magaminの雑記ブログ

カテゴリ: 読書日記

明治維新から現代までの日本近代の流れを解析する。よって見ていってください。

日本の近代というのは「官僚主義」と「維新主義」の相克と考えることもできる。戦前においては統制派と皇道派、明治維新後においては政府と西郷軍、明治維新前においては幕府と攘夷派。いったいこれ、どこまでさかのぼることが出来るのだろうか。

まず「官僚主義」について。
テツオ・ナジタは初期官僚主義の代表的イデオローグとして山崎闇斎(やまざき あんさい 1619-1682)と荻生徂徠(おぎゅう そらい 1666-1728)の二人をあげている。
山崎闇斎とは朱子学系統の儒学者。朱子学というのは、秩序の規範はこの世界の外にあると考える。伝説の古代に秩序の規範を求めたりして、考え方としては分かりやすい。
荻生徂徠は荀子、韓非子ラインの法家系統の儒学者。法家思想は、秩序の規範はこの世界の内にあると考える。だから秩序を支える法律というものは絶対ではなく、時代に合わせて変えていかなくてはならないとする。
山崎闇斎と荻生徂徠、これはどちらが正しいというものでもないだろう。時代の要請にあわせて、より有効な哲学が社会のヘゲモニーを握ればいいという感じだろう。

次に「維新主義」について。
テツオ・ナジタは初期維新主義の代表的イデオローグとして中江藤樹(なかえ とうじゅ 1608-1648)と本居宣長(もとおり のりなが 1730-1801)の二人をあげている。
中江藤樹は江戸初期の陽明学者。陽明学というのは朱子学と同じ新儒教の一派。朱子学では規範は世界の外にあると考えるのだけれど、陽明学は規範は世界の内にあると考える。それでは法家と一緒ではないかと思われるかもしれないが、法家は性悪説に立つ。だからビッチリした法律体系が必要だと考えるわけだ。これに対して陽明学は性善説に立つ。性善説の言論なんてぬるいのではないかと思ったら大間違い。性善説はギリギリの言説だ。テロリストというのはだいたい性善説をとる。
本居宣長は国学者だ。国学者というのは体系的言論が嫌いなんだよね。めんどくさい話が嫌いだというだけなら別に毒にも薬にもならないのだけれど、これ例えば、あなたは日本人ですよね、日本人なら万葉集は好きですよね、万葉集はすごくいいです、それぞれの人がそれぞれに素直なこころを歌います、それにしてもさかしらって嫌ですよね、なんていうささやきがあったとする。これを受け入れてしまうと美しき天皇制への一筋の血路が開かれ、朱子学とか官僚主義とか絶対勘弁みたいなことになる。国学というのは時代状況によっては強力な力を発揮する可能性がある。

江戸時代において役者は出そろっている。これらの思想群が昭和初期にどのように変形してあったのか? 幕末から昭和初期までの思想の流れを、上記にあげた四つの思想潮流に当てはめながら「明治維新の遺産」にそくして簡単にみてみる。

ペリー来航以来不安定になってしまった幕府的秩序を立て直すために大老井伊直弼は強権的手法に出た。朱子学的世界観をわきにおいて法家的思想を突然前面に押し出した。しかしこういうのはよくない。井伊直弼は全体の合理性のために安政の大獄を行ったと思っていただろうが、外から見れば、この合理性は井伊直弼個人の合理性なのではないかと判断されかねない。そして桜田門外の変以降テロルが止まらなくなってしまった。

明治維新から明治10年まで内乱が多発し政情はきわめて不安定だった。これは結局、大久保利通に代表される合理的官僚主義の完成を目指す勢力と西郷隆盛に代表される陽明学的維新主義を貫こうとする勢力との相克だったろう。明治政府は維新主義を排除したのだけれど、なかなか民心は収まらない。明治10年以降は自由民権運動が隆盛を極める。法家的合理主義を押し出すだけでは安政の大獄と同じであって、その合理性はお前の勝手な合理性に過ぎないと判断されてしまう可能性がある。

合理性には根拠が必要だというのは朱子学的思想だ。もう朱子学の根拠は使えない。新たな根拠として設定されたのが明治憲法だ。伊藤博文は憲法発布を予告することによって、自由民権運動を押さえ込むことと合理的官僚体制を整えるための時間稼ぎとの二つのことを成し遂げた。
合理的官僚体制は明治憲法を根拠にして、さらに明治憲法は「日本は独立してあるべきだ」という国民的総意によって支えられ、明治日本は朱子学的に安定した。

日露戦争に勝って日本は一等国になった。そして同時に、明治憲法は「日本は独立してあるべきだ」という支えを失った。日本官僚体制は、その合理性の根拠である明治憲法から解放された。この間隙をついて政界でのし上がったのが原敬だ。
原敬の論理と言うのは、官僚体制の中で政党が利益配分のヘゲモニーを握ることで全体をコントロールしようとするものだ。簡単に言えば利権政治。根拠を持たずに官僚的整合性を達成しようとするのは、荻生徂徠の法家思想の流れだ。この思想の欠点はなんだっただろうか?

大老井伊直弼は安政の大獄で法家思想を前面に押し出し、「その合理性はあなたの勝手な合理性でしょう?」という反論を喰らいテロルが止まらなくなった。
戦前政党政治は1925年4月公布の治安維持法によって、その法家思想ぶりを前面に押し出し、結果テロルが止まらなくなってしまった。
陽明学と国学がハイブリッドした維新主義が幕末と同様に凄惨を極めた。原敬以降政党政治家で総理大臣になったものは、原敬、高橋是清、加藤高明、若槻禮次郎、田中義一、濱口雄幸、犬養毅の7人だけれど、このうち4人が暗殺されている。
戦前軍部の皇道派と統制派を明治初期に当てはめるなら、皇道派は西郷隆盛で統制派は大久保利通だろう。皇道派が226事件で既存の官僚体制を沈黙させた後、統制派は日中戦争、太平洋戦争の非常時を利用して、明治官僚体制よりさらに合理的な「総力戦体制」とも呼ぶべき官僚体制を作り上げた。

アメリカの物量の前に、日本の総力戦体制もあっけなく崩壊し、日本は一敗地にまみれた。戦後の混乱期を切り抜けると、日本の合理的官僚制度は復活した。
戦争体験によって強化された総力戦的官僚体制は日本国憲法という根拠を与えられ、日本国憲法は「経済的に欧米にキャッチアップするべきだ」という国民的総意によって支えられていた。
しかしバブル崩壊により、上記の国民的総意は失われた。日露戦争の勝利によって「日本は独立してあるべきだ」という国民的総意が失われたのと同じように。
バブル崩壊以降の日本の政治は不安定化し、どこが政権をとっても、「その合理性はおまえの勝手な合理性なのではないのか?」と指摘される危険にさらされている。

江戸時代から現代までを、朱子学、法家思想、陽明学、国学の四つの思想の絡み合いという視点から見てみた。これをトータルで考えてどう判断するか?
なぜ日本という極東の小国がいち早く先進国まで自らを押し上げることが出来たのか。それは、古い合理性を後にして新しい合理性を求めてチャレンジしたからだろう。それも二度も。
そのチャレンジのための思想、朱子学、法家思想、陽明学、国学の四つの思想(このうち三つは中国思想だけれど)が、近代以前の日本にはすでに与えられていたということにもなる。


お気に召したなら楽天で何か買って






桶谷秀昭はこの本の中で、大正末から終戦まで20章に分けながら、様々な人の内面まですくい上げながらトータルとして時代の雰囲気というものを描き出そうとしている。

二二六事件については、「第8章 雪降る朝 北一輝と青年将校」と「第9章 あを雲の崖 北一輝と青年将校」の二章が当てられている。
昭和11年2月26日、陸軍の下級将校が部下を引き連れてクーデターを起こし、高橋是清や斎藤実などの総理経験者を殺害しながら4日間で鎮圧された事件。
主犯格のほとんどは死刑になった。二二六事件以降、軍部の発言力は強まり、この事件は太平洋戦争への道を切り開いたとされている。

「二二六事件によって軍部独裁の道が開かれた」という考え方に桶谷秀昭は疑問を持っている。

そもそも二二六事件の原因というのは、下級将校の一般兵士に対する同情だ。
戦前の日本には社会保障というものはなかった。貧富の格差というのが激しくて、特に農村は不況のどん底だった。兵士は貧しい階層から調達されて日本が守られたとして、守られたのが日本ではなくただ単に日本の金持ち層だとするなら、これは完全にスキャンダルだろう。
二二六事件に参加して、後死刑になった安藤輝三大尉は、二二六事件中その第六中隊の兵を集めた最後の訓示でこのように語ったという。

「何という日本の現状だ。おまえらにはずいぶん世話になったなあ。いつか前島に農家の現状を中隊長殿は知っていますか、と叱られたことがあったが、今でも忘れないよ。しかしお前の心配していた農村もとうとう救うことができなくなってしまった」

二二六事件発生直後、軍上層部は「陸軍大臣告示」というのを出して、クーデターを認めるかのような態度を示したのだけれど、昭和天皇が二二六事件にきわめて強い嫌悪感を持っていることがあきらかとなって、軍上層部は手のひらを返してきた。

これがまずかった。軍上層部の節操のなさというのが明らかとなってしまった。

軍の上層部が自身の能力によってその地位を占めているというのであれば納得がいくのだけれど、もし金持ちの息子だからという結果でその地位を占めているとするなら、これはスキャンダルだろう。組織における上司がただ威張るだけのぼんくらで、恫喝に対してただオドオドする人間性だとするなら、このような上司のために働こうなどという部下がはたして存在するだろうか? 

二二六事件以降、明らかに陸軍において現場に対する統制が利かなくなっていく。盧溝橋事件の後、陸軍上層部は事件不拡大の方針をとるのだけれど、現場はどんどん戦線を拡大して行く。結果日本はなし崩し的に日中戦争になだれ込んでいった。
上層部が現場になめられてしまっていたのだろう。中国戦線において血気盛んな下級将校を統制するためには、すぐ上の上級将校はより過激な態度をあらわして下級将校に理解を示すという方法をとらざるをえない。彼らを統括する中国戦線の司令官は、参謀本部に対して強気なことをいわざるをえない。なめられないための方策というのが、より強気の態度を示すのみということになりがちだったのではないだろうか。

このような悪循環の原因が二二六事件にあると考えるなら、これは間違いだろう。二二六事件は、軍の上層部の人間の人格的弱さというのを明らかにしただけで、彼らの人格的弱さの原因はもっと深いところにあるだろう。そのような人物を軍の上層部に押し上げてしまうような社会的なシステムこそがが問題にされなくてはならないだろう。

戦争が終わって、日本の指導者層が戦犯として生きて巣鴨に連行されるという状況になった。しかしこいつらは玉砕戦だとか生きて虜囚の辱めを受けずとかを呼号していたのではないだろうか。彼らも所詮は臆病な小人にすぎないことが明確に証明されてしまったのだけれど、以前から彼らの小人ぶりというのは、国民はうすうす、軍関係者は明確に知っていただろう。

軍首脳部の哀れな小人ぶりを暴露したひとつのきっかけが二二六事件だったのだと思う。











血盟団事件とは昭和7年に起こった連続テロ事件である。
日蓮宗の僧侶である井上日召に教導された10人の若者が、「一人一殺」をスローガンに当時の政財界の巨頭をテロの標的とし、実際、井上準之助(前大蔵大臣)、団琢磨(三井合名会社理事長)の二人まで暗殺することに成功した。

現代の感覚からすれば、テロとかとんでもない、みたいなことになる。
しかし、昭和初期の日本というのは、時代の雰囲気の位相みたいなのが戦後とは異なっている。当時の事件を現代の価値観で判断すると、トータルで整合性がとれないことになる。

では昭和初期の日本と現代日本とは、どのように時代の雰囲気の位相が異なっていたか。

戦前の帝国日本において、金本位制をめぐる物語があった。
血盟団事件で最初に暗殺された井上準之助は、現代風に言えば「ミスター金本位制」だった。
当時世界の主要国間には金本位制システムみたいなものが存在していた。第一次世界大戦の混乱で、各国は金本位制を離脱していたのだけれど、戦後それぞれ金本位制に復帰していた。ところが日本は関東大震災などの影響で他の主要国に比べて金本位制への復帰が遅れていた。
しかしついに、1930年(昭和5年)1月11日、浜口内閣の井上準之助大蔵大臣の主導で、日本は金本位制に復帰した。

近代における金本位制とは何かというと、各国が通貨発行量分の金を保有しつつ通貨の価値を金とリンクさせ、なおかつ金の輸出入は完全自由というものだ。
この体制は、現代と比べて各国の通貨政策が制限される代わりに、各国が互いにインフレに対して監視しあうという特性を持っている。
たから金本位制システムというのは、通貨政策上の一つのあり方にすぎない。しかし、これは何にでもよくあることなのだけれど、当時の金本位制にはさまざまな価値が上乗せされていた。
金本位制を採用している状況こそが一等国の証であるとか、さまざまな学術論文が金本位制の優秀さを喧伝したりとか。

当時の金本位制は、単なる通貨政策ではなく、一つの価値体系一つの世界観を形成していた。井上準之助は、金本位制世界観の日本における喧伝者であった。もちろん彼はこの世界観を真理だと思っていただろう。
金本位制世界観とはそもそもイギリスの世界戦略であって、金本位制、イギリス追従、協調外交、中国不介入というのは思想的につながっている。このような思想系列を最もよく体現したのは、昭和天皇、西園寺公望、憲政会、大財閥というラインだ。
第2次若槻内閣もこのラインに沿って成立している。

この第2次若槻内閣は昭和6年12月13日に崩壊。その原因というのは、内務大臣安達謙蔵のサボタージュだった。
よく言われるのが、安達謙蔵は政友会とグルだったというやつ。しかしこれは歴史を簡単に考えすぎている。「安達謙蔵自叙伝」にこのような部分がある。

「昭和6年9月21日、朝日新聞は大活字をもって英国が禁輸出再禁止を断行せる旨特報した。予はこの報道に少なからず驚倒し、英国がかかる政策を執る以上は、我が国独り金解禁政策を維持することは不可能なりとの信念浮動して、これを若槻総理に勧告せんと決意した」

さらにこのようにある。

 「翌22日、総理官邸に若槻と面会して曰く、財政政策の大家に対し全くの素人考えかも知れぬが、予は深憂に堪えず。そは他にあらず金問題についてなり。昨日ロンドンの電報は英国が再禁止を断行する旨報じたり。英国再びこの挙に出ずる以上、我が国独り解禁を継続するの力なきは明瞭」

これに対して若槻は、

「右手を振り声を低くして曰く、これは秘中の秘だが君の意見の通りと思う」 

と発言したという。

おそらく若槻は日本の金輸出再禁止について井上準之助や幣原喜重郎に相談したところ反対されたんだろう。これに対して安達謙蔵は態度を硬化させたのだろう。
イギリスがいきなり金輸出再禁止をするってヒドイよね。これによって日本の自由主義世界観の根拠は失われた。これ以降、日本の自由主義は力を失い、自由主義と総力戦思想は太平洋戦争の敗戦に向けて壮大な死のダンスを踊ることになる。

血盟団事件の最初のテロというのは、小沼正の井上準之助暗殺だ。
昭和7年2月9日 小沼正は演説会会場に向かう井上準之助を、後ろからブローニング小型三号自動拳銃で3発撃った。1発目は左でん部、2発目は右肺を貫通、3発目は脊髄骨を粉砕した。井上準之助は病院に運ばれたが、ほとんど絶望状態だったという。

このレベルの事件になると、テロが悪いとかそのような話でもないと思うんだよね。暗殺された井上準之助はかわいそうな被害者だと考えるなら、それは井上準之助に失礼だろう。
この事件は、日本の歴史における世界観同士の相克の結果であり、井上準之助はこの事件により日本の歴史にその名を刻んだ。


関連記事





社会保障の淵源は戦中にさかのぼる。 すなわち戦前というのは自己責任の世界だった。  平和な時代が続けば、自己責任が貫徹する社会というありかたも成り立つ。現代において自己責任論を主張しても、基本的に反論不可能なことからも、そのことは分かるだろう。  この自己責任の反論不可能性というが崩れ始めたのが、日露戦争からだ。日露戦争というのは、日本側の死傷者24万という、当時としては大戦争だった。勇敢に死んだものには勲章か何かあっただろう。しかし死ぬ可能性のあったものには何の保証もないわけで、これでもし次に大戦争が起こったときに、国民が国のために戦うなんていうことがありえるだろうかと、心あるものは、このようなことを考えただろう。 当時、与謝野晶子は「あゝをとうとよ、君を泣く、 君死にたまふことなかれ」 と歌って共感をよぶと同時に問題とされた。北一輝は、一将功成りて万骨枯る の垂れ幕を掲げて日露戦争帰還兵を出迎え、その後憲兵に付けねらわれた。  かれらの語ったことは、確かに一理ある。  大正維新とか昭和維新とかいうのも、この国と国民の一体性のあり方というのがメインテーマだったろう。ではいったいどうすればいいのか?   そしてついに太平洋戦争のさなか、国が戦うという総力戦のための政策として試行錯誤的に年金というものが始まった。   すなわち年金とは、国のために血を流す運命にあるものに、国が用意した補償だろう。国のために血を流したものではなく、国のために血を流す運命にあるものに、だよ。だから年金は、払ったからもらえるとか、世代間の助け合いだとか、きれいごとの上に成立した制度ではない。日本国と国民の一体性への歴史の結果立ち現れた、血の代償としての制度だ。言っておくけれど、汗の代償ではない。  血の代償。

都民ファーストの会が都議会選で大勝した。安倍政権が左にウイングを広げる中、安倍の右に出て自らの場所を確保したということだろう。  自民大敗の原因は安倍政権のスキャンダルだといわれているが、私はそうは思わない。そもそもの都議会自民党の体質が古すぎたということだろう。都議会のドンなる人物を中心に利益を引っ張ろうという、今どきそんな考え方は許されない。長い目で見れば、古い体質の自民都議会を切れたのは、安倍的政権にってはプラスだろう。  安倍は日本の総力体制を呼号しているが、日本が総力戦体制に移行するのは、歴史の必然だと思う。安倍総理の祖父に岸信介がいる。  岸信介は戦前、革新官僚として満州に入り、満州の「産業開発5ヵ年計画」を主導した。革新官僚というのは、当時の総力戦における先兵だ。その後、太平洋戦争開戦時の東條内閣で商工大臣となった。  普通に考えれば戦争責任を問われてしかるべきだろうと思う。ところが戦後総理大臣にまで上り詰めている。  これは結局どういうことなのか。   戦後のインタビューで、岸信介は自らの開戦責任について、「あの戦争に至る過程というのは、山から巨大な石が転げ落ちてきているようなもので、個人としての誰かが止められるというものではなかった」 と極めて率直に語っている。  総力戦を志向する日本の精神的な力みたいなものが、明治維新を引き起こし、太平洋戦争に引きずり込んだ。いま総力戦の歯車が三度回り始めようとしている。  この世界にはどうしようもないことというのがあると思う。  自由意志なるもので世界がコントロールできるなんていうのは、夢見るもののおとぎばなしのレベルだ。

論理の筋道がよくわからない。ジジイが思いついたことを、プラトンや論語のまた聞きレベルの論理で補強しているだけだね。かなり売れた本だから、読ませるような場面もあると思ったのだけれど。読みやすいだけの、ライトノベルレベルだと思う。  この本の論理の筋道のどのへんがずれているのか、というを一つ例をあげて示してみる。  養老猛司は、論語の「朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」というのをあげて、この意味がわからなかったのだけれど、最近わかるようになってきたという。どのように分かったかというと、道すなわち真理を理解すれば、その人の世界観が変わって生まれ変わったようになると。生まれ変わるんだから、一回夕べに死ぬようなものだ、ということらしい。  話にならんね。  孔子の追い求めた真理というのは、そんな軽いものではない。孔子のこの部分を言葉通りに理解して何の不合理性もない。  養老猛司は便宜上、世界が違って見えて、とか言っているけれども、彼は道というのをお金とか名誉とか、そんなレベルのものだと思っているのだろう。確かに、朝に大金をゲットして、夕方死んでもいいというのでは、意味が分からないだろう。お金を使う暇がないからね。  そもそも何故、養老猛司が論語のこの部分を引用したかというと、人間は変わる情報は変わらない、という彼の奇妙な思いこみを証明するためだ。何故彼がこのような奇妙な思い込みをしているのかというと、現代は、人間は変わらない情報は変わる、という論理に支配されているからダメなんだ、ということらしい。  このような論理が認められるだろうか。  自分に都合のいい思い込みを証明するために、論語の曲解までするという、これでは「馬鹿の壁」の内容こそが、まさに馬鹿の壁だろう。  借りた本だし、1時間程度で読めるから、読んで損したという気持ちにもならないのだけれど、読む「意味」というのは、はっきり言ってないね。 

現代においては、「頭がいい」とは「頭の回転が速い」ということに還元される。  頭の回転を早くするためには、実はコツみたいなものがある。リアルというものは、観念と物質というものが分ちががたく結びついていると思うのだけれど、このリアルから観念のみを取り出して思考すると、思考のスピードが劇的に速くなる。物質という重りを切り離した観念が空を飛べるようになった、みたいなことになる。  すなわち、「頭の回転が速い」というのは、無条件に思考のスピードが速くなっているわけではない。観念と物質が癒合したリアルを失うこととの引き換えなんだよね。 本来は等価交換のはずなのだけれど、現代では、最初に言ったのだけれど、「頭の回転が速い」というのは「頭がいい」ということになっていて、ぶっちゃけて言えば、現代という世界は「頭の回転が速い」ということに過剰に価値を付与している。  観念と物質を分けて考えることを推奨しているということになる。では観念と物質を分けて考えることによってリアルを失うという損失は、現代世界においてどのように扱われているのか。  これは誰もが知るように「自己責任」ということになる。さらに、個人で解決できないようになったら「精神科学」という病院を用意してあるので、そちらへどうぞ。まじめな人ほどうつ病になるというのは、この世界の必然だよ。この世界は様々に可能性があったところからの一つの帰結にすぎない。常識とか法律とか仕事とか、そんなものはクソまじめに受け入れていかなくてはならないというほどのものではない。   観念と物質を分離するということを、最初に大々的にやったのがプラトンだ。プラトンにはプラトンの事情があったのだろうとは思うけれど、観念と物質を分離するという思考法は思いのほか強力で、プラトンの言説がほぼ省みられなくなった現代においても、枠組みのみの亡霊として、現代世界に暮らす誰もが体感しているように絶大な力を発揮している。 いくら相手が強大でも、自分の最後のリアルというものは守っていかなくてはいけないと思う。

昭和初期までは、世界は金本位制だった。金本位制というのは、列強各国の通貨を金にリンクさせるというもので、実質の固定相場制というものだ。当時のヘゲモニー国家はイギリスだった。イギリスはポンドを基軸通貨として、世界をコントロールするという方式をとらず、ポンドを金とリンクさせて、「列強の皆さん、皆さんの通貨も金と連動させてくださいね」という方式をとった。だんだんと金本位制に参加するというのが、列強の証となってくるわけだ。 金本位制という、本来は多くの選択肢の一つであるところの通貨制度に、徐々に価値が付与されてくる。経済学の論文等で、金本位制というものがどれほど立派なものであるのかということが喧伝されてくる。何十年かをかけて、そのような価値が金本位制に積み重ねられてくると、金本位制こそが守るべき価値であると考えられるようになってくる。  昭和初期から100年近くたった現在、世界は変動相場制だ。あの金本位制とは何だったのだろうかと私なりに考える。  結局、金本位制とは、列強のブルジョアが自分の資産を守るための方便だったということではないだろうか。ひどいインフレになって金融資産を失うことの恐怖心が、通貨と金をリンクさせるという、まあなんというか、世界の金融政策をある種の偏狭に押し込んだということだろう。  金本位制とは、金持ち達の必要性に迫られた結果の一つのあり方であって、それでなくてはならないという必然性の結果ではなかった。   今の金融体制も、同じようなことが言える可能性もあると思う。私達は今、変動相場制の世界の中にいるから、明確にこの世界の金融体制を相対化することは出来ない。かつて金本位制の世界に暮らした人々が、金本位制を相対化できなかったことと同じだ。  金融相場制に参加する各国の中央銀行は、金を操る権限を国家という枠の中で与えられているのだから、借金をほぼ永遠に先送りできるなどという権能が存在するなどという論理がある。このような論理を有名な学者なるものが、海外の権威なるものが補強しつつあるのだろう。  このような知の押し売りは、信じるに足らない。変動相場制における各国の債務の先送り理論というのは、もしかしたら誰かの必要性によって生じている可能性がある。  かつてのように。

昭和6年12月、第二次若槻内閣は総辞職した。その理由というのが、内務大臣安達謙蔵が辞表も出さず家に引きこもった結果の内閣不一致というものだ。若槻の手記を読んでもこの辺はあいまいだし、戦前の歴史書を読んでみても、若槻、幣原、井上、そして西園寺の自由主義ラインに対する安達の陰謀のような書かれ方をしている。 ところが「安達謙蔵自叙伝」にこのような部分がある。  「昭和6年9月21日、朝日新聞は大活字をもって英国が禁輸出再禁止を断行せる旨特報した。予はこの報道に少なからず驚倒し、英国がかかる政策を執る以上は、我が国独り金解禁政策を維持することは不可能なりとの信念浮動して、これを若槻総理に勧告せんと決意した」  日本は昭和4年12月、列強の後を追って、金輸出禁止を解除し、金本位制の国際秩序に復帰したばかりだった。金本位制とは巨大資本に有利な制度であるということを考えに入れなくてはいけない。イギリスという自由主義の支柱が失われたなら、日本において自由主義的な政策を維持することは不可能であるという安達謙蔵の直感は正しい。さらに安達はこう語る。  「翌22日、総理官邸に若槻と面会して曰く、財政政策の大家に対し全くの素人考えかも知れぬが、予は深憂に堪えず。そは他にあらず金問題についてなり。昨日ロンドンの電報は英国が再禁止を断行する旨報じたり。英国再びこの挙に出ずる以上、我が国独り解禁を継続するの力なきは明瞭」 これに対して若槻は「右手を振り声を低くして曰く、これは秘中の秘だが君の意見の通りと思う」 と発言したという。  安達の回想は話の筋は通っている。自分の醜い真理は語っていないだろうが、美しい真理のほうは語っているだろう。若槻がこれを井上準之助や幣原喜重郎に相談したところ反対されたんだろうということは容易に想像がつく。結局この後間もなく若槻内閣は崩壊する。  しかしこれは若槻の政治力不足というものを越えた問題だと思う。世界の近代自由主義を支えた諸言説の体系が崩れようとするとき、個人がそれを支えようとすることは不可能だ。   

1931年9月、イギリスが金本位制から離脱して、近代を支えた「金本位制」は、ここで崩壊したのだろうが、そもそも「金本位制」とはなんだったのだろうか。ウィキ的に言えば、金の価値にそれぞれの国の通貨の価値を連動させるという、固定相場制みたいなものになるのだろう。近代先進国は金本位制をたまたま選択したというのなら話は終わってしまうのだけれど、現実はそうではないだろう。さまざまな通貨体制が存在するであろうなかで、「近代の精精神」は金本位制を選択した、という歴史があると思う。その選択する過程で、金本位制がいかに合理的な制度であるかという知の体系のようなものが形成されたであろう。 では、金本位制を支えたところの近代の精神とはなんなのか、その辺のところを意識しながら、「昭和恐慌と経済政策」を読めば、それは極めて興味深い。「昭和恐慌と経済政策」という本は、そんな知的圧力に十分耐える内容をもっている。   第一次大戦以降、ヨーロッパ主要国は国力が疲弊して、金本位を離脱して日本もそれに合わせて離脱した。しかし、アメリカは1919年、ドイツは1924年、イギリスは1925年、フランスは平価を切り下げて1928年に、それぞれ金本位制に復帰した。日本も、大正末から金本位制に復帰という議論は高まってくる。それを主導したのは憲政会だ。当時の日本は、憲政会と政友会との二大政党制時代で、憲政会は金本位復帰賛成、政友会は金本位復帰慎重という立場だった。金本位復帰というのは、今で言う円高政策のようなもので、円高でゾンビ企業を淘汰して日本経済の再生を主張するみたいなものだった。これで得をするのは当時の大財閥で、中小を吸収することによって寡占化を進められるわけだ。その大財閥の支援を受けて成立していたのが憲政会という政党であるという側面はあったろう。 このようなものを自由主義という。自由主義というと、いかにも自由で現代から見るとよさげな感じがするのだけれど、じつはそうではない。現代の自由とは精神の自由であるが、近代の自由とはお金に関する自由だ。精神の自由とお金の自由とは、同じ自由とはいえ対立する概念だ。現代は、精神の自由が優先される世界だから、お金の自由というのはある程度制限されている。税金が高い代わりに、社会保障が整備されている.近代の自由というのは、お金を儲ける能力、条件のある人がお金を儲けるという意味での自由だ。  最後の元老、西園寺公望はこのような自由主義者だった。大正末~金本位制離脱まで、西園寺は憲政会を中心に首相を奏上している。例外は政友会の田中義一のみ。  憲政会、自由主義、西園寺、皇室、英米、金本位、財閥、などの意味は、近代という金持ち優先日本資本主義世界を支える概念体系であって、当時の金本位制を支えた経済理論などはこの概念体系を支える似非科学のようなものだろう。こう考えてみると、昭和初期の自由主義勢力というものは、線が細いと判断するしかない。英米のイデオロギー的援助がなければ、長期にわたっては成立しえないものだろう。   憲政会なんていうのは、財閥に利用されただけだと考えることもできる。当時の大蔵大臣井上準之助が強力に金本位復帰を推し進めたのも、当時の経済理論を信じていたのもあるだろうが、財閥の側面援助というのは大きい。そもそも当時の経済理論だって、英米の金持ちの都合のいい論理体系ナわけで、井上準之助は大きい意味で財閥の手先だったともいえるだろう。残念なことではあるのだが。  実際、井上準之助は、昭和7年4月、血盟団の一人によって暗殺される。それに対し三井の池田 成彬は北一輝などに金をばら撒くなどして暗殺を回避する。まあ財閥といえども、戦争に引きずり込まれ、戦後に解体というのだから、全くおめでたい結末ではなかったけれど。

このページのトップヘ