magaminの雑記ブログ

カテゴリ: 純文読書日記

坂口安吾は芥川龍之介の甥である葛巻という人物と親しくしていて、芥川の晩年の手記を見ることができた。

坂口安吾の昭和16年の評論、「文学のふるさと」こうある。


私達はいきなりそこで突き放されて、何か約束が違ったような感じで戸惑いし

ながら、ただ
しかし、思わず目を打たれて、プツンとちょん切られた空しい余白に、非常に静かな、しかも透明な、ひとつの切ない「ふるさと」を見ないでしょうか。

すなわち安吾のいう「ふるさと」というのは、
「兎追いし かの山 小鮒釣りし かの川」
みたいなノスタルジックな思い出の場所のようなものではない。

芥川の遺稿の手記に、

農民作家なる人が芥川の家を訪ねてきて、生まれた子供を殺して一斗缶に詰めて埋めたという話をする、

というものがある。

農民作家に、
「あんた、これをひどいと思うかね。口減らしのために殺すというのを、あんたひどいとおもうかね」
と言われて芥川は言葉に詰まったという。


さて、農民作家はこの動かしがたい「事実」を残して、芥川の書斎から立去った

のですが、
この客が立去ると、彼は突然突き放されたような気がしました。たった一人、置き残されてしまったような気がしたのです。

この突き放すところのものを、安吾は「ふるさと」と言っている。

自分なりにいろいろ考えてみる。

「インターステラ」という映画がある。主人公たちは滅びゆく地球の代わりを探そうと別宇宙の惑星を巡るのだけれど、まー、ろくでもない惑星ばかりなんだよね。しかし他惑星の住環境が酷いのは惑星の責任ではなく人類の都合であって、これは全くどうしようもない。同情も正義も文学もない宇宙で主人公たちは悪戦苦闘する。別の宇宙空間で自分たちは世界から突き放されるのではないかという予感が満ちる中、実際何度かドーンって突き放される繰り返し。

結局「インターステラ」の面白さというのは、人類が宇宙(世界)に突き放されるところの「突き放され具合」にあると思う。
この突き放すところのものが、安吾のいう「ふるさと」ということになるのではないか。

中国思想にも同じ「ふるさと」観がある。荘子の中に、


会えば離れ、成すれば壊れ、角は砕け、貴は辱められ、愚は堕ちる。知を積み重ねても、それは悲しい。弟子よ、これを記せ。ただ道徳の郷があるだけだと

とある。


なぜ安吾がこのような「ふるさと」思想に至ったのかというと、太平洋戦争切迫の結果だと思う。あの戦争は日本にとって中国とアメリカとの両面戦争だった。正直、中国とアメリカ相手に両方同時に戦争するなんてあり得ないでしょう。ナチスドイツだってフランスを制圧して、返す刀でソ連に侵攻した。日本なんかよりはるかに合理的だった。日本は世界に突き放されて、その結果として見えたものが「ふるさと」なのではないか。残酷な「ふるさと」なんて見ずに死ねればそれに越したことはないのだろうが、見てしまったものはしょうがない。

安吾の後の「堕落論」などは「ふるさと」思想の延長戦上にある。生きよ堕ちよ、だから。


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坂口安吾「デカダン文学論」は昭和21年発表。

「デカダン文学論」の中で、坂口安吾の島崎藤村の煽り方が強烈。

島崎藤村は近代日本文学を代表する大作家だと思う。藤村の何がすごいかというと、近代文学のメインフレームである三人称客観形式というものを「破戒」の時点でほぼ完全にマスターしている点だ。「破戒」の発表は明治39年。

外部の視点で登場人物たちの内面を描きながら物語をまとめるという近代小説的作業というのは難しいのだけれど、藤村はこれを苦も無くこなしている。
夏目漱石だってなかなか藤村のようにはいかなかった。例えば「こころ」は一人称主観形式だし、「吾輩は猫である」は一人称猫観だ。

だから藤村の小説のすごさというのは、その内容にあるのではなく形式にある。

評論家の平野謙が藤村の「新生」を評論したものに、安吾はこう咬みつく。


『「新生」の中で主人公が自分の手をためつすかしつ眺めて、この手だな、とか思い入れよろしくわが身の罪の深さを思うところが人生の深処にふれているとか、鬼気せまるものがあるとか、平野君、フザけたもうな。人生の深処がそんなアンドンの灯の翳みたいなボヤけたところにころがっていて、たまるものか。そんなところは藤村の人を甘く見たゴマ化し技法で、一番よくないところだ。』



これは平野謙が悪い。藤村の小説の内容を誉めてしまったのではきつい。
安吾はさらにこのように藤村批判を展開する。


『島崎藤村は誠実な作家だというけれども、実際は大いに不誠実な作家で、それは藤村自身と彼の文章(小説)との距離というものを見れば分る。藤村と小説とは距りがあって、彼の分りにくい文章というものはこの距離をごまかすための小手先の悪戦苦闘で魂の悪戦苦闘というものではない。

藤村とその文章との距離というものが、藤村の三人称客観小説世界を形成しているわけで、藤村独自の距離感を「小手先の悪戦苦闘」とまで言ってしまったのでは、これちょっと言いすぎなのではないかというのはある。』


安吾の言いたいこともわかる。安吾は大文字の「文学」とは形式ではなく内実だと言いたいのだろう。

安吾はさらにかぶせてくる。


『彼がどうして姪という肉親の小娘と情慾を結ぶに至るかというと、彼みたいに心にもない取澄し方をしていると、知らない女の人を口説く手掛りがつかめなくなる。彼が取澄せば女の方はよけい取澄して応じるものであるから、彼は自分のポーズを突きぬけて失敗するかも知れぬ口説にのりだすだけの勇気がないのだ。肉親の女にはその障壁がないので、藤村はポーズを崩す怖れなしにかなり自由に又自然にポーズから情慾へ移行することが出来易かったのだと思う。』


これには参った。形式とか言っているから、藤村お前は女にもてないんだと言っているわけだ。滅茶苦茶なんだけれど、オタクよりもヤンキーのほうが女の子にもてたというかつての時代状況を考えれば、安吾の言うことは一理ある。
安吾の剛腕、炸裂だ。


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坂口安吾「日本文化私観 」は昭和17年発表。

「日本文化私観」は

一 「日本的」ということ
二 俗悪について(人間は人間を)
三 家について
四 美について
という構成になっていて、それぞれに安吾らしい文章がつづられている。

「家について」の中にこのようにある。

「僕はもうこの十年来、たいがい一人で住んでいる。何もない旅先から帰ってきたりする。すると、必ず、悔いがある。叱る母もいないし、怒る女房も子供もいない。それでいて、家へ帰る、という時には、いつも変な悲しさと、後ろめたさから逃げることができない。帰るということの中には、必ず、振り返る魔物がいる。そうして、文学は、こういうところから生まれてくるのだ、と僕は思っている」

本当にこういう感覚ってある。私は結婚するまで何年か一人暮らしをしていたけれど、夜中、ドアを開けてから、誰もいない真っ暗な部屋に入り電灯のひもを引っ張るまでは、何だか薄らさみしいような気持になった。

エリア88という漫画で、一人暮らしの部屋に帰った時に真っ暗なのが嫌だから、部屋を出るときはいつも電気をつけっぱなしにするというヤツがいた。そいつが乗る戦闘機がもうダメだというときに、彼は親友に無線でこのように言う。

「オレの部屋の電気は消しておいてくれ」

分かるわー、と思って。
誰もいない部屋に帰った時のあの感覚って何だろう。気圧が外より低いような、地面がちょっとゆるいような、そんな場所に迷い込んだような。
それを安吾は、

「帰るということの中には、必ず、振り返る魔物がいる」

とか、さらには、

「文学は、こういうところから生まれてくるのだ」

とか、本当にうまいことをいうと思って。久しぶりに「日本文化私観」を読み返して感心した次第。

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村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」のあらすじというのは、
主人公「僕」は井戸の底でリアルな夢を見た。真っ暗なホテルの部屋で妻をめぐって義兄と対決する夢。バットでぼこぼこにしたのだけれど、現実世界では、義兄は同時刻に脳卒中で倒れていた。

というもの。なんだそれ、という要約になってしまうのだけれど、村上春樹の楽しみ方というのは、この要約にどういう意味をのせていくかということになると思う。意味をのせるなんて意味がないと考える人もいるだろうが、それはそれでかまわないと思う。

どのように意味をのせるかというのは、真理を探究するなんていうものではなく、世界説明の仮説をつくってみるという程度のもの。以下に「ねじまき鳥クロニクル」世界の個人的説明仮説を展開します。

女性をめぐっての対決という図式は、ごぞんじ「ノルウェイの森」にも存在している。

「ノルウェイの森」の主人公「僕」は高校時代の親友であったキズキの彼女であった直子を好きになる。キズキと直子はベストカップルだったのだけれど、何故かキズキは直子を残して自殺してしまう。残された直子は精神的に極めて不安定になる。「僕」は直子を助けようとするのだけれど、結局直子はキズキの後を追うようにして自殺してしまう。

すなわち直子をめぐって、生きている「僕」と死んだキズキの綱引きがあって、結果「僕」はキズキという死者に負けてしまう。
ではどうすれば「僕」は直子を救うことができたのだろうか。「ねじまき鳥クロニクル」はこの疑問から始まる(仮説だよ)。

なぜ直子が自殺したのかというと、直子の精神状態が不安定だったからだ。精神的な不安定さから回復するためには、回復しようとするその本人に回復するための精神的な足場がなくてはならない。足場がなくては登ることはできない。井戸に落ちたら独力では登ることができないように。

直子は自殺した。自殺者を救うにはどうすればいいのか。

大正時代以降、日本において最も自殺率の低い年は昭和18年だ(昭和19,20,21年は統計がない)。昭和9年以降、徐々に自殺率が低下し始めている。これは満州事変以降の戦時動員体制の進捗と軌を一にしている。総力戦体制は直子を救える可能性がある。

「ねじまき鳥クロニクル」の主人公「僕」の敵役である義兄「綿谷ノボル」は新進の政治家だ。綿谷が選挙地盤を継いだ彼の叔父というのは、戦前において対ソ連戦のための防寒研究をする軍官僚だった。すなわち日本総力戦体制の一翼を担うような革新軍官僚だったわけだ。綿谷はこの血脈を継いでいる。

「ねじまき鳥クロニクル」の中でノモンハンとか北部満州での描写が多く出てくるのは、日本の戦時総力戦体制を小説的に肉付けするためだろう。
ちなみに総力戦を呼号する現在の安倍総理の祖父は岸信介であり、岸は戦前、満州を総力戦の実験場にした革新官僚群のトップだった。
そして安倍が総理に就任した2012年以降、日本の自殺率は劇的に低下している。
綿谷ノボル陣営は、強力にグロテスクに直子的存在を救おうとしている。それに対して「僕」はどうか? はっきり言って徒手空拳だ。本文中にこのようにある。

「オペラの中では王子さまと鳥刺し男は、雲にのった三人の童子に導かれてその城まで行くのよ。でもそれは実は昼の国と夜の国との戦いなの・・・・・」
ナツメグはそう言ってから、指先でグラスの縁を軽くなぞった。
「でもあなたには今のところ鳥刺し男もいないし、魔法の笛も鐘もない」
「僕には井戸がある」と僕は言った。

井戸があるからどうだというのだろうか?

「僕」はナツメグ、シナモン母子と知り合う。この母子の仕事というのは、本文中には明確には書かれていないのだけれど、どうやら精神的に不安定になってしまったエスタブリッシュメントの子女たちの一時的精神矯正みたいなものらしい。
はっきり言ってしまえばオカルト療法だね。
「僕」は井戸という裏技?を使い、この母子と組んでエスタブリッシュメントの子女たちにオカルト的精神療法を施す。

確かに直子を救うことができるのならオカルトでも何でもいいという論理は成り立つ。村上春樹のオウム真理教にたいする興味は、このあたりから発生しているのではないかと思う。
どちらが直子をより救えるか。総力戦思想vsオカルト療法、ファイ!! みたいなことに結局はなるのではないだろうか。

オカルト療法もなくはないと思う。ローマ帝国だって、その末期にキリスト教というオカルトを導入して帝国の一体性を延命させようとしたのだし。
でも、個人的にはオカルトはちょっと遠慮したい。日本はまだそこまで落ちぶれてはいないと思う。

大体以上が私が「ねじまき鳥クロニクル」を読んでの世界説明なのだけれど、もちろん様々な世界説明があってかまわないと思う。ただし村上春樹も普通の人間なのだろうから、あまりに村上ワールドを巨大に考えてしまうと、それは過大評価だろう。

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ねじまき鳥クロニクルの主人公「僕」は、近所の空き家の庭にある涸れた井戸に縄梯子を下ろして、井戸の底で井戸ライフを送り出す。二日間ぐらいの井戸ライフだったけれども、ページ数にすれば130ページぐらいになる。

「ねじまき鳥」はここまでとにかく井戸押し。第2部に入り、主人公はついに井戸の底にまで降り立った。
井戸といっても普通の涸れた井戸だから取り立てて何もない。井戸の底でファンタジーの扉が開くとか、そういうのはない。普通の井戸。
井戸という観念に何か意味があるのではないか? 大袈裟に言うと、井戸はメタファーであるというということになる。
村上春樹が導こうとする井戸メタファー世界観というのは、私が推測するに、

私たちは井戸の外の世界で当たり前に生活していると思っているけれど、真の世界は実は広大であって、人間は日々生活するにあたりそれぞれの心に井戸を掘り、その底で自分の世界を守りながら生きているのではないだろうか。そして現実に井戸に潜ることで、人間の真の井戸性というものが明らかになるだろう。人間の孤独、共感性、運命などが、より明確になるだろう。

というようなものだと思う。

しかしそもそも何故井戸なのか?
「ノルウェイの森」の冒頭でヒロインの直子が主人公の「僕」に向かって、この森のどこかにすごく深い井戸があるのよ、みたいなことを語っていた。この直子というのはちょっと精神の不安定な女性で、この深い井戸のくだりも、直子が京都北部の精神療養所に収容されている時に、そこを訪れた「僕」に対して直子が語ったところの話だ。
深い井戸とは、精神の不安定な女の子が自殺する前に「僕」に語った無駄話の中に出てくる単語に過ぎない、という考え方も出来る。
村上春樹は井戸に拘る。ここで奇怪なことは、井戸とはそもそも村上春樹が作ったフィクションにでてくる単語に過ぎなかった、ということだ。井戸にこだわるということは、「ノルウェイの森」の直子にこだわるということで、しかし直子とは、村上春樹が書いたフィクションにおける登場人物の1人に過ぎない。井戸に価値を付与して、井戸をメタファーとしての造形したとしても、トータルとしての奇怪さというのは隠せないと思う。

「僕」は井戸の底で夢を見る。
その夢の中で、「僕」の妻の兄がこのように語る。

「愚かな人は世界のありようを何ひとつ理解できないまま、暗闇の中でうろうろと出口を捜し求めながら死んでいきます。彼らはちょうど深い森の奥や、深い井戸の底で途方にくれているようなものです。彼らの頭の中にあるのはただのがらくたか石ころのようなもので、だから彼らはその暗闇の中から抜け出すことが出来ないのです」

彼は全く明らかに「ノルウェイの森」の世界観に喧嘩を売っている。「ねじまき鳥クロニクル 第3部」は、主人公「僕」のこの義兄に対する反撃をメインに展開するのではないかと予想する。
どっちも頑張れって思う。

「ねじまき鳥クロニクル 第3部 鳥刺し男編」 に続きます。


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村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」の主人公「僕」は法律事務所を退職して現在無職。出版社に勤める妻がいる。
飼っているネコがいなくなって、マルタという女性にネコの探索を依頼する。

「海辺のカフカ」でも中田さんの職業がネコ探しだった。そういえば「ノルウェイの森」では、主人公の引っ越し先の下宿にネコが訪ねてきていた。そのネコを探しているのか。

いなくなったネコを探しに、主人公の「僕」は近所の空き家の庭先に行く。そこに井戸があって、石を落としてみたけれど、どうやら水は枯れてしまっているらしい。

井戸? そういえば「ノルウェイの森」で直子が、この辺りには誰も知らない深い井戸があるのよ、なんて言っていた。

井戸のある空き家の向かいに16歳の女の子が住んでいる。例えば彼女のかつらについての考察。
「それでね、まあとにかく、もしあなたがかつらを使っていて、二年たってそれが使えなくなったとして、あなたはこんなふうに思うかしら? うん、このかつらは消耗した。もう使えない。でも新しく買い替えるとお金もかかるし、だから僕は明日からかつらなしで会社に行こうって、そんな風におもえるかしら?」

ん? これは「ノルウェイの森」の緑の口調そのままだろう。
緑の家の裏の空き家の庭に井戸? 

ネコを捜すマルタの妹はクレタという名前で、マルタの助手をしている。クレタの告白によると、彼女は二十歳まで非常な痛みに苦しんできたという。生理痛はひどいし、飛行機やエレベーターに乗ると気圧の関係か頭がガンガンするし、傷は治りにくいし。痛みというのは人に伝えられない。孤独に苦しんで二十歳の誕生日に自殺しようと思っていたのだけれど、二十歳を過ぎたら急に痛みが人並みになったという。
しかし気づいたことは、今までは精神と肉体を痛みがつないでいたということ。痛みがなくなって精神と肉体との間に距離が出来てしまったかのように感じるという。

「ノルウェイの森」の直子のカリカチュア? マルタのファッションというのは、1960年代のファッション雑誌のモデルそのままの野暮ったいもの。「ノルウェイの森」の時代設定もそれぐらいだった。

小説というのは基本的に、まあなんというか現実世界の真理やリアリティーを探求するという面があると思うのだけれど、この「ねじまき鳥クロニクル」という小説は第1部を読む限り、村上春樹世界を探求するという方向に舵が切られている。
こうなると、村上春樹ファンにとってはたまらないけれど、アンチ村上春樹にとっては全くどうでもいいということになるだろう。

私個人としては、意味があるか分からないような井戸やネコ探しに興味が出てきた感じで、何だか少しハルキスト。
第2部、予言する鳥編に続きます。

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「東京奇譚集」のハナレイ・ベイ映画を見る前に読んでおくというのもいいでしょう。

私の村上春樹読書体験というのは、
ノルウェイの森」を読んで、
これはいい、日本近代文学を代表する名作だわ。胸にジンジンくる。
海辺のカフカ」を読んで、
なんだこれ、ノルウェイの森の劣化版だな。直子ファンとか怒り出すんじゃねーの。
アフターダーク」を読んで、
ひどいなこれは。村上春樹、寝ながら書いただろう。
というものだ。

「東京奇譚集」は短編集なのだけれど、正直本当に面白いのかと疑いながら読み始めた。
これが結構おもしろかった。

「偶然の旅人」

村上春樹の友達が神奈川のショッピングモールでオバサンにナンパされてホテルに誘われたけれどヤンワリ断ったという話。ショッピングモールでおばさんに逆ナンというのが奇妙なリアリズムを生む。

「ハナレイ・ベイ」

サーフィンの事故で一人息子を失ったオバサンと、サーフィン好きな二人の大学生とのたいして心も温まらない話。オバサンの口の悪さと二人の大学生のぐだぐださとのコントラストがいい。

「どこであれそれが見つかりそうな場所で」

タワーマンションの24階と26階の間で行方不明になった男を捜すボランティア探偵の話。しかしこの探偵、24階から26階までの階段しか探索しない。タワーマンション高層階の階段なんて誰も使わないだろうと普通思うのだけれど、ジョギングしている人がいたり子供の遊び場になったりと結構階段ライフって楽しそうなんだよね。そのうち行方不明になった男とかどうでもよくなってくるから不思議。

「日々移動する腎臓のかたちをした石」

主人公の男性は、男には人生の中で運命的な女性が3人現れる、と確信していて、この目の前の女性がその2人目かどうかと考える話。読みながら、私には運命の女性がもう3人現れたのかと考える。妻を3人のうちの1人に数えないとまずいよね。じゃあ後の2人は誰にしよう、なんて思っているうちに読み終わってしまった。

「品川猿」

この猿が喋るんだよね。喋り方が「海辺のカフカ」の中田さんにそっくり。これはまずいでしょう。

このように全ての短編でそれなりに楽しめるという。村上春樹、やれば出来るじゃないか。


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ハイデガー「存在と時間」を木田元の「ハイデガーの思想」を元に解説します。

ハイデガーの「存在と時間」は未完であって、木田元はこの未完部分を推測しようという。

ハイデガーの「存在と時間」は序論に目次が存在していて、以下のようになっている。

第1部  現存在の解釈と時間の解明
 第1編 現存在の基礎分析
 第2編 現存在と時間性
 第3編 時間と存在
第2部  存在論の歴史の現象学的解体
 第1編 カントの時間論について
 第2編 デカルトの「我あり」と「思う」について
 第3編 アリストテレスの時間論について

そして実際には第1部第2編までしか書かれていない。だから「存在と時間」は未完だといっても、その未完レベルはかなり高い。だいたいにおいて、大事なことは後半に記されるわけで、木田元といえども「存在と時間」の全体を推測しようというのは大丈夫かとは思う。

木田元の議論についていくためには、「存在と時間」なる哲学書はどういうものかというのを自分なりにでも知っておく必要がある。
「存在と時間」という題名だけあって、この本は存在とは何か、時間とは何か、ということについて書かれている。存在とは何か、については、まあ何か言い様もあるかとも思うのだけれど、時間とは何か?って、いったいこれどうするよ? 常識的に考えて、いくらハイデガーでも、時間について評論しようもないだろう。

とまあこんな心構えで「存在と時間」を読んでみる。

3分クッキングでもないのだけれど、はい読んでみました、いろいろ考えてみましたということで。
まず存在について。
ハイデガーは、人間というのは「世界内存在」だという。人間とは世界の中に投げ出されてあるという。だから存在とは、人間に前もって与えられている何かだというわけだ。
消極的な考え方のように見える。自由意志はどうなっているのか。人間は意志によって世界を変えることができる、なんて建て前もある。
ところが人間の脳においては、意思を発動する0.2秒前にシナプスの発火が認められるという研究がある。意思によってシナプスが発火するのではなく、シナプスの発火過程において意思が自覚されるだけなんだよね。自由意志だと思っているものはすべからく脳のシステムによって自由意志だと思わされているだけだという。
実はこれ当たり前の話であって、意思によってシナプスが発火したら、それはただちにサイコキネシスだから。
そう考えると、ハイデガーの言うように、人間とは世界の中に投げ出されている「世界内存在」だという説明は説得力がある。

次に時間について。
ハイデガーは「存在と時間」の中で、本来的時間体制と非本来的時間体制があると言うのだけれど、なんだかちょっとゲルマン的道徳臭がする。
例えばジャック・デリダは、人間において存在認識が差異化することによって現在、過去、未来という時間認識が発生する、というのだけれど、正直コイツ何を言っているのか分からない。分からない事を差異化とか言ってしまったら、分からないままだろうと思う。
自分で勝手に考えてみる。
懐かしいという感情が存在したりする。子供のころ慣れ親しんだ情景を時間がたって体感すると懐かしいと感じる。懐かしいという、あの一種安心するような感覚は何なのかという。記憶が勝手に呼び起こされて、あったかい気持ちになる。結局、その情景の中において、過去と未来とがある程度確信を持ってシステマティックに再現されるからだと思う。
ところが、現在過去未来というものが厳然と存在していて、故に人間は時間差異を認識できると考えることも出来るのだけれど、人間の時間認識システムによって私たちは時間的差異が存在すると思わせられているということもありえる。
なにせ「時間」という怪物が相手だし。「存在」について考えるよりもフレキシブルにならなくては、なんて思う。

とここまで「存在」と「時間」について考えてみた。これを予備知識として、木田元の「ハイデガーの思想」における「存在と時間」の未完部分の推論に付いていってみたいという。

ハイデガーの「存在と時間」目次、第1部第3篇に「時間と存在」とある。木田元によると、ここでは時間体制と存在体制の関係性について書かれる予定であったという。時間と存在との関係性って、これが分かったら大変なことだよ。人間は存在の方は直接いじれないとしても、時間の方はいじれるかも。
すなわち、ある時間認識に基づいて、人間は「世界内存在」として世界の中に投げ出されているわけだ。身近な表現をすると、私たちは時代の中に投げ出されている。自分の時代認識を自分の意思で直接変えるというのは不可能だろう。ところが、自分の現在の時間認識を変える事によって、自分の時代認識を変えることは可能かも。
これが出来たら自由意志の復活だろう。サイコキネシスの不存在により自由意志は否定されていたのだけれど。

ところがハイデガーは、時間認識に対する介入の可能性を諦めた。木田元によると、これをハイデガーの転回(ケーレ)という。ここをケーレしてしまうと、「存在と時間」の続きは書けなくなるだろう。

時間認識にも介入できない、存在認識にも介入できない、となると、後はある時代の時間認識と存在認識を受け入れて、その世界を内側から見るということしか出来なくなる。別の世界を内側から見る手法を現象学という。内側から見た世界を時代順につなげていけば、現象学的歴史学ということになる。ハイデガーがそのケーレの後に行ったことは、現象学的哲学史だった。
木田元も、ハイデガーの現象学的哲学史の内容について詳細に語っている。これはこれで非常に興味深いのだけれど、やはり「存在と時間」のあのインパクトはないよね。現象学的歴史学というのではヘーゲルと変わらないだろう。



ハイデガーの思想 (岩波新書) [ 木田元 ]
ハイデガーの思想 (岩波新書) [ 木田元 ]







寝てるときに見る夢について。
夢というのは、後から思い出すとぼんやりしたものなのだけれど、夢を見ているその時においては異様なリアル感がある。

夢の特徴というのは、確信というものが急にドンって与えられるところにあると思う。今まで海で泳いでいたら次の瞬間空を飛んでいたりという夢を見たとしても、なぜ急に場面が変わったのか不思議に思ったりはしない。ああ、そういうものかと思ってしまう。夢の中で、友達を探していると急にそういえばあいつはオレが殺したんだと思い出したりする。
夢の構造とはどうなっているのか? 

森鴎外の作風は、時代小説を書き始める以前と以後とでは異なっているという。鴎外は小説世界にまとまりをつけるのが嫌になって時代小説を書きはじめたという。
「山椒大夫」の中にこのようにある。

「子供らの母は最初に宿を借ることを許してから、主人の大夫の言うことを聴かなくてはならぬような勢いになった。掟を破ってまで宿を貸してくれたのを、ありがたくは思っても、何事によらず言うがままになるほど、大夫を信じてはいない。こういう勢いになったのは、大夫の詞に人を押しつける強みがあって、母親はそれに抗(あらが)うことが出来ぬからである。その抗うことの出来ぬのは、どこか恐ろしいところがあるからである。しかし母親は自分が大夫を恐れているとは思っていない。自分の心がはっきりわかっていない」

この母には主体性というものがない。相手に強く出られると、「主人の大夫の言うことを聴かなくてはならぬような勢い」になってしまう。「山椒大夫」という小説は、勧善懲悪とかピカレスクとかさらに言えば無常観とか、そのようなものとは全く無縁に、ただこの母のような登場人物達がその運命の中で喜んだり悲しんだりしているだけだ。


これって夢の構造と同じだろう。

「山椒大夫」をヒントに夢の構造について考えてみる。
そういえば夢の中では、抽象的な価値観の序列ってないよね。好きとか嫌いとかはあるけれど、善とか悪とかはない。抽象的な価値の序列というものはなく、ただ好きなもの嫌いなもののリアルな実体のみの世界だという。
だから、その世界において強力な実体があらわれると、もう拒否することが出来ないんだよね。普通は抽象的な価値の序列みたいなものが心を防御していると思うのだけれど、夢の世界においては、その防御がないから、実体が直接心を占拠して確信になってしまう。

志賀直哉の奇妙な小説も同じように説明できる。「暗夜行路」の主人公は気分に支配されている。時任謙作は小説のはじめは不快な気分の状態だったのだけれど、終わりのころになると調和的な気分になってくる。気分の変化に理由とかはない。時任謙作は、ふと自分の父親は本当の父親ではないと思う。するととたんに祖父こそが本当の父親であると確信する。
夢の構造と同じだろう。

夢の構造と「山椒大夫」と「暗夜行路」をつなげて考えるとはどういうことかというと、明治という時代が、強力な実体並列の世界から抽象的価値観の序列の世界への移行の時期だったのではないかという意味となるだろう。


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宮崎市定といっしょに、ゆるーい感じで「論語」について考えていこうかという。

孔子の弟子で曾子(そうし)というのがいる。こいつが出来るやつなんだよね。論語というのはだいたい孔子が語ったところのものなのだけれど、ちょいちょい孔子の弟子がドヤ顔で語ったりする。孔子の話に比べると、やっぱり弟子だから落ちるところはある。しかし曾子というやつは、なんだかキラリと光る部分を持っている。
例えば、

泰伯第八193
「曽子(そうし)日わく、もって六尺(りくせき)の孤児を託すべく、もって百里の命をよすべく、大節に臨んで奪うべからざるなり、君子人か、君子人なり」

加藤清正が論語のこの部分を思い出しながら、二条城で秀吉の遺児である秀頼を守ったという逸話もある。
言葉の力という点においては、曾子は孔子に負けてない。

曾子はいいよなーと思う。
泰伯第八191はこのように始まる。

曽子、疾(しつ)有り。孟敬子(もうけいし)之を問う。曽子言いて日(い)わく、

病気の曽子に孟敬子というヤツがおみまいに来たんだな。曽子言いて日わく、だから、孟敬子に言霊をぶつける感じだろう。来るよー曾子節ー。

「鳥のまさに死せんとす、その鳴くや哀し。人のまさに死せんとす、その言やよし」

曽子は詩人だろう。私の話を聞け、という代わりの言葉がこれだから。たまらんね、まったくたまらん。いったい曽子は何を孟敬子に語ろうというのか。

君子道に貴(たっと)ぶ所の者、三。容貌を動かして、斯(ここ)に暴慢に遠ざかり、顔色を正しくして、斯に信に近づき、辞気を出して、斯に鄙倍(ひばい)に遠ざかる、籩豆(へんとう)の事は則(すなわ)ち有司(ゆうし)存す。

あれ??? 曽子は普通の事を言い出したね。ちょっと訳してみる。
君子は3つのことを大事にする。顔つきを変えるときもドヤ顔はしたらだめ、顔色はいつも落ち着いた感じで、しゃべるときは下品なことはいかんよ。つまらない仕事は部下にやらせる。

私は正直、曽子も外すということがあるんだな。だってそれ以外考えられないでしょう? まあまあ、「鳥のまさに死せんとす、その鳴くや哀し」という部分だけでもすばらしいからいいだろう、と思っていた。

しかしこの部分を宮崎市定は、目からうろこで解釈している。
まず「君子」という言葉を、「君子であるべきあなた」と解釈する。

これはあるな。

だから泰伯第八191は曽子最後の、友である孟敬子に対する祈りの言葉になるんだろう。
「君子」を「君子であるべきあなた」と解釈しなおして、泰伯第八191の後半部分をもう一度訳してみる。

君子であるべき孟敬子さんは3つの事を大事にして。あんた、話をする時はすぐ自慢話になってドヤ顔になっとるよ、そういうのはアカンよ。顔色はいつも穏やかにして、喋る時はあんまりヒドイ言葉を使ったらアカン。あんたちょいちょいカッとなるからなー。あと、何でもこまごま部下に言ったらアカン、最後のところは部下にまかせていかんと

おーー、関西弁風に訳してみたけれど、前半と後半の語調を整えれば、かなりピッタリ来る感じだろう。
こんな解決策があったとは。さすが宮崎市定だよなー。

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