magaminの雑記ブログ

カテゴリ: 日常

私には行きつけの美容室というのがあって、高校2年の娘と2人で行っている。私も髪が薄くなってきて、正直美容室なんて必要ないのだけれど、娘が一緒でいいと言ってくれるので、ウキウキしながら行っている。男の店長と、40歳ぐらいの女性と2人でやっている目黒のシャレた美容院。 この前、会計の時に、その40歳ぐらいの女性に私は、
「娘が美容室にいっしょに行ってくれるってありがたいですよね」  
と喋りかけた。すると彼女は、
「これからどこか二人で何か食べに行くんですか?」
と聞いてきて、さらに
「いっしょに食べに行くって、ポイント高いですよね。私もmagaminさんが食べにいこうって言ってくれたら付いて行っちゃう」
 って言っていた。よく行く美容室の女性スタイリストとの行き着く最高のシチュエーションが不倫だというのでは、あまりに危険すぎるので、今回はスルーなんだけれど。  これで思い出した。  私は女性経験が豊富なわけではないのだけれど、付き合った女性というのは、押してもいいよというシグナルを私に出していた。それを私がドキドキしながら押して付き合うに至るという。誰もがこんな感じだったと思う。この感覚がわからないというヤツは、よっぽどのイケメンか素人童貞かのどちらか、もしくはその両方だろう。そもそもシグナルを出していない女性にアタックして、大いにありうることなのだけれど、もし10連敗でもしようものなら男としてのメンタルがもたない。   すなわち自由恋愛市場では、比較として女性に選ぶ権利があるということになる。そもそも男っていうのは、やれれば何でもいいみたいなところがあるし。   日本の婚姻率を上げるための簡単な方法というのは、国家が女性世界に手を突っ込むということになる。例えば女性の収入を制限するとか。  もちろんそんな政策はありえない、不可能だ。  簡単に考えていてはダメだろう。日本の人口減少を反転させるためには、今とは全く別の世界観が必要となるだろう。

孔子に、「吾十有五にして学に志す」っていうヤツがあるよね。これを真理だと思っていた。私は子供のころ、人間は年をとるにしたがって世界を理解できるようになり、まあなんというかどっしりとして落ち着いてた人格が形成されてくるものだと思っていた。   合理的推論、オッカムのカミソリ。  しかし現実はというと、全く残念なのだけれど、この世界では年を重ねても自然と人格が形成されるということはない。周りに六十代の人がいるなら、外見にとらわれず内面をよくよく観察してみればいい。驚くほどの子供ぶりだよ。よくあるパターンが、地位の高そうな人にはぺこぺこして、下っ端には威張り散らすというやつ。しょうがないとは思うのだけれど、60の半ばにもなれば失うものも少なくなってきているのだから、正義を体現してもいいと思うのだけれど、どうやらそういうわけにもいかないらしいよ。六(ろく)十(じゅう)にして耳(みみ)順(したが)ふ、って言っても、したがっている人ってかなり少数だろう。   合理的推論のどこが間違っていたのかと考えてみる。  辿っていくのならば、年をとるにつれて世界を理解するようになる、というところに疑義が発生するだろう。この世界においては、普通に生活するだけでは「世界を理解する」なんていうタームには至らない。現代人は、何らかの強力な世界観にコントロールされていて、世界を理解させられるだけで、「世界を理解する」という流れに逆らうような思考がほとんど許されていない。   一つ例を出そう。  職場のおじいさん達はロト6とか、よく買っている。期待値の低い宝くじを買うというのも、夢としては悪くないと思う。若いうちならありだ。しかし、六十半ばを過ぎたじいさんばあさんが、夢を買うっておかしくないか? 彼らは個体として永遠に生きるつもりなんだよ。    この辺に現代社会の狂気というのはあると思う。  個体として永遠に生きようとする。秦の始皇帝かよ。

ウチの次男は小学5年の男の子なのだけれど、学校で大きいほうを漏らしちゃったというんだよね。トイレに駆け込んだのだけれど、間に合わなかったらしい。昭和育ちの私としては、これ、かなりまずのではないかと思った。私の子供のころなんて、学校のトイレで大きいのをすることすら、かなりの冒険だったから。いわんや漏らすをや、だよ。子供に聞いた。  「漏らして大丈夫なの?」  「だいじょうぶってなにが?」  「まあ、例えばさー、漏らして虐められるとかそういうことない?」  ここで彼は150キロのストレートを投げてきた。 「ぎゃくにきくけどサー、うんこもらしたからって、なんでいじめられなくちゃいけないの?」   これには参った。空振り三振だよ。逆に聞くけどサー、というすばらしいスピンまでかかっていて、とても打てる気がしない。  どうなんだろう。 子供のころの私が弱かったのか、昭和という時代が酷かったのか、今の時代は進歩してあるのか、次男がただ強いのか、どうなんだろう?

朝の8時に起きてみる。子供達に朝ごはんを作ろうと思って台所に行った。卵焼きが二切れ皿においてあった。 妻が弁当でも作ったのかと思って、「ママー」と呼んでみてもリアクションなし。そういえば、昨日小学5年の次男の子供バスケの試合についていくと妻が言っていたような記憶がある。ママの寝室をのぞくと、妻も次男もいなくて、小学2年の次女が一人で寝ていた。あらかわいいと思って、次女のほっぺたをこすると、寝返りをうっちゃってまたかわいい。そういえばと、千葉のほうで小学低学年の女の子を殺したオヤジが逮捕されたことを思い出す。こんなかわいい女の子を殺すなんて許せんと、怒りをあらたにする。  昨日うどんを買っていたので、鍋にお湯を沸かしてだしを入れて、油揚げとさつま揚げとキムチとうどんと卵ともやしを入れて蓋をした。10分ぐらいぐつぐつやった。 高校2年の長女を呼んだ。「今日は塾に行くんだから、早めに起きてご飯を食べたらいいんじゃないの?」と声をかけた。長女はのそのそ起きてきて、うどんを食べて、塾に行く用意を始めた。私は残りのうどんを食べて、自分のベッドに戻って本を読む。「未開社会における性と抑圧」という本。私の仕事は、ただのトラック運転手だ。このような本を読んでも何の利益にもならない。小説とかエッセイとか馬鹿馬鹿しくて読む気にならないから、結局専門書っぽいところに吹き寄せられてしまうのだろう。1時間も読むと眠くなってくる。お昼寝だ。  気持ちよく寝ちゃったという。  昼の1時ごろに目が覚める。  小学2年の娘に昼ごはんを作らなくてはいけないと思いだす。  お兄ちゃんの声が聞こえる。長男は大学生で二十歳だ。年頃の男の子だからということで、近所にアパートを借りてやっている。たまに帰ってきてご飯とか食べている。  観察するところによると、長男と次女はお腹がすいているっぽいので、近くのスーパー、歩いて3分のスーパーに何か買いにいくことにする。あいつらの昼ごはんは寿司でいいだろうと、300円の「ねぎとろ細まき」を買う。子供二人だから、二つ買おうかと思ったのだけれど、結構入っているから一つでいいなと判断した。足りなければ、切り餅でも焼いてもらえばいいよ。  夕食の食材も買う。妻も4人の子供も、朝ごはん昼ごはんはいい加減なのに、晩御飯はガッツリ食べる。  スーパーを巡る。思いを思う。例えば、鳥の胸肉って安いよねって思う。100グラム68円というのだから、これを美味しく食べられたらかなり有利だな。胸肉1キロ買って、料理の仕方は後でクックパッド検索だ。ちょっといくと、いわしがあった。いわしって捌くのがメンドクサイのだけれど、もう捌いてあるヤツが売っている。5尾入って300円。捌いてあるなら楽だよね思って、いわしパックを買い物かごに投入。となると、胸肉1キロというのは多すぎるだろう。胸肉500グラムを売り場に戻す。家に帰る。長男と次女が寿司を食べ始める。 どんどん食べてなどと言いながら、私はベッドに行って本を読み始める。いつの間にか寝ている。起きたら5時だ。クックパッドで鶏の胸肉の調理法を調べる。片栗粉でもつけて揚げればいいだろう、と考えていたのだか、たたきにして卵と調味料を混ぜてナゲットにするという料理法が1ページに2件も出ている。胸肉って、そのまま揚げちゃうとぱさぱさしちゃうのかなと考えてしまう。しかし、鶏肉をたたくのはメンドクサイよねとも考える。しかしクックパッドのレシピの下に、「鶏肉をたたくのは案外簡単ですよ」 などと書いてある。あっそうなの、と簡単に信じる。簡単なら今からやっちゃおうと思い、即実行。実際やってみて、確かに胸肉はたたきにはたたきにはしやすいだろうとは思う。しかしやりながら、たたくぐらいなら最初からミンチを買えばよかったのではないかと思ったりした。 今ココ。

現在私は、47歳のおやじ。職業はトラック運転手で、4人の子持ち。若いころは、女の子にもてたいとか、人から評価されたいとか、美味しいものを食べたいとか、そういうのもあった。しかし消え去った。年とともに、あらゆる意欲が失われていく中、文学に対する情熱だけはなくならない。  本当にありがたいことだと思う。  導火線に火がついたのはいつだったのだろうか。中学2年の時にカフカを読んだときか、小学3年の時にルドルフ.ヘスを読んだときか、それとも生まれる前か。  今日から、「哲学の誕生 ソクラテスとはなにものか」という本を読み始めた。どこかの大学教授の本なのだけれど、名前は書くこともないだろう。プロのプラトン研究家がプラトンをどう評価しているのかと、ちょっと興味があっただけだから。プラトンは読んだ。プラトンというのは、近代世界の根源だと思う。この世界で、何が正義で何が悪かという価値基準というのは、プラトンにさかのぼれるものが多い。そして、正義というものがプラトンなるものに勝手に決められているとするのなら、ちょっと釈然としない気持ちにもなる。昔、父親が家のルールというものを勝手に決めていて、子供ながらイライラしていた感じか。  ニーチェはこの世界を相対化しようとして、プラトンに敵意むき出しだった。  例えばだよ、プラトンがソクラテスの多くの弟子の一人だったとして、さらにソクラテスが古代ギリシャの何人かの優秀な言論者たちの一人だったとする。なぜプラトンのみが哲学の巨人として現代にまで屹立しているのかというと、それは古代ギリシャの言説の多くが失われる中、プラトンの言説の多くが現代まで受け継がれてきたからだとする。このような論理を組み合わせると、プラトンはたまたま現代において英雄扱いされているかのように見える。この論理は、プラトンを世界の外側から相対化するものだ。世界を簡単に考えすぎている。  正直、このような相対化というのは価値が薄いと思う。ニーチェやハイデガーのように世界の内側から世界を相対化しようという言説こそ価値がある。  神経症の患者がいてだよ、それを神経症の外側からああだこうだと言ったとして、それが神経症患者のリアルに何の関係があるというのだろうか。神経症世界の内側から神経症を相対化して初めて、神経症患者は救われたり救われなかったりという揺らぎの中に復帰できるのではないだろうか。

ヨーロッパの秩序体制は、神とか正義とか人権とかそのような確定した概念があって、その明確な概念を中心とした概念体系が人間を覆っているというのはあるかもしれない。日本の秩序というのは、もう少しゆるい感じだろう。  結論から言うと、「本音と建前」ということになると思う。日本人は、建前によって日本の秩序は維持されているが、本音ではこの秩序は仮想ではないかと思っているのではないだろうか。  例えば民主主義というものがある。  日本人は本当に心の底から民主主義なんていうものを信じているだろうか? そりゃあ、新聞やテレビはきれいごとを言う。メディアは建前そのものだからだ。しかし日本人の民主主義についての本音は、日本は民主主義だったり民主主義ではなかったりするよね、という所にあると思う。建前では民主主義というものは確定しているのだけれど、本音では民主主義というものは揺れている。  これは悪いことではない、一つの智恵だと思う。  そもそも人間の生きようというエネルギーは、この価値観の揺れから来ていると思う。全ての概念が確定してしまったら、我々はAIと変わらない。うつ病などという病気は、心が建前に占領されすぎて価値観の揺れがなくなり、生きる力を衰弱させた結果なのではないだろうか。頑張るのはいいのだけれど、頑張りすぎはよくない。太平洋戦争なんて、あれは頑張りすぎたところがあっただろう。

教育があって社会的な地位にある人が社会的なルールを守るというのは当たり前。問題は、日本の下層民がどのようにルールを守っているのかということだ。  私の会社では、忙しい時には派遣を使うときがある。ほとんど人数あわせの最低賃金で働く人たちだ (私も基本的には彼らと変わらないのだけれど)。 彼らが全然ダメ人間かというとそうでもない。「仕事」だから最低限の事をやらなくてはならないという矜持はある。派遣同士にも人間関係があるらしく、使えないやつははぶられて何処のグループにも入れてもらえなくなるという。社会保障もなく最低賃金以下の派遣労働でも何らかの選別はあるらしい。  派遣を使う側も結構気遣いをする。派遣というのは奴隷ではないから、ここには行きたくないという選択の自由だけはある。だからムヤミにこき使ったりすると敬遠されて、派遣会社も余り物を送り込んでくるようになる。   派遣同士にも選別があるし、使う側にも気遣いがあるということで何らかのバランスが取れているのだろう、とんでもないヤツというのは来ない。  しかしあいつらはなんなのだろうとは思う。40にも50にもなって、社会保障もなし、妻も子供もなし、最低賃金で使われて。ただ不思議なことに、仕事に対する矜持があったりする。昼休みに派遣同士で、明日以降の予定を互いに一人前のつもりで話し合ったりしている。「あいつは使えないから連れて行きたくないんだよねー」 みたいな感じで。こんなものは、派遣でなくても誰もが似たようなものなのだろうが、人を下げてやっと自分を維持しているという醜さの蔓延。  最後はどうするのだろうとは思うのだけれど、現状はある程度の精神の均衡を保って仕事はするという。   下層民とはいえ、日本の場合は何らかの力により、かなり持ち上げられていると思う。

北朝鮮がミサイル発射実験を継続して、米韓は共同軍事演習をやっている。中国は、北朝鮮を挑発するべきではないと言う。日本はアメリカ寄りだろう。  中国が北朝鮮を全くコントロールできないとするなら、トータルで考えれば、中国の言い分が一番整合性があるだろう。多くの人が、中国が北朝鮮を何とかしろと思っているだろうが、そもそも北朝鮮というのはソ連の衛星国家だったし。北朝鮮という国家は冷戦の遺物なんだよね。  日本もまったく責任なしとはいえない。太平洋戦争のあの惨敗で、自らを回収するのに精一杯で、併合していた朝鮮半島を放り出した過去がある。朝鮮半島を日本が植民地にしていたというのは、現代からみた考え方だ。戦前においては、朝鮮半島は日本本土であるか植民地であるかとの間で揺れていた。日韓併合は35年続いたのだから。35年というのは軽い年月ではない。35年の間には、日本と朝鮮との間に様々な一体化の運動がなされただろう。両国の間に、そのことを信じた人も多数いただろう。にもかかわらず、日本は朝鮮半島を放り出した。それは日本の弱さだった。  例えばだよ、兄が面倒を見切れなかった弟が、その後過酷な人生を生きたとして、それは誰に責任があるのだろうか。弟自身だろうか?、その後の弟の面倒を見た血のつながっていないおじさんおばさんだろうか?、弟の面倒を見る能力のなかった兄だろうか?、弟の事をよく気にかけていてくれた隣の病弱なオジサンなのだろうか?。

私、スマホを持っていないのでよく分からないのだけれど、スマホゲーに月何万も課金する若者が多いらしい。  こんなことを言うと申し訳ないのだけれど、馬鹿だろう。  お金をかけてゲーム会社の社員が作ったクエストを解いたって何の意味もないよ。お金を使ってゲーム世界内でのポジションを上げたって、ゲーム自体がなくなれば全てが消えてしまうんだろう?  そんなに暇でかつ謎を解きたいのなら、この世界の謎を解けばいいよ。   何故この世界はこのようにあるのか、何故自分はこの世界で喜んだり苦しんだりするのか、人々を鉄のおりに閉じ込めているものはなんなのか。暇ならこのような謎に挑めばいい。なぞは巨大だ。そして、あらゆる資料は参照自由だ。断言してもいいけれど、10年、20年、では解けないよ。   若くて、暇で、頭がいいという自負があるのなら、このような謎に挑めばいい。

私は、子供のころ、人間は歳をとるとだんだんと人格が完成されてくるものだと思っていた。これは訂正されなくてはいけない。何らかの努力をすることなしに歳をとっても、人格は完成されない。歳をとれば、ただ感情制御の機構がゆるくなるだけ。   民主主義というのは、私は悪くない制度だとは思うけれど、あらゆる価値が対等だというところまで行き着いてしまうと、これはどうなのだろうか。あらゆる価値が対等だということになると、思想の積み重ねというものすっ飛ばして、なんでも才能だということになる。顔が美しいのは才能、仕事ができるのは才能、知能が高いのは才能。こうなると、整形するヤツ、仕事が出来るフリをするやつ、知能の高いアピールするヤツ、そういうのが大量に発生するだろう。  人は永遠に生きることは出来ない。誰もがいつかは死ぬわけで、嘘をついて人生を飾ってそして死んでそれに何か意味があるものだろうか。   何が正しくて何が正しくないか、そのようなものは分からないとは思うけれど、正しいことを知ろうとする誠実な努力は必要だろう。   この世界の今の秩序というのは岩盤ではないと思う。自分だけ才能を頼りによろしくやろうなんていうのは、この世界の秩序を岩盤だと仮定した甘えの論理だ。  本当なら、孟子の性善やプラトンの正義論などの強力な言説が蘇ればいいのだけれど、そういうわけにもいかないだろう。この世界はたそがれて、このままだと別の均衡に移行するだろう。その新しい世界では、今の仕事が出来るフリだとかそのようなものは全く意味がなくなるだろう。

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