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ニーチェの「曙光」には、小言説が575ある。これらは別に体系になっているわけではなく、ニーチェの様々な思いつきの断片みたいなもので、全てを理解できるなどという構造にはなっていない。



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150年前のドイツの価値観の相対化を目指す言説群であるから、理解できない言説部分があってもしょうがないとは思う。一番いいのは、多くの人が智恵を持ち寄って、ニーチェの言説の理解できる部分をそれぞれが競いながら分かりやすく提示するということだと思うけれど、なかなか難しいかな。
  
「曙光」の575の言説では、私にとって理解しやすいものもあれば、全く意味不明のものもある。そこて゛、私がギリギリで理解できたニーチェ「曙光」の言説を解説する。   

「曙光 188 陶酔と養育」   

この言説は、「民衆というものはひどく欺かれる。彼らはいつも欺くものを、つまりその感覚を興奮させる酒を求めるからである」 とはじまる。現代アメリカのトランプなんていうのもそうだけれども、ドイツではナチスという強力な雄蜂があらわれた。民衆は欺かれたと言えるけれども、民衆が強い酒を求めた結果とも言えるだろう。  
                     
ポピュリズム。
   
何故このような結果になってしまったのか。ニーチェは意外にもこのように言う。 

「養育よりも陶酔が重要であると考えるこの俗衆的な趣味は、決して俗衆の胸の奥で起こったものではない」   

ではポピュリズムという堕落はどこから来たのか?  

ニーチェはこのように言う。  

「それはむしろ、そこに選ばれそこに植え付けられ、そしてそこでか辛うじて残り、そして豊かに芽を出したのである。それは最高の知性の持ち主たちにその起源をもち、何千年も長く彼らの間で花盛りであったのであるが、民衆は、この立派な雑草がなおも繁茂することの出来る最後の未開地である」 

 ニーチェの言う何千年前かの最高の知性とは、まあはっきり言えばプラトンのことだろう。ニーチェの皮肉だね。プラトンの強力な言説が、何千年かの時を経て近代ヨーロッパ世界をここまで持ち上げたとするならどうだろう。西洋は全くの無から、世界を圧倒したところの近代以降のあの力を得たわけではないだろう?  
ニーチェのその言説を、私なりの言葉を押し込んで再現してみる。 

プラトンにによって選ばれ植えつけられ、そしてヨーロッパ中世の間に辛うじて残り、そして近代において西洋文明はその芽をだした。そして民衆の陶酔とは、その文明の最後の段階で繁茂するものである」  

はるか古代、プラトンの渾身の言説が、何千年かの時を経て、世界を持ち上げ一つの文明をつくる。ニーチェはそれを相対化して、文明の衰退を予言する。  

すばらしい。



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結論から言うと、ツァラトゥストラにおける永劫回帰とは、終わらない祭りの論理だね。
神が死んだというのも、祭りになれば神は祭り上げられてしまうからだろう。





ツァラトゥストラはちょいちょい歌ったり踊ったりする。さらにこのようなことまで言う。


「戦争や祭りを喜ばなければならない。陰気な人間や、夢見るハンスはいらない。どんなに困難なことにも、自分の祭りのように喜んで取り組まなければならない」

ツァラトゥストラは祭り好きなんだろう。

ニーチェはあらゆる価値観の相対化というものを呼号したけれども、このことと祭りというのは関係性がある。

祭りにおいては、既存の価値観というのは軽くなってしまう。秩序と祝祭とは相容れない。近代以降、秩序体制が強化された日本において祭りは強力に管理されている。何かのきっかけで渋谷のスクランブル交差点に若者が集まったりすると、すかさず大量の警官が動員される。

江戸末期の、ええじゃないか、も祭りが止まらなくなったものだろう。明治政府が最初に行った施政は祭りの規制だった。

ニーチェは価値観を相対化した結果祭りに言及したというより、ニーチェ自身がそもそも祭り好きなんじゃないのかな。永遠の祭りを期待した結果、あらゆる価値観の相対化を発見したのではないだろうか。

ツァラトゥストラはキリスト教を辛気臭いといってさんざん攻撃しているわけで、これはよっぽどの祭り好きだと推測される。

ニーチェの思想に永劫回帰というのがある。長い時間の枠組みの中では、同じ瞬間が繰り返されるであろうという。一度でも繰り返されれば、永遠の時間の中で何度でもその瞬間は繰り返されるだろうという。

終わらない祭りの論理だね。

近代における時間の観念というのは、永遠の過去もしくは過去のある始点から、永遠の未来もしくは未来のある終点まで、時間が一直線に続くというものだ。ビッグバン以前の宇宙はどうなっていたのかという疑問があるとして、私たちはこれを当然の疑問だと考える。しかしビッグバンという想定自体が、時間は一直線に続くはずだという想定の結果ではないだろうか。そしてさらにビッグバン以前という観念は、時間は一直線に続くはずだという想定の結果ではないだろうか。

ニーチェはこのような近代的時間観念のアンチテーゼとして、永劫回帰というものを提唱したのではないかと思う。

時間感覚というのは、世界観というものの基本観念であって、ニーチェは近代的世界観の基本観念である直線的時間観念というものを相対化しようとして、永劫回帰という時間観念をぶっこんできたのだと思う。

終わらない祭り、永遠に続く祝祭、そういう世界もなくはないと思う。新しい世界観には新しい時間感覚が必要だということだろう。


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ツァラトゥストラはかく語りき【電子書籍】[ ニーチェ ]
ツァラトゥストラはかく語りき【電子書籍】[ ニーチェ ]

ニーチェの「権力への意思」は、ニーチェの死後にその遺稿をニーチェの妹がまとめたもの。このニーチェの妹、エリザベートというのだけれど、後世の評判があまりよくなくて、それに伴って「権力への意思」という本の評価も低めだ。

しかし実際読んでみての内容は素晴らしい。



【「権力への意思」解説】

ニーチェが難解だとされるのは、言っていることが難しいというのではなく、まあ何というか、誰もが持っている固定観念を、誰もが相対化できないからだと思う。


人間というのは、それなくしては生存できないような観念を、普遍的真理だと思い込む習性がある。例えば、潔癖症の人が手を洗ってばかりいたとする。正常とされる人は、そのような人を不思議に思う。そんな手が荒れるまで洗う必要もないのにと。しかし、潔癖症の人にとって、手を洗うことが自分の生存を保障すると確信していたとするなら、その人にとって手を洗うことは真理となるだろう。

キリスト教などのような一神教の宗教を信じる人は多い。キリスト教を信じなければ、社会の一体性や秩序が保てないとするなら、その社会においてキリスト教は真理となるだろう。

原因と結果が転倒している。もう一発いこう。

1という数は1だ。1が1ではないなどということはありえない、と普通考える。しかし、1がいつでもどこでも1であるということは、いったい何によって保障されているんだ? 

何によっても保障されてはいない。

人間個人にとって、その自己同一性と、1がいつでもどこでも1であるということはリンクしている。1=1というのは、何らかの真理何らかの原因というものではなく、社会がその維持のために個人に要請している自己同一性というものの結果なんだよね。

このような考え方が正しいとか正しくないとか、そのような判断はおいといてだよ、この予備知識をもってニーチェを読んでみる。

「権力への意思」484

「思考作用がある、したがって思考するものがある、デカルトの論拠は結局こういうことになる。しかしこのことは、実体概念に対する私たちの信仰を当たり前のものとして設定することに他ならない。デカルトのやりかたは、達せられるのは何か絶対に確実なものではなく、一つのきわめて強い信仰の事実にすぎない。このデカルトの形式においてでは思想の仮象性を退けることはできない」

デカルトの「我思うゆえに我あり」というやつ。ニーチェは、これを当たり前ではないと言う。「我思うゆえに我あり」と認識するためには、認識主体に何らかの一体性がなくてはいけない。しかし、この一体性というものはあたりまえではない。

「我思うゆえに我あり」という言説は、正確に語るなら、「我思うゆえに我あり」と認識できる程度の自己同一性を、近代世界に参加する人なら備えておくべきだ、という価値判断なんだよね。

ではなぜ私たちは、たんなる価値判断を真理だと思ってしまうのか。

それは社会的要請だろう。近代という厳しい時代では、社会秩序を維持するために個人の自己同一性というのが、かつての時代よりもより必要とされているということだろう。

田舎の話なんだけれど、今から40年ぐらい前は、頭のおかしい人というのは案外その辺をふらふらしていて、地域の人もひどく悪いことをしないのなら、まあしょうがないよね、みたいな雰囲気があった。福沢諭吉の「福翁自伝」のなかに、村の中をふらふらするキグルイ女の話があった。「カラマーゾフの兄弟」でのスメルジャコフの母親は、村のキグルイ浮浪女だった。

現代ではもうありえない。

かつて個人の自己同一性というのは、あればよりいいという程度の価値判断だったのだろう。ところが現代では、自己同一性の価値が高まって、ほとんど真理のような扱いだ。自己同一性のあやしげなやつは、とりあえず排除の勢いだ。

いいとか悪いとかいう物ではないのだけれど、単なる価値判断が真理かのように語られるということはある。ニーチェは、真理だと思われているあらゆるものは、単なる価値判断だ、というのだけれど。

近代教育は、近代人にふさわしい知識を与えるところの教育であり、発展途上国なんかは、教育制度が整備されていないからいつまでも途上国であると考えられたりする。現代日本においても、教育、啓蒙というものには、かなりの価値比重が与えられている。

しかし、この現代教育における啓蒙の比重というのは、はたしてふさわしいものなのだろうか? 

精神科医の木村敏による、人間の存在構造についての仮説。

3層に分かれている、というもの。最下層は外界と直接接するところの、生存本能や情動が支配する世界。これは全ての生物に存在する。

第2層は、その種に特有の価値判断によって、情報がカテゴリー化されている世界。これは、犬や牛や馬にも存在する。牛は馬には興味が全くないらしいが、牛同士は興味が存在するらしい、見つめあったりするし。価値の差異というのが存在するのだろう。

人間の最上層は論理の世界。合理的推論が支配する。

人間の存在構造とは、最下層からエネルギーを調達しながら、第2層と最上層との情報の循環が、人格というものを形成するという。

精神疾患を図式的に理解するなら、最下層からのエネルギーの調達が弱いと、分裂病になり、第2層と最上層との接続が弱いと境界例になり、第2層の形成が弱いと離人症になるという。

例えばこのような仮説があるとして、教育的啓蒙というのは、最上層の論理世界にしか影響を及ぼせないわけで、啓蒙と言うだけでは人格の十全な形成には不十分だということになる。啓蒙が無条件に真理だということはありえないわけだ。

職場とかにおかしいヤツっていると思うんだよね。話が通じないみたいな。

なぜ話が通じないのか? 可能性は2つある。

おかしいヤツの人間存在構造の最上層以下のどこかの部分がいかれているか、もしくは、自分自身の存在構造のどこかがいかれているか。

現代においては、何が普遍的観念なのか、かつてに比べて怪しくなってきている。さまざまな意見の百家争鳴がこの自由世界のいいところだという意見もあるだろうが、それは社会の一体性というものの犠牲の上に成り立つ論理となってしまった。

ニーチェはこのようにぐらついた世界観を一掃して、新しい秩序を形成しようとしていたのだろう。すなわち、ニーチェ哲学には二つの柱がある。全ての価値観を相対化するということ、相対化された世界に新しい価値世界を形成するということ。

全ての価値観を相対化するということについては、よく語られる。ポストモダニズムのネタ元というのはだいたいにおいてニーチェだ。フーコー柄谷行人も、ニーチェのパクリだと言われてもしょうがない部分がある。

「相対化された世界に新しい価値世界を形成するということ」

ニーチェのこの部分については、あまり語られない。だからここで、「権力への意思」の第4書「訓育と育成」のなかから、ニーチェの構想を紹介してみたい。

ニーチェの構想は2つあると思ったね。一つ目。「権力への意思」898にこのようにある。

「この平均化された種は、それが達成されるやいなや、是認されることを要する。それは、主権をにぎる高級種に奉仕しているのであって、この高級種は、それを地盤としており、それを地盤としてはじめておのれの課題へと高まることができるからである。彼らは、その課題が統治することにつきる君主種族であるのみならず、おのれ独自の生活圏をもっている種族であり、美、勇気、文化、最も精神的なものにまでおよぶ手法のための力をあり余るほどもっている種族である」

高級種と枠組みを区切っているあたり、生活圏という言葉から、ナチス思想の起源であることは明らかだろう。一つの考え方ではあると思うけれども、いうなれば覇道だね。

では、二つ目。「権力への意思」980

「価値評価の立法者である哲学者。哲学者を、偉大な教師であり、孤独の高所からいく世代かの長い連鎖をおのれのところへと引き上げるほど強力であると考えるなら、その人は哲学者に偉大な教育者の不気味な特権を認めなければならない。教育者というものは、おのれ自身が考えていることをけっして言わない。そうではなくて、つねにただ、彼が教育するものの利益を考慮しながら、ある事柄について考えていることを言うにすぎない。このように偽装するので彼の本心は推測を許さず、彼の真実性が信ぜられるということは彼の名人芸に属する。  そのような教育者は善悪の彼岸にいる。しかし誰一人としてこのことを知ってはならない」

王道だ。しかし、これほど難しい道はない。ニーチェでさえ、さらにいえば、ニーチェ程度ではこの「王道の書」を記すことはできなかった。

私は思うのだけれど、古代と近代って似ているところがあるよね。普遍観念で広範な地域で社会の秩序を維持しようとするところ。プラトン哲学って、いうなれば覇道だよね。枠組みを区切ってその中で観念世界を形成しようとする。その考えはローマ帝国に引き継がれて、ローマ帝国は最後は滅び、そして二度と復活しなかった。

ギリシャ哲学の覇道なるが所以だろう。

現代の日本も含めての西洋文明というのが、まあ何百年後かに滅びたとして、かつてのように中世に移行したとして、おそらくローマ帝国末期のように悲惨なことになるだろう。

アウグスティヌスはアッティラのことを神の鞭と表現していた。

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ジルドゥルーズによるニーチェの入門書。ジルドゥルーズはニーチェを説明しきれてないと思う。そのあたりのところをくわしく。

ただニーチェを解説しながら、何だか微妙にニーチェが分かりにくくなっている。ドゥルーズはニーチェを限定しすぎなんだと思う。
例えばドゥルーズはこのように言う。

「哲学は能動的な生と肯定的な思想との統一の代わりに、思想は生を裁くこと、いわゆるより高い価値を生に対立させることを自らの任務として定めるのである」

ニーチェ思想を無理に敷衍して、現代社会における自由意志のエネルギーの衰退を嘆いているような論調だと思う。現代の自由主義社会において、自由意志の旗を高く掲げようというのは悪いことではないとは思うけれども、そのことにニーチェを使うというのはニーチェ思想の限定であり、ちょっと危険だと思う。

そもそも自由意志とは何か?

右手を上げようと発意して右手を上げたとする。これを素晴らしい自由意志の発現と考えるなら、私たちの意識の中枢に「意思」というコアがあって、その意思が右手を動かしたということになる。さらに言えば、「意思」が脳内細胞の特定のシナプスを発火させ、その結果右手が持ち上がったということになる。
「意思」が脳内細胞の特定のシナプスを発火させる?
これではサイコキネシスになってしまう。ありえない。サイコキネシスは存在しない。
近年の研究によると、自由意志が自覚される0.何秒か前に脳内シナプスの発火が認められるという。脳内シナプス発火がある程度自覚できる状況になって初めて、その自覚が自由意志として認識されるというだけだろう。すなわち私たちが普通自由意志だと感じているものは、自由意志というものではなく単なる事後認識みたいなものだと考えるのが合理的判断だろう。

こう考えると、ドゥルーズの「能動的な生と肯定的な思想との統一」というところの「能動的な生」とは、人間情動の事後認識みたいなものになる。
さらに、ドゥルーズの言う「生を裁く思想」とは何か?

自由意志の自覚から実際に行動が起されるまで0.何秒かあるのだけれど、この0.何秒の間のどこかの時点に行動を抑制することができなくなるポイントオブノーリターンの時点が存在する。
逆に言えば、自由意志の自覚から行動抑制のポイントオブノーリターンの時点までは行動抑制が可能だということだ。この行動抑制の判断というのは何によってなされるのかというと、彼我の強弱だとか社会的通念などの価値判断だ。

お腹がすいているからといって、大人はコンビニの商品棚にあるパンをその場でむしゃむしゃ食べたりしない。なぜなら価値判断によって行動抑制の判断をしているからだ。これがドゥルーズの言う「生を裁く思想」ということになるだろう。

結局どういうことになるかというと、ドゥルーズが否定的に語った
「思想が生を裁きより高い価値を生に対立させることを、哲学が自らの任務として定め」て別に何の問題もないということだ。
価値判断という思想が能動的な生と統一されたりしたら情動駄々洩れであって、たぶん人格障害のレベルになってくると思う。

ニーチェは狂気の中で狂気の哲学を展開したわけであって、それはそれで強力なものがあるのだけれど、狂気の哲学をエスタブリッシュメントの教養として限定し取り入れるというのは無理があると思う。

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竹田 青嗣 「ニーチェ入門」 は、ニーチェをヨーロッパ思想史のなかにうまく当てはめながら、分かりやすく説明している。 

竹田青嗣は、ニーチェの思想には

「近代の世界観を相対化する」
「近代が陥るであろうニヒリズムをどのように克服するか」

ということとの2つのテーマがあるという。フーコー等のポストモダニズムの思想家は、この前者「近代の世界観を相対化する」ことについては取り組んでいるのだけれど、後者「近代が陥るであろうニヒリズムをどのように克服するか」ということについては沈黙しているという。  

それはある。私もそう思う。  

しかし何故フーコーが、「近代が陥るであろうニヒリズムをどのように克服するか」というテーマに触れることが出来なかったのかというと、これはフーコーの能力不足というより、ここを掘ってしまうと必然的にヒトラーの思想に行き着いてしまうから、ということだったと思う。 

竹田青嗣 「ニーチェ入門」 においても、ニーチェとヒトラーとの関係というのが、全く薄い論理で否定されている。ニーチェは反ユダヤ主義者ではなかったとか、ニーチェの作品内でナチスよりの言説が多いのは、ニーチェの妹がこれを編集したからだとか、正直話にならない。  

アカデミズムが、自らの正当性を守るために、あったことをなかったことにするなんて、ちょっと感心しない。そのようなことは、ニーチェが一番批判したことではないだろうか。   

私が、ヒトラーとニーチェとの関係性について説明する。  

ニーチェ以降の実存主義系統の哲学者が目指した 「近代の世界観を相対化する」 とは結局どういうことなのか。結論から言うと、近代世界というのは、当たり前に存在するのではなく、人間存在に関する一つの前提があるということだ。ある世界観に前提があるということは、その前提を変えれば世界は変わるだろうから、前提を発見するということは、世界を相対化するということになる。  

では、私たちのこの世界の前提とは何か?  

それは、自分が自分であること、自己の一体性、自分と他人とは明確に異なる、などの自己同一観念は当たり前であり、人間なら誰もが持っているはずだという信仰だ。  

このような信仰から、民主主義や人権観念というのは発生している。人間は成人になると、自然と自分が自分であると認識するようになり、少なくとも最低限の大人にはなる。だから、成人にはほとんど無条件に政治参加の機会や基本的人権が認められているわけだ。  

このような世界観というのは、一つの見識ではあると思う。この世界の前提を発見したとしても、とりたててこの世界の整合性に不都合がないのなら、その前提をそっとしておくという考えも成り立つ。  しかしなかなかそういうわけにはいかない。  

この世界の弱点というのは、「自分が自分である」ということが当たり前になっているから、「自分が自分である」ための訓練などというものはしない。よって、自己同一性の怪しいようなやつまで、ジャンジャン同じ社会に参加してくる。この社会というのは、「自分が自分である」ということが前提されているわけだから社会的プレッシャーがきつめで、脱落者が多く出る。社会から脱落する同胞が多くなれば、それだけ社会の生産性は落ちてくる。それでいいのかという議論は当然でてくる。 

これがニーチェの、「近代が陥るであろうニヒリズムをどのように克服するか」ということにつながってくる。この問題を大きく解決しようとしたのがヒトラーだ。ヒトラーは、自己の同一性なるものは無条件に与えられるものではなく、自らが勝ち取るものであると、国家がその枠組みを与えるべきだと主張した。このような枠みにそって、ヒトラーの「わが闘争」のなかには近代世界観を相対化し、さらにドイツのニヒリズムを克服するためのアイデアが多数存在している。  

ニーチェは、ニヒリズムを克服するために「力への意思」という漠然としたことを主張したけれども、ヒトラーは、ワイマールのニヒリズムを克服するために、国家の一体性、個人の一体性の強化を主張した。「力への意思」というものを、一体性への志向と理解したのだろう。ヒトラーの論理は正しい。近代以降、個人の人格の一体性が空洞化しつつあるから、そのあたりを国家主動で再編成しようというわけで、きわめてわかりやすい論理に帰着する。  

ヒトラーは彼自身としては失敗したのだけれど、ニーチェの思想を現実の政治世界で実践して、現代にまで総力戦思想という巨大な影響を及ぼしている。  

ニーチェとヒトラーを切り離してしまうと、哲学のみを論じるアカデミズムにとっては快適かもしれないが、ニーチェそれ自身の価値というは、極端に低下すると思う。


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「諸民族の幼年時代」はニーチェが17歳の時に書いたものだ。内容は、二流の社会学者が書いたような感じで、才能のキラメキというのは全く感じられない。

この思想が、若き日のニーチェ? どこを引用してもひどい。
例えば「諸民族の宗教は、はじめ彼らの心のうちに、彼らの父なる神を喜ばせたいという願いから始まった」とある。 

あらゆる価値観の転換を呼号したニーチェの、若き日の言論がこれだから。

父なる神というキリスト教くさい観念を諸民族に押し付けようとしている。宗教の起源という微妙な問題を、あまりに簡単に考えすぎている。というか、ここは宗教ではなく宗教儀式と言うべきだろう。突っ込み始めたらきりがない。  

若き日の論文群というのは、ニーチェの黒歴史だろう。晩年、あれだけの論考を展開したのに。   

でもいいように考えてあげたいと思う、「人は変われる、ニーチェも変わったから」 こんな風に。

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ニーチェ流のニヒリズムの中に希望を見出す方法。





【ニーチェ流のニヒリズムの中に希望を見出す方法】


仕事でテンションがあがらないとか、人間関係で悩むとか、よくあると思う。実はこれ、簡単な解決方法がある。  

自分の一番大事な価値観とは何かって考えてみてほしい。何を思い浮かべただろうか。だいたい想像はつく。アニメだとか、彼女だとか、仕事上の一部分だとか、だいたいそのようなものだろう。そのようなこまごまとした、もしくは漠然とした価値観を頭上に頂いて、テンションなんてあがるわけないだろう。  

私が薦めるとびっきりの価値観というのは、性善というものだ。性善とは、人間には善というものがそれぞれに付与されている、という考え方だ。この考え方では根っからの悪人というものは存在しない。一見悪人に見えたとしても、それは善が様々な事情で厚く覆われていると考えるわけだ。    

会社の取引先の知り合いに、フィリピンパブの好きなヤツがいる。独身の50歳のオヤジでフィリピンの女の子が大好きという。 

フィリピンパブの何がいいのか。彼が言うには、

「フィリピンパブのフィリピンの女の子って、日本語ほとんどカタコトじゃん? でもそのあんまり喋らないのがいい。日本人の女ってウルサイじゃん」

と言っていた。最低だろう。   

日本人の女は日本語を喋るからうるさいという。  
全くひどい話でね、女性蔑視もここに極まれりだよ。

この話に、どう気持ちの上でリアクションするか? それは女性蔑視ではないのかと考えてしまうのは論外だ。考えただけで疲れるね。スルーするっていうのもどうか。モヤモヤした
気持ちが残ったりしたら、疲れの原因となる。   

こういうときに性善説だ。このオヤジにも心の中に善があると、そしてその善は厚く厚く覆われている。彼を厚く覆っている何物かを拭い去り、彼の善を救うことは出来るだろうか。もちろんそんなことは出来ない。そんな暇もないし、能力もない。最後に彼の事をどのように思うかと言うと、「かわいそうに」。   

この方式だと精神的エネルギーをほとんど使わない。坂道を自然と下って、ただ最後にかわいそうと思うだけだから。この方式でエネルギーを節約すれば、トータルでかなりのものになる。   

大事なことは、こだわらないということだ。意識の中での最も高い価値観ですら変更可能であると認識することだ。自分が自分であるという確信は心の深いところにあって、意識の表層の価値体系を変更したからといって別に動揺したりしない。力を節約できる分、意識を合理化したほうが得だろう。

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「偶像の黄昏」は、ニーチェの最晩年の著書。  

論旨は明快だ。  

ニーチェを読んでもよくわからないという人も多いと思うのだけれど、普通の視点ではなく、ニーチェの視点から読むようにすればいい。近代以降、メジャーな思考においての世界解釈は、論理と情動とか、合理と情念とかのように二元論になっている。このような構造から、情念を合理性でコントロールするべきだという啓蒙思想も生まれてきたりする。  

ところがニーチェは、論理世界と情念世界をつなく゛ような何らかの精神構造を想定しているのだと思う。今便宜的に、ニーチェの想定した中間精神構造の部分を坂口安吾の言葉を借りて「ふるさと」と呼んでみる。  

本来の人間の論理世界と情念世界は、「ふるさと」によって結合されている。ところが近代以降、「ふるさと」が忘れられてしまって、論理世界と情念世界は懸絶してしまった。二つの世界が離れているのが当たり前だと思うようになった。人間は本来の世界を離れて、虚偽の世界に暮らすようになったから、様々なことが説明できなくなってしまった。  

たとえば「美」  

美しいとはなんなのだろうか。二元論世界における美の説明は、縦と横の比率がある数値になるとこれを黄金比といって美の基準となる、などというものだ。このような馬鹿げきった論理に納得ができるだろうか。

初恋のあの子は何らかの黄金比を体現していたのか?  

私が知りたいのは黄金比なるものではなく、子供のころ、友達と遊びつかれて家に帰る途中で見た、あの悲しみにあふれた夕日の意味なんだよ。    

現代の世界観では説明できないことが多すぎる。何らかのファクターが欠けていると考えるのが自然だろう。ニーチェは近代社会を批判しながら「ふるさと」をあぶりだそうとしている、そのように考えてニーチェを読めば理解しやすいと思う。

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権力への意思なんていうことを単純に考えてしまうと、自分が王様的なものになるかというような願望? ということになるかと思うけれど、ニーチェの「権力への意思」とは、もちろんそのようなものではない。


   

粘菌という生物をご存じだろうか。

細胞性粘菌の生活様式

細胞性粘菌は、食料が豊富なときは、それぞれの個体が「アメーバ」の形で増えていく。ところが、食料が減ってくると近くの個体が集まり細胞質融合を起こし、細胞の「集合体」となり、広範囲を移動する。さらに食料状態が悪化すると、「子実体」というきのこ状のものになり、先端から胞子を多数ばらまく。この時、胞子以外の部分は死んでしまう。  




もしだよ、粘菌の個体のそれぞれが自己の基本的人権的な生存を主張して、粘菌細胞の集合体になることを拒否したとするなら?  さらにだよ、粘菌細胞の集合体が、何らかの道徳観念を発揮して、「子実体」という集団内での生と死を明確に分けるシステムを拒否したとしたら?  

粘菌は種としてこの世界に生き残ることは出来なかったであろう。粘菌は個々の生より、種としての生きる意志を優先しているわけだ。 

分かりやすく粘菌に例えてみたけれど、同じようなもので、ニーチェは、人間という種としての生きる意志を、「権力への意思」と言っているのではないだろうか。   

すなわち、「権力への意思」とは、とても近代国家群に住む人が受け入れられるようなものではない。ニーチェ哲学が謎だとか言われるのは、理解すら拒否されているところがあると思う。


【ニーチェ「権力への意思 202」】

「頽廃の大仲介者たるプラトンは、道徳の自然性を理解しなかった最初の一人である」  

プラトンは何と何を仲介したのかというと、文脈からして、ユダヤ教とキリスト教だろう。私はニーチェを読む前から、プラトンの言説こそがキリスト教時代を伏流し、近代ヨーロッパを巨大な文明として持ち上げたと思っていた。ニーチェが私と同意見だったとは心強い。  では東アジアは何の言説によって持ち上げられつつあるのだろうか。   

私は、日本は明らかに孟子の言説によって持ち上げられたと思っている。おそらく今の中国も同じだろう。  ウェーバーでさえプラトンに辿り着けなかったのだから、もうプラトンの言説はヨーロッパでは力を失っているのかもしれない。しかし、孟子の言説は東アジアでまだ生きている。世界が無意味に見えたとき、人生の価値を見失った時、孟子に戻ればいつでも浩然の気のおこぼれにあずかれる。   

孟子を読め。  

ニーチェが生きた19世紀後半というのは、ヨーロッパ一強時代だった。ニーチェが気に入らなかったことのひとつは、プラトンが勝手に決めた価値観の序列が、唯一の価値観になって世界を覆っているという閉塞感だったろう。しかし、我々は現代において孟子の言説をてこに東アジアの明らかな勃興をみた。  

プラトンは相対化されただろう。  

ニーチェはすばらしいけれど、やはり言いすぎのところがある。



【ニーチェ「権力への意思 227」】

「彼らは、肉体の要求、肉体の発見を軽蔑し、勝手気ままに無視しようとする。かくして、肉体のあらゆる全感情を道徳的価値へと還元する。病気自身も道徳によって制限されていると考えられ、事情によっては自発的に病気にかかる」




【結核がかっこいいという時代があった】


日本は西洋国家以外でいち早く列強に参加した。現代中国の明らかな勃興を見れば、日本は東アジアの伝統の歴史的言説をてこに、自らを持ち上げたということは明白だろう。

ところが、昭和以前はその辺が曖昧だった。西洋の真似をする、とにかくなんでも真似をするというのが流行というか、一つの価値であったというのは記憶に新しい。  

今から考えると、馬鹿どもが西洋の価値を過剰に評価する一方で、東アジアの伝統的価値を地道に積み上げ日本を持ち上げていたということがあったということになる。   

昭和以前における西洋崇拝の馬鹿げた流行の例を一つ挙げよう。   

昔、「結核」がかっこいいという流行があった。日本での始まりは徳富蘆花の結核小説「ホトトギス」あたりだろうと思う。現代少女マンガの金字塔「ベルサイユのばら」にも、主人公のオスカルが咳ををしたら手に血が?という場面がある。 

「それは結核です」  

結核は華麗な死を予兆する伏線となっていて、オスカルはバスティーユの戦いで死ぬ、結核ではなくて。  

結核ブームなるものはなんだったのか。結核がかっこいいなんていう流行がいかにして可能なのか。 

すなわち結核愛好の流行とは、肉体を軽視した時に現れる道徳的価値の一つの堕落した表現なんだよね。  

徳富蘇峰と徳富蘆花、きわめて優秀な兄と流行を追いかける足りない弟、A級戦犯容疑の兄と「ほととぎす」の弟。  

結核のイメージは、日本の近代に何らかの意味を付加しただろうか?



【ニーチェ「権力への意思 317」】

「つねに人間の中等品を尺度として測られるなら、、、」  

そういえば、近代以降の道徳というのは、中産階級をターゲットとして設定されていると言えなくもない。誠実、信用、勤勉、正直、みたいな通俗道徳が結局は近代国家の原動力だったというのは間違いないところだ。日本もそうだったし、ヨーロッパも同じだ。  

実際に労働をする場合には、小回りがきくみたいなことも必要なのだけれど、やはり誠実とか勤勉とかは基本だろう。よく考えると、誠実とか勤勉という徳目は、ある程度の努力で習慣化できそうなレベルで、凡人向けではある。 

誠実、勤勉が、よりすばらしい理想にいたる階梯だというのなら、別に問題はない、覚めない夢みたいなものだ。しかし、誠実、勤勉が、中等程度の人間を大量生産するために作られた徳目だとするなら、これは看過できない。誠実と誠実のふりをすることとの区別がつきにくくなる。 

例えば、新聞を読んだときに、この新聞は信用できると思って読むのと、この新聞にはどこにどんなバイアスがかかっているかわからないぞと思って読むのとでは、コストが異なってくる。誠実という徳目が真か偽かというのはあまり意味がなくて、誠実をローコストで信じあえる中産階級というものに意味がある。それをニーチェは、「誠実という徳目は中等品の尺度」だというのだからキツイよね。          

同じ箇所でもう一つ。
  
「徳は伝達されないのである」  

プラトンの「プラタゴラス」でソクラテスも同じようなことを言っていたのだけれど、ニーチェとソクラテスが同じことを言うのが解せない。 

ニーチェは率直に語るから、ひねっているとすればプラトンのほうだと思う



【この世界は何故このようにあるのか】


ニーチェは「権力への意思」のなかで、近代的価値を一掃し、新しい価値世界をつくるべきだと唱えている。



この世界は何故このようにあるのかと不思議に思ったことはないだろうか。  

現代世界を確定した価値とは何かというのを、突き詰めて突き詰めていくと、西洋ではプラトンの正義論、東アジアでは孟子の性善説ということになる。思索する個人は最後に問われる。  

性善説を信じて、この世界を受け入れるか、性善説を拒否して、この世界を再編成するか。  性善説を拒否しながらこの世界でよろしくやろうというような考え方は成り立たない。そのような考えは社会に寄りかかった甘えであり、精密に議論されるなら簡単に論破されるレベルだ。逃げれば論破されないと思ったら大間違いだ。人は死ぬ。死ぬまでに、この世界での意味を問われるときが必ず来る。お金が沢山あるとか、愛する人に囲まれているとか、そのような状況などは、自分が社会に甘えてしまった弱さとは何の関係もない。  

「権力への意思 第1書、第2書」で、ニーチェは世界の価値を相対化して、読者を、正義は真理であるという場所から正義を信じるかどうかという場所にまで連れ出す。正義を信じるという者はそのままでいい。しかし、正義を信じないという者には、新しい価値秩序が必要だ。近代社会は、そもそも正義を信じないなどという人間のためには構成されていない。   超人には新しい価値秩序が必要で、その新しい価値秩序とは何かというのが「権力への秩序 第3書」以降で書かれている。  

個人的には、孟子の性善説を信じてこの世界を受け入れるという人生で悪くないと思っている。



【ニーチェの言う「権力への意思」とは何か】

権力への意思とは認識を確定する力みたいなものだと思う。これだけいうとよくわからないと思うので、例をあげてみる。  

いつも水曜日にする仕事があったとする。これを火曜日にやってもいいんじゃないかと思って、ある日実行したとする。うまく火曜でもやれるじゃんみたいなことになった。その仕事を火曜日にするようになったら、そのうちその仕事を火曜日にしなくてはいけないような脅迫的心情を抱くようになってきた。

このようなことは、仕事でよくある。フレキシビリティーを求めていたにもかかわらず、固定観念が発生してしまうという。このような観念を固定するところの力を、ニーチェは「権力への意思」と言っているのだろうと思う。固定観念にもいろいろあって、ゆるゆるのやつもあるだろうし、誰でも持つような極めて強固なものもあるだろう。上記の例はゆるゆるの部類になるだろう。  

これがもし、きわめて強固だと思われている概念が、実は固定観念だとしたらどうだろうか。民主主義、自由、平等、民族、独立、正義、神。これらの諸概念が真理ではなく、固定観念だったとしたらどうだろうか。真理は真理だから我々に真理として立ち現れるのではなく、ありふれた概念が何らかの力によって強力に固定されたものが真理ということになるだろう。こうなると真理は真理ではなく、世界を支配しているのは、権力への意思ということになる。



【もう一つの考え方】


「権力への意思」とは何かというと、概念を確定する力的なものだと思う。

概念を確定する力というのは至る所にある、というかこの世界にはこの力しかない。至る所に概念を確定しようとする力はあって、それぞれの力同士が、互いに同じ領域で概念を確定しようと争っているという。

プラトンが正義の概念を確立したのは、概念を確定しようとする力同士の争いに決着がついたからだということになる。物理の法則も、「権力への意思」の間における闘争の便宜的な平衡状態の表示、ということになる。   

ニーチェの言いたいことは分かるのだけれど、常識では理解しにくいというのはあるだろう。  

ただ、ニーチェのいうことも一理あるとは思う。現代において科学は発達した、すばらしい。ただ肝心なところが分からない。意識とは何なのか、進化とは何なのか、生物とは何なのか。

物理学は時々奇妙な論理を繰り出したりするのだけれど、あれってどこまで本気なのかって分からないところがある。例えば「シュレディンガーの猫」とか、猫は半分生きていて半分死んでいて、確認された時点で生きたり死んだりするみたいな。それ本気か? おそらく自分が頭がいいと思っている人たちのサークル内では、この微妙な感覚が理解できたら頭がいいみたいな合意でもあるのだろ。嘘でももう少しマシな嘘をついてもらわないと困る。  

この世界を理解するための要素が一つ足りないということはありえる。なんせ、肝心なことが分からないのだから。粗雑に言ってしまうなら、この世界を理解するためのたった一つの要素というのが、概念を確定する力であって、ニーチェはこの力を「権力への意思」と呼んでいる。この「権力への意思」を貫徹することによって、この世界の価値観を再編成しようというのだろう。  

キリスト教や西洋世界を相対化しようというところまでは、ついてこれる人もいるだろう、フーコーやウェーバーみたいに。しかし、「権力への意思」とか言い出すと、オカルトっぽくなって、理解できる人も少なくなってくるだろうとは思う。渾身でこの世界の奥に手を突っ込もうという。



【さらにもう一つ】


この世界には細分化された同種類の力的なものが溢れていて、力同士が互いに互いを同化しようと争っているという。このような争いが、さまざまな位相、物質だったり、細胞だったり、人間だっり、認識だったりという全ての位相で行われているということだろう。

世界が力の相克だとするなら、善と悪、神、正義、平等、人権、そのようなものは意味がなくなる。例えば、「正義」というのは、そもそも力の相克を調停する観念だ。善と悪、神、平等、人権なども結局似たようなものだろう。  

この現代世界は、確定された観念にしたがって個人が行動するというのが普通になっている。なぜ人を殺してはいけないのか、簡単には説明できない。不倫はダメで、借金の踏み倒しもダメだという。何らかの固定された観念に私達が影響されているのは明らかだ。 

力の相克なんて野蛮な感じがするだろう。フーコーやウェーバーはニーチェをヒントに世界を相対化するような言説を展開したけれども、相対化した後の展望はなかった。気持ちは分からなくはない。この世界の価値観を相対化した後、力の相克という生々しい世界が現れるとしたら、それは大学教授みたいな人にはきついだろうから。  

結局トータルで考えてどうなっているのかというと、この世界の秩序というのは岩盤だとみんな思っているのだけれど、ニーチェの「権力への意思」みたいなものでひっくり返されるという脆弱性がある。

ヒットラーとか、今から考えると、彼はこの世界をひっくり返すという観点においては結構いいところまで行ったのではないかと戦慄するところがある。


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ニーチェは「道徳の系譜」の終盤になって、ついにプラトン批判を出してきた。プラトンの言説こそが、近代以降のヨーロッパをここまで持ち上げたところの核心であるとニーチェが考えているのは間違いない。  

「道徳の系譜 第3論文 19」 

「真当の嘘、正真正銘の断固たる正直な嘘、(これらの価値についてはプラトンに聞くがいい) は、彼らにとってあまりにも厳しすぎ強烈にすぎるものであるだろう」  

プラトンの正直な嘘とは何か。結論だけいえば、正義がないのなら、それを作り出さなくてはならない、ということになるだろう。

プラトンは「国家」の中で、哲人国家という正義の国家を仮想した。そして現実に存在する様々な国家体制というのは、哲人国家からの堕落形態であるとした。これだけをみると、別にプラトンに何の問題もないように思う。

しかし、もしプラトンが正義という概念を捏造したとしたならどうだろう。まあ、正義の概念の捏造というは言い過ぎかもしれない。しかし、プラトン以前においては、正義という概念はあったとしても、きわめてあいまいだったとして、プラトンが国家体制の価値に明確な序列をつけることで、正義という概念が明確になったとしたらどうだろう。

正義とは、価値が秩序付けられた世界に現れる一つの概念だろう。プラトンが行なったことは、「正義があいまいなら、それを確定させなくてはならない」ということになる。これがニーチェの言う、正直な嘘、ということだろう。   

近代世界というのは、正直な嘘を頂点として、下降すればするほど、その合理性が怪しげな価値体系の集合として存在している。プラトンレベルの正義というのは、誰もが実践できるというものではない。ニーチェの、「それは彼らにとってあまりに強烈すぎる」 とはこのことだろう。

ニーチェは、ルサンチマンという言葉まで創って、この世界の弱い輪を攻撃して、さらにプラトンの足元を、さらにはこの世界の足元を掘り崩そうというのだろう。   

だから、ルサンチマンという言葉は、使うことにかなりの覚悟がいるよ。ルサンチマンとは、この世界をひっくり返すためのニーチェ渾身の言葉で、世界がひっくり返れば、自分もただではすまないのだから。ある意味、呪いの言葉だ。

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