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カテゴリ:外国文学 > ドストエフスキー

誰もが何かに寄りかかって生きている。出た大学とか、勤めている会社とか、ネトウヨの場合は日本ということになる。だけど子供時代というのは、何に寄りかかるべきなのか判然としない時期で、だからこそあの時は濃密な時間が流れていたということはあると思う。

ドミートリーは酒場で酔っ払って、スネギリョフっていうオヤジに因縁をつけた。相手のあごひげを引っつかんで、酒場の外まで引きずり出した。そこに学校帰りのスネギリョフの息子が通りかかった。その子は9歳。
スネギリョフの回想。

「あの子は手前のそんなざまを見るなり、とんできて、「パパ、パパ」と叫びながら、しがみつき、抱きついて、手前を引き離そうとしたり、手前を痛めつけている相手に「放して、放してあげて、これは僕のパパなんです」と叫んだりいたしましてね。「赦してちょうだいよ」と言うなり、ちっちゃな手でお兄さまにすがりつくと、ほかならぬお兄さまの手に接吻するじゃございませんか」

スネギリョフの息子はこのこと以来、学校で馬鹿にされるようになる。親父のあだ名が「へちま」になって、へちまの息子って言われる。
これはきつい。
小さいながらも彼は父親の名誉を守るためにクラスの中で孤立してしまう。

ドミートリーの弟のアリョーシャがスネギリョフの家に、200ルーブル持って謝りに行く。そのときのスネギリョフの発言。

「軽蔑されてはいても高潔な心を失わぬ貧乏人の子供というものは、生まれて9年かそこらで、この世の真実を知るんでごさんすね。うちのイリュージャは広場でお兄さまの手に接吻したあの瞬間、まさにあの一瞬に真理をすっかり究めつくしてしまいましたんです。そしてその真理があの子の心に入り込み、あの子を永久にたたきのめしたんでございます」

イリュージャという男の子は寄りかかるもののない虚空のなかを真っ直ぐに堕落して、生々しい真理に到達した。これがスネギリョフの言葉の迫力を生む。この迫力には、何かに寄りかかっているものどうしがいくら会話を積み重ねでも、決して到達することはできない。

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カラマーゾフの兄弟は3兄弟。全部男で、上からドミートリー、イワン、アリョーシャ。
この長男ドミートリーがアリョーシャに対してこのような告白をする。

「どうせ奈落に落ちるんなら、いっそまっしぐらに、頭からまっさかさまにとびこむほうがいい、まさにそういう屈辱的な状態で堕落するのこそ本望だ、それをおのれにとっての美と見なすような人間だからなんだ。ほかならぬそうした恥辱の中で、突然俺は讃歌をうたいはじめる。呪われたってかまわない、ただそんな俺にも神のまとっている衣の裾に接吻させて欲しいんだ」

これは坂口安吾だ。

センセイはまだとらわれているんだ。オレみたいな才能のないやつが何を分かったってダメなんだ。センセイに分かってもらって、そしてそれを書いてもらいたいんだ。旅にでれば必ず分かる、人間のふるさとがね。オヤジもオフクロもウソなんだ。そんなケチなもんじゃないんだ。人間にはふるさとがあるんだ。そしてセンセイもそれがきっと見える

同じことを言っていると思う。

ドミートリーは真実の大地に降り立つために、わざと卑劣漢になろうということ。
ドミートリーが軍隊にいた頃、その上官、中佐の娘というのが評判の美人だった。名前はカテリーナ。ドミートリーは隊でも有名なあそび人で、軍隊内での鼻つまみ者。父親のフョードルからせしめた金で当時は金回りもよかった。カテリーナに

「俺はいつでもお前のために金を用意できる」

なんてモーションをかけていた。カテリーナはもちろんムシ。
中佐は軍の資金4000ルーブルを預かっていた。金利をかせごうと堅実な商人にその金を回していたのだが、それが全く焦げ付いてしまった。追い詰められた中佐は自殺未遂までしてしまう。娘のカテリーナは父親をみかねて、ドミートリーの部屋に金を借りに来た。

さてどうするか?

「4000ルーブルですって? いやあれはちょいと冗談を言っただけでさ。それをあなたは、あんまり人がよすぎやしませんか、お嬢さん。無駄なご心配をなさいましたな」

といって追い返すというのも魅力的だ。この構想のいいところは、カテリーナの女性としての魅力を無視することによってカテリーナ自身も傷つけることができるという点だ。
ドミートリーは3秒も5秒もカテリーナをじっと見つめた後、もう一つの選択肢を選んだ。

「ふりかえって、テーブルのところに行くと、引き出しを開けて、4000ルーブルの無記名債権をとりだした。それから無言のまま彼女にそれを見せて、二つ折りにし、玄関へ通ずるドアをじぶんで空けてやって、一歩しりぞき、この上なく丁寧な、まごころのこもった最敬礼をしてやった」

そもそも美人であるということにアグラをかいている女性は多い。物心ついたころからちやほやされているんだろう、ふざけきった態度の女というのはいる。どうすればこのような女に
「おまえはツラの皮一枚でただ勘違いした世界を生きているだけなんだよ」
なんていうことを悟らせることが出来るか。
ドミートリーはこんな女に一発かましてくれたわけです。これは美人をちやほやする男社会からの堕落ということだね。

ドミートリーとはこんなヤツです。


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「カラマーゾフの兄弟」を最初に読んだのは、もう30年も昔、16歳の時。その圧倒的なリアリズムに驚嘆した記憶がある。そして私の短くない読書人生の中で、「カラマーゾフの兄弟」以上の本に出会ってはいない。この本の一体何がすごいのか? その辺のところを今日から何回かに分けて書いていこうと思う。

ゾシマ長老に対するある貴婦人の発言

「来世信仰なんていうものは、それは全て最初は恐ろしい自然現象に対する恐怖から起こったもので、そんなものは全然ないのだ、などと説く方もおられますわね。いったい何によって、来世を証明できるのでしょう。あたくし、あなたの前にひれ伏して、その回答をお願いするために、今こうして参ったのでございます」

この貴婦人の問に対する、ゾシマ長老の回答

「証明は出来ませんが、確信は出来ます。実効的な愛を積むことによってです。やがて完全な自己犠牲の境地にまで到達されたなら、その時こそ疑うことなく信ずるようになるのです」

この問答は結局、人間の認識と現実世界はどのように一致するのかという問いに、世界を丸ごと自分の中に受け入れることによってその二つは一致するという、ロマン主義的問答といえるだろう。現代においても有力な一つの回答だと思う。スマートな生き方だ。人間の認識を制限されたものであると宣言する人は信用されやすい。大きい意味で空気を読んでいるということにもなるだろう。

これに対して、空気を読まないという選択肢もありえる。カラマーゾフ3兄弟の父親、フョードル.カラマーゾフなる人物は馬鹿ではないくせに空気を読まないという特別設定の人間だ。上品さよりも誠意を優先すると宣言して、場所柄をわきまえず本当の事を言ってしまう。
修道院内のゾシマ長老を囲む会合で、フョードルはこんなことを言ってしまう。

「あの女は若いころ、環境にむしばまれて身をもちくずしたかもしれないけど、でも数多く/愛しました/からね、数多く愛した女はキリストもお許しになったではありませんか。神父さん、あんたがたはここでキャベツなんぞで行いすまして、自分達こそ敬虔な信徒だと思ってらっしゃる。一日一匹ずつウグイを食べて、ウグイで神様が買えるとおもっているんだ!」

せっかくゾシマ長老がロマン主義で世界を収束させようとしていたのに、もうめちゃくちゃだ。フョードルは要所要所でこれをやる。

「カラマーゾフの兄弟」とは収束する物語ではなく、収束を拒否する物語だ。そしてこの現実世界において、収束する現実なんていうものがあるだろうか? ある人間が自分の思ったとおりの人間に収束するということがあるのだろうか? 

拡散する物語「カラマーゾフの兄弟」。


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まず「カラマーゾフの兄弟」における大審問官とはなにか? 簡単に説明します。

「大審問官」はカラマーゾフの兄弟、次男と三男、イワンとアリョーシャの会話から始まる。
神の創った世界を認めるかどうかというこということについての話。
イワンは認めないと言うんだよね。なぜなら多くの子供達が虐げられているから。神が与えたもうたこの世界の秩序に犠牲が必要だというのなら、少なくとも無垢な子供達はこの犠牲から排除されていなくてはいけない。にもかかわらず現状はどうだろうか。最近の新聞にこのような話があるとイワンは言う。
「真冬の寒い日に5つの女の子を一晩中便所に閉じ込めたんだよ。それも女の子が夜中にうんちを知らせなかったという理由でね。それも実の母親がだよ。真っ暗な寒い便所の中で、悲しみに張り裂けそうな胸をちっぽな拳で叩き、血をしぼるような涙を恨みもなしにおとなしく流しながら、神様に守ってくださいと泣いて頼んでいるというのに。いったい何のためにこんなバカな話が必要なのか」
この意見に対してアリョーシャは
「キリストの犠牲によってすべては許される」
と答える。
この答えに対して、イワンは自分の創った「大審問官」という叙事詩を語る。

「大審問官」
場面は15世紀スペインのセヴィリア、異端審問の最も激しい時代。そこにキリストが降り立つ。人々はそれがキリストだとわかってキリストの周りに集まりだす。厳しい異端審問によって秩序を維持するセヴィリアにとって、これは秩序の危機だ。枢機卿である大審問官はキリストを捕らえて牢獄に閉じ込める。そして大審問官は夜中、キリストをを訪れて、自らの告白をする。
この大審問官の告白の何を重要視するかで、「大審問官」の意味というのは変わってくるとは思うのだけれど、私が重要だと思うところのその告白を要約する。

人間はキリストによって自由を与えられた。しかし人間は何が善で何が悪であるかという選択の自由の重みに耐えられない。キリストの自由では秩序が保てない。ここセヴィリアではキリストの代わりに我々が市民のために善悪を判断してやっている。三つの力によって、すなわち奇跡と神秘と権威。だから愛などという雲をつかむようなお前の言説はここセヴィリアでは必要ない。

これで終わりなのだけれど、この部分にどのような意味を見いだすか、ということが問われるわけだ。  この話の根幹というのは、社会の秩序というものには根拠みたいなものがあるのかどうか、ということになる。アリョーシャはあるという。イワンはないという。 社会秩序に根拠がないのなら、大審問官のように強権的に社会を秩序付けなくてはならないということになる。  ここからはちょっと飛躍するのだけれど、私は、大審問官の章というのは、この「カラマーゾフの兄弟」という作品の中の大きなテーマとシンクロしていると思う。その大きなテーマというのは、人間個人が自分が自分であるということ、すなわち自分の自己同一性に根拠があるのか、ということ。イワンが、社会秩序に根拠はない、と言った時点で、イワンの人格を形成しているところの整合性に根拠がない、ということを宣言していることになる。 その結果イワンはどうなったかというと、頭の中で悪魔と対話するようになった。もうこれは統合失調症だろう。 ドストエフスキーは、社会の秩序についての観念と個人の自己同一性とを、イワンの中でシンクロさせている。 社会であれ個人であれ、秩序、すなわち一体性の形成というのは、外部からは与えられないということになる。 

イワンにたいしてアリョーシャは、一体性の根拠は存在すると考えている。 その根拠というのは、この大審問官の章ではキリストということになっているけれども、エピローグでは、アリョーシャは子供達の前でこのように演説する。

「子供のころのなにかすばらしい思い出以上に、尊く、力強く、健康で、ためになるものは何一つないのです。たった一つのすばらしい思い出しか心に残らなかったにしても、それがいつか僕たちの救いに役立ちうるのです。もしかすると、まさにそのひとつの思い出が大きな悪から彼をひきとめてくれ、彼は思い直して、
そうだ、僕はあのころ、善良で、大胆で、正直だった
と言うかもしれません。内心ひそかに苦笑するとしてもそれはかまわない。みなさん、保証してもいいけれど、その人は苦笑したとたん、すぐ心の中でこう言うはずです。
いや、苦笑なぞして、いけないことをした。なぜって、こういうものを笑ってはいけないからだと」

アリョーシャは一体性の根拠を語っている。 しかしこの言説を注意深く読むと、世界というものが個人に少なくても一つ、すばらしい想い出を与えるという前提になっている。持ち上げられた世界にこそ一体性の根拠というものはある。  世界が持ち上げられているかどうかというのは、時代ごとに異なっていて、人間に無条件に与えられているわけではない。 イワン的世界観もありえるし、アリョーシャ的世界観もありえる。 

私は、アリョーシャ的世界観を信じるけれども。 

この「大審問官」というのは、イワン的世界観を視点をちょっとずらす感じで表現しているものだと思う。


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ドストエフスキーの「悪霊」という小説の中で、レビャートキンというダメ人間が登場する。酔っ払いで、頭の鈍い妹に暴力を日常的に振るうというおりがみつきのクズだ。そのレビャートキンが、なんで? と聞かれたときにこのように答える。

「なんで? なんでだって? このレビャートキン様は、この世界のあらゆる「なんで?」に答えなくてはいけないというのか。世界の生きとし生けるもの、あらゆるものが神様に「なんで?」と問うている。何で生まれてきたの? 何のために生きているの? 何で死んでしまうの? これに対して神様は一度たりとも答えたことはない。神様でさえ答えたことのない質問に、なぜ私が答えなくてはいけないのか」

レビャートキンはうまいことを言うのだけれど、優しい部類だと思う。

なんで? と聞かれるのがとにかく嫌い。ちょっとは自分で考えたら、と思う。人にものを聞くにも礼儀があるだろう。ここまで考えたけれど、ここからどうだろうみたいな。それをすっとばして、いきなり「何で?」と聞くというのは、どうだろう。

答えてもいいけれども、そこには残酷な答えが待っているだろう。考えることを停止していた時間の分だけ、その残酷さは増していく。

この前、会社の同僚が私に、

「急いでやったから間に合ったんだよね」 

と自慢げに何かを言ってくる。何に間に合ったのかはいちいち知らない。ただ、

「あまり慌ててやらないほうがいいよ」

と答えておいた。そうしたら向こうが「なんで?」と問うてきた。

「二年前、取引先の半開きのシャッターに車をバックで突っ込んで、その時シャッターが完全に開いているかどうか確認しておけばよかったって言ってたじゃん」 

そいつ、呆然としていたけれども、二年程度の思考停止だからこの程度ですむ。これが30年、40年の思考停止だと、美しいほどの残酷な言説となってそれは立ち現れてくるだろう


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バフーチンは「ドストエフスキーの詩学」のなかで、このように言う。
このモノローグ世界では、単一で必然的に唯一の意識と並んで、無数の経験的な人間の意識が存在する。真理の立場からすれば、個々人の意識などは存在しないも同然である。意識のうちで本質的なもの、真実なるものはすべて意識一般の単一のテキストに入り込み、個性を喪失してしまう。

うん、その通りだろう。
さらにバフーチンはこのように言う。
モノローグ世界が認める認識上の個別化現象の唯一の原理とは誤謬である。

誤謬とは何かというと、結局狂気ということだろう。思い出すのはフーコーの「狂気の歴史」だ。フーコーは狂気についの言説からこの世界を理解するための足がかりを得た。狂気とはこの世界が回収しようにも回収しきれなかった、なんていうか大げさに言うなら旧世界の痕跡みたいな、普通に言えばちょっとした違和感というか、そんなものだろう。

トータルで考えるとどういうことになるのか。

フーコーは現代においては誰もが歯車で、英雄なんていうものはありえないと言う、そんな実感のこもった言葉。たしかに近代以降の英雄的人物も結局記号みたいなものだとは思う。

何故そうなってしまったのか。
あの人は頭が良いからとてもかなわないなんて考えてしまうことはない? そんなことを考えて引け目を感じる必要は全くない。この世界には個性を英雄化するルートなんてない。結局頭がいいとか、顔が可愛いとかそんなものは、この世界においては単なる記号に過ぎない。逆に考えればオープンマインドで頑張っちゃえばいいという簡単な話。

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私がいかに馬鹿げた暇人でも、山城むつみ「ドストエフスキー」を通読することは出来なかった。文庫本で600ページあるこの本を最初の100ページと後パラパラと100ページ読んでこの書評を書く。

ドストエフスキーのすばらしさというのは誰もが一読すれば明らかに分かるレベルにある。その長編は登場人物同士の裸の魂のぶつかり合い、そしてその連続だ。これがあまりにも衝撃的。現代日本において裸の魂のぶつかり合いの言説なんていうものはほとんどない。誰もが何かに寄りかかって発言するというのが普通だと思う。

一つ例をだそう。

ある有名な予備校講師がこのような発言をした。
「高校で勉強を頑張ったヤツは、帝国大学や私立大学上位校にいく。Fラン大学に行ったヤツは勉強もせずに遊んでばかりでどうしようもない。親にお金を出してもらって大学まで行って遊ぶようなヤツは高校卒で働けばいい」
この言説はどうだろう。
まずいえるのはこの言説はどうしようもなくポジショントークだということ。そもそも現代の日本で高卒にまともな就職先なんてない。そしてこの講師にはFラン大学に行ってまじめに勉強するヤツなんているわけないという前提がある。結局いい大学に行っていい新卒カードをゲットすることが頭のいいヤツのやることだというわけ。そのためには予備校で勉強しましょうというポジショントーク。さらに言えば、この予備校教師は帝国大学を頂点とする大学教育ヒエラルキーに寄りかかり、寄りかかるものがない学生をただ攻撃しているだけだ。こんな有利なことはない。
現代日本の多くの言説はこの程度のもので、互いが何らかの知のヒエラルキーに寄りかかり同意したり排除したりしているだけだ。
このような言説体系をバフーチンはモノローグ世界と言った。
これに対してドストエフスキーの登場人物たちは、このような知のヒエラルキーに寄りかかって発言したりはしない。自らが掴み取った思想を互いにぶつけ合う。このような言説体系をバフーチンはポリフォニー世界と言った。

ここまでいいだろうか? 

山城むつみはその「ドストエフスキー」という本の序章でこのように言う。
言葉が無駄に多いので一部分私がかってに要約する。
アリョーシャの染み透る言葉はイワンの内的会話に入り込む。イワンは「殺したのは俺だ」という言葉と「殺したのは俺ではない」という言葉とのあいだに分裂しているが、アリョーシャによってイワンの言葉の分裂解消の可能性が存在するようになる。しかしイワンはアリョーシャの染み透る言葉に反発を感じずにはいられない。

この解説は、もうすでにちょっとおかしいのではないのか。アリョーシャの言説はすでに権威的な前提になっていないか。イワンとアリョーシャは全く対等のはずだ。そこがカラマーゾフの兄弟の面白いところなのに、山城むつみによるとアリョーシャにすでに知の優位性というバイアスが与えられていることになっている。
あろうことか山城むつみは続けてこのようなことを言う。

イワンの反発は精神分析治療における患者の「抵抗」を連想させる。

いやそんなこと誰も連想しないよ。アリョーシャは精神分析学みたいな知のヒエラルキーに寄りかかって、寄りかかるもののないイワンを批判したというのだろうか。そんなことはない。そんなドストエフスキーの解釈ではカラマーゾフの兄弟の面白さは分からないだろう。何でそんな呪われたような読み方をしてしまうのか。

さらに山城むつみはこういう。

バフチン自身はフロイト主義に批判的だったが、彼のドストエフスキー読解はフロイトの臨床理論と構造的に合致しているのである。

めちゃくちゃだ。
結局山城むつみなる人物は、ドストエフスキーのポリフォニー世界をこのモノローグ世界に回収しようとしているのだろう。この世界はあらゆるものを回収して大きくなってきた。だからドストエフスキーも簡単に回収できると考えたのだろう。
これは私の善意の考えであって、そうでなければ山城なる人物にはもう文章は書かないでと言いたい。そもそも本当にバフーチンを彼は読んだのか。



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バフーチンの「ドストエフスキーの詩学」



ドストエフスキーの詩学 (ちくま学芸文庫) [ ミハイル・ミハイロヴィッチ・バフチン ]
ドストエフスキーの詩学 (ちくま学芸文庫) [ ミハイル・ミハイロヴィッチ・バフチン ]







バフチン「ドストエフスキーの詩学」のなかで言う。

「単一で唯一の理性を崇拝するヨーロッパ合理主義が、近代におけるモノローグ(独白)原理を強化し、これが思想活動のあらゆる領域に浸透した」
例えば、近代以降の小説は三人称客観というスタイルで書かれている。三人称客観とは、作者や読者の視点が小説の登場人物を絶えず俯瞰できるようなシステム。このような近代小説システムも強化されたモノローグ原理の一つだろう。

さらにバフチンはさらに。
「単一の意識が自己を充足させるというこの信念は、思想家達が個別に作り出したものではなく、近代の思想的創作活動の構造に深くくいこみ、その内的外的形式を規定している一つの特質なのである」

言っていることは、1970年代のミッシェル.フーコーが語っていたことと変わらない。そして驚くべきことは、この「ドストエフスキーの詩学」の初版は1929年だということ。

こんなことがあるのかと思って。

バフーチンはここまで近代とは何かという真理に迫りながら、
「ここでわれわれに関心があるのは、文学創作におけるモノローグ原理の現れ方である」
とドストエフスキー言及にもどっていく。

世界の真理をつかむのは、自己満足のためではなく、愛するドストエフスキーのためであるという。ここまで来るとバフーチンの「ドストエフスキーの詩学」という本は、恐ろしくも美しい愛の物語とも言えるようなものに昇華してくるだろう。

あらゆる近代文学は古びていく。ドストエフスキーを除いて。小説それ自体を読んで楽しいなんていうことがもうない。私が森鴎外や夏目漱石を読むのは、その小説を読んで大正という時代を覗きこめるからという不純な理由に過ぎない。


なぜあらゆる近代文学が古びていく中、ドストエフスキーのみが古びないのか。

これはとても大きな問題で、まず近代の小説思想とは何かということを知らなくてはいけない。そして近代の小説思想とは何かととうことは、近代とは何かと問うことだ。



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「悪霊」を最初に読んだのは、高校1年くらいだったと思います。主人公のスタブローギンがクールで力強くてかっこいいと思った記憶があります。

でも20何年たって読み返してみると、スタブローギンとの対極にあるような登場人物たちに、ドストエフスキーの愛を感じるんだよね。
まずシャートフ。
シャートフは、まじめで一途で義理堅いという設定のロシア人の典型です。このシャートフのところに何年も前に付き合っていた女が、腹ぼてになって帰ってくるのです。シャートフは大喜びです。大好きだった女が帰ってきてくれた、それも子供をおなかに抱えて。誰の子供かなんていう野暮なことをシャートフは尋ねたりなんかしません。もううれしくてうれしくて、冬の真夜中に産婆の家に向かって走り出していきます。産婆を無理やりたたき起こして、自分の部屋に引っ張ってくるのです。
最後、シャートフはスタブローギンの取り巻きに殺されてしまいますが、「近代に殺される愛すべきロシア」を象徴する人物として、きわめて生き生きとドストエフスキーによって描かれています。

レヴャートキン大尉
大尉ということになってますが、むかし大尉だったらしいというだけで、正確に言えば元大尉です。コイツがとんでもないクズです。飲兵衛で乱暴者で、強いものには卑屈で、頭の弱い妹と住んでいるのですが、この妹をいじめるのです。このかわいそうな妹はレヴャートキン大尉を兄ではなく召使だと思っていて、その事でさらにいじめられるのです。
このレヴャートキン大尉が、「何で?」と聞かれてぶち切れるのです。私たちの周りにもいますよね、すぐ、「何で?」と聞いてくる人が。少しは自分で考えてみればいいのに、と私なんかはちょっとイラッとしたりします。レヴャートキン大尉はぶち切れてこういいます。
「何で?だと。この世界の生きとし生けるあらゆるものが、神様にたいし何で?と尋ねている。
何で私は生まれてきたの
何で私はここに生きているの
何で私は生まれて死んでいくの

これに対し神様は一度たりとも答えたことはない、無数の何で?に対して一度たりともだ。神様でさえ答えた事のない質問に、このレヴャートキンさまは答えなくてはいけないのか!!!」

レヴャートキン最高。ドストエフスキーはこんな取っておきのセリフをこんなクズに割り振るんだからズルイ。

ドストエフスキーは世界文学時史上最高の作家であることは間違いないです。

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