坂口安吾の昭和16年の評論、「文学のふるさと」こうある。
私達はいきなりそこで突き放されて、何か約束が違ったような感じで戸惑いし
ながら、ただ
しかし、思わず目を打たれて、プツンとちょん切られた空しい余白に、非常に静かな、しかも透明な、ひとつの切ない「ふるさと」を見ないでしょうか。
すなわち安吾のいう「ふるさと」というのは、
「兎追いし かの山 小鮒釣りし かの川」
みたいなノスタルジックな思い出の場所のようなものではない。
芥川の遺稿の手記に、
農民作家なる人が芥川の家を訪ねてきて、生まれた子供を殺して一斗缶に詰めて埋めたという話をする、
というものがある。
農民作家に、
「あんた、これをひどいと思うかね。口減らしのために殺すというのを、あんたひどいとおもうかね」
と言われて芥川は言葉に詰まったという。
さて、農民作家はこの動かしがたい「事実」を残して、芥川の書斎から立去った
のですが、
この客が立去ると、彼は突然突き放されたような気がしました。たった一人、置き残されてしまったような気がしたのです。
この突き放すところのものを、安吾は「ふるさと」と言っている。
自分なりにいろいろ考えてみる。
「インターステラ」という映画がある。主人公たちは滅びゆく地球の代わりを探そうと別宇宙の惑星を巡るのだけれど、まー、ろくでもない惑星ばかりなんだよね。しかし他惑星の住環境が酷いのは惑星の責任ではなく人類の都合であって、これは全くどうしようもない。同情も正義も文学もない宇宙で主人公たちは悪戦苦闘する。別の宇宙空間で自分たちは世界から突き放されるのではないかという予感が満ちる中、実際何度かドーンって突き放される繰り返し。
結局「インターステラ」の面白さというのは、人類が宇宙(世界)に突き放されるところの「突き放され具合」にあると思う。
この突き放すところのものが、安吾のいう「ふるさと」ということになるのではないか。
中国思想にも同じ「ふるさと」観がある。荘子の中に、
会えば離れ、成すれば壊れ、角は砕け、貴は辱められ、愚は堕ちる。知を積み重ねても、それは悲しい。弟子よ、これを記せ。ただ道徳の郷があるだけだと
とある。
なぜ安吾がこのような「ふるさと」思想に至ったのかというと、太平洋戦争切迫の結果だと思う。あの戦争は日本にとって中国とアメリカとの両面戦争だった。正直、中国とアメリカ相手に両方同時に戦争するなんてあり得ないでしょう。ナチスドイツだってフランスを制圧して、返す刀でソ連に侵攻した。日本なんかよりはるかに合理的だった。日本は世界に突き放されて、その結果として見えたものが「ふるさと」なのではないか。残酷な「ふるさと」なんて見ずに死ねればそれに越したことはないのだろうが、見てしまったものはしょうがない。
安吾の後の「堕落論」などは「ふるさと」思想の延長戦上にある。生きよ堕ちよ、だから。
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