

そもそも近代以降における既成の権威というものは怪しげなのが多すぎる。近代において科学というのは権威である。数学と理論物理は第一級の科学であると私も認める。ただほかのものはどうだろうか。

例えば生物学とか医学とか、こいつらは科学としては二流だ。
生物学においては、生物の進化というのがなぜ起こるのか全く解明されていない。生物学ではいまだに150年前のダーウィンの進化論がメインフレームだ。ありえないでしょ。150年前の学説を超える論理がいまだに出てこないなんて。
医学においては、人間の意識というものが全く解明されていない。意識の座が脳のどこの部分にあるのかとかは分かっているのだけれど、意識そのものとは何であるのか、ということが分かっていない。人間存在の中核である意識の存在体制を理解できない現代医学なんていうものは、こういう言葉を使うと申し訳ないけれども、片手落ちでしょう。

生物学や医学でさえこのありさま。さらに経済学とか精神分析学とかは科学としては推して知るべし、三流。こいつらは、正直オカルトの部分もかなりあると思う。このように科学の中にもランクがあるにもかかわらず、それぞれの科学が、われこそは数学並みに一流であるという顔をする。

ここがコーチャのような力あふれる少年には気に入らない。だからより大きな権威を借りてきて既存の権威、この小説の中では教育学とか医学とかということになるのだけれど、を否定しようとする。

コーチャの考えは間違っていない。そもそも医学とか精神分析学なんていう二流以下の学問が、数学並みの一流の科学でございという、そのずうずうしさが間違っている。フーコーだね。

しかし何故二流以下の学問の知が、この社会において異常な力を持つのか。

この世界では何らかの知のヒエラルキーに参加していないと馬鹿だと判断されてしまうからだと思う。コーリャも既成の知の権威を否定するために、よそから別の知の権威を借りてくる。既成の知の権威を拒否するだけだと、馬鹿だと判断されてしまう、それがコーリャには耐えられない。

このコーリャにたいしてアリョーシャはこのように言う。
渾身のアリョーシャの言葉を堪能してほしい。

「この節では才能をそなえたほとんどすべての人が、こっけいな存在になることをひどく恐れて、そのために不幸でいるんです。ほとんど狂気のさたですね。悪魔がそうした自負心の形を借りて、あらゆる世代に入りこんだんです。自己批判の必要さえ見いださぬようになってしまったんです。君だけはそうじゃない人間になってください」

悪魔が自負心の形を借りてだって。
悪魔がだよ、自負心の形を借りるんだよ。

誰もが心当たりがあると思う。

アリョーシャは、そのような悪魔を拒否するというのではなく、悪魔を寄せ付けないのがすごい。さすが主人公。


【第11篇 兄イワン】


長男ドミートリーが父親のフョードルを殺したという容疑で逮捕される。

このフョードルを殺したのは誰なのか。「カラマーゾフの兄弟」では殺人が起こって、犯人が誰なのかという謎があるわけで、この小説は推理小説としても読めるという意見もある。

そもそも推理小説とはなんなのだろうか。

推理小説の形式というのは極めて近代的なものだと思う。推理小説の形式とは何かを説明するために、一つ例を出しましょう。

「古畑任三郎」という推理テレビドラマがある。
古畑任三郎は刑事で、犯人をいろいろ推理するというドラマなんだけど、この犯人というのが将棋の棋士だったり、有名な女優だったり、医者だったりする。犯人は自分の社会的名声を守るために殺人を犯す。
さらに言うなら、犯人は自らが所属する知の体系を維持するためには殺人もしょうがないと思っている。この世界には様々な知の体系があって、それぞれがお互いに切磋琢磨している。頭がいいと思われたい人間は、結局どこかの知の体系に所属しなくてはいけない。それぞれの人間がそれぞれの知の体系に所属して、それぞれの論理を持つ。自分そして自分の所属する知の体系を否定しようとするものは、簡単に排除されてしまう。

しかしこの世界にはより大きな秩序があって、個別の知の体系といえども、全くばらばらに存在することは許されない。殺人などという一線を越えた体系維持運動は認められない。古畑任三郎という探偵は、はみ出た知の体系のオルガナイザーを摘発し、知を回収して回る国家体系の番人なんだよね。

「カラマーゾフの兄弟」でおこる殺人と解決は、この探偵小説の形式とは全く異なる。アリョーシャはいきなり次兄イワンに

「あなたは犯人ではない」


という。当たり前だ、そもそも長男ドミートリーが容疑者として逮捕されているんだから。しかし話の結末というのは、イワンが父親が死んで欲しいと密かに願っていたので、スメルジャコフというヤツがイワンの代わりにフョードルを殺したというものだった。スメルジャコフにしてみれば、イワンは殺人の共犯だが、アリョーシャにしてみれば、「イワンは犯人ではない」ということになる。それぞれにそれぞれの真実がある。アリョーシャは知の体系をより上位の体系に回収しようなんて思っていない。ただただ真実を喝破するだけ。

そこには推理小説特有のカタルシスはなく、巨大な愛があるだけだ。


【最終第12章 誤審】


ドミートリーは父親殺しの容疑で刑事裁判となる。

近代においての裁判とは国家の枠組みが強烈に照射する場所である。国が人間のプライベートを回収する。
バフーチン的に言えば「最後の言葉」を回収する、それが近代であり、さらに言えば近代裁判だ。


ドミートリーの婚約者であるカテリーナは、裁判の中でこのように告白する。

「あたしと結婚するきになったのだって、あたくしが遺産を相続したからに過ぎません。そうじゃないかとかねがね思っていました。ああ、このひとはけだものです。あたくしがあのとき訪ねていったことを恥じて、一生この人にびくびくしつづけるだろう、だから自分はその子とで永久にあたくしを軽蔑し、優越感をいだいていられると、いつもおもっていたのです。.............  」

カテリーナの最後の言葉は国家に回収された。カテリーナも、ドミートリーを愛していると感じた瞬間だってあっただろうし、もちろん憎んだ瞬間もあっただろう。カテリーナの存在というのはゆれていたのだけれども、「断言」することによって存在が固定されてしまう。
存在が固定されていない人たちを統治するより、存在を固定されている人たちを統治する方がコストが安い。このコストパフォーマンスの優位から、近代国家がたち現れてきたのだと思う。
私たちは日々「断言」してまわなっていないだろうか。注意深く観察して欲しい。不用意な断言が世界には溢れていないだろうか。

ドミートリーの最後に検事の論告と弁護人の最終弁論がある。これが圧巻。近代がいかに人間を固定化するかということが圧倒的な筆力で表現されている。
弁護人はスメルジャコフという人間をこのように表現する。

「彼は自分の出生を憎み、それを恥じて歯ぎしりしながら思い起こしていました。幼いころの恩人だった召使のグリゴーリー夫妻に対して、彼は敬意を払っていませんでした。ロシアを呪い、ばかにしていたのです。彼はフランスに行きフランス人に帰化することを夢見ていました。彼が自分以外のだれも愛さず、不思議なほど高く自分を評価していたように思います」

この断言ぶり。たしかにスメルジャコフは誰もが友達になりたいようなヤツではない。
でも、フランス語の単語を覚える努力をしていた。
実際にフョードルを殺し、その罪をドミートリーになすりつけた。しかし365日ロシアを呪い続けたわけでもないだろう。隣の家の娘とのロマンスだってあった。スメルジャコフの作る料理は一級品だった。スメルジャコフだって、その存在はゆれていた。しかしこの断言ぶり。


「カラマーゾフの兄弟」を読み終わって思うのは、このドストエフスキーという作家のパワーだ。最後の言葉を回収しようとする近代を悪だと設定するわけでもなく、最後の言葉を守ろうとする人が無条件に善だというわけでもない。ただ近代と人間とのギリギリの相克を、底に飛び散る火花や涙を圧倒的な筆力で活写するという。

この世界に最後の言葉を回収されるのを拒否すること。
この世界と向き合って生きるということ。

カラマーゾフはこのギリギリの二律背反の中を生きる。

「カラマーゾフ万歳」


【エピローグ】


ドミートリーの父親殺し裁判のクライマックス、陪審員に対して検事はこのように言う。

「ロシアの宿命的なトロイカは、ことによると破滅に向かってまっしぐらに突き進んでいるのかもしれません。他の諸国民が今のところまだ、がむしゃらにつっぱしるこのトロイカに道を譲っているとしても、敬意からでなどなく、単に恐怖からに過ぎないでしょう」

突っ走るトロイカとは急激に西欧化しようとするロシア。混乱の中で明らかな父親殺しを無罪にするような行き過ぎた文明化は逆に西欧からの反発を招くだろうということだろう。

これに対して弁護人は最終弁論の最後にこのように言う。

「われわれのところに、破滅した人間の救済と更正を、あらしめようではありませんか。もしロシアの裁判がそういうものであるならば、ロシアは前進するでしょう。狂気のトロイカではなく、偉大なロシアの戦車が厳かに悠然と目的に向かって進むのです」

検事と弁護人が語る物語というのは、物事の裏と表だろう。
陪審員の皆さん、私達は世界をこのように確定しました。さあ、どちらが正しいか判断してください、というわけだ。
知の権威というものは、世界を確定しようとする。人民の世界認識を確定した方が、国家として人民を統治しやすい。近代というものは、この世界は合理的だという、非合理な信念の上に成立している。


しかし、人間の認識世界というものは確定しているものなのだろうか。好きな女が次の瞬間憎くなるなんていうことはないだろうか。本当のところ、世界は揺れているのではないだろうか。

エピローグでアリョーシャは子供達の前でこのように演説する。

「子供のころのなにかすばらしい思い出以上に、尊く、力強く、健康で、ためになるものは何一つないのです。たった一つのすばらしい思い出しか心に残らなかったにしても、それがいつか僕たちの救いに役立ちうるのです。もしかすると、まさにそのひとつの思い出が大きな悪から彼をひきとめてくれ、彼は思い直して、
そうだ、僕はあのころ、善良で、大胆で、正直だった
と言うかもしれません。内心ひそかに苦笑するとしてもそれはかまわない。みなさん、保証してもいいけれど、その人は苦笑したとたん、すぐ心の中でこう言うはずです。
いや、苦笑なぞして、いけないことをした。なぜって、こういうものを笑ってはいけないからだと」

そう、子供のころ、世界は揺れていた。世界が確定したと思い込んで大人になったつもりなっても、そうではない時があった。大切なのは最後のところで世界は揺れているものだという記憶だろう。

カラマーゾフの兄弟という小説は、世界を確定しようとする近代の中で、最後の揺らぎを、最後の言葉を守ろうとするカラマーゾフの魂の遍歴の記述だって感じた。



◆◆カラマーゾフの兄弟 / ドストエフスキー/原作 岩下博美/まんが / 講談社
◆◆カラマーゾフの兄弟 / ドストエフスキー/原作 岩下博美/まんが / 講談社





 ヘーゲル「歴史哲学講義 」 を分かりやすく説明します

ヘーゲルというと、19世紀最大の哲学者といわれている。そうなるとよっぽどお難しいのでしょう?ということになる。


実はそんなことはないのだけれど、ただ、ヘーゲル哲学における「歴史」とか「自由」という概念が、普通よりちょっと違うんだよね。だから、予備知識なしで読んでしまうと、だんだん分からなくなるということはある。

普通に歴史というと、過去にあった出来事の積み重ねの記録、みたいなことになる。こう考えると、人間のいたところどこにでも歴史は存在することになる。文字がなくたっていい、口述でもいいのだから。

しかし、ヘーゲルの言う「歴史」とは、もう少し厳密なものだ。厳密すぎて、ちょっとついていけないところもあるのだけれど。ついていけない所は、「ヘーゲル節」みたいなものとして理解していけばいい。

人間は社会を作る。社会的動物とか言われている。

人間集団が、広範な地域で秩序を形成するためには、何らかの普遍的観念の体系が共有されていなくてはならない。例えば、人を殺してはいけないとか、まじめに働かなくてはいけないとか、約束を破ってはいけないとか、そういうものだ。

この普遍的観念の具合によって、その社会の性格みたいなものが出てくる。時がたつと、その社会の普遍的観念が変わってきて、その社会の性格も変わってくる。この変化を社会の内部から観察すると、社会の雰囲気が変わったように見える。

これは別に難しい話でもなんでもない。私は現在47歳なのだけれど、バブルが崩壊して何年かたったあたりから日本社会の雰囲気が変わり始めて、30年前と現在とでは、日本はかなり雰囲気の違った社会になっていると思う。

この変化の原因を、経済の低成長などの唯物的なものにのみ求めてもいいと思うけれども、私は、日本社会の普遍的観念体系の変化についても考えていきたいと思う。

この私の意見に賛成された方は、ヘーゲル哲学の第一関門をクリアーしたわけだ。

ヘーゲルにおける歴史というものは、この時代の雰囲気の変化の記述をいう。

すなわち、普遍的観念体系が共有されていない社会では、ヘーゲル的歴史というものは存在しない。

ヘーゲルはアフリカ中南部には歴史は存在しないという。歴史が存在しないとはどのような意味か。

かつてアフリカからアメリカに、黒人がひどい扱いで奴隷として運ばれたというのはよく知られている。イギリスひどいみたいな、ネットの議論もある。 しかしなぜアフリカの黒人は、あのような奴隷船に乗せられ、システマティックに運ばれていったのか不思議ではないだろうか。彼らにも親やふるさとがあっただろう。

ヘーゲルはこのように語る。

「黒人はヨーロッパ人の奴隷にされアメリカに売られますが、アフリカ現地での運命の方がもっと悲惨だといえます」

どのように悲惨か?

「現地においてすでに、両親が子供を売ったり、反対に子供が両親を売ったりする」

本当かよ? と思う。 さらに

「黒人の一夫多妻制は、しばしば子供をたくさんつくって、つぎつぎと奴隷に売り飛ばすという目的を持っていて、ロンドンの黒人がつぶやいたという、自分の親族全員を売ってしまったために貧乏になったという、素朴な嘆きは珍しいものではありません」

ヘーゲルの歴史に対する研究熱心さを考えれば、これらのことはおそらく事実だったろう。

普遍的観念が共有できなくなった社会は、歴史を失い、奈落の底を見ることになるだろう、とヘーゲルは言うわけだ。

ここまでのヘーゲル歴史哲学の基礎構造は、間違っていないと思うんだけれども、ここから先の、自由主義的進歩史観にいたる論理部分に、ちょっとついていけないというか、ヘーゲル節炸裂みたいなところがある。

広範な地域に社会秩序が成立するためには、そこに暮らす人々に普遍的観念の体系が共有されていなくてはならない。

例えば、人を殺してはいけないとか、まじめには働かなくてはいけないとか、約束をまもらなくてはいけないとか、そういうことの概念体系だ。

では、なぜ人を殺してはいけないのか? 

日本人的に考えると、そんな殺していいというと社会が存在しなくなるよね、みたいな、歴史に育まれた直感みたいなことになるだろう。

ヘーゲルは、ヨーロッパ社会は一神教的キリスト教によって、社会の普遍的観念体系が保障されているという。だから、絶対神の存在しない中国(歴史哲学講義においては日本に対する言及はない)は、社会の一体性においてヨーロッパより構造的に劣っている、という。

絶対神が存在しないのは、日本も同じである。

受け入れがたい第一のヘーゲル節だ。

この第一のヘーゲル節をてこに、ユーラシア大陸の東から西に、空間的時間的に人類は進歩してきたという。最低は中国(ヘーゲルが中国という場合、東アジアを指す)で、最高はヨーロッパだ。

進歩史観の原型とは、このようなものだったわけで、これが受け入れがたい第二のヘーゲル節だ。

社会の一体性は個人の一体性、すなわち個人の自己同一性の強度にシンクロしている。そして、人間の自由というものは、個人の一体性に依存している、とヘーゲルは言う。

これは認めてもいいかと、個人的には思うのだけれど、この後がまたヘーゲル節なんだよね。

神によって保障された一体性を持つヨーロッパ社会は、人類を自由の世界に導くところの選ばれた者だ、とヘーゲルは言う。

これが受け入れられない第三のヘーゲル節だ。

この第一から第三のヘーゲル節をつなげると、自由主義的進歩史観ということになる。一言で言えば「リベラル」ということだろう。

まず第一のヘーゲル節、ヨーロッパ社会はキリスト教に保障されているからすごいんだというヤツ。しかしそもそも、神に保障されているからヨーロッパはすごい、というのは原因と結果が逆なのではないか。こういうことを言うとキリスト教徒には申し訳ないのだけれど、社会の安定性をより強固にするためにキリスト教はローマ帝国末期に発見されたのではないだろうか。東アジアでは、一神教を発見する必要がなかったのではないだろうか。一神教の宗教を信じているからといって自分が優れていると考えるのは、我田引水ではないだろうか。

次に第二のヘーゲル節、人類は東から西に向かって進歩するっていうやつ。生物学的進化というものを軽く考えすぎていないか? たかだか3000年程度の時間で、人類の進歩とか傲慢だろう。確かに20世紀の中国はしょぼかった。日本は本当にそれで苦労した。マジで中国はダメなんじゃないのかと思われた時間もあった。しかし現在はどうか。中国のGDPは日本の3倍を越えている。もう日本は追いつくことは出来ないだろう。



眠れる獅子はついに目覚めた。



自由主義的進歩史観の根底は覆った。現代日本でのリベラルの退潮というのは、中国の発展というのが原因だろう。

そして第三のヘーゲル節、自由の実現について。自由を最高の価値とする考えというのは罪深いと思う。社会や個人の一体性からどれだけ自由が引き出せるかということを価値の基準とするなら、その世界は「一体性」を前提としている。しかしそもそも、「一体性」というものは神に与えられたものではないのか? 神が失われたのなら、前提を変更しなくてはならないはずだ。「一体性」とは何なのか、よく考えなくてはならないにもかかわらず自由を主張し続けるのなら、それは真の自由ではなく、依存の自由、奴隷の自由だろう。

このように、ヘーゲル哲学といっても、受け入れられるところ、そうでないところと重層的になっている。だから、「ヘーゲルの観念論」などという言葉があったとするなら、どこまでの観念論なのか判断が出来ないところがある。



ドストエフスキーの詩学 (ちくま学芸文庫) [ ミハイル・ミハイロヴィッチ・バフチン ]【中古】 ドストエフスキーの詩学 ちくま学芸文庫/ミハイル・バフチン(著者),望月哲男(訳者),鈴木淳一(訳者) 【中古】afb



ドストエフスキーの評論は多い。小林秀雄にもあったし吉本隆明にもある。

というか、たいがい誰でも書いている。しかし、読む価値のあるドストエフスキー評論というのは少ない。なぜかというと、ドストエフスキーとはインテリが言葉で説明しようとすると、たちまち逃げてしまうよな感じ。しかし、バフチンの「ドストエフスキーの詩学」はお目出たいインテリの評論とは一味違う。

話の枠組みがでかい。
まずこのようにかましてくる。

『なぜあらゆる近代文学が古びていく中、ドストエフスキーのみがなぜ古びないのか』

これは近代小説とは何か? という話になってくる。さらには近代とは何か、現代とは何かという話にもなってくるだろう。

知りたくないですか? 現代とは何かって。私たちの周りの世界はなぜこのようにあるのかって。


バフーチンはこのように言う。

「単一で唯一の理性を崇拝するヨーロッパ合理主義が、近代におけるモノローグ(独白)原理を強化し、これが思想活動のあらゆる領域に浸透した」

例えば、近代以降の小説は三人称客観というスタイルで書かれている。三人称客観とは、作者や読者の視点が小説の登場人物を絶えず俯瞰できるようなシステム。現代の小説は、ほとんどこのスタイルで書かれていると思う。
このような近代小説システムも強化されたモノローグ原理の一つだろう。


さらにバフーチンはこう言う。

「単一の意識が自己を充足させるというこの信念は、思想家達が個別に作り出したものではなく、近代の思想的創作活動の構造に深くくいこみ、その内的外的形式を規定している一つの特質なのである」


この発言はどうでしょう。
言っていることは、1970年代のミッシェル.フーコーが語っていたことと変わらない。そして驚くべきことは、この「ドストエフスキーの詩学」の初版は1929年だということ。

バフーチンはここまで近代とは何かという真理に迫りながら、

「ここでわれわれに関心があるのは、文学創作におけるモノローグ原理の現れ方である」


とドストエフスキー言及にもどっていく。


世界の真理をつかむのは、自己満足のためではなく、愛するドストエフスキーのためであるという。ここまで来るとバフーチンの「ドストエフスキーの詩学」という本は、恐ろしくも美しい愛の物語とも言えるようなものに昇華してくるだろう。

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ドミートリーの父親殺し裁判のクライマックス、陪審員に対して検事はこのように言う。

「ロシアの宿命的なトロイカは、ことによると破滅に向かってまっしぐらに突き進んでいるのかもしれません。他の諸国民が今のところまだ、がむしゃらにつっぱしるこのトロイカに道を譲っているとしても、敬意からでなどなく、単に恐怖からに過ぎないでしょう」

突っ走るトロイカとは急激に西欧化しようとするロシア。混乱の中で明らかな父親殺しを無罪にするような行き過ぎた文明化は逆に西欧からの反発を招くだろうということだろう。

これに対して弁護人は最終弁論の最後にこのように言う。

「われわれのところに、破滅した人間の救済と更正を、あらしめようではありませんか。もしロシアの裁判がそういうものであるならば、ロシアは前進するでしょう。狂気のトロイカではなく、偉大なロシアの戦車が厳かに悠然と目的に向かって進むのです」

検事と弁護人が語る物語というのは、物事の裏と表だろう。
陪審員の皆さん、私達は世界をこのように確定しました。さあ、どちらが正しいか判断してください、というわけだ。
知の権威というものは、世界を確定しようとする。人民の世界認識を確定した方が、国家として人民を統治しやすい。近代というものは、この世界は合理的だという、非合理な信念の上に成立している。


しかし、人間の認識世界というものは確定しているものなのだろうか。好きな女が次の瞬間憎くなるなんていうことはないだろうか。本当のところ、世界は揺れているのではないだろうか。

エピローグでアリョーシャは子供達の前でこのように演説する。

「子供のころのなにかすばらしい思い出以上に、尊く、力強く、健康で、ためになるものは何一つないのです。たった一つのすばらしい思い出しか心に残らなかったにしても、それがいつか僕たちの救いに役立ちうるのです。もしかすると、まさにそのひとつの思い出が大きな悪から彼をひきとめてくれ、彼は思い直して、
そうだ、僕はあのころ、善良で、大胆で、正直だった
と言うかもしれません。内心ひそかに苦笑するとしてもそれはかまわない。みなさん、保証してもいいけれど、その人は苦笑したとたん、すぐ心の中でこう言うはずです。
いや、苦笑なぞして、いけないことをした。なぜって、こういうものを笑ってはいけないからだと」

そう、子供のころ、世界は揺れていた。世界が確定したと思い込んで大人になったつもりなっても、そうではない時があった。大切なのは最後のところで世界は揺れているものだという記憶だろう。

カラマーゾフの兄弟という小説は、世界を確定しようとする近代の中で、最後の揺らぎを、最後の言葉を守ろうとするカラマーゾフの魂の遍歴の記述だって感じた。

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ドミートリーは父親殺しの容疑で刑事裁判となる。

近代においての裁判とは国家の枠組みが強烈に照射する場所である。国が人間のプライベートを回収する。
バフーチン的に言えば「最後の言葉」を回収する、それが近代であり、さらに言えば近代裁判だ。


ドミートリーの婚約者であるカテリーナは、裁判の中でこのように告白する。

「あたしと結婚するきになったのだって、あたくしが遺産を相続したからに過ぎません。そうじゃないかとかねがね思っていました。ああ、このひとはけだものです。あたくしがあのとき訪ねていったことを恥じて、一生この人にびくびくしつづけるだろう、だから自分はその子とで永久にあたくしを軽蔑し、優越感をいだいていられると、いつもおもっていたのです。.............  」

カテリーナの最後の言葉は国家に回収された。カテリーナも、ドミートリーを愛していると感じた瞬間だってあっただろうし、もちろん憎んだ瞬間もあっただろう。カテリーナの存在というのはゆれていたのだけれども、「断言」することによって存在が固定されてしまう。
存在が固定されていない人たちを統治するより、存在を固定されている人たちを統治する方がコストが安い。このコストパフォーマンスの優位から、近代国家がたち現れてきたのだと思う。
私たちは日々「断言」してまわなっていないだろうか。注意深く観察して欲しい。不用意な断言が世界には溢れていないだろうか。

ドミートリーの最後に検事の論告と弁護人の最終弁論がある。これが圧巻。近代がいかに人間を固定化するかということが圧倒的な筆力で表現されている。
弁護人はスメルジャコフという人間をこのように表現する。

「彼は自分の出生を憎み、それを恥じて歯ぎしりしながら思い起こしていました。幼いころの恩人だった召使のグリゴーリー夫妻に対して、彼は敬意を払っていませんでした。ロシアを呪い、ばかにしていたのです。彼はフランスに行きフランス人に帰化することを夢見ていました。彼が自分以外のだれも愛さず、不思議なほど高く自分を評価していたように思います」

この断言ぶり。たしかにスメルジャコフは誰もが友達になりたいようなヤツではない。
でも、フランス語の単語を覚える努力をしていた。
実際にフョードルを殺し、その罪をドミートリーになすりつけた。しかし365日ロシアを呪い続けたわけでもないだろう。隣の家の娘とのロマンスだってあった。スメルジャコフの作る料理は一級品だった。スメルジャコフだって、その存在はゆれていた。しかしこの断言ぶり。


「カラマーゾフの兄弟」を読み終わって思うのは、このドストエフスキーという作家のパワーだ。最後の言葉を回収しようとする近代を悪だと設定するわけでもなく、最後の言葉を守ろうとする人が無条件に善だというわけでもない。ただ近代と人間とのギリギリの相克を、底に飛び散る火花や涙を圧倒的な筆力で活写するという。

この世界に最後の言葉を回収されるのを拒否すること。
この世界と向き合って生きるということ。

カラマーゾフはこのギリギリの二律背反の中を生きる。

「カラマーゾフ万歳」

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