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カテゴリ:外国文学 > ニーチェ

ニーチェの研究者の中で、ニーチェ哲学を「遊戯の哲学」といっている人がいるらしい。ニーチェ全集の解説に書いてあった。本の巻末についている解説とは、何故あんなにくだらないのか。しばしば唖然とする。  

ニーチェが「遊戯の哲学」だって、笑止。 

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ニーチェ「道徳の系譜 16」にこのようにある。 

「飼いならされようとしているところの、おのが檻の格子に身を打ちつけて傷だらけになるこの獣」

マックス.ウェーバーは、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」でこのように言う。      

『強力な言説がもたらした禁欲思想は、世俗道徳を 支配し始めるとともに、今度は近代的経済秩序の、あの強力な秩序界を作り上げるのに力を貸すことになった。この秩序界は現在、圧倒的な力をもって、その機構に入り込んでくる個人の生活スタイルを決定している。
バックスターの見解によると、外物についての配慮は、「いつでも脱ぐことができる薄い外套」のように聖徒の肩にかけられていなければならなかった。それなのに、運命は不幸にもこの外套を鋼鉄のように堅い檻にしてしまった。禁欲が世俗を改良し、世俗の内部で成果を挙げようと試みているうちに、世俗の外物ははるかに強力になり、ついには逃れえない力を人間の上に振るうようになってしまったのだ。今日では、禁欲の精神はこの鉄の檻から抜け出してしまった。
ともかく勝利を遂げた資本主義は、機械の基礎の上に立って以来、この支柱をもう必要としていない。将来、この鉄の檻に住むものは誰なのか、そして、この巨大な発展が終わるとき、全く新しい預言者が現れるのか、あるいはかつての思想や理想の力強い復活が起こるのか、それともすべてが機械的化石と化すことになるのか、まだ誰にも分からない』     

これを最初に読んだときは、すごいと思ったのだけれど、今考えるとニーチェの影響をかなり受けているだろう。 

マックス.ウェーバー、鉄の檻なんて突然うまいことを言った、と思ったのだけれど、この部分はニーチェの引用だろう。   

マックス.ウェーバーとかフーコーとかは、近代西洋世界を相対化しようとするものだろうけれど、その根源はニーチェにある。ニーチェ自身の言説というのは、あまりに正直で、あまりに過激で、それを直接引用するのは放送コードに触れる恐れがある。現代の哲学者や社会学者だって、社会的なポジションというのがあるわけで、ニーチェを真正面から取り扱うのは、そのような人にとっては身の危険だろうと思う。ウェーバーとかフーコーっていうのは、ニーチェをマイルドに紹介したというレベルのものだろう。  

ニーチェがどれだけ過激かというのを、日本社会でたとえてみるなら、知り合いの葬式に行ったときに、このような葬式なるものは似非道徳で悲しみの馬鹿の上塗りで群畜本能丸出しの弱者同士の傷の慰めあいだと絶叫しながら、棺おけをひっくり返すレベルだ。  

言っていることは一理あるかもしれないが、葬式に殴りこむのはちょっと待ってということになるだろう。  

しかしね、見ているほうは面白くてたまらない。坊主と狂人のガチンコの議論ってすごそうだ。

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ニーチェ「道徳の系譜12」 にこのようにある。  

「この世界にあるのはただ一個の遠近法的認識だけである。しかるに我々が一事物について、より多くの情念をして発言させればさせるほど、その同一事物についての我々の概念、我々の客観性はより完璧となるだろう。それなのに、意思を全く排除し、情念を残らず取り除くということは、たとえそれが我々にできるとしても、どうだろう、それは知性を去勢することではないだろうか」  

世界を相対化するためには、ギリギリの問題を問わなくてはいけないとは思う。  

近年、相模原で知的障害者が大量に殺されるという事件があった。日経新聞では、裁判での犯人の動機解明が期待されている、とあった。そもそも、何故犯人の動機なるものが解明されなくてはならないのだろうか。

犯人の「告白」のようなものが期待されているわけだろう。犯人は子供のころこのようなひどい境遇にあってみたいな。さらに望ましいのは、犯人の生まれながらの精神障害とまでは行かなくても精神的幼さの告白だろう。しかしそのような告白になにか意味があるのだろうか。犯人が何か告白したとして、告白したということではなく、告白の内容自体に、覗き見趣味以外の何か教訓的教育的「曲玉」的なものが、はたして存在するだろうか。 問われるべきは、犯人の告白ではなく、犯人の告白を必要としている私たちのあり方ではないだろうか。

世界は犯人の告白を必要としている。

この世界が、なぜこのようにあるのかと不思議に思ったことはないだろうか。何でもいい、例えば映画を見て泣いたとして、何が私を泣かせるのかとか、自分と他人の確信が同じだったり異なったりするのは何故かとか。 

生物の体というのは、かなり合理的に出来ている。タンパク質と電気信号の駆動体って超絶レベルが高い。個体が次の個体に魂をつなぐというシステムも斬新だ。40億年の歴史の重みというのは、全くすばらしい。これに対して、人間社会というのは、完全に合理的に出来ているというわけではないような感じだ。

その人間社会の不完全性が、人間には他にも可能性があったのではないか、と思わせるところのものだと思う。そのような観念も、深夜の孤独の中でふと思いつく程度の事であって、実際に忙しくこの世界に暮らしていると、この世界の価値観というものに流されてしまうということは普通だ。しかし、日常の生活でチラリと見える真理らしきものを見てみぬ振りをして、そのまま死んでしまうなんて、とても恐ろしいことだと思わないだろうか。  

このように、世界は完全ではないから、論点をずらせば、いかようにも問うことが出来る。

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ニーチェ「道徳の系譜 8」にこのようにある。  

「イスラエルみずからが、おのれの復讐の本当の手先を、まるで不倶戴天の敵ででもあるかのごとくに全世界の前で否認しこれを十字架にかけざるをえなかったことによって、イスラエルのすべての敵がちゅうちょなくこの餌に食いつけるようになったのだが、これこそは真に偉大なる復讐政策の摩訶不思議な魔術というべきものではなかったか」  

すなわちだね、イエスキリストというのは、ユダヤ人がユダヤ教の精神を西洋に送り込むための先兵ではなかったのか、というわけだ。これは面白い仮説ではあるけれど、論理の構造が陰謀史観になっている。陰謀史観とか英雄史観を語るものは、思考が単純な傾向があると考えて間違いない。考える力を出し惜しみするから、つい近道をするのだろう。  

ニーチェは悪いよね、まともに言論を積み重ねたのでは埒が明かないから、陰謀史観的なことを語って、思考訓練の足りないものをかき集めようということだろう。大量に集めれば、クレオンのような天才的なデマゴーグも混じりこんでくるだろうという期待だ。

ニーチェは、「道徳の系譜」にいたって、その思想レベルを下げてきたと思う。面白いし分かりやすくなっていると思うけれど、その分過激で単純で、100%真に受けるということは出来ない。 ニーチェもわざとやっているのだと思う。 

「道徳の系譜」のニーチェの言論をまじめに取って、自分は選ばれし人間だなんて思ったら勘違いの確率がかなり高いだろう。

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ニーチェ「善悪の彼岸 242」にこのようにある。  

「ヨーロッパの民主主義化は、同時に専制的支配の育成にたいする、思いもかけない準備となる」

ニーチェのこれまでのこれまでの言論から推測して、ニーチェの願望というのは、この世界の価値秩序を解体して、その跡地により合理的な社会体制を築こうという、まあそういうことだったと思う。そのようなことは、論理的には可能だけれども、現実的にはありえない。次善の策として考えられるのは、現代の民主主義体制の崩壊を出来るだけ促進して、その後に来るであろう専制支配体制に夢を託そうということだろう。 

これは方針転換だ。 

今までニーチェは、プラトンの影響をきわめて強く受けた近代西洋をプラトンごとひっくり返そうとしていたのだけれど、ここに来て、西洋文明盛衰という時間の尺をつめていこうという、そういうことだと思う。  

プラトンの文明論というのがそもそも、国家というものは、正義の哲学国家から、江戸時代のような名誉国家、明治国家のような金持ち支配性国家、戦後日本のような民主国家、ナチスドイツのような僭主国家、と連続的に堕落して行くというものだ。
すなわち、民主国家を早く終息させて、僭主国家に希望をたくそうというニーチェの論理はのは、プラトンの哲学に乗っかっちゃっているよね。 

この辺をニーチェは、明確に理解していたと思う。そもそもニーチェとは、ギリシャローマの文献学者の出身だから。 今までプラトンをひっくり返そうとしていたのに、今はプラトンに乗っかっているという、ここを私は、ニーチェの方針転換だと言っているわけだ。

ここから推測されることは、ニーチェは以降、プラトンの名前を出さなくなってくるだろう。そしてこの近代世界に不満を持つ人々を挑発するようになって来るだろう。まあ例えば、あなたのような高貴な精神を持った人間が、このクソみたいな世界でうじうじしていていいのですか? みたいな。

ニーチェの狙いというのは、自分の挑発に乗った者の中に一人でもいいから本物がいてくれたらいいな、ということだと思う。

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ニーチェ「善悪の彼岸 44」にこのようにある。  

「自由精神の人と呼ばれている連中は、簡単に言えば、水平化するものの部類なのだ」
   
論理は明快だと思う。  

ここでいう自由精神というのは、当たり前なのだけれど近代自由主義における自由精神ということだ。ところがニーチェは、近代自由主義が規定するその枠組みそのものが気に入らない。気に入らない近代自由主義が規定する自由精神なるものは、「自由」精神ではないだろうというわけだ。  

ニーチェは、水平化も気に入らない。人間の権利の平等、すなわち水平化はそれ自体文明の進歩のように聞こえるのだけれど、人間の精神エネルギーの減退につながっているという。これは、一昔前の老人が、最近の若者はハングリー精神がないとよく言っていたけれど、まあ似たようなものだと思う。   

ニーチェの言説は、世界を相対化しようという観点は画期的なのだけれど、その後はどこまでも付き合えるというものではないという印象だ。  

もう一度、「自由精神の人と呼ばれている連中は、簡単に言えば、水平化するものの部類なのだ」という言説をよく考えてみる。 

そもそも近代世界における水平化の理念というは、そう簡単にひっくり返せるものではない。

日本の場合を考えてみる。明治維新から太平洋戦争にいたるまでの日本近代の歴史というのは、日本総体が国内や国外において「水平化」を求めた苦闘の時間だったと思う。このことは、ある一定以上の知識と知能のあるものなら理解してもらえるだろう。

文久3年生まれ、明治大正昭和を生き抜いた大言論人徳富蘇峰はこのように語る。
「大東亜戦争は世界水平運動の一波瀾であった。いってみれば、明治維新の大改革以来の、継続的発展であり、いわば明治維新の延長であるといっても差し支えない。いやしくも一通りの歴史眼を持っているものは、この戦争は全く世界の水平大運動の、連続的波動であったことを、看過することはできない。しかるにその水平運動は、運動の拙劣であったために、水平どころか、さらに従来の差別に比して、大なる差別を来したることは、所謂事志違うものというの外はない。即ち水平運動の仕損じである、失敗である」

日本の近代において、この水平化の理想に何千万という日本人の情念が詰まっている。ニーチェがいくら、水平化とは近代にのみ現れる特殊な価値観だと、その相対化を試みても、その理念に血を流した歴史がある国では、国民の連帯感の否定までは行きにくいと信じたい。  この世界における価値観というのは、どれも対等なのだろうか? それとも価値観には序列が、優劣が、あるのだろうか? 私はね、価値観に序列をつける世界のほうが生きる意味にあふれていると思う。今の日本には、まだ価値の相対化を拒否するようなエネルギーが残っているだろうか。太平洋戦争を戦うなんていうことを選んだあのエネルギーがまだ残っているだろうか。

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「善悪の彼岸」にいたって、ニーチェの論理は明快だ。言葉は率直だし、評論の対象は明確だし、哲学というのは、このように誠実でなくてはいけないと思う。

「善悪の彼岸 39」   

「真理のある部分の発見ということでは悪人や不幸者の方が有利であり、成功する確率がより大であるということは疑いの余地がない」   

これを控えめにいうと、「善とか悪とか、そのようなものは人間世界の道徳上の事であって、世界の真理というものとは実際何の関係もない。しかしあまりに現世の善悪にこだわりすぎると、とらわれすぎて世界の真理を理解する妨げにすらなるだろう」、このようになるだろう。  

これは、日本人にはきわめて分かりやすい逆説だと思う。  

親鸞の「悪人正機説」の「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」とはこのことだろう。   

体制に取り込まれた後の浄土真宗が、この親鸞の言葉を改変して、悪人は悪人の事ではないとか、ここでいう善悪とは道徳上のことではないとか、そのようなねじくれた解釈をするだろうことはありえる。しかし親鸞の「悪人正機説」は素直にそのまま読むべきだろう。そもそも、日本においては死ねば皆仏であるということは岩盤であって、悪人が死後も地獄の業火に焼かれるなんていうのは、おとぎ話レベルの話になってくる。  

ニーチェが「真理のある部分の発見ということでは悪人や不幸者の方が有利であり、成功する確率がより大であるということは疑いの余地がない」と言ったとき、西洋人はある種の衝撃を覚えるだろうが、日本人にとっては分かりやすい論理だろうと思う。    

そもそも親鸞には、衆上を救うという渾身の使命があっただけで、全く当たり前なのだけれど、近代市民社会の秩序を維持しようなんていう思惑なんてものはなかっただろう。

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善悪の彼岸 (新潮文庫) [ ニーチェ ]


ニーチェは「悦ばしき知識」で、様々な価値観を相対化しようとしている。
ニーチェの言葉にある「深淵をのぞき込む」とは、価値が相対化されて、人々がすがるものを失った有様を表現している。


ニーチェは、プラトンが傾けた西洋世界を相対化しようとしている。ここが分からないと、ニーチェを読んでもよく分からない。ニーチェにとっては、プラトンがラスボスだ。キリスト教というのは中ボスだ。ヘーゲルやカントレベルは小物扱いだね。   

まずもって、プラトンをひっくり返すというのは、並大抵ではない。プラトンの言説は正義と直結している。 

正義とはなんなのだろうか。ハトや犬の世界に正義などというものは存在しない。人間の全ての社会に正義が存在するというわけでもない。正義とは、強力な言説によって秩序付けられた世界に立ち現れ、その世界の秩序を強力に補強するところの、一つの観念なんだよね。正義と秩序は、プラトンの言説によって寄り合わされ2200年の時を越えて、西洋文明を強力に持ち上げてきた。正義、秩序、2200年、そしてプラトン。ニーチェはこれを相対化しようとしている。まずもってムリ、絶望的な戦いだよ。   

ニーチェの言葉の断片が、我々の耳にかっこよく響くというのはあると思う。
ニーチェの言葉はかっこいいのに、トータルとしてほとんどの人が理解できていないのは何故か? 

マックス・ヴェーバーは「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」という本の中で、このようにいう。   

「プロテスタントの言説がヨーロッパ社会の価値観を秩序付けて、ヨーロッパ社会は進歩史観の傾いた世界となった。プロテスタントの言説が失われても、ヨーロッパ社会の傾きは残り、さらにその傾き自体が再生産を始めた」  

このプロテスタントの言説という部分を、ヴェルナー.ゾンバルトに突っ込まれている。プロテスタントの言説だけではなく、ユダヤ人やキリスト教や、さらにいえば白人の遺伝的な優越性も西洋の躍進に貢献しているのではないか、というわけだ。こうなると議論が拡散してしまって、どうしようもない。そもそも、マックス・ヴェーバーのプロテスタントさらにいえば、カルヴァンの予定説が西洋世界を傾けた、という仮定に無理がある、力不足だ。はっきりいえば、マックス・ヴェーバーの想定する世界を傾けた強力な言説とは、その仮説の枠組みが正しいとするなら、まさにそれはプラトンしかありえない。いやしくも一定以上の知的レベルにある人間がプラトンを読めば、その迫力に感嘆せざるを得ないだろう。
それはニーチェ渾身の悲愴の言説が、かすかに私たちに届き、私たちの周りのくだらない事象をそれなりに相対化してくれるからだろう。

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ニーチェ、「悦ばしき知識 第5集」において本気を出してきた。すごい、プラトンや孟子レベルだろう。  

実際読んでみれば分かるのだけれど、ニーチェの言説というのは率直で、簡単なことを難しく語ろうなんていうひねたところは全くない。近代西洋哲学には、たいしたことでもないのをムリに難しく語るという伝統というのはある。日本も酷かった。   

象徴的なのはミッシェル.フーコーだと思う。フーコーの初期の言説というのは、正直、何を言っているのか理解できない。一転して、後期の言説は分かりやすい。

フーコーがやろうとしていたことは、現代の価値体系を相対化しようということだった。こう言うともし分けないのだけれど、初期のフーコーが目指したものは、現代の価値観を揺るがせて、その隙間に自分を押し込んで社会的によろしくやろうということが疑われる。

これの酷いところは、フーコーが現代の価値体系を相対化しようとしたそのネタ元がニーチェであって、ニーチェ自身は、自らの思想を全くざっくばらんに語っているという点だ。フーコーというのは、基本的にいい人であって、ニーチェをネタ元にしながら、ニーチェより難解な言説をあやつってよろしくやるということに罪悪感を覚えたのだろう。後期には分かりやすい言説を心がけるようになり、最後期にはおずおずとニーチェがネタ元である事を認めるにいたったわけだ。  

これよりひどいのが、フーコーに影響を受けただろう日本の評論家達だ。ある有名な元東大総長は、日本においては、分かるような分からないような言説を語る。もっと突っ込んで言えば、分かるところでは近代の価値観を相対化するようなことを言い、分からないところでは相手を煙に巻くことに専心するという態度だ。さらにネタ元はフーコーで、フーコーに直接インタビューなんていう栄誉が与えられたなら、全く犬のよう、ワンワン、日本での態度が考えられないほどだ。日本の恥だろう。  

ニーチェは渾身の力で世界を相対化しようとした。その言説を利用して、自分の周りの世界を揺らし隙間をこじ開け、そこに身を寄せ自分の社会的身体の栄達を計るなんて下の下だね。    

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ニーチェ「悦ばしき知識 290」にこのようにある。    

「自分自身を統御できない弱い性格の人々は、様式の拘束を嫌う。こうした醜い強制が課せられると、彼らは、それによって自分らが卑俗化されるにちがいないと感じる。彼らは、奉仕するやいなや、奴隷となる。彼らは奉仕することを嫌がる。そういう精神の人たちは、まあ第一級の精神でありうるが、いつも自分自身とその環境を自由な自然として、形成したり解釈したりしようと企てる。そうするのも結構だ。畢竟、、一事こそ必要だ。人間が自分自身の満足に到達することが」     


                これ、オレのことやんけ。   


この前も、妻から、

「あんた、ちょいちょい奇妙な仮説、言うよね」

なんて突っ込まれた。このブログでも、さんざん奇妙な仮説を語ったと思う。昨日も何か書いた記憶がある。あと、両親の墓参りに行っても、手を合わせて拝んだりはしない。意味の分からないことは、やりたくないんだよね。墓石に水をかけるのはやる。墓石がキレイになるような気がするから。仕事でも日常生活でも、整合性のとれた最低限のことをするように心がけている。ニーチェに性格が弱いといわれているのだけれど、確かに弱いかもしれない。自分がずうずうしい性格だと思ったことはない。  
でもニーチェが言うには、私のようなのは「第一級の精神」なんだったて。   

まあそれほどでもないけど。

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