magaminの雑記ブログ

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丸山眞男の「超国家主義の論理と心理」は昭和21年発表です。

「超国家主義の論理と心理」では、戦前日本の超国家主義を分析することで、なぜ日本は太平洋戦争であのような惨敗を喫したのか、を明らかにしようとしています。
しかしこの論文の面白いところは、過去の日本についてだけではなく、現在の日本がなぜ経済競争で惨敗を喫しつつあるのかにもつながってくるところです。

まず丸山は、日本人は「近代的人格の前提たる道徳の内面化」ができなかった、と書いています。道徳の内面化というのは簡単に言うと、自分の価値というのは自分の中にある、という考え方です。自分の価値は自分の中にあるという確信が、自分は自分であるという自己同一性を育んでいきます。

では日本人はどのようにして自分というものを維持しているのかというと、「抑圧の移譲による精神的均衡の保持」だという。

「抑圧の移譲による精神的均衡の保持の世界」とは何かというと、上のものにはペコペコして下のものには威張ることによって全体のバランスが維持されている世界ということになります。

徳川封建時代もこのような「抑圧の移譲による精神的均衡の保持の世界」だったのですが、江戸時代は職業によって人が分けられていた時代なので、職業を超えて抑圧が移譲するということは少なかったようです。武士も農民には威張っていたでしょうが、それは武士世界と農民世界との接点にいる人たちの話で、一般の武士と一般の農民が直接、抑圧の移譲を行うということはないです。
これは現代で例えるなら、大企業の協力会社担当社員と協力会社社長間に抑圧の移譲はあるかもしれませんが、大企業の一般社員と協力会社の一般社員とでは抑圧の移譲が行われるような場がないというのと同じです。

江戸時代には並列的にあった抑圧の移譲の場というのが、明治維新以降、国家という枠組みの中で序列化されるようになります。日本国民が一つの場で抑圧の移譲を行うようになります。

この結果、どのような現象が起こるかというと、

「法は抽象的一般者としての治者と被治者を共に制約するとは考えられないで、権威のヒエラルキーにおける具体的支配の手段に過ぎない。だから尊法というのはもっぱら下のものへの要請である。煩雑な規則の適用は上級者へ行くほどルーズとなり、下級者ほどより厳格になる」

このようなことは誰でも知っている、と丸山眞男は言う。

現代の上級国民問題やNHK受信料問題とつながるところがあります。
ある政治家は、NHKのありかたは問題だけれどもNHK受信料は法律に従って払うのが当然だと言います。しかしこの考え方は、「法は権威のヒエラルキーにおける具体的支配の手段に過ぎない」という認識からの帰結でしょう。

また抑圧の移譲日本における別の現象について、丸山眞男は
「思えば明治以降今日までの対外交渉において対外硬論は必ず民間から出ていることも示唆的である」
と語ります。

現代のネット右翼の嫌韓というのは、彼らが抑圧されつつも、その抑圧を国内では移譲する先も移譲する勇気もないので、韓国に抑圧を移譲しているということになるでしょう。
丸山自身はこのように語ります。
「中国やフィリピンでの日本軍の暴虐な振る舞いについて、営内では二等兵で圧迫を移譲すべき場所を持たない者が、ひとたび優越的地位に立つとき、己にのしかかっていた全重圧から一挙に解放されんとする衝動に駆り立てられたのは怪しむに足りない」

明治憲法下で日本人は自分の中に価値を持つという近代的自我形成にトータルとして失敗したと丸山自身は語るのですが、戦後において、日本人は近代的自我形成、すなわち道徳の内面化は出来たのでしょうか。

丸山眞男はこう語ります。

「国体明徴(こくたいめいちょう)は自己批判ではなくして、ほとんど常に他を圧倒するための政治的手段の一つであった。これに対して純粋な内面的な倫理は絶えず無力を宣告され、さらに無力なるがゆえに無価値とされる。倫理がその内容的価値においてではなく、権力的背景を持つかどうかによって評価される傾向があるのは、倫理の究極の座が国家的なものにあるからに他ならない」

国体明徴を憲法9条に言い換えれば、これはそのまま現代左翼リベラル批判として読めるでしょう。丸山眞男は戦後リベラルの最高の知性でした。
戦後リベラル教育は全く失敗して、現在において日本は経済的惨敗を迎えつつあります。

 坂口安吾「不連続殺人事件」は昭和23年発表。



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坂口安吾には長島萃(あつむ)という友人がいた。長島は何度か自殺未遂を繰り返し、昭和8年に脳炎にかかりそのまま発狂して死亡した。
坂口安吾は昭和9年発表の「長島の死」でこう書いてある。

『私は彼のように「追いつめられた」男を想像によってさえ知ることができないように思う。その意味では、あの男の存在はわたしの想像力を超越した真に稀な現実であった。もっとも何事にそうまで「追いつめられた」かというと、そういう私にもハッキリとは分からないが恐らくあの男のかんする限りの全ての内部的な外部的な諸関係において、その全部に「追いつめられて」いたのだろうと思う』

全てに追いつめられる男とはなんなのだろうか。おそらく現代の精神医学では何らかの病名はつくだろう。ただ病名がついたからといって追いつめられる要素が一つ増えるだけの話で、全てに追いつめられていることには変わりがないだろう。

長島は何に追いつめられたのか?ということを純文学で読みたかったが、坂口安吾は「全てに追いつめられる男」を推理小説で表現した。それがこの「不連続殺人事件」だと思う。

ここからはネタバレ注意です。長島萃から見た不連続殺人事件のあらすじを書きます。

金持ちのボンボンである文学青年一馬(長島萃)は、ピカ一という画家からその美しい妻であるあやかさんを奪い取る。しかしそもそもこれが罠。ピカ一とあやかはぐるになって、一馬の妹2人と父親と一馬本人をこの順番で殺し、一馬の遺産を根こそぎ貰おうという作戦。
戦後すぐの夏、一馬の田舎の屋敷で一馬の文学仲間が避暑に集まることになった。どさくさにまぎれて、あやかはピカ一を含め何人か関係のない人間にも招待状を出した。
最初に殺されたのは望月という文学者である。望月が殺された時、あやかは一馬と一緒にいた。夫婦だからあやかのアリバイにはならないが、これで数馬は妻のあやかは犯人ではないと確信した。望月はピカ一に殺されたのだが、これは一馬にあやかだけは犯人ではないと思わせるためだけの殺人であった。この後、一馬の妹2人と父親がピカ一とあやかに交互に殺される。もちろんピカ一とあやかは誰の前でも犬猿の仲を装っている。二人がつながっていることは誰にも分からない。
最後の仕上げだ。あやかは一馬に二人の寝室で毒入りの水を飲ませる。一馬はその水を飲んだ。あやかだけは犯人ではないと確信していた。自分を確信させるために、愛する妻のあやかが人一人殺したとは想像できかった。一馬は死んで、あやかは一馬の死を自殺だと証言した。
しかしここで名探偵登場というわけです。

不連続殺人事件の中で、一馬は策略によって全てのものに追いつめられて最後に殺される。何故、一馬すなわち長島が死ななくてはならなかったのかということは、現実よりも一次元下がった推理小説だから私たちにも理解できた。しかし現実の世界の死というのは本当のところ、理解できないところが残る。
私は中学2年の時にクラスメートが、24歳の時に同年代のいとこが自殺したが、彼彼女が何故自殺したのかは最後のところで分からない。ただ私としては生き残ったもののひけめのようなものがあるだけだ。

犯人と被害者の恋人がグルというところが「ナイルに死す」と同じですね。


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中国の長い歴史を、宮崎市定の「中国史」に即してゆっくり記述します。

宮崎史観の基本的な考えは、古代とは集中する時代、中世とは拡散する時代、そして近世以降は再び集中する時代という、循環史観です。
もう少し具体的に言うと、古代は集中する傾向があるので、大漢帝国やローマ帝国のような巨大帝国が現出し、中世とは拡散する時代傾向なので、例えば中国史においても三国志から五代十国まで分裂傾向が強く、唐は巨大帝国を築いたように見えるが、唐の王権自体は強いものではなかった。近世に入り再び集中化の時代に入り、中国史において宋や明のような絶対王権が現れた。近代に入り、遅れてやってきたがゆえによりラディカルに社会の集中化を成し遂げたヨーロッパのために、世界史的集中化の流れはより加速した、というものです。



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21世紀に入り中国の発展はめざましい。さらに言えば、もうめざましいというレベルではなく、世界はアメリカと中国との一騎打ちの様相を呈してきた。

 西洋文明から生まれた鬼子、アメリカ。

 西洋文明の価値観を最後のところで拒否する「共産国家」中国。

冷戦をはるかに上回る壮大な戦いが始まるかもしれないと考えると、ちょっとドキドキする。

だから中国のことを知るのも悪くないと思う。

歴史学において、時代を古代、中世、近世、近代と4つに分けると言う考え方がある。ヨーロッパで言うと、ローマ帝国滅亡までが古代。そこからルネッサンス前までが中世、ルネッサンスから産業革命前までが近世、産業革命以降が近代ということになって、これは馴染み深い。

宮崎市定は、中国においては後漢滅亡までが古代、三国志から隋唐を経て五代十国までが中世、宋から清までが近世、中華民国以降が近代、としている。

注目すべきは、近世の始まりがヨーロッパより中国の方が400年ほど速いというところだろう。ヨーロッパルネッサンスは14世紀半ば、趙匡胤による宋建国は紀元960年だから。中国恐るべしだし、逆に中国の20世紀はショボすぎだろう。

ああそして、眠れる獅子はついに目覚めた。

中国史における古代伝説として、尭(ぎょう)・舜(しゅん)、夏(か)の桀王(けつおう)、殷の紂王(ちゅうおう)などがあるのだけれど、この辺は歴史的事実としてはあやしいと宮崎市定は言う。まずもって確実なのは、紀元前770年ごろの周の東遷だと。ウィキによると、紀元前11世紀ごろ殷をを滅ぼした周は、紀元前770年ごろ犬戎の侵入により東に移動したとある。しかし宮崎市定は、周が東に異動した時に殷という都市国家を滅ぼしたのではないかと推測している。この推測だと、周の成立と春秋時代というのは同時に始まることになる。

古代中国の国は、古代ギリシャのポリスと同じで、自らの周りに城壁をめぐらせた都市国家だった。殷や周もそのような都市国家だったのだろうけれど、春秋時代半ばになるといくつかの都市国家をあわせた領域国家が成立してくる。これが春秋五覇(しゅんじゅうごは)にあげられる斉の桓公や晋の文公などのの国々だ。

春秋時代の後の戦国時代になると、中国は七つの領域国家に収斂した。秦・楚・斉・燕・・魏・韓の七国である。それぞれの国が一癖も二癖もあるツワモノぞろいで、世界統一に向けた渾身の戦いを繰り広げた。

このことは近代と似ている。領域国家が自らの生存をかけて総力戦を戦う。まさに近代だろう。宮崎市定は、古代は求心力の働く時代、中世は遠心力の働く時代、近世以降は再び求心力の働く時代と考えているけれど、それが正しいとするなら、古代と近世以降の状況が似てくるというのもありえることになる。

戦国時代は秦による統一(紀元前221年)によって終わる。それで、なぜ秦が強大になりえたのかという問題に、宮崎市定は乗馬をあげている。

「長く馬を飼育したならば、その背に乗って走ることは誰しもすぐ考え付きそうに思えるのだが、実際はそうではない」

乗馬のためには、馬に対する調教と調教のための道具が必要らしい。乗馬が中国に伝わったのが紀元前4世紀、この乗馬を最初に戦争に取り入れたのが、趙の武霊王(ぶれいおう在位紀元前326年 - 紀元前298年)だった。それまでの騎馬戦というのは、馬に車を引かせて、その車に人が乗って互いに戦うというものだった。この戦車戦は戦いの花であって、さまざまな伝統的価値が上乗せされていた。趙の武霊王は、このような伝統的価値観をひっくり返す形で乗馬戦法を導入したわけだ。

武霊王は最後非業の死を遂げるのだけれど、結局彼の価値破壊的なところが嫌われたのであろう。

この乗馬戦法(胡服騎射というのだけれど)を本格的に取り入れたのが秦だ。秦という国は中華の西のヘリにあった国で、中原の文明から外れるところがあった。文化的に一段落ちる国だと他の国からは思われていた。だからこそ秦は、伝統的価値観を乗り越えて胡服騎射を導入するのが容易だったわけだ。

秦は中国統一のチャンスを掴んだ。チャンスというのは偶然に与えられるものかもしれないが、それをつかむというのは、つかもうとする意思が存在しなくてはならない。秦にその意思を与えたところのものは、古代という求心力が働く時代精神だったかもしれない。

秦の統一はすぐ崩壊して、劉邦によって漢が建国される。

しかしこの劉邦なる人物は、なぜ皇帝にまで上り詰めたのかよくわからない。戦争が強いわけでもない。項羽や韓信のほうがはるかに軍事的才能があっただろう。陳勝のように後世に残る名言を語ったわけでもない。蕭何や曹参などの人材に恵まれていたというが、蕭何と曹参は、劉邦がその才能を見込んで広い世界の中から引っ張った人材というものではなく、有能そうではあるがまずもって同郷の知り合いだから。

宮崎市定は劉邦という人物についてこのように評論する。

「劉邦は江蘇省の北端にあたる沛県に生まれ、中流の農民の子であった。この付近が当時においては華北と華中との境界に当たる地であった。由来独裁者は文化の境界線から現れるものであって、それはあい異なる両種の文明によって鍛錬され、頭脳が複雑に働くので、乱世に処して難局を切り抜けるのに最も適しているからである」

言われてみると、そうかもしれないと思う。さすが宮崎市定だね。
ヒトラーも豊臣秀吉も伊藤博文も同じ類だと言う。ヒトラーはドイツとオーストリアの国境近くで生まれているし、豊臣秀吉の生まれた尾張は西日本文化と東日本文化との境目に当たる。伊藤博文の生まれた長州は、江戸時代に対馬を通じて密貿易を行っていた。長州藩と対馬藩とのつながりが深いというのは有名だ。長州藩は日本と外国との境目に位置していたことになる。

前漢後漢あわせて400年ぐらい続くのだけれど、だいたいにおいて外戚と宦官に悩まされる。官僚組織というものが宋以後に比べて未整備だったのだろう。前漢は西暦9年、王莽(おうもう)の簒奪よって滅びた。

王莽は古来評判がすこぶる悪いのだけれども、人物自体は頭がよく正義感と名誉心が強いという分かりやすいタイプだと思う。

前漢末期においては儒教的思考パターンはいまだ社会に確立されていなかった。にもかかわらず王莽は儒教哲学を前面に押し出した。ある種の理想主義だ。宋代以降の朱子学は「論語」と「孟子」を前面に押し出した四書重視のものだけれども、それ以前の儒教は五経重視だった。私は五経の一つである「春秋」を読んだことがあるけれども、あれはただの戦国時代魯の年代記だろう。あそこから何かの意味を汲み取るというのは簡単ではないよ。

王莽の新しく建てた「新」という国は数年で崩壊した。正義の観念が確立されていないのに正義を押し出すという芸当は、王莽には荷が重すぎたということだろう。日本の歴史でいうと、後醍醐天皇に似ている気がする。

前漢を継いだ後漢は200年続いた。ここでも前漢と同じように宦官による専横がはびこり、これに怒った袁紹によって宮中の宦官が全て殺されるという事件が起こった。皇帝の衣は失われ、実質的にこれで古代は終わった。以降中世が始まる。天下大乱、三国志。

日本人は三国志が好きな人も多いだろうけれど、この三国というのは恐ろしい時代なんだよね。前漢末の人口調査で、中国の人口は6000万人弱というのがある。三国時代の人口調査において、

魏 443万人

呉 230万人

蜀  94万人

というのがある。足しても767万人にしかならない。驚くべき人口崩壊が起こっている。世界が荒れ果て、食料は普通のやり方では手に入らなくなった。そこで魏の曹操が行ったのが屯田制だ。兵士自らが耕すというやつ。兵士が耕し国家が回収し兵士に再分配するという。こうなると兵営国家だろう。曹操は長城外の蛮族まで取り込んで強力な兵営国家を作り上げた。ところが魏の後を受けた晋が崩壊すると、彼らを抑えることが出来なくなった。黄河以北に五胡十六国時代(ごこじゅうろっこくじだい)が現出する。これが北魏によって統一された以降を南北朝と呼んでいる。

この南北朝が、隋によって統一されて、それを唐が受け継ぐ。唐という中国の最盛期みたいに思うかも知れないけれども、そういうものでもないらしいよ。宮崎市定によると、唐というのは遠心力の働く中世世界に現れたつかの間の統一状態という。、唐の初代皇帝李淵(り えん)は漢民族ということになっているけれども、これは怪しい。北魏時代の国境警備の役割を担っていた武川鎮軍閥由来ではないかと宮崎市定は語っている。

そう考えると、唐代初期には奇妙なことが起こる。その一つが則天武后だ。女帝、中国史上空前絶後の女帝。

別に女帝が悪いというわけでもないよ。日本にだって女性の天皇はいた。別にそれで何の問題もない。

ただ武則天は、、唐朝の第2代皇帝李世民の後宮にいた。李世民が死んで武則天は尼寺に入ったのだけれど、そこで李世民の息子である第3代皇帝高宗に見初められたという。父親の女性を好きになってものにするというのだから、儒教的考え方からするとどうだろうか。唐の皇室が蛮族由来だという考えも合理性はある。

763年に起こった安史の乱以降、唐は衰微して907年滅亡。50年ほどの五代十国時代を経て、960年趙匡胤によって宋が建国される。

中国の近世は宋に始まる。

近世始まりの曙光はルネッサンスにある。古代復興というやつ。人間は徐々に進歩するものだと考えてしまうと、遅れた中世よりもさらに昔の古代は中世より遅れた世界だろうと推論してしまう。しかしこの推論は間違っている。古代世界というのは、一定レベルの一体性、合理性を体現していた。

あえて言うなら、この現代世界というのは、人類という種が造りだした文明の二周目ということになる。文明二周目を回るに当たり参考にするであろうことは一周目のあり方だろう。すなわちルネッサンスだ。古代が一周目、近世以降が二周目。

北宋(ほくそう960年 - 1127年)を代表する政治家は王安石(おう あんせき)だ。彼の実行する政策の特徴は、国家の一体性を目標にその内部をより合理的にしようという意思にあるように思う。宮崎市定の記述する王安石の政策、例えば均輸法、青苗法、市易法というのは、社会主義的な政策だろう。この王安石流の政策を新法といい、これに反対する政策を旧法という。

王安石のあとを継いだのが蔡京(さいけい、1047年 - 1126年)だ。

新法党と旧法党の争いが激しくなった。そうなると逆に、新法と旧法のどちらが有効かというより、誰が北宋の皇帝、徽宗(きそう)の心をつかむかということになってくる。この徽宗というのが政治は極めて無能だったのだけれど、文化人としては歴史に名を残すレベルだった。徽宗作と言われる「桃鳩図」が日本にあるのだけれど、国宝に指定されている。

蔡京はこの皇帝徽宗にゴマをするのがきわめてうまかった。王安石は国家の一体性と合理性について献身したのだけれど、蔡京は自らの合理性にのみに献身した。蔡京は20年にもわたってゴマをすり続けて、結果、徽宗の代で北宋は滅びる。

蔡京の気持ちも分からなくはない。彼は宋という世界の一体性を磐石だと考えたのだろう。だから自分の合理性のみを考えた。蔡京のような世界観というのは現代日本にも蔓延している。現代日本で最近よく語られる「自己責任論」には、この世界の秩序が磐石であるはずだという前提がある。世界の内側にいて、その世界が50年、100年続くと、世界の秩序はゆるぎないと思ってしまう。

北宋、南宋あわせて320年。西暦1279年、宋は元軍に撃滅され崖山に滅びた

モンゴルって何であんなに強かったのか不思議だ。ユーラシア大陸の西から東まで、空前絶後の大帝国を打ち立てた。

宮崎市定は、モンゴルの力の源泉は鉄だと書いている。中国華北の支配は、宋以降、遼、金と続くのだけれど、宋、遼ともにモンゴル地方への鉄の持ち出しは厳禁していた。しかし金に至って鉄の管理が甘くなったらしい。モンゴルは、この鉄をやじりとして使用したという。

恐ろしい話でね、現代の核拡散防止もちゃんとやらなくてはダメだなと思う。北朝鮮の核問題も、北朝鮮自身が核を使う使わないという問題よりも、北朝鮮の核が他のテロ集団に流れないようにすることのほうがより大切だろう。

元は90年ほどで滅びた。モンゴルの支配というのは最低で、河南以南で反乱が止めどもなく起こった。中国には古来、天子とは人民の利益のために存在するという理念が存在している。モンゴルはこの事を理解できなかった。

これは日本人もえらそうなことはいえない。この中国的理念を理解しなかったから、日中戦争の泥沼に嵌ってしまったのだから。

現在中国は一体性をもって存在している。この一体性を中国共産党の強権から説明しようとする人がいるけれども、歴史的に考えれば明らかに間違いだ。宋以降、中国が分裂していたのは、袁世凱が死んでから蒋介石による統一までのごく短い間だけだ。

西暦1381年、朱元璋(しゅ げんしょう)によって明が成立する。この朱元璋が朝貢貿易制度というのをはじめる。周りの蛮国と中国皇帝様が貿易をしてやるぞ、という態度のやつ。この中国流の朝貢貿易は、宋代に淵源を持っていて、まあなんというか民族国家中国の近世的自己表現みたいなものなんだよね。

子分になったら管理貿易をしてやるぞ、という意味で行われたのが鄭和(ていわ、1371年 - 1434年)の大航海だ。朝貢貿易勧誘のために大船団による示威運動で西南アジア諸国を回ったわけだ。ペリーの黒船と変わるところはない。

鄭和の使者は日本にも来ていて、時の将軍足利義満は朝貢貿易を受け入れて、明の第3代皇帝永楽帝(えいらくてい)によって日本国王に封ぜられている。

管理的朝貢貿易というのは無理な制度であって、明は西暦1566年マカオにおける自由貿易を認めて、形式的朝貢貿易に移行した。国同士というのは面子があるだろうけれど、民間にはそんなものはない。私もそうなのだけれど、頭を下げてすむのならいくらでも頭を下げる。民間にとって大事なのは、管理的か形式的かの違いだけで朝貢貿易という観念はたいした問題ではない。16世紀末の堺の殷賑が目に浮かんでくるようだ。

西暦1644年辺境軍の反乱で、あっけなく北京が陥落して、時の皇帝 崇禎帝(すうていてい)は自殺して明は滅びた。

宮崎市定の「中国史」は中華人民共和国までの記述がある。明の後は清なのだけれど、とくに19世紀以降は現代史になって判断が難しい。また次の機会に。


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坂口安吾の天皇制に対する評価の結論を言いますと、日本国民はそろいもそろって天皇制に甘えているから太平洋戦争であのような大惨敗を喫したのだと。だから天皇制とは国民を甘やかす装置のようなものだというわけです。

社会全体が甘い構造になっているから、貴族の子供が貴族となり、やがて貴族議員として日本の枢機をつかさどるようになりました。その代表は近衛文麿であり西園寺公望でした。


【近衛文麿】


近衛文麿は生まれながらのサラブレッド。近衛家とは、天皇家に次ぐ家柄である5摂関家のうちの一つ。5摂関家は明治17年の最初の叙勲のときに、明治維新に何の功績もないにもかかわらず最上位の公爵を与えられています。
近衛文麿自身は、昭和に入り二度総理大臣になっています。昭和以降二度総理大臣になったものは、若槻礼次郎、近衛文麿、吉田茂、安倍晋三、と4人しかいません。
実は、近衛は一度目と二度目の総理大臣の間に
一度総理就任を要請されたのですが、病気を理由に辞退しています。二二六事件の直後であり、おそらく暗殺を恐れたのであろうと推測されています。
昭和16年10月、太平洋戦争がほぼ不可避になった時期に内閣を投げ出し、後継の総理は東条英機となりました。
終戦後近衛は、自分には戦争責任はないという態度を示していましたが、GHQから戦犯としての逮捕命令が出ると自殺しています。

近衛に対する評価なのですが、国民から人気があったとか自殺したのは潔いとか評価されることがありますが、私はどうかと思います。
まず巣鴨に連行されたA級戦犯で軍人は逮捕前に腹を切るべきでしょう。軍首脳が兵士に対して捕虜の辱めを受けずと玉砕を支持していたのに、自分たちだけが残された老後のわずかな時間を惜しむというのではつじつまが合わないです。A級戦犯の軍人が腹を切った後、日本の立場を近衛が法廷で語るというのが筋です。いざというときの責任を果たすために、近衛家は明治の最初の叙勲で公爵を与えられているわけですから。東条の自殺失敗は恥ですし、近衛の自殺は弱さです。


【西園寺公望】


西園寺公望は公爵です。明治憲法下での総理大臣というのは、国会議員の多数決によって選挙されるのではなく、元老と呼ばれる政府有力者の合議によって指名されていました。元老とは明治維新の元勲などで構成されていたのですが、大正半ば以降、老齢により山縣や松方の政治力が弱くなると、西園寺公望がただ一人の元老として、総理大臣指名のヘゲモニーを握るようになりました。
昭和15年11月死去。

明治憲法の最大の欠陥というのは、この元老制度にあると思います。明治憲法では形式上、総理大臣は天皇が指名することになっていますが、天皇が政治に関わるというのは天皇の権威を傷つける可能性があり、明治維新の元勲たちが総理指名の役割を果たしていました。時がたち維新の元勲が消えていくにつれて、元老制度と西園寺だけが残るという奇怪な事態になってしまいました。
西園寺の首相指名も、みなが納得するであろう人を選ぶという、ある意味雰囲気で総理大臣を選ぶという状況になってしまい、大日本帝国の迷走が深まった最大の原因でしょう。


近衛や西園寺が道を誤ったとするなら、それは彼らの能力の問題ではなく、彼らを選ばざるを得なかったシステムの問題でしょう。
そのシステムの最上位には天皇がいて、本来は自分を強く持って国民を指導するべきエリートが、最後には天皇に寄り掛かり、天皇に甘え、強いリーダーシップを発揮するような場もなく雰囲気政治みたいなことになってしまうのです。


無題


坂口安吾は「天皇陛下にさゝぐる言葉」のなかでこのように書いています。

『名門の子供には優秀な人物が現れ易い、というのは嘘で、過去の日本が、名門の子供を優秀にした、つまり、近衛とか木戸という子供は、すぐ貴族院議員となり、日本の枢機にたずさわり、やがて総理大臣にもなるような仕組みで、それが日本の今日の貧困をまねいた原因であった。つまり、実質なきものが自然に枢機を握る仕組みであったのだ。

人間の気品が違うという。気品とは何か。近衛は、天皇以外に頭を下げる必要はないと教育されている。華族の子弟は、華族ならざる者には頭を下げる必要がないと教育されている。
名門の子弟は対人態度に関する限り、自然に、ノンビリ、オーヨーであるから、そこで気品が違う。
こんな気品は、何にもならない。対人態度だけのことで、実質とは関係がない。
ところが、日本では、それで、政治が、できたのだ。政策よりもそういう態度の方が政治であり、総理大臣的であった。総理大臣が六尺もあってデップリ堂々としていると、六尺の中に政治がギッシリつまっているように考える。六尺のデップリだけでも、そうであるから、公爵などとなると、もっと深遠幽玄になる。』

日本のエリートは天皇に甘える、しかし天皇に実質などはない、という恐るべき関係性を安吾は主張しています。

福沢諭吉は
「一身独立して一国独立す」
と言いましたが、日本のエリートですら一身が独立していないわけで、これで一国が独立するというのはありえないでしょう。

エリートではない一般庶民にたいして、福沢諭吉は厳しいのですが、坂口安吾は優しいです。
福沢は、庶民が上のものにはペコペコし下のものには威張るという態度をゴム人間と表現し、このような庶民からまず元気を注入して、一身独立させねばならないと考えていました。
ところが坂口安吾は庶民に対して「天皇陛下にさゝぐる言葉」でこのように語ります。

『近衛は、天皇以外に頭を下げる必要はないと教育されている。
一般人は上役、長上にとっちめられ、電車にのれば、キップの売子、改札、車掌にそれぞれトッチメラレ、生きるとはトッチメラレルコト也というようにして育つから、対人態度は卑屈であったり不自由であったり、そうかと思うと不当に威張りかえったり、みじめである。』


一般人は実際に生活をしていかなくてはならないですから、天皇と関係ないところで生きていくしかありません。戦前は一君万民の時代、日本人個々が直接天皇につながる時代だったという意見もありますが、実際は、社会の底辺に近づくにしたがって「天皇」というものは自分とは関係なくなるという状況があります。
これは今の時代も同じでしょう。

坂口安吾は日本人を、エリート、一般人、芸人と三つに分けています。作家はどこに属するのかというと、安吾的には芸人枠になります。
普通、作家というのはエリートに入ると思われがちで、作家自身もエリートの自意識を持ったりしがちなのですが、安吾ははっきり「作家は芸人」「作家は文章の技術者」ということを前提にしています。作家は碁打ちや相撲取りなどと同レベルの芸人である、という自覚から安吾は出発しています。

国家のエリートや一般人は、天皇に甘えることなく一身独立して身を立てていくのが正しい道ではあるのですが、芸人の道は正道とは異なります。
歴史的に、天皇は芸人の親玉という側面があります。

芸人であるという自覚を持つ作家安吾は、ギリギリのところで天皇制の否定を回避します。
「続堕落論」に以下にあります。

『生々流転、無限なる人間の永遠の未来に対して、我々の一生などは露の命であるにすぎず、その我々が絶対不変の制度だの永遠の幸福を云々うんぬんし未来に対して約束するなどチョコザイ千万なナンセンスにすぎない。人は無限に堕ちきれるほど堅牢けんろうな精神にめぐまれていない。何物かカラクリにたよって落下をくいとめずにいられなくなるであろう。そのカラクリを、つくり、そのカラクリをくずし、そして人間はすすむ。堕落は制度の母胎であり、そのせつない人間の実相を我々は先ず最もきびしく見つめることが必要なだけだ。』

この「カラクリ」というのは天皇制的なものを指しています。カラクリに寄り掛かり虚無の中を生きるのは芸人だけで十分であり、そのほかの実体を持つ生活者は、その一身を独立させ社会に貢献せよというわけです。突き放すような無責任さというか、愛のこもった投げやりさというか、坂口安吾の良さというのは、このようなギリギリのところに存在します。


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坂口安吾は、太宰治が昭和23年6月13日に玉川上水で愛人山崎富栄と入水死した理由を「太宰治情死考」で語っています。

人が自殺した場合、その理由は残された者には分からないものです。告白するべき人は死に、分からないから残されたものは苦しむ。
しかし、坂口安吾は「太宰治情死考」の中で、太宰治の死を一時的メランコリーの結果だと断言しています。

まず、一部公開されている、太宰の妻にあてた遺書を以下に見てみます。

『子供は皆、あまり出来ないやうですけど陽気に育ててやって下さい たのみます。あなたを きらひになったから死ぬのでは無いのです。小説を書くのがいやになったからです。みんないやしい欲張りばかり。井伏さんは悪人です。』

「小説を書くのがいやになったのです」
というところは、文豪の悩みのように聞こえますし、
「井伏さんは悪人です」
というところは、思わせぶりな謎を残すような感じです。

ですから太宰治の自殺については、様々な推測が行われていますが、「太宰治情死考」の中で坂口安吾の語る太宰治の死の理由を見ていきましょう。

まず坂口安吾は相撲取り話から始めます。相撲取りは社会的な知識は全くないが、こと相撲に関しては大変な知識を有していると言います。実際このように語ります。

『角力トリのある人々は目に一丁字もないかも知れぬが、彼らは、否、すぐれた力士は高度の文化人である。なぜなら、角力の技術に通達し、技術によって時代に通じているからだ。角力技の深奥に通じる彼らは、時代の最も高度の技術専門家の一人であり、文化人でもあるのである。』

相撲取りは高度の技術専門家であるがゆえに社会的には非常識であると、坂口安吾は言います。これは作家も同じで、優れた作家というのは高度の記述専門家であるから、太宰治も社会的には非常識であったということです。

太宰治は山崎富栄という女性と心中しました。坂口安吾は、山崎富栄はあまり魅力的な女性とはいえなかったと言っています。「太宰治情死考」にこうあります。

『然し、こんな筋の通らない情死はない。太宰はスタコラサッちゃんに惚れているようには見えなかった。サッちゃん、というのは元々の女の人のよび名であるが、スタコラサッちゃんとは、太宰が命名したものであった。利巧な人ではない。編輯者が、みんな呆れかえっていたような頭の悪い女であった。』


wikiより

さっちゃんはなかなかの美人に見えますが、安吾の評価は低いですね。

安吾は、太宰が酔っ払って一時的にメランコリーになり、一緒に死のうと「すたこらさっちゃん」に言ったら、彼女は真に受けて丁寧に彼女の遺書を書き、よろこんで太宰の首っ玉にしがみついて共に玉川に入水したのだろう、と推測しています。

「太宰治情死考」にはこのようにあります。

『太宰は小説が書けなくなったと遺書を残しているが、小説が書けない、というのは一時的なもので、絶対のものではない。こういう一時的なメランコリを絶対のメランコリにおきかえてはいけない。それぐらいのことを知らない太宰ではないから、一時的なメランコリで、ふと死んだにすぎなかろう。』

芸道というものは常に崖の上を歩いているような厳しいものだから、太宰ほどの作家になると一時的な不調でメランコリーになって、つい自殺のまねごとをしてみるということはありえるということです。
ですから太宰の死をあれこれ考えて、その死因を確定するということはあまり意味がないということになります。

「太宰治情死考」の最期にはこうあります。

『芸道は常時に於て戦争だから、平チャラな顔をしていても、ヘソの奥では常にキャッと悲鳴をあげ、穴ボコへにげこまずにいられなくなり、意味もない女と情死し、世の終りに至るまで、生き方死に方をなさなくなる。こんなことは、問題とするに足りない。作品がすべてゞある。』



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坂口安吾「堕落論」解説 おもしろそうだけど難しそう?



坂口安吾「堕落論」での主張というのは、

日本人は、戦争が終わってまた元の日本的なこだわりの社会に戻るのではなく、そこをさらに突き抜け降下し、人間としての実感のある生活の大地に降り立つべきだ、

というものです。

これだけだとちょっとわからないかもしれないので、本文をたどりながら読んでみます。





【堕落論】


赤穂浪士の切腹の話から始まります。

『昔、四十七士の助命を排して処刑を断行した理由の一つは、彼等が生きながらえて生き恥をさらし折角の名を汚す者が現れてはいけないという老婆心であったそうな。』

赤穂浪士の物語は、日本的なこだわりにあふれている、ということでしょう。
この後、日本的こだわりの例がいくつかあげられます。

童貞処女のまま愛の一生を終らせようと大磯のどこかで心中した学生と娘があったが世人の同情は大きかった話。

戦争未亡人を挑発堕落させてはいけないという軍人政治家の魂胆で、この戦争中、文士は未亡人の恋愛を書くことを禁じられていた話。

武士は仇討のために草の根を分け乞食となっても足跡を追いまくらねばならないという話。

学生と娘は心中したくはなかったし、戦争未亡人は操をたいして守りたくもなかったし、武士はかたき討ちなど本当はやりたくなかったのだけれど、日本的こだわりの同調圧力で、やらなくてはいけないかのような気になってしまったということでしょう。

そして個々の日本的こだわりが一つになり、巨大なうねりになったものが日本の歴史であると安吾は言います。
安吾は以下のような表現をしています。

『歴史は個をつなぎ合せたものでなく、個を没入せしめた別個の巨大な生物となって誕生し、歴史の姿に於て政治も亦また巨大な独創を行っているのである』

【戦争】

そしてあの戦争とは何だったのか?
安吾はこのように言います。

『この戦争をやった者は誰であるか、東条であり軍部であるか。そうでもあるが、然し又、日本を貫く巨大な生物、歴史のぬきさしならぬ意志であったに相違ない。日本人は歴史の前ではただ運命に従順な子供であったにすぎない。』

さすがの論考ですね。

あの巨大な戦争の時に、日本人は細かい見栄やこだわりに関わりあう暇がなくなってしまって、大きな運命に身を任せるような状態になってしまったといいます。それを安吾は美しい理想郷のようだったと言っています。

『近頃の東京は暗いというが、戦争中は真の闇で、そのくせどんな深夜でもオイハギなどの心配はなく、暗闇の深夜を歩き、戸締なしで眠っていたのだ。戦争中の日本は嘘のような理想郷で、ただ虚しい美しさが咲きあふれていた。それは人間の真実の美しさではない。そしてもし我々が考えることを忘れるなら、これほど気楽なそして壮観な見世物はないだろう。』

しかし戦争は終わり、日本人は元の日本人的こだわりの場所へ戻るのでしょうか。
戦争という巨大な世界を見た後では、なかなか元のこだわりの世界に戻るのは難しいというか、バカバカしいみたいなことはあるでしょう。そもそも日本の場合、変な非合理性にこだわって大惨敗を喫したというのもありますから。

日本人はこだわりの世界のもっと底から、恰好をつけるような場所ではなく、好きな女には好きというような場所から自分たちの生活を積み上げていかなくてはならない、と安吾は言うわけです。もっともです。
じっさいはこのようにあります。

『戦争は終った。特攻隊の勇士はすでに闇屋となり、未亡人はすでに新たな面影によって胸をふくらませているではないか。人間は変りはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ。人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。』

恰好をつけて生きるような、そんなくだらない高みからは堕ちろと。そのような高みがくだらないということは、まさに戦争が教えてくれただろう、と。

現代という平和な時代に長く生きていると、恰好をつけて生きるのが有利な場合が多いですから、なかなか堕ちるというわけにもいかないのですが、一応「堕落論」的世界を知っておくのも悪くないと思います。


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坂口安吾「続堕落論」は「堕落論」の進化バージョンです。
その内容というのは、

こだわりや気取りなんていうものは、結局人を弱くする。人は現実の生活の中からこそ強い自分を作るべきだ、

ということを主張するものです。

「続堕落論」は、日本人のつまらないこだわりを一つ一つ挙げながら、最後に

「戦前のように気取れなくなったからといって、いつまでめそめそしてるんだ!!」

と絶叫するかのようなパターンをいくつも積み重ねていく、という構成になっています。

実際に見ていきましょう。


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続堕落論】

最初は新潟の石油成金の話。

『中野貫一という成金の一人が産をなして後も大いに倹約であり、安い車を拾うという話を校長先生の訓辞に於て幾度となくきかされたものであった。百万長者が五十銭の車代を三十銭にねぎることが美徳なりや。』

金持ちが小銭を節約するのが美徳とされるような気取った社会なんてウンザリだっただろう、というわけです。

次は農村文化の話。

『戦争中は農村文化へかえれ、農村の魂へかえれ、ということが絶叫しつづけられていた。一口に農村文化というけれども、そもそも農村に文化があるか。文化の本質は進歩ということで、農村には進歩に関する毛一筋の影だにない。』

気取った都会人が農村にあこがれて農業を始めてみても、現実は厳しいというのは今でも同じです。

次は、額に汗することが大切だというこだわりについての反論。

『必要をもとめる精神を、日本ではナマクラの精神などと云い、五階六階はエレベータアなどとはナマクラ千万の根性だという。すべてがあべこべなのだ。真理は偽らぬものである。即ち真理によって復讐せられ、今日亡国の悲運をまねいたではないか。』

そんな非合理なことだから戦争に負けたんだ、と言われたら何も言い返せません。

そして、天皇制とは、日本がこだわりや気取りで首が回らなくなった時のための安全弁みたいなものであるという話。

『たえがたきを忍び、忍びがたきを忍んで、朕ちんの命令に服してくれという。すると国民は泣いて、外ならぬ陛下の命令だから、忍びがたいけれども忍んで負けよう、と言う。嘘をつけ! 嘘をつけ! 嘘をつけ!我等国民は戦争をやめたくて仕方がなかったのではないか。そのくせ、それが言えないのだ。』

気取った左翼が天皇制は必要ないなんて言うことがありますが、彼らのような人にこそ天皇制は必要なのでしょう。


【堕落とは】

坂口安吾は、このようにこだわりの馬鹿馬鹿しさを列挙して、気取って持ち上げられた世界からの離脱、すなわち堕落を叫びます。
真実の大地に降り立ち、好きな女には好きと言って、互いに裸で抱き合え、というわけです。

好きあった男と女が真実の大地に降り立ち裸で抱き合うというのは、はるか昔から変わらない真理でしょう。

しかし、この堕落の話は終戦直後の混乱期だったから説得力があったので、いまの平和な時代で堕落とかしていたらまずいのではないのか、という意見はあると思います。
妻や子供がいる立場で淪落の恋とかあまり自分勝手なことをして人を傷つけてもどうなのかとは思います。

こういう意見に対して坂口安吾は、

『善人は気楽なもので、父母兄弟、人間共の虚しい義理や約束の上に安眠し、社会制度というものに全身を投げかけて平然として死んで行く。だが堕落者は常にそこからハミだして、ただ一人曠野こうやを歩いて行くのである。善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや、とはこの道だ。』

といいます。

歎異抄の有名な部分のなぞ解きまでされては困りましたね。

これはギリギリの場面での話であって、オヤジがキャバクラでキャバ嬢に入れあげいていいということではないでしょう。


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坂口安吾「風博士」は昭和6年発表です。

風博士という短編は、そのまま論理的に読んだのでは解析できないと思います。


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【風博士内容】

風博士は遺書を残して失踪したのですが、風博士の弟子であるらしい話者は遺書を根拠に、風博士は自殺したと断言します。
確かに遺書の最期にはこのようにあります。


『負けたり矣。刀折れ矢尽きたり矣。余の力を以てして、彼の悪略に及ばざることすでに明白なり矣。諸氏よ、誰人かよく蛸を懲こらす勇士なきや。蛸博士を葬れ! 彼を平なる地上より抹殺せよ! 諸君は正義を愛さざる乎! ああ止むを得ん次第である。しからば余の方より消え去ることにきめた。ああ悲しいかな。』


そして実際に風博士の自殺現場に、この弟子はいました。
このようにあります。


『已すでにその瞬間、僕は鋭い叫び声をきいたのみで、偉大なる博士の姿は蹴飛ばされた扉の向う側に見失っていた。僕はびっくりして追跡したのである。そして奇蹟の起ったのは即ち丁度この瞬間であった。偉大なる博士の姿は突然消え失せたのである。』


風博士は風になってしまったのです。
風博士は自分の意思で風になったので、この弟子は風博士の風への変化を自殺だと言っているわけです。

遺書によると、風博士が自殺した原因というのは、自分の奇妙な学説をタコ博士なる人物に否定されたから、ということになります。
あと、タコ博士に妻を寝取られたから、という理由も書いてはありましたが、そもそも風博士が失踪したのは、自分の結婚式の当日ですから。
風博士は、タコ博士に妻を寝取られたことを遺書の中でこのように書いています。


『余の妻は麗わしきこと高山植物の如く、実に単なる植物ではなかったのである! ああ三度冷静なること扇風機の如き諸君よ、かの憎むべき蛸博士は何等の愛なくして余の妻を奪ったのである。何となれば諸君、ああ諸君永遠に蛸なる動物に戦慄せよ、即ち余の妻はバスク生れの女性であった。彼の女は余の研究を助くること、疑いもなく地の塩であったのである。』



これから推測するに、タコ博士の奪ったであろう風博士の妻とは、単なる植物だったと思われます。

この風博士というのは、自殺前においてまともに喋ることもできません。
このようにあります。


『つまり偉大なる博士は深く結婚式を期待し、同時に深く結婚式を失念したに相違ない色々の条件を明示していた。
「POPOPO!」
 偉大なる博士はシルクハットを被り直したのである。そして数秒の間疑わしげに僕の顔を凝視みつめていたが、やがて失念していたものをありありと思い出した深い感動が表れたのであった。
「TATATATATAH!」』



風博士は

「POPOPO!」
「TATATATATAH!」
ぐらいしか喋ることができない知能レベルです。これでは2歳児程度でしょう。

風博士は風になり、最後の復讐としてタコ博士の体に入り込み、タコ博士をインフルエンザに犯して話は終わります。

【風博士解析】

話者の話を全てまともに採用したのでは、「風博士」は解析不可能でしょう。この話者が語る風博士の部分は全く信用できません。
喋ることもできない人物が遺書を残すというのもおかしいです。


『そして其筋の計算に由れば、偉大なる風博士は僕と共謀のうえ遺書を捏造ねつぞうして自殺を装い、かくてかの憎むべき蛸たこ博士の名誉毀損をたくらんだに相違あるまいと睨にらんだのである。』



などとは書かれていますが、風博士の遺書は、話者である「僕」が捏造したのでしょう。


「風博士」のなかで、風博士に関する部分がすべて信用できないとなると、この短編にはほとんど内実が残らないのではないかと言われそうなのですが。

【結論】

この「風博士」という短編は、頭のおかしい人物が死んだというだけの事実を、死んだときに風が吹いていたという事だけを話者が自分に引き付けて、狂人の内面までも推測しながら構成されたものでしょう。

親が死んだときに、遠くにいる子供の枕元に親が現れて何かしゃべった、というような話はよくあります。狂人が死んだときに風が吹いていた、だから狂人は風になったのだ、と考えてもそれほどおかしい話というわけでもないでしょう。

狂人を弔うために、狂人の狂った世界を再構成してみようという考えもあり得るでしょう。



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坂口安吾と阿部定は戦後に対談しています。

無頼派の坂口安吾と、恋人を絞め殺してその一物を切り取り、ふところに抱えて逃亡した日本史上もっとも有名な女性犯罪者である阿部定との対談ですから、これは興味があります。

阿部定事件は昭和11年5月に起こっています。3カ月前には226事件が起こっています。新聞は事件を大きく取り上げ、情夫を殺した後にイチモツを切り取り、大事そうに持っていたという、好奇心を刺激しやすい内容で報道しました。

ところが安吾は、実際会ってみると、阿部定は普通の女性だったと言っています。

安吾のエッセイによると、阿部定の彼氏というのは、首を絞められるのが気持ちいいという性癖があったといいます。
こういう人はたまにいます。
彼に言われるままいつものように首を絞めてやっていたら、そのまま彼氏が死んでしまいました。愛する彼氏とそのまま別れるのが嫌で、彼氏の一物を切り取り胸に抱えて逃げた、ということらしいです。

戦前において阿部定事件は確かにセンセーショナルだったかもしれないですが、戦後になって何度も反省されるべき凶悪事件というわけではないでしょう。
阿部定事件は、なぜ何度も繰り返し話題になってきたのか、不思議な感じはします。

坂口安吾は昭和22年のエッセイで、

「お定さんが、十年もたつた今になつて、又こんなに騒がれるといふのも、人々がそこに何か一種の救ひを感じてゐるからだと私は思ふ。救ひのない、たゞインサンな犯罪は二度とこんなに騒がれるものではない」

と言っています。

人々が何かから解放されようとする時代に、恋人を殺して一物を切り取って抱えて逃げた女、というのは、日本的な

「民衆を導く自由の女神」



みたいなものでしょうか。

これは男の都合ですね。
戦争を始めたのも男の都合で、戦争に負けたのも男の都合で、阿部定を持ち上げるのも男の都合でしょう。

女性が社会で男性に伍していく現代においては、阿部定は忘れられていくでしょう。


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村上春樹と大江健三郎の文学の傾向は似ている、ということがよく言われます。

簡単なところで言うと、村上春樹の作品にも大江健三郎の作品にも四国がよく出てきます。
大江健三郎は伊予の喜多郡生まれなので、四国が作品の舞台になることが多くなることも理解できます。しかし村上春樹は京都生まれの西宮育ちで、大学は早稲田で東京暮らしで、四国とはあまり接点がないような。


繝繝シ繝ウ, 遨コ, 髱�, 繝上・繝� 繝繝シ繝ウ, 繧ケ繝壹・繧ケ, 豌怜・, 螟ゥ譁・ュヲ, 螟懊・遨コ


【村上春樹の中での四国】


村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」で主人公の失踪した妻から来た手紙の消印が高松でした。
「ねじまき鳥クロニクル」では、ある特定の井戸が重要な役割を担うのですが、その井戸の所有者家族が四国で一家心中しています。
「海辺のカフカ」では、主人公の少年が家出した結果居ついた場所が
高松でした。少年は高知の山奥に家を借り、そこで幻想的な体験をします。
「騎士団長殺し」に登場する免色さんは、その珍しい苗字のルーツは四国であるらしい、と語られたりしています。

村上春樹は、作品中で無理矢理に四国を出している感じです。これは村上春樹の大江健三郎に対するオマージュではないかとも考えることも可能です。


【村上春樹と大江健三郎の文学】


村上春樹と大江健三郎の文学の具体的な内容の似ていることについて、これは大江健三郎の初期の作品については当てはまるとおもいます。

大江健三郎の最初期の短編である「奇妙な仕事」から、その主人公と登場人物の女子学生との会話での主人公パートを抜粋してみます。  

『たいへんだな、と目をそむけて僕はいった』

『火山を見に? と僕は気のない返事をした』

『君はあまり笑わないね、と僕はいった』

どうでしょうか?
私は、村上春樹に出てくる「悪い奴じゃないのだけれどちょっと不愛想」な主人公たちと似ているところがあるのではないかと思います。

これもまた大江健三郎の最初期の短編である「死者の奢り」(ししゃのおごり)は、主人公「僕」が、大学の医学部でアルコール水槽に保存されている解剖用の死体を処理のアルバイトを、辛気臭い女子学生といっしょにするという話なのですが、小説内での語り手が一人称の「僕」ですから、村上春樹の小説の感覚と似ています。

昭和30年ごろの大江健三郎の文学における問題意識というのは、寄り掛かる価値観を失った若者を描写することだったと思います。
昭和20年後半は戦前と戦後の価値観の変わり目で、戦中に受けていた教育規範が胡散霧消し多くの人が心の軸を失ってしまい、人生経験の少ない若者の自殺率が異常に高くなっていた時代でした。

戦後の確固とした価値観を失った時代に生きた若者の多くは、価値というのは相対的なものであるという場に至って、結果として生きる力を失ってしまったということなのでしょう。同じようなタイプの青年を描いているという意味で、初期の大江健三郎の作品と村上春樹の作品とは似ているところがあると思います。

しかし大江健三郎は、価値が相対的だという場に落ち込んでしまった青年を描くという態度から、生きる力を失った人はどのようにしたら救われるのかという文学的態度に一歩踏み出しました。遍歴の末、イーヨーというヒーローを得て大江文学は一つの到達点を示現したと思います。

これに対して村上春樹の文学は、大江健三郎と違って、新しい世界に一歩を踏み出すということがなかったと言えます。いつまでも「ノルウェイの森」の劣化版を書いています。というか、書けば書くほど劣化していっています。

これは一歩踏み出した世界から見れば、村上春樹の文学は劣化しているように見えるということになります。
価値が相対的だという世界にとどまり続ければ、村上春樹の世界は時とともに深化しているように見えるでしょう。

世界に実体としての価値観があるか、それとも価値観というのはすべからく相対的なものであるかは、それぞれの人の判断によるものであるでしょうから、どっちの世界観が正しいとかいうものもないとは思います。

ただ、大江健三郎と村上春樹の文学というのは、はじめは同じような地点から出発したのですが、あとで方向性が全く異なってしまったということになるでしょう。


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