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福沢諭吉の評価が揺れている。

福沢諭吉は、戦後リベラルの盟主だった丸山眞男に評価されて、戦後においては啓蒙主義のシンボルだった。

確かに福沢は幕末にいち早く西洋文明を学び、明治維新後の西洋紹介において絶大な力を発揮した。「学問ノススメ」は当時100万部発行されたといわれ、西郷隆盛も読んで仲間に進めて回ったという。

福沢は古い日本的因習を憎み、風通しのいい文明化された日本を目指し、圧倒的な言語能力で日本民衆の近代化を後押ししたという事実は疑いえない。

しかしもう一つの福沢観というものがある。
福沢諭吉は、日清戦争で日本が勝ったことを大喜びし、脱亜論を書き、日本は中国や朝鮮などのアジア文化圏から抜け出し、西洋文明の戦列に加わるべきだとも主張した。
この主張がネット右翼の好餌となって、反韓反中の根拠になっている。

この状況をはっきりと言い切ってしまえば、醜い思想の亡者たちが、最後の力を振り絞って光り輝く福沢というシンボルを奪い合っている、ということになるだろう。

福沢の真の価値というのは、時代の変化の中から現れた言説の力であって、自分のポジションを守ろうなどという者たちには、福沢という存在は手に余るだろう。

福沢の論理の根拠は、有り余る力をどのように正しく使うべきか、というところにあり、力を失い自分のポジションに閉じこもろうとする者には、福沢を語る意味はない。

現代における革新リベラルの保守性というのは異常だ。年配者ほど左翼リベラル支持という考えられない現象が生じている。

日本に必要なのは、左翼リベラル的な取り澄ました気取りでもなく、ネット右翼的な引きこもりの陰謀論でもなく、まさに福沢的ざっくばらんな元気だろう。


以下に脱亜論の全文を掲げる

 世界交通の道、便にして、西洋文明の風、東に漸し、到る處、草も木も此風に靡かざるはなし。蓋し西洋の人物、古今に大に異るに非ずと雖ども、其擧動の古に遲鈍にして今に活潑なるは、唯交通の利器を利用して勢に乘ずるが故のみ。故に方今東洋に國するものゝ爲に謀るに、此文明東漸の勢に激して之を防ぎ了る可きの覺悟あれば則ち可なりと雖ども、苟も世界中の現狀を視察して事實に不可なるを知らん者は、世と推し移りて共に文明の海に浮沈し、共に文明の波を揚げて共に文明の苦樂を與にするの外ある可らざるなり。文明は猶麻疹の流行の如し。目下東京の麻疹は西國長崎の地方より東漸して、春暖と共に次第に蔓延する者の如し。此時に當り此流行病の害を惡て此を防がんとするも、果して其手段ある可きや。我輩斷じて其術なきを證す。有害一偏の流行病にても尙且其勢には激す可らず。況や利害相伴ふて常に利益多き文明に於てをや。啻に之を防がざるのみならず、力めて其蔓延を助け、國民をして早く其氣風に浴せしむるは智者の事なる可し。西洋近時の文明が我日本に入りたるは嘉永の開國を發端として、國民漸く其採る可きを知り、漸次に活潑の氣風を催ふしたれども、進步の道に橫はるに古風老大の政府なるものありて、之を如何ともす可らず。政府を保存せん歟、文明は決して入る可らず。如何となれば近時の文明は日本の舊套と兩立す可らずして、舊套を脫すれば同時に政府も亦廢滅す可ければなり。然ば則ち文明を防て其侵入を止めん歟、日本國は獨立す可らず。如何となれば世界文明の喧嘩繁劇は東洋孤島の獨睡を許さゞればなり。是に於てか我日本の士人は國を重しとし政府を輕しとするの大義に基き、又幸に帝室の神聖尊嚴に依賴して、斷じて舊政府を倒して新政府を立て、國中朝野の別なく一切萬事西洋近時の文明を採り、獨り日本の舊套を脫したるのみならず、亞細亞全洲の中に在て新に一機軸を出し、主義とする所は唯脫亞の二字に在るのみ。
 我日本の國土は亞細亞の東邊に在りと雖ども、其國民の精神は既に亞細亞の固陋を脫して西洋の文明に移りたり。然るに爰に不幸なるは近隣に國あり、一を支那と云ひ、一を朝鮮と云ふ。此二國の人民も古來亞細亞流の政敎風俗に養はるゝこと、我日本國民に異ならずと雖ども、其人種の由來を殊にするか、但しは同樣の政敎風俗中に居ながらも遺傳敎育の旨に同じからざる所のものある歟、日支韓三國相對し、支と韓と相似るの狀は支韓の日に於けるよりも近くして、此二國の者共は一身に就き又一國に關して改進の道を知らず、交通至便の世の中に文明の事物を聞見せざるに非ざれども、耳目の聞見は以て心を動かすに足らずして、其古風舊慣に戀々するの情は百千年の古に異ならず、此文明日新の活劇場に敎育の事を論ずれば儒敎主義と云ひ、學校の敎旨は仁義禮智と稱し、一より十に至るまで外見の虛飾のみを事として、其實際に於ては眞理原則の知見なきのみか、道德さへ地を拂ふて殘刻不廉恥を極め、尙傲然として自省の念なき者の如し。我輩を以て此二國を視れば、今の文明東漸の風潮に際し、迚も其獨立を維持するの道ある可らず。幸にして其國中に志士の出現して、先づ國事開進の手始めとして、大に其政府を改革すること我維新の如き大擧を企て、先づ政治を改めて共に人心を一新するが如き活動あらば格別なれども、若しも然らざるに於ては、今より數年を出でずして亡國と爲り、其國土は世界文明諸國の分割に歸す可きこと一點の疑あることなし。如何となれば麻疹に等しき文明開化の流行に遭ひながら、支韓兩國は其傳染の天然に背き、無理に之を避けんとして一室內に閉居し、空氣の流通を絶て窒塞するものなればなり。輔車唇齒とは隣國相助くるの喩なれども、今の支那朝鮮は我日本國のために一毫の援助と爲らざるのみならず、西洋文明人の眼を以てすれば、三國の地利相接するが爲に、時に或は之を同一視し、支韓を評するの價を以て我日本に命ずるの意味なきに非ず。例へば支那朝鮮の政府が古風の専制にして法律の恃む可きものあらざれば、西洋の人は日本も亦無法律の國かと疑ひ、支那朝鮮の士人が惑溺深くして科學の何ものたるを知らざれば、西洋の學者は日本も亦陰陽五行の國かと思ひ、支那人が卑屈にして恥を知らざれば、日本人の義俠も之がために掩はれ、朝鮮國に人を刑するの慘酷なるあれば、日本人も亦共に無情なるかと推量せらるゝが如き、是等の事例を計れば枚擧に遑あらず。之を喩へば比隣軒を竝べたる一村一町內の者共が、愚にして無法にして然かも殘忍無情なるときは、稀に其町村內の一家人が正當の人事に注意するも、他の醜に掩はれて堙沒するものに異ならず。其影響の事實に現はれて、間接に我外交上の故障を成すことは實に少々ならず、我日本國の一大不幸と云ふ可し。左れば今日の謀を爲すに、我國は隣國の開明を待て共に亞細亞を興すの猶豫ある可らず、寧ろ其伍を脫して西洋の文明國と進退を共にし、其支那朝鮮に接するの法も隣國なるが故にとて特別の會釋に及ばず、正に西洋人が之に接するの風に從て處分す可きのみ。惡友を親しむ者は共に惡名を免かる可らず。我れは心に於て亞細亞東方の惡友を謝絶するものなり。


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福沢諭吉のあの現代的な思考はどこから来たのかと思って。福沢の著作を読めば一撃で分かるのだけれど、現代人より現代的な考え方をしている。  例えば福沢が緒方塾で友人と議論をするとして、議論の題材は何でもよろしい。相手が甲の立場をとればこちらは乙で、相手が乙の立場をとればこちらは甲でという具合。議論上こだわるところは何もないという、まったくカラリとしたものだ。  福沢がいつからそうなのかというと、子供のころかららしい。福沢が子供のころ近所の神社の建屋に忍び込んで、ご本尊の箱を開けてみると石が入っていたという。何だこの石、と思ってそれをうっちゃって、その辺の石を代わりに箱につめてそのまま知らん振りをして、神社におまいりに来る人を、ただの石にお祈りしやがってと馬鹿にしていたという。   福沢の精神とはどういうものかというとを、私なりに考えてみる。  福沢にとって物事に価値観の緻密な序列の存在が前提としてあるわけだ。そもそも福沢の周りに価値観の序列というものがあって、それを福沢の明晰な頭脳がより緻密な序列にしたということだろうと思う。そもそも価値観の序列というのは無条件に与えられるものではない。歴史的に何らかの真理が存在して、その真理によって人間社会意識内での価値が整除され、価値観の序列という岩盤が形成される。福沢においては、価値観の序列という岩盤はあるが、価値を序列づけた真理は失われている。福沢の漢学軽視の論理というのは、価値の序列というはすでに岩盤なのだから、価値を秩序付けた漢学はもう必要ないだろうということだろう。  このように考えると、福沢諭吉の語る「文明」というのは、価値の序列、世界の傾きの、この延長上にある何ものかということになる。   価値観の序列というものはいくら天才でも無条件に与えられるものではない。福沢の場合で考えれば、それは福沢の父親に一部帰着するだろうと思う。福沢の父親というのは、漢学で身を立てることを望んだのだけれど、藩の事情で大阪で金の勘定を担当したという。分かりにくいかもしれないが、これってすでに孟子だよね。  結局、福沢といえども明治に突如現れた天才というわけではない。少なくとも親の代からの積み重ねというものがある。福沢の庶民に対する同情心が比較的薄いのは、この自らの意識のレベルが歴史的な積み重ねの結果だという認識の希薄さに由来するのだろうと思う。

学問のすすめ (まんがで読破) [ 福沢諭吉 ]
学問のすすめ (まんがで読破) [ 福沢諭吉 ]



福沢諭吉は「惑溺」という語を多用する。

福沢諭吉が惑溺の例としてあげていたものに、江戸時代に大奥とかでいかにすれば将軍のお気に入りの女性になれるかなどという政治的な手練手管に巧みになってしまう、なんていうのがあった。

福沢の表現した、陰険きわまる御殿女中の社会とは以下のようなものだった。

「そもそも大名御殿の大略を言えば、無識無学の婦女子群居して、無知無徳の一主人に仕え、勉強をもって褒められるものでもなく、怠惰によって罰せられるものでもなく、主張して叱られることもあり、主張せずして叱られることもあり、言うもよし、言わざるもよし、騙すのも悪し、騙さないのも悪し、ただ臨機応変に主人の寵愛を期待するのみ。
その様はあたかも的なきを射るかのようで、当たらないからといって下手というわけでもなく、当たったからといって上手というわけでもない。まさにこれを人間世界外の別天地といえなくなくもない。
このような世界の内側にいれば、喜怒哀楽の心情は他の人間世界とは異ならざるを得ない。たまたま友人に立身するものがあれば、その立身の方法を学ぶことができないので、ただ友人をうらやむのみ。これをうらやみすぎて、これを妬むのみ。うらやんだり妬んだり、このようなことに忙しいならば、やるべきことをやる時間などというものが残るだろうか?」                                                                                                                                 

このように、惑溺とはなんとなくは分かるのだけれどはっきりとは分からないというもの。夢と現実と何が違うのか明確には説明できないみたいなところがある。
丸山真男にも福沢諭吉の惑溺についての評論があったけれども、これを読んでみても惑溺を明確に理解するにはいたらない。                                                                      

惑溺とはなんとなく分かるのだけど明確に理解するには至らないなんていうのは、そもそも何故なのだろうか。                                                                       分かりやすく言ってしまうと、それは最初から私たちに 

「大奥で将軍のお気に入りの女性になるためには、ある程度の政治的な巧みさは必要だろう」             

なんていう規範なき功利主義の考えがあるからだ。その規範のなさがものごとの意味を曇らせる。                                                                                   王陽明の伝習録にこのような言説がある。                                          

「これを物を弄びて志を失うというは、尚お猶おもって不可となすか」
                                                                                                 物を弄びて志を失う ああ、これだ。惑溺とはこれだ。志を失うことによって大人になったってくだらないだけだ。  
福沢諭吉は明確に理解して惑溺という言葉を使っている。あれは本当に面白いオヤジだ。



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近代化とは何かというと、福沢諭吉的に考えると、国の中に多くの価値観が並立していると国民に自主独立の精神が現れてくる、多くの価値観のさらなる相克が国民の自主独立の精神をさらに前進させる。国民精神の自主独立的気風の増進が文明化であり近代化であるということです。

日本が早くから近代化した理由というのは、いろいろ言われています。武士の精神が近代化の困難を乗り越えるのに役に立ったとか、江戸時代にはもうかなり日本の生活レベルは高かったとか、そもそも日本民族が優秀だとか。このような意見は事実かどうかというのも判然としないうえに、たとえ事実だとしてもただそれだけの話であって、今の日本とあまり係わり合いのないような行き止まりの論理なのです。

福沢諭吉は近代化の根源を、多くの価値観の相克による自由の増進、と定義します。そして日本には幕府と朝廷という二つの価値観の並立があり、その二つの価値観の相克によりある一定の精神的自由が存在した、というのです。中国や朝鮮の神政府一本槍の国より日本は恵まれていたというわけです。
幕府と朝廷とに精神的権力が分裂していたのが日本近代化の理由であり、歴史的権力の分裂は近代日本にとって幸運であったわけです。この福沢諭吉の日本近代化理論はまだまだ掘れそうな感じてす。行き止まりの論理ではない。網野善彦の日本史観というはここに連なるものではないでしょうか。

福沢諭吉の信念のような確信のような、多くの価値観の相克が自由を増進させるという考え方は、現代においても全く色あせていないと思います。

ただ、19世紀末にはすでに西洋国家システムなるものが存在していて、日本はそのバスの最後の乗客としてギリギリ乗車する事ができました。理論的にはいろんな近代化のスタイルがあるでしょうが、事実上は西洋国家システムに参加する以外に国家が近代化する方法というものは存在しなかったということは考慮に入れておかなくてはならないでしょう。

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福沢諭吉が語る明治維新の原因とは、

徳川300年の太平により日本人総体の知徳が増大して、日本封建制の枠組みが日本人にとって窮屈になった。そして日本人自らが明治維新によって日本人の新しい枠組みを獲得した、

というものです。

私は昭和初期にも同じ事が当てはまると思います。太平洋戦争の敗戦というのは、日本人が意識せずに自ら選んだ日本の社会構造を変革するためのやけっぱちの戦略であると。

合理的に考えれば、あの戦争は不思議な事だらけです。事実だけを遡れば戦争を主導した中心人物なるものは判然としない。アメリカの国力を知っている人間には、アメリカと戦って勝てる道理はないというのは明らか。戦前あれだけ皇国史観とか言っておきながら、戦後進駐軍が来ても日本人はきわめて従順。
あの戦争の原因についてすべてを一括して説明する論理というのは、福沢諭吉の明治維新理論を転用したものが一番しっくりくるのではないでしょうか。

憲法9条の存在理由というのはいろいろあるでしょうが、一番大きいのは戦前の過ちを繰り返さないということでしょう。戦前のように日本の軍事力を横領してしまうヤツが現れるかもしれません。しかし軍事力を持っていなければ、そんな心配は無用です。

しかし太平洋戦争を日本人が自らを解放するための非常手段だった、という福沢諭吉流の解釈をすると物語は変わってきます。
日本は明治維新と太平洋戦争の敗戦という二度の革命で、かなり文明的で現代的な国民精神の枠組みをもつ国家になったのだと思います。今の日本に何らかの精神的な自由が大いに不足していると考えている人がいるでしょうか。精神的な悩みのある人もいるでしょう。でもそれは突き詰めて言えば世界は自分の思い通りにならないというレベルのもので、それは悩みというより病気です。二度の精神の開放で現代の日本人はかなり自由になった。さらにですよ、普通に考えて、周りを見渡してみて、今の日本が海外に対して侵略戦争なるものをやりかねないなんていう兆候があるでしょうか。

日本はすでに歴史的にみても、侵略するより侵略される方を心配すべき国になっているのではないでしょうか。憲法9条は残念ながら必要ないのではないでしょうか。
私は政治的には中道より少し左だと思います。能力を発揮できない環境にいる人たちには国が大いに手を差し伸べるべきだと思います。人間の善意というものを信じています。社会民主主義という言葉を聞くと少し癒された気持ちがします。しかし憲法9条は必要ではないと思います。

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福沢諭吉の明治維新理論というのは、日本人の知徳が増加した事によって今までの日本社会の枠組みが日本人にとって窮屈になった結果だ、というものです。明治維新を導いた人たちは誰かというと、「知徳ありて銭なきひと」となります。

太平洋戦争の敗戦は、明治維新と同じように戦前の日本社会の枠組みを壊し、日本人を解放する結果となりました。太平洋戦争は明治維新とパラレルになっているのではないでしょうか。太平洋戦争を福沢諭吉的に考えると、大正デモクラシー、議会制の存在、出版の発達により日本人の知徳が増加して、日本人にとって日本社会の枠組みが窮屈になり、そのことによる現状に対する不満が、日本の変革を目的として日本を太平洋戦争に突き落とした、ということになります。そして太平洋戦争を主導した人は「知徳ありて銭なきひと」ということになります。

明治維新において「知徳ありて銭なきひと」というのは下級武士でした。では戦前の昭和において「知徳ありて銭なきひと」とは誰だったのでしょうか。

官僚それも革新官僚といわれる人たち、参謀本部、軍令部の高級将校、新聞社の上層部、このあたりではないでしょうか。このような人たちが、いろいろなやり方で貴族院、財閥、重臣、地主、などを煽り倒して結局自滅の戦争にいたるわけです。

現状に不満で自由を求めているのに、尊皇攘夷のような逆の主張をして現状を打破しようとする。結局それがうまくいくものだから、後から考えて何がなんだか分からなくなる。そういうことではないでしょうか。

新聞が、戦前は戦争を散々煽っておきながら、戦後は一転反戦に転換するのも「予定の行動」とも考えられます。もちろん彼らが意識してそのような行動をとったとは考えにくいですが、うすうすは気がついていた人もいたのではないでしょうか。

気がついていても死ぬまで言えないよね。日本を解放するためとはいえ日本人が300万人も死んだんだから。

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福沢諭吉「文明論の概略」という本は刺激的な思想に満ち溢れて、なおかつそれが体系をなしているという、日本文芸史上一頭地を抜くものがあるのではないでしょうか。

その刺激的な思想の中から一つを紹介しましょう。

明治維新というのはなんだったのでしょうか。福沢諭吉はこのように言います。
徳川幕府による長い太平によって、日本人は徐々に智恵や道徳という人間本来に備わっている特性を育てる事ができた。しかしいかに智恵や道徳を育てても、きっちりと枠組みの決まった封建時代においては、その智徳をそとに発することが出来にくかった。水戸学や国学は封建の枠をすり抜けてそとに現れた、ある種智徳の実体である。時代が進み、ペリー来航以降になると、日本人の智徳は「尊皇攘夷」というものを先端として、徳川封建制を崩壊させるにいたった。しかしそもそも「尊皇攘夷」なんていうものは、封建制を倒すための一つの口実、便宜的なスローガンみたいなもので、取替え可能。ひとたび維新が実現されれば、攘夷転じて開国となったわけ。

こんな論理、聞いたことあります? 高杉晋作とか大久保利通とかという固有名詞は一切捨象して、日本人の智徳の総量のみを問題としているのです。

ではこの福沢維新理論を昭和初期の日本に当てはめてみましょう。
昭和初期、それまでの出版の自由や議会政治制度により日本人の智徳が増大して、明治的封建制は根底を揺さぶられる。日本人の智徳は「一君万民」をというものを先端として、明治国家を自滅の戦争に押しやった。しかしそもそも「一君万民」なんていうものは、明治国家を倒すための一つの口実であって取替え可能。「一君万民」転じて開国となる。

太平洋戦争の原因というのは専門家においてもまだ定説がないそうです。しかし福沢諭吉の論理を当てはめれば、日本人が自らを変革するためにワザと自国を真珠湾に突き落としたという事になります。

こんな論理、聞いたことあります?

私、何年も戦前の昭和について考えてきましたが、この福沢諭吉理論というのは、かなり魅力的であると考えます。ただ細部はかなり詰める必要があるでしょうが。


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福沢諭吉が「文明論の概略」の緒言を書いたのは、明治7年です。

明治維新を境に日本社会は劇的に変わります。日本はその後太平洋戦争の敗戦でもう一度社会の変革を体験します。

山田風太郎という作家がいます。彼が戦前戦後と生きて感じることは、
「二つの世界を生きている」
ということだそうです。戦後の繁栄した日本にいても、この繁栄はいつまで続くのか、いつも疑問に思うそうです。ファンタジーなんかでよくありますよね、別世界でまた別の人生を生きるみたいなのが。私は団塊ジュニアの世代ですが、私達のおじいさんの世代は、ファンタジーではなく現実に一生で二つの世界を生きた、と感じた人たちが多くいたであろうと推測します。

明治維新もあの昭和20年と同じで変革の秋です。明治維新の前後を生きた人も二つの人生を生きたと感じた人が多かったのではないでしょうか。

福沢諭吉のすごいところは、多くの人がなんとなく思うところを、明確に意識しているというところです。福沢諭吉は、文明論の概略 緒言の中で、

「我国の洋学者流、あたかも一身にして二生を経るがごとく、一人にして両身あるが如し」

といいます。この言葉だけでも驚くべき発言なのですが、さらに続けて、

「今の日本人は江戸と明治の二つの世界を体験として知っている。だから西洋と日本とを意識的に較べることが出来る。西洋人は西洋しか知らない。意識的であるという点で、現在の日本人は西洋人より有利である。この点は一世を過ぎれば再び得ることは出来ないので、今の時は大切な好機会である」

時代の変わり目をこれほど明確な言葉で認識するとは驚くほかはないです。明治維新後の日本の躍進、太平洋戦争後の日本の発展も、二つの世界を生きた人たちが、その有利さを生かして何かを成し遂げた結果なのだと思います。

「文明論の概略」という本は刺激的な思想に満ち溢れて、なおかつそれが体系をなしているという、日本文芸史上一頭地を抜くものがあるのではないでしょうか。

その刺激的な思想の中から一つを紹介しましょう。

明治維新というのはなんだったのでしょうか。福沢諭吉はこのように言います。

徳川幕府による長い太平によって、日本人は徐々に智恵や道徳という人間本来に備わっている特性を育てる事ができた。しかしいかに智恵や道徳を育てても、きっちりと枠組みの決まった封建時代においては、その智徳をそとに発することが出来にくかった。水戸学や国学は封建の枠をすり抜けてそとに現れた、ある種智徳の実体である。時代が進み、ペリー来航以降になると、日本人の智徳は「尊皇攘夷」というものを先端として、徳川封建制を崩壊させるにいたった。しかしそもそも「尊皇攘夷」なんていうものは、封建制を倒すための一つの口実、便宜的なスローガンみたいなもので、取替え可能。ひとたび維新が実現されれば、攘夷転じて開国となったという。

高杉晋作とか大久保利通とかという固有名詞は一切捨象して、日本人の智徳の総量のみを問題としているのです。

ではこの福沢維新理論を昭和初期の日本に当てはめてみましょう。
昭和初期、それまでの出版の自由や議会政治制度により日本人の智徳が増大して、明治的封建制は根底を揺さぶられる。日本人の智徳は「一君万民」をというものを先端として、明治国家を自滅の戦争に押しやった。しかしそもそも「一君万民」なんていうものは、明治国家を倒すための一つの口実であって取替え可能。「一君万民」転じて開国となる。

太平洋戦争の原因というのは専門家においてもまだ定説がないそうです。しかし福沢諭吉の論理を当てはめれば、日本人が自らを変革するためにワザと自国を真珠湾に突き落としたという事になります。

福沢諭吉の明治維新理論というのは、日本人の知徳が増加した事によって今までの日本社会の枠組みが日本人にとって窮屈になった結果だ、というものです。明治維新を導いた人たちは誰かというと、「知徳ありて銭なきひと」となります。

太平洋戦争の敗戦は、明治維新と同じように戦前の日本社会の枠組みを壊し、日本人を解放する結果となりました。太平洋戦争は明治維新とパラレルになっているのではないでしょうか。太平洋戦争を福沢諭吉的に考えると、大正デモクラシー、議会制の存在、出版の発達により日本人の知徳が増加して、日本人にとって日本社会の枠組みが窮屈になり、そのことによる現状に対する不満が、日本の変革を目的として日本を太平洋戦争に突き落とした、ということになります。そして太平洋戦争を主導した人は「知徳ありて銭なきひと」ということになります。

明治維新において「知徳ありて銭なきひと」というのは下級武士でした。では戦前の昭和において「知徳ありて銭なきひと」とは誰だったのでしょうか。

官僚それも革新官僚といわれる人たち、下級将校、新聞社の下層部、このあたりではないでしょうか。このような人たちが、いろいろなやり方で貴族院、財閥、重臣、地主、などを煽り倒して結局自滅の戦争にいたるわけです。

現状に不満で自由を求めているのに、尊皇攘夷のような逆の主張をして現状を打破しようとする。結局それがうまくいくものだから、後から考えて何がなんだか分からなくなる。そういうことではないでしょうか。

新聞が、戦前は戦争を散々煽っておきながら、戦後は一転反戦に転換するのも「予定の行動」とも考えられます。もちろん彼らが意識してそのような行動をとったとは考えにくいですが、うすうすは気がついていた人もいたのではないでしょうか。

気がついていても死ぬまで言えないよね。日本を解放するためとはいえ日本人が300万人も死んだんだのですから。


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「学問のすすめ」は文明や理性を語るだけではなく、人間の心理構造すなわち実存的なことも語っています。

この本の中で、人間の最悪の不徳は「怨望」であるといっています。怨望とは人を恨むということですね。その怨望は、社会が個人の、上に向かって自由に発言する働きを抑圧した時に民衆の中に蔓延するものであるといいます。
民衆の中に怨望が蔓延すれば、心の中に嫉妬、恐怖、卑怯なるものがあらわれ、それが内計として密話、内談、秘計としてあらわれ、それが外形に破裂するところは、徒党、暗殺、内乱、ということになります。

いまこの福沢諭吉の実存理論に従って、日本の戦前を考えてみましょう。515や226の内乱や血盟団の暗殺の前には何らかの社会的な「怨望」状態があったことが推測されます。その「怨望」状態の原因というのは、政府が個人の、上に向かって自由に発言する働きを抑圧したことにあるわけです。それで具体的な事件をさかのぼって考えると、幸徳秋水事件が最初の大きいものではないでしょうか。当時の明治政府(具体的には山県有朋でしょう)は、一人のアナーキストをなぜそんなに怖がったのか。磐石の態勢を望んでいたのでしょうが、死刑をもって無理に言論を弾圧するから、最後はあんな戦争になってしまう。
福沢諭吉の論理を応用すると、太平洋戦争の原因は以上のようにも考えられるわけです。

このように福沢諭吉の語る人間心理というものは注目に値します。人間精神の上部構造(l理性)と下部構造(社会的心理構造)を両方語るなんていう人は、歴史上を探してもそうはいないものです。こういう人物は社会の変動時にのみ現れる精神の巨人なのです。福沢諭吉が読めるということは、日本人にとってとても幸せな事だと思います。

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福沢諭吉は1835年大坂生まれ、現在の大分県中津市育ち。

福沢諭吉は子供のころ、福沢は神社のご神体はなんだろうかと思って社を開けてみた。石が入っていたから「なんだこんな石」とこれをうっちゃって、その辺の石を拾って入れておいた。まもなく祭りになって福沢は

「馬鹿め、おれの入れておいた石にお神酒を上げて拝んでいるとは面白い」

と、ひとり嬉しがっていたという。
まったく、とんでもない悪ガキだ。

二十歳で大坂の蘭学者・緒方洪庵の適塾に入る。天才ぶりを発揮してたちまち塾頭になる。福沢の適塾での態度というのは、

「私は本気で朋友と争ったことはない。赤穂浪士が義士か不義士かの議論が始まったとする。すると私は、どちらでもよろしい、義不義、口の先で自由自在、君が義士と言えば僕は不義士にする。君が不義士と言えば僕は義士にしてみせよう、というもので、実の入った議論をしたことは決してない」

というものだった。なかなかここまでは言えないと思うよ。確かなものにすがりたいと誰もが考える。学歴、職歴、知人、有名人、寄りかかれば安心決定のやすらぎってある。ところが、義不義、口の先で自由自在って、さすが福沢だよな。独立不羈ここに極まれりだろう。

福沢の師である緒方洪庵が文久3年6月に死去する。適塾仲間が通夜に集まる。そこでの福沢と大村益次郎との会話が非常に興味深い。大村益次郎とは長州藩出身で明治維新の殊勲者。現在でも靖国神社の正面入り口ど真ん中にでかでかと大村益次郎の銅像が建っている。
「おい大村君、君はいつ長州から帰ってきたか」
「この間帰った」
「どうだ馬関(下関)では大変なことをやったじゃないか(下関戦争)。何をするのか気狂いどもが、あきれ返った話じゃないか」
「気狂いとはなんだ、けしからんことを言うな。長州ではちゃんと国是が決まっている。あんな奴ばらにわがままをされてたまるものか。これを打ち払うのは当然だ。もう防長の士民はことごとく死に尽くしても許しはせぬ。どこまでもやるのだ」
というその剣幕は以前の大村ではない。攘夷の仮面を冠っているのか本当に攘夷主義になったのか知りませんが、他の者は一時彼に驚かされてそのままソーッと棄てておいたことがあります。
福沢諭吉と大村益次郎の巨人対決だから、どんな議論が戦わされたのかと思ったら、すがすがしいほどのざっくばらんぶりだ。
福沢が語ると、なんだか不思議なクラスメート感が立ちのぼる。学級委員長に同じクラスメートじゃないかと諭されているような、ナショナリズムというのではなくクラスメーティズム的な感じで同じ日本人じゃないかと言われている感じがする。

1868年の江戸無血開城前夜の様子について、福沢諭吉はこのように語る。

江戸城内において福沢
「いや加藤君、今日はカミシモまで着て何事か」
加藤君というのは加藤弘之のこと。明治に入り東京帝国大学第二代総長を務めた有名人。
「何事だって、慶喜公にお逢いを願う」
「今度の一件はどうなるだろう。いよいよ戦争になるか、ならないか、君達にはたいてい分かるだろうから、どうぞそれを僕に知らせてくれたまえ」
「それを聞いてなににするか」
「何にするかって、分かっているではないか。これがいよいよ戦争に決まれば僕は荷物をこしらえて逃げなくてはならぬ」
といったら、加藤がプリプリ怒っていたことがあります。

だって。さらにこの後が面白い。

江戸無血開城について
「全体をいうと真実徳川の人に戦う気があれば、私がそんな放語漫言したのを許すわけがない。すぐ一刀の下に首がなくなるはずだけれども、これがいわゆる幕末の形勢で、とても本式に戦争などのできる人気でなかった」

徳川慶喜が抵抗を諦めたのは、このような雰囲気を察知したからだろうというのが真実なのかな。

明治10年代の自由民権運動についての福沢の認識。
「ひとを捕らえて牢に入れたり東京の外に追い出したり、まだそれでも足らずに、役人達は昔の大名公卿の真似をして華族になって、これみよがしに空威張りをやっているから、天下の人はますます腹を立てて暴れまわる」

だって。自由民権運動についての有力な見識だろう。このような福沢的な優しい日本社会に対するまなざしが、現代日本にまだあると信じたい。

この世界を生きるにおいて、生きる意味を考えることもあるだろう。意味があるのかないのか。意味なんてないのではないか。虚無に落ち込むということもありえる。
そして、福沢は最後にこのように語る。

「人生既往を想えば恍として夢の如しとは毎度聞くところではあるが、私の夢は至極変化の多い賑やかな夢でした」

福沢は、この書を記した後2年ほどたたった、明治34年(1901年)1月25日に脳溢血が再発し、2月3日に東京で死去した。


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