magaminの雑記ブログ

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この本を読む限り、入江隆則という人物は日本保守論客の最高峰だろう。
「敗者の戦後」という本は、あの太平洋戦争の戦前戦後をナポレオン戦争と第一次大戦のドイツと比べようというもの。そして保守の立場から太平洋戦争を冷静に判断しようとしている。

この本は、視野の広さ、論理の切れ味、精神の謙虚さ、思想の意外性、どれをとってもすばらしい。私は個人的には左より、すなわちリベラルだけれども、リベラルはこのような尊敬できる保守とこそ議論しなくてはいけないと思う。

保守の基盤というのは結局エリートの矜持ということだと思う。それに対してリベラルの基盤というのは、全ての人間が救われるべきだという信念だ。それを考えると民主党とか民進党?とかというのは本当にダメ。労働組合を基盤としていて大企業の正社員優遇が明らかだ。大企業の正社員がエリート意識を持ってがんばるというのでは、これは政治的に保守だろう。そもそも戦後の革新政党なるものはエリート意識丸出しで論理的に破綻していた。民主党に比べて安倍政権は優秀だ。総力戦という言葉を使う。総力戦とか総動員体制というのはそもそも戦前の革新官僚の言葉だ。総力戦思想は、全ての人間が救われるべきだというリベラルの精神を完全に含んでいる。民進党は終わりだろう。存在成立のための論理の基盤がない。二大政党が成立するとなれば、総力戦を掲げる安部政権の右側ということになるだろう。

太平洋戦争末期、戦艦大和特攻出撃の前夜に若い士官達の間で、何故自分達が愚劣な作戦で死ななければならないのかという議論になったとき、臼淵磐大尉は決然とこのように語ったという

「進歩のない者は決して勝たない 負けて目覚める事が最上の道だ 日本は進歩という事を軽んじ過ぎた 私的な潔癖や徳義に拘って、本当の進歩を忘れてきた 敗れて目覚める、それ以外にどうして日本が救われるか 今目覚めずしていつ救われるか 俺達はその先導になるのだ。 日本の新生に先駆けて散る。まさに本望じゃないか」

今から考えると、太平洋戦争とは日本を真に合理化するための歴史的試練のようなものだったと思います。ここでいう「合理化」というのは、能力の低いものを切り捨てて出来るものだけで社会システムの主要な部分を回していく、なんていうものではありません。現代的合理主義とは、それぞれの人間がそれぞれの能力に応じて自分の出来る事をなして全体に貢献し、全体すなわち国家は国民それぞれから最大のエネルギーを引き出すためのシステムを提供する、そういうものです。

まあでもこのような認識は太平洋戦争から70年たった後だからこそ分かるもので、当時の人は何のための戦争か分からないのが当然です。
ミネルバのフクロウは夕暮れに飛び立つのです。

しかしこの臼淵磐は、太平洋戦争は日本を真に合理化するための戦争であると明確に認識しています。長期の極限状態が、明晰な頭脳を歴史を俯瞰できる高みにまで押し上げたという事でしょう。

現代日本も真に合理化されているわけではありません。どこにでも、誰かを下に見て自分は最低ではないのだと安心する人たちがたくさんいます。私にもそういうところはあります。あの戦争から70年もたって、こんな事では恥ずかしい。未来のために自分を投げ出すという、そういう心構えを日頃から持ちたいです。




日韓併合期は1910-1945です。

日韓関係というのは現在あまりよくありません。冷戦崩壊後以降の韓国の反日政策と、日本の韓国に対する継続的な無関心の結果だろうと思います。

韓国の反日政策を転換させる能力は日本にはないですから、日韓併合の時代を知るということは、現状の日韓関係を変化させるために出来る一つのささやかな努力であると思います。

現在朝鮮は南北に分断されていて、これは民族としての悲劇です。その分断のそもそもの原因というのが、日本が太平洋戦争にぼろ負けして朝鮮を放り出してしまったという事にあります。朝鮮は35年間日本だったのですから、統一朝鮮の独立のために日本に何か出来る事があればよかったのですが、力及ばず、自らの生存に精一杯という全く日本の能力不足合理化不足を露呈しただけでした。

朝鮮の分断に日本は関係ないという意見はもちろんありえると思います。しかし弟を守りきれなかった兄の責任というものはあるでしょう。逆でもいいですよ、兄を守りきれなかった弟の責任でも。
株と一緒でね、ここまで崩れると日韓関係もすぐよくなるなんていうことはないでしょう。しかし日本と韓国との未来のためには、歴史を簡単に判断するということをせず、歴史の声に静かに耳を傾けるという誠実な態度が必要だと思います。



あの戦争とは誰もが望まない方向に政府が脱線していった結果なのでしょうか。

太平洋戦争が始まったときの、高村光太郎の詩を紹介します。

「真珠湾の日」

宣戦布告よりさきに聞いたのは
ハワイ辺で戦があったといふことだ
つひに太平洋で戦ふのだ
詔勅をきいてみぶるひした

この容易ならぬ瞬間に
私の頭脳はランビキにかれられ
昨日は遠い昔となり
遠い昔が今となった

天皇あやふし
ただこの一語が
私の一切を決定した

子供の時のおぢいさんが
父が母がそこに居た
少年の日の家の雲霧が
部屋一ぱいに立ちこめた

私の耳は祖先の声でみたされ
陛下が、陛下がと
あへぐ意識はめくるめいた

身を捨てるほか今はない
陛下をまもらう
詩を捨てて詩を書かう


そして戦争が終わって、高村光太郎が書いた詩

「終戦」

すつかりきれいにアトリエが焼けて、
私は奥州花巻に来た。
そこであのラヂオをきいた。
私は端座してふるへてゐた。

日本はつひに赤裸となり、
人心は落ちて底をついた。
占領軍に飢餓を救はれ、
わづかに亡滅を免れてゐる。

その時天皇はみづから進んで、
われ現人神にあらずと説かれた。
日を重ねるに従つて、
私の眼からは梁(うつばり)が取れ、
いつのまにか六十年の重荷は消えた。

再びおぢいさんも父も母も
遠い涅槃の座にかへり、
私は大きく息をついた。

不思議なほどの脱却のあとに
ただ人たるの愛がある。

雨過天晴の青磁いろが
廓然とした心ににほひ、
いま悠々たる無一物に
私は荒涼の美を満喫する。



この詩が書かれて70年以上経ちます。しかし、70年経っても、この詩は現代において強力な力を持っていると思います。丸山真男は「日本の思想」に、色川大吉は「明治の文化」にこの詩を引用しています。

あの戦争とは誰もが望まない方向に軍部が脱線していった結果と考えている人は、歴史を簡単に考えすぎています。現代の価値観で過去を裁くことは、注意深くやらなくてはいけない。高村光太郎の詩の向こう側に、私達の魂を投げ出すような感じで。





日中戦争と太平洋戦争を会わせて便宜的に大東亜戦争という言葉をつかわせてもらいます。

ここ何年かいつも考えるのです。大東亜戦争というのはなんだったのかと。
現時点での私の仮説は、
明治維新によって下級武士層や農民階級の上層部すなわち豪農層は封建体制から開放されましたが、自作農以下の日本人は明治以降も日本的村社会にからめとられたままであった。しかし明治以降の出版や交通の発達で自作農以下の日本人にも自意識みたいなものが高まってきたのではないでしょうか。自分達を日本的農村共同体のなかに押し込めるところの明治国家体制に自覚のない不満があふれるなんていうことがあったのではないでしょうか。そんなエネルギーが、反財閥、反重臣、反不在地主となって軍部をあそこまで押し上げたのではないでしょうか。そして財閥や重臣や不在地主が敗戦で押し流されてしまえば民衆は言いますよ、
「あの戦争は軍部の暴走だった」
ってね。

この「持たざる国への道」は思ったよりいい本でした。松本崇という人は1952年生まれ、大蔵省の官僚だった人です。この本の前半は、財政面を多めに取り入れた戦前の歴史のおさらいみたいな感じで、後半は江戸時代から現在に至るまでの金融の歴史を語るという、「持たざる国への道」はそんな構成になっています。大東亜戦争の原因というのは日本人の情念みたいなものだったと私は思いますが、多くの日本人が直接に接するところのものというのは結局お金ですから、戦前を理解するためには経済も重要なファクターだと思います。松本崇という人はその辺を丁寧に立場の許す限り誠実にこの本の中に表現していると思います。

しかしこの本はまだ古典ではないと思うので、あえて批判を書かせてもらうならば、松本崇が立派だったと持ち上げるところの戦前の日銀総裁達も、結局は貴族主義だったのではないでしょうか。金本位制を維持するために経済を引き締めたり、金本位制を離脱して日本経済を持ち上げたり、彼らは与えられた擬似貴族制の中で頑張ったのだろうとは思います。しかしそれは枠組みの中での話であって、当時の日本人はその枠組み自体を問題にしていたのではないでしょうか。だから枠組みを変える力をもつ軍部に支持が集まる。戦前の日銀総裁達も英雄ではなかったという事になります。

しかし現在の日本は、明治維新と大東亜戦争の敗戦という二度の革命によってかなり精神的に開放された状態にあると思います。ですから現在の黒田日銀総裁は、戦前の総裁達より条件はいいわけですから、戦争を心配することなくしっかり頑張って欲しいと思います。



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岸信介は戦前は東条内閣での商工大臣、戦後は60年安保の時の総理大臣であり、「昭和の妖怪」の異名を持つ人物です。

「岸信介の回想」という本は、岸信介が84歳の時のインタビュー集ですから少しは本当のことを言うかと思って読んでみたのですが、内容としては極めてあっさりしたものでした。戦後については言えないこともあるでしょう。しかし戦前については、あっさりながらも岸信介が話したことが真実であるとして、論理を組み立てても問題はないと思います。

岸信介は東大卒の商工官僚としてスタートします。戦前昭和において岸信介は、革新官僚すなわち統制経済を指導する官僚群の中心的存在にまでなります。まず何故岸信介が統制経済にかかわる事になったかというと、

大正15年たまたま立ち寄ったドイツで国家統制化の運動が盛んだった。その事を当時の商工大臣に詳細に報告したところ、その時は相手にされなかったのだが、昭和五年になってその報告が注目されるようになって、もっと研究しろ、ということになった。

だそうです。あっさりしたものです。何らかの信念があったあったわけでもないらしいです。さらに満州事変後、岸信介は満州国において統制経済の主導的役割を果たします。昭和十二年に満州において「満州産業開発5カ年計画」なるものが実施されますが、岸信介によるとこれはソ連五カ年計画のマルパクリだそうです。そう本人が言っています。満州産業開発5カ年計画というものは、理念とか理想とかそういうものから導き出されたものではなく、必要に迫られてソ連から計画だけパクってきた、とそういうことになります。
さらに、岸信介は太平洋戦争開戦時の商工大臣だってのですが、太平洋戦争開戦について聞かれて、

われわれ文官はあれこれ言う立場にない。結論は外交と軍部に任すしかないという気持ちだった
今から考えてみても、一部の軍人に主導されたという訳でもなく、やはり石が坂道を転げ落ちるという情勢でしたね

と答えています。あっさりしたものです。あの戦争で日本人が300万人死んだのですよ。原爆が2発も落ちたのですよ。私の母方のおじいさんはラバウルで死にかけたそうです。

だから岸信介が悪いというわけではないです。岸信介は官僚として時代の要請に全力で応えたということなのでしょう。
岸信介は語っています。東条英機さんはこんな人だったとか、木戸幸一さんはこんな人だったとか、近衛文麿さんはこんな人だったとか。想い出を語るかのようです。
結局太平洋戦争なんていうものは、誰かがどうであれば防げたなんていうレベルのものではないのです。岸信介でさえ当時戦争を意識的に理解するなんてことは出来ていないのですから。



昭和二年、森恪 は東方会議を開く傍ら、鈴木貞一、石原莞爾、河本大作らと談合し、満州の今後について語り合ったという。

その後河本大作は張作霖爆殺事件、石原莞爾は満州事変、を起こすわけです。満州での動乱が結局日本を太平洋戦争に導く導火線になったことを考えれば、この四人組の果たした役割は大きかったという事ができます。彼らが悪いという事を言いたいのではありません。この当時、大日本帝国のあちこちで政治的基盤のない自分の能力だけが頼りの人たちが、大日本帝国の枠組みを破ろうと蠢動していたのだろうと思います。

大日本帝国なるものの最も弱い環はなんだったのでしょうか。それは満州利権だったのではなかったでしょうか。当時、台湾や朝鮮はほぼ日本に組み込まれていましたが、満州において日本の利権はきわめて脆弱です。日露戦争の犠牲を払いながら日本が獲得した満州における利権というものは、長春 - 大連間の鉄道とその付属地なるもののみ。これでは中国に統一政権が出来てしまえば、簡単に回収されかねないものです。石原莞爾、河本大作などは、この大日本帝国の最も弱い環を破る事で、運よく最も早く自分を表現した日本人である、といえるでしょう。

自分の可能性みたいなものを諦めて田舎で静かに暮らすのが自分の人生であると考える人は、徳川幕府の枠組みでも明治政府の枠組みでも、何でも受け入れていけばいいでしょう。しかし時代が進んでいけば、不完全な枠組みに満足できないという日本人が増加するのは当然ではないでしょうか。自分には可能性があると魂が語りかけてくるのです。枠組みを破らずに何の生きる価値があるでしょうか。

太平洋戦争に至る道というのは、大日本帝国の枠組みを破ろうとする時勢の結果だと思います。
今の日本というのは、かなり自由な世界だと思わないですか。それは当たり前のことではなく、太平洋戦争という非常手段によって日本人が自ら勝ち取ったものだと私は思います。この考えには異論が多いであろうとは思いますが、しかし全ての事を説明するのに一番ぴったりとした歴史観だと思います.

近衛上奏文とは、太平洋戦争終戦間際に歴代の総理大臣が一人ひとり天皇の前に呼ばれた時に、近衛文麿が天皇に
何で日本はこんな事になったのか
みたいな事の私見を報告したものです。

その内容というのをザックリ要約すると、
この戦争は共産主義者の陰謀。陸軍に紛れ込んだ共産主義者が、擬似共産主義である統制経済を推進している
というものです。

普通に考えれば、近衛は終戦間際にして妄想にとらわれていると言うところです。陰謀史観が好きな、物事を簡単に考えがちな人は、近衛上奏文を補強するような材料を無理やり引っ張ってくることでしょう。

勝田龍夫が当時内大臣であった木戸幸一に近衛上奏文についてインタビューしたところによると、木戸は
「近衛は共産革命を心配しているようだったが、私はそうでもなかった」
ひどくあっさりしたものです。

近衛は当時陸軍の皇道派と近く、一人一殺の井上日召も近衛邸に出入りしていた「!」そうです。この皇道派に利用されたか、もしくは皇道派を利用して統制派が牛耳る陸軍を抑えるためか、おそらくその両方だと思いますが、この近衛上奏文で統制派を牽制して終戦工作をしようということだったのでしょう。政治の筋としてはあまりいいものだったとは思わないですが、彼は彼なりに一生懸命だったのです。近衛文麿は明治以降の最低の総理大臣だという評価もありますが、そうでもないでしょう。彼なりに命をかけて出来る限りのことをしようとした時もあったわけですから。
もっとどうしようもない総理大臣もいたのではないでしょうか。例えばあの人とか、エーほかにあの人とか。

226事件の後、近衛文麿に大命が降下したのに、近衛は体調不良を理由にこれを拒否します。本人が体調が悪いというのだから、そういうこともあるのかなと思っていたのですが、勝田主計の息子である勝田龍夫によると、近衛は226事件で高橋是清などが殺された事にびびっていたということらしいです。

それはそうだろう。誰だって怖いよ。

しかし近衛文麿は戦後自殺するわけで、自殺する勇気があるのなら、なんだってできたのに。

いつも考えるのです。何であんな太平洋戦争みたいなことになったのだろうかと。戦前の日本人はみんな馬鹿だったのか。いや違うな。アメリカに守られた戦後の日本人より、はるかに日本というものを考えていた。
いろんな切り口がありえますよ。軍部の暴走、重臣のだらしなさ、新聞の戦争を煽る報道、農村の疲弊。

人生や歴史の中にはどうにもならない事というのがあると思うのです。結局世界と日本との哲学の違い、朱子学的にいえば理の違いみたいなものがあって、その違いが人々を支配していたのでしょう。
今イラクの北部に「イスラム国」というのがあります。彼らには彼らの論理があるとは思います。しかしその論理とは、おそらく欧米の定めた現状維持の論理とは食い違うものであるのでしょう。彼らもわれらも何かにかりたてられているのです。

デカルトの理性、ハイデガーの実存、朱子学の理、日本の自然、イスラム国の何らかの論理、全てを巻き込む哲学が必要なのではないでしょうか。
そんなのはムリだな。ヘーゲルじゃあるまいし。

だから歴史にはどうにもならない事がある、と思うのです。

最近、嫌韓だとか、ヘイストスピーチだとか、ねとうよとか、よく話題になりますが、太平洋戦争を判断するためには、あの時代の事をよく知らなければならないと思うのです。あの時代に生きた人たちに出来るだけ寄り添って、魂の息遣いが聞こえるほどに。

この昭和史探索のなかに、226事件で生き残った将校の、226から50年後の座談会というものが載っています。これはもう、歴史上の人物が現代において語り合っていると言ってもいいほどの迫力があります。

明治憲法下において、天皇は政治的なことを何か決断するというのは基本的にありません。何かを決断してそれが判断ミスなんていうことになれば、天皇の権威が傷つくからです。
しかし、昭和天皇は三度決断しています。
一度目は、昭和二年、張作霖爆殺事件の処理の仕方について、当時の田中義一総理を叱責。
二度目は、昭和十一年、226事件のとき決起将校を反乱軍だと断定。
三度めは、昭和二十年の終戦です。

座談会の中で常盤稔は
「第一、天皇が自分のご意思を、直接に宣明されるとは思ってないですわな」
「つまり陛下が226事件を失敗に追い込んだということですね。私は今でも天覧相撲においでになると、ああこの方が、われわれの事件を潰したんだなあ、と思いますよ。パチパチと手などを叩いておられるけど」
と、ざっくばらんにかたってくれています。
湯川康平は
「226の精神は大東亜戦争の終結でそのままよみがえった。 あの事件で死んだ人の魂が、終戦と共に財閥を解体し、重臣政治を潰し民主主義の時代を実現した」
と語ります。私はこの意見には一理あると思うのですが、座談会に出席していた人から、226事件をもっと深く語るべきではないのか、と言う反論が出て、湯川康平はさらにこう続けます。
「陛下の記者会見で、
 記者
おしん、は見ていますか
 陛下
見ています
 記者
ごらんになって如何ですか
 陛下
ああいう具合に国民が苦しんでいるとは知らなかった
 記者
226事件についてどうお考えですか
 陛下
遺憾と思っている
遺憾と思っているという言葉で陛下は陳謝されたと」
座談会の他の出席者から、それは陳謝ではない、という指摘が出ました。

天皇とはなんなんでしょうか。いまは日本国の象徴という、正直ちょっとよく分からないポジションを占めていますが、戦前においては、226の反乱将校などは、天皇は日本国そのもの、天皇のもとに日本国民全てが救われるもの、と考えていたのでしょう。が、現実はどうだったでしょうか。昭和天皇は貴族だったんですよ。少なくとも、戦前において昭和天皇は、自分のことを貴族階級であると考えていたのでしょう。それは十分に太平洋戦争の原因となるものです。
 

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