magaminの雑記ブログ

カテゴリ: 伊坂幸太郎のおすすめ小説

ネタバレあります。

【「あるキング」 あらすじ】


仙醍市の万年最下位のプロ野球団「仙醍キングス」のかつての名選手で現在は監督の南雲慎平太が、最後の試合中に亡くなります。同じ夜に、主人公である山田王求(おうく)が産声を上げるところから物語は始まります。

山田王求は、熱狂的な仙醍キングスファンである両親のもとで野球に打ち込み、高校生になると素晴らしい才能を開花させていきます。

しかしこの両親の野球教育に対する熱血ぶりは異常で、野球の試合で王求を敬遠しないように相手チームに賄賂を渡したり、最後には王求に暴力をふるった少年を殺害さえしてしまいます。

父親が殺人犯となってしまった王求は高校野球を中退してしまうのですが、18歳の時に仙醍キングスのプロテストを受けて合格します。

王求はプロ1年目から活躍するのですが、殺人犯の息子という理由で、対戦相手だけではなくチーム内にも王求の活躍に不満を持つ人がいたりします。

試合中、仙醍キングスの打撃コーチに腹部を刺された王求は、激痛に耐えながらホームランを打った後に力尽き死んでいきます。その同じ時刻に、仙醍市内では熱狂的な仙醍キングスファンの両親のもとに一人の男の子が生まれようとしていました。


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【「あるキング」 意味の解説 】

この「あるキング」では、シェイクスピアのマクベスにでてくる魔女のセリフである「きれいはきたない、きたないはきれい」を全編で強調しています。

「きれいはきたない、きたないはきれい」を英語の原文では、Fair is foul、foul is fair と書きます。このフェアーとかファウルとかを野球に引き付けて、

「Fair is foul、foul is fair」を
「ファウルはフェアー、フェアーはファウル」

と、そのままで解釈していこうということですね。

「マクベス」において、予言する3人の魔女が国王マクベスに

「きれいはきたない、きたないはきれい」

とささやきます。

この意味なのですが、悲劇という運命の物語の中では合理的な言葉、例えば「きれいはきれい、きたないはきたない」などというものは価値がない。「きれいはきたない、きたないはきれい」などと意味不明な言葉を発するぐらいでちょうどいい、というぐらいの3人の魔女によるアピールでしょう。

この考えを「あるキング」に当てはめると、運命という物語の中では天才野球人である王求も、その才能が必ずしも報われるとは限らないということになりますか。
才能は王求固有の所有物ではなく、受け継ぎそして伝えていくものなのでしょうから。




「フーガはユーガ」が本屋大賞を取れるかどうか注目です。

【「フーガはユーガ」あらすじ】

常盤風雅・優雅の双子が主人公の物語です。風雅と優雅には誕生日の日にだけ2時間ごとに入れ替わるという能力があります。

風雅と優雅の両親というのはどうしようもないクズで、父親はDV男、母親は育児放棄女です。育児は母親が単独でやらなくてはならないというものでもないですし、親はなくても子は育つとも言いますから、ネグレクトの母親はまだいいと思いますが、DV男はよろしくないですね。

風雅には小玉という彼女がいます。小玉の父親がまたどうしようもないクズで、小玉にどんな虐待をするかというと...... ちょっとここには書けないです。

自分たちの父親とか小玉の父親とか、どうしようもない人を何とかしたいと風雅と優雅は考えます。しかしさらに極悪の人間が登場します。

その極悪人は大金持ちの息子です。子供のころから素行がひどく、犯罪がばれても親の金の力でもみ消すことが当たり前になっています。

風雅と優雅はこの極悪人に罠を仕掛けて成敗しようとするのですが、返り討ちにされそうになり.....


ラスト50ページからスリリングさが加速して、伏線を回収しながらの結末はさすが伊坂幸太郎だと思わせるものがありました。

風雅の

「俺の弟は、俺よりも結構元気だよ」

という言葉が最後まで印象的でした。

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【「フーガはユーガ」の意味の説明】

兄弟が協力して悪と戦うというのは、伊坂幸太郎の作品にはよくあるパターンです。

「魔王」では、兄弟が右翼政治家と戦います。兄には人に思ってもいないことを喋らせる能力、弟には5分の一程度の確率なら当てられる能力があります。この超能力を使って右翼政治家に戦いを挑むのですが、返り討ちにあってしまいます。
しょぼい超能力で敵に戦いを挑む、というところは、「フーガはユーガ」に似ています。

「重力ピエロ」も、兄弟が悪人に戦いを挑むというところで、「フーガはユーガ」と同じです。「重力ピエロ」では、弟のほうは悪人の血のつながった息子であるという設定です。悪人は弟によって殺されるのですが、弟の罪は、悪に対する復讐ではなく血に対する復讐であるから許されるみたいなことになります。

「マリアビートル」では、兄弟ではないのですが、兄弟のように仲のいい「檸檬」と「蜜柑」という殺し屋が登場します。殺し屋だけあって、サイコパスの悪人にいいところまで迫るのですが、結局返り討ちにあってしまいました。

これをトータルで考えるとどういうことになるのでしょうか。

社会に寄生するサイコパスのような存在を排除するのは人間では無理で、運命をコントロールする神のような存在に頼るしかない、という伊坂幸太郎のメッセージでしょう。

人間には、何が悪で何が悪ではないか、などという判断は出来ないということでしょう。

「魔王」での右翼政治家は、左翼からしたら悪でしょうが、全体からしたら悪とまでは言えません。
「重力ピエロ」の悪人が殺されたのも、悪人がゆえに社会から復讐されたのではなく、息子による父親に対する血の復讐ということでした。
「マリアビートル」で悪人をとっちめたのは一般人ではなく、「グラスホッパー」に出てきた「劇団」という謎の集団の殺し屋によってでした。

伊坂作品において「運命をコントロールする神のような存在」は、伊坂幸太郎のデビュー作「オーデュボンの祈り」に出てきた未来をコントロールする喋るカカシ「ユーゴ」が、物語途中で殺されてしまって以降現れていません。
そう考えると、伊坂幸太郎の「悪を悪と判断するのは簡単ではない」という思想みたいなものは、デビュー作以降一貫しています。

ただ「フーガはユーガ」のなかで、チラッと喋るカカシ「ユーゴ」が出てきたので、もしかしたら「フーガ」に「ユーゴ」が少し乗り移った部分もあるかもしれません。

このあたりの判断は次回作以降ですね。




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重力ピエロ」は映画化されています。

【ネタバレあります】

あらすじは単純です。


遺伝子の研究をしている大学院生の奥野泉水(いずみ)と、街の落書きを消すことを仕事にしている弟の春(はる)の兄弟が主人公です。
春は母親が強姦されて生まれた子供です。春は強姦魔であり血のつながりから言えば父親である男をおびき出すために、かつて連続強姦事件が起きた場所に火をつけていきます。

おびき出された男は、兄の泉水によってDNAから弟の春の父親であると証明されます。弟の春は強姦魔の実の父をバットで殴り殺します。

春は兄の説得もあって、警察に自首することなく話は終わります。

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【「重力ピエロ」の意味】

強姦魔とはいえ人を殺してそのままというのでは後味が悪い、という意見は当然あると思います。しかし「重力ピエロ」は、社会の規範とか家族愛の正義とかを前面に押し出すような作りの作品ではありません。

伊坂幸太郎の小説には、よくとんでもない極悪人が出てきます。この極悪人は、いつも運命のいたずらによって破滅します。主人公が極悪人をやっつけるという展開は、伊坂作品の場合はありません。

「オーデュボンの祈り」では、極悪警官は花壇の草を踏んだことにより、問答無用で股間を撃たれます。
「死神の浮力」では、サイコパス殺人鬼は乗っていた車のブレーキの下にぬいぐるみが挟まって、減速できずに車ごとダムの底に沈みます。
「グラスホッパー」では、たちの悪いヤクザの馬鹿息子は「押し屋」という謎の殺し屋によって殺されます。

この「重力ピエロ」のみ、極悪の強姦魔は主人公の春によって殺されています。

「重力ピエロ」だけを見れば、いかにも強姦魔が主人公「春」によって復讐されたように思えてしまいます。春は自分の意思で血のつながった父親を殺し、本当の家族の元に復帰するという、「重力ピエロ」は家族愛の物語のように見えます。

しかし伊坂作品のこれまでの流れからして、運命のいたずらの導きなしで正義が実現される、ということはありえないです。

「重力ピエロ」の中で、運命のいたずら役としてあてがわれているのが遺伝子ということになるでしょう。春の兄の泉水は遺伝子の研究をしている科学者という設定です。春の行っていた落書きも、あたかも遺伝子の導きによって書かされていたという表現もあります。
春は遺伝子によって操られていただけなので、彼が人を殺してもおとがめなしということなのでしょう。

もちろん現実の遺伝子なんていうものには、人間個人の意識の性向まで決定する力なんていうものはないです。少なくても現在の科学レベルでは、そのような遺伝子の力は証明されていません。

「重力ピエロ」は小説ですから、設定は自由です。
伊坂幸太郎の作品には超能力者なんて当たり前に出てきます。さらには人の生死を決定する死神とか、運命を予言する喋るカカシとかが出てきます。
「重力ピエロ」での遺伝子は、科学的な遺伝子というより、人間世界を勧善懲悪に導く運命の発動装置のようなものとして設定されていると判断できます。

これはいいとか悪いとかという問題ではなく小説としての設定ですから、その設定の延長線上で「重力ピエロ」を楽しむというのが、作家の期待する小説の楽しみ方でしょう。




ネタバレありです。「グラスホッパー」は映画化もされました。

【あらすじ】

主人公というか狂言まわし的な立場にいるのが元教師の鈴木という27歳の男性です。

鈴木の妻はひき逃げされて亡くなったのですが、犯人は極悪ヤクザ寺原のバカ息子らしいのです。鈴木は寺原の息子に復讐するために、寺原が経営するフロント企業で働き始めます。

鈴木はただの元教師で、ヤクザの息子をつけ狙ったからといって簡単に目的が達せられるはずもありません。しかし寺原の息子は、鈴木の目の前で何者かによって背中を押され車にひかれて死んでしまいます。

鈴木は寺原の息子の背中を押した人物の後を追います。家を突き止め、本人ともその妻と子供とも知り合いになります。男は槿(あさがお)であると名乗り、職業はシステムエンジニアであるといいます。
しかし槿(あさがお)の正体は「押し屋」という殺し屋でした。


この後、催眠術で人を自殺に追い込むことの出来る「鯨」とナイフの使い手である「蝉」の二人の殺し屋も登場し、「押し屋」の居場所を知っているということで鈴木は二人の殺し屋に捕まりますが、「押し屋」に救出されます。

「蝉」は「鯨」に殺され、「鯨」は車にひかれて死に、寺原は「押し屋」の所属する「劇団」という組織から派遣された「スズメバチ」という殺し屋に殺されます。

寺原も寺原の馬鹿息子も死んだので、鈴木は闇の世界から表の世界に戻り、塾講師として働くようになります。

あらすじは以上です。


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【夢落ち】

22ページに、

鈴木が、
「交差点の歩行者用信号の青色が、点滅をはじめる。その点滅がゆっくりに見える。いくら待っても赤にならない」
と思う場面があります。

164ページの「鯨」とホームレスとの会話に、

「目の前の信号の点滅がちっとも止まらなかったり、通過する列車がいつまで経っても通り過ぎない、とか、この列車ずいぶん長いなあ、なんて思ったら、そう いうのは全部、幻覚の証拠です。信号や列車は、幻覚のきっかけになりやすいんです。信号はたいがい見始めの契機で、列車は目覚めの合図だったりします」

とあります。

最期に鈴木が電車を見送るシーンでは、

「それにしてもこの列車、長くないか」と、亡き妻に向かってこっそりと言う。回送電車は、まだ通過している。
とあります。

これをつなげて考えると、物語のすべては鈴木の妄想であった、ということになるでしょう。

よく考えれば、鈴木という人物は主人公ながら、いてもいなくても同じようなものです。自分で復讐するわけでもなし、悪いヤツの征伐はすべて「劇団」の構成員によって行われています。冒険譚と鈴木との唯一のつながりは、鈴木と「押し屋」との関係性のみです。
鈴木が、駅のホームで「押し屋」の息子役の男の子を見失ったときに、すべてが茫漠としてしまったのです。

【伊坂作品における「グラスホッパー」の意味】

伊坂作品には、運命をつかさどる神の手下のような人物がよく登場します。
「死神の精度」では、死神ですし、
「マリアビートル」では運の悪い殺し屋七尾ですし、
「重力ピエロ」では、遺伝子がこの役割を担っています。

「グラスホッパー」では「押し屋」ということになります。伊坂幸太郎の小説に登場する一般人は、運命をつかさどる神の手下と絡んで初めて、整合的な世界と関わりあうことができます。

「グラスホッパー」の鈴木は「押し屋」と絡んでいる時だけ、悪人は死に妻の死は復讐されなくてはならないという合理的世界が発動します。

伊坂作品の「魔王」や「あるキング」などでは、この

運命をつかさどる神の手下自体が登場しないので、勧善懲悪の世界は立ち現れず、伏線は回収されないまま放置されます。

伊坂幸太郎のデビュー作である「オーデュボンの祈り」の中で、運命をコントロールする喋るカカシが殺されて以降、伊坂作品には運命をつかさどる神自体は現れることがなくなりました。
伊坂幸太郎は、運命のコントロールの強弱を使って作品を書き分けているようです。





「終末のフール」は、あと3年で小惑星が地球に激突して人類が滅ぶと予告された人々の話です。

設定だけ聞くと重い話のように考えてしまうのですが、小説内では惑星衝突の予告されてから5年たっていて、めんどくさいようなヤツは早い時期にやけくそになったらしく、すでに死んだり刑務所にぶちこまれています。ですから登場人物は、基本的にしっかりしたヤツばかりだという推測が成り立つようにできています。読んでいて安心感があります。

8つの連作短編集だったのですが、それぞれの登場人物が限られた時間を一生懸命生きようと努力するわけで、読者としては別に深く感情移入する必要もないので気楽に読めます。登場人物も同情されようとは思っていないでしょう。どうせ3年で終末なのですから。

8つの短編が文庫本で40ページに統一されていています。読みながら時間的な安心感もあったりします。

寝る前に読むのに最適でしょう。1つの短編をゆっくり読んで、電気を消して楽しいような悲しいような気持ちで寝れば寝つきもいいです。

おすすめの短編集です。


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【この部分にお好きな文章を入力してください。】

ネタバレ注意です。

「死神の浮力」は「死神の精度」の続編になります。
「死神の精度」は6つの連作の短編集でしたが、「死神の浮力」は長編です。

「死神の精度」でおなじみの死神千葉の今回の調査対象は、

人気作家山野辺です。千葉は山野辺に一週間接触して、この人気作家が八日目に死ぬのが可であるか、それとも「死の見送り」が適当であるかを判断することになります。
千葉の場合、だいたい「対象者の死は可」なのですが。

人気作家山野辺の小学生だった娘が毒殺されました。しかし犯人の本城は証拠不十分のために無罪判決を受け釈放されました。山野辺は本城が真犯人である証拠を持っているのですが、自分の手で仇うちを計画していました。

そんな時に、千葉が死神としての仕事のために山野辺の家を訪れ、結果的に山野辺を助けるという流れです。

本城という若者は頭のいいサイコパスで、恨みもない山野辺をいかに苦しめるかに真剣になるという、最悪の犯罪者です。山野辺は娘の復讐をしようと本城を追いますが、本城に裏をかかれて何度も窮地に陥ります。しかし死神千葉のの能力に助けられてピンチを脱していきます。


本城にも山野辺と同じく死神がついています。千葉の同僚であるこの死神は、本城の死を見送りさらには20年の余生をプレゼントします。
山野辺は何日か後に死ぬのに、悪人である本城が20年以上確実に生きるわけです。理不尽な雰囲気が盛り上がってきます。もう神も仏もいないのかという、まあ死神はいるんですけど。

本城はダムに青酸カリを撒こうとするのですが、山野辺は疾走する車の中で青酸カリを奪い車から飛び降ります。本城は崖の手前でブレーキを踏もうとするのですが、山野辺の娘の形見のぬいぐるみがブレーキの下に挟まってしまいます。本城は車ごとダムに落ちてしまい浮き上がることができません。本城は死んだのかというと、20年のボーナス余生を与えられてしまっていて死ぬことができず、20年の時間をダムの底で生きることになります。

山野辺は予定通り八日目に、女の子を助ける代償に死んでしまいます。

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【「死神の浮力」意味の説明】

伊坂幸太郎の作品にはサイコパスの悪人がよく出てきます。このサイコパスは登場人物の頑張りによってヤッツケられるというのではなく、運命をつかさどる何者かによって破滅させられます。

「オーデュボンの祈り」では、悪徳警官は花壇の草を踏むことによって、「島の調停者」にいきなり股間を撃たれてしまいます。

「ラッシュライフ」では、たちの悪い画商の賭けが運命のいたずらによって外れてしまいます。

「重力ピエロ」では、連続強姦魔を殺したのは、主人公の弟というより、遺伝子という運命のようなものと言えます。

「死神の浮力」でも、本城を破滅させたのはブレーキの下にはまり込んだぬいぐるみです。ぬいぐるみは殺された山野辺の娘の情念によってはまり込んだのではなく、周到な運命の女神によってその場に配置されていました。

伊坂幸太郎の作品では、サイコパスと「運命をつかさどる神」とはセットです。サイコパスは社会の規範に従うのではなく、運命の復讐による規範に従うのです。

日本などの東アジアの世界では唯一の神というのは存在せず、互いが互いの善意を信じることによって社会を維持しています。法律によって社会が維持されているように見えますが、その法律の根拠は互いの善意への確信によります。ですから東アジアではサイコパスという存在は前提されていません。

サイコパスを設定するなら、サイコパスの魂への罰は社会ではなく、用意された運命によってなされなくてはならないという考えかたはありえます。
運命の神と言われても普通ピンときません。ですら伊坂幸太郎の作品では、そのあたりがぼかされているわけです。

運命をつかさどる神の手先の死神は音楽が好きで、いつもCDショップに入り浸っていてリアリティーがあります。しかしその上の死神事務局になると途端にぼんやりとし、死神事務局のさらに上には、おそらく運命をつかさどるシステムが推測されるのみです。

伊坂幸太郎の作品では、人間が関われるのはせいぜい運命をつかさどる神の手先まで、ということになっています。








ネタバレ注意です。

伊坂幸太郎「死神の精度」は6つの作品からなる連作短編集です。

1 【死神の精度】
2 【死神と藤田】
3 【吹雪に死神】
4 【恋愛で死神】
5 【旅路を死神】
6 【死神対老女】

人間世界に派遣された死神千葉の仕事は二つです。
一週間にわたって死亡予定者に接触し、話をすること、その結果から予定通り死んでもらうか、それとも今回は「見送りにする」かを上に報告することです。 

千葉が死亡予定者を死んでも良いと判断すると、、その人は8日目に死ぬことになります。

1 【死神の精度】

テレホンオペレーターの藤木一恵はクレーマーに謝るだけの毎日です。うんざりした日々が続くのですが、そんな一恵に死神の千葉が派遣されました。一恵は一週間の間に、死ぬか「見送られる」か決定されることになります。
クレーマーの一人が音楽プロデューサーが一恵の声に惚れ込んだことによって、彼女の人生が変わろうとします。そして死神の千葉は「見送り」を決定します。
6篇のなかで千葉が「見送り」したのは彼女だけでした。

2 【死神と藤田】

今回の死神千葉の担当者はヤクザの藤田です。藤田は自分の兄貴分を殺した復讐のために、敵対するヤクザの組長栗田を探していた。千葉は藤田を助けるふりをして、藤田を観察する仕事を果たします。
藤田と敵対する栗田にも、千葉の同業者である死神がついていたというオチ。

3 【吹雪に死神】

千葉の今回の担当者は、雪山の洋館に夫といっしょに旅行に来ている田村聡江です。雪で閉ざされた洋館で連続殺人事件が起きます。
雰囲気は本格ミステリーなのですが、登場人物に毒を飲んでも死なない死神が混ざっているので、コミカルで安心感のある話になっています。

4 【恋愛で死神】

今回の担当者は、向かいのマンションに住む古川朝美片に想いをしている荻原という青年です。千葉のおかげもあり、若い二人は仲良くなっていきます。
しかしこの編の冒頭に、萩原は死ぬという描写があります。

5 【旅路を死神】

今回の千葉の担当者は、殺人を犯して逃亡する森岡耕介という若者です。森岡には子供のころに誘拐された体験があります。今の自分がダメなのはその誘拐犯が悪い、という考えが森岡にはあり、森岡は誘拐犯に復讐するために十和田湖に向かいます。
十和田に向かう途中の仙台で、重力ピエロの「春」が登場したりしています。

6 【死神対老女】

今回の千葉の担当者は、高齢の女性美容師の新田です。彼女は千葉が死神であることを見破ります。新田は、千葉が人間ではないと知りつつ、明後日に十代後半の男女を4人ぐらい美容室に客を連れてきて欲しいというお願いをする。
その理由が悲しいです。
この6章の【死神対老女】と1章の【死神の精度】とがつながっていて、伊坂幸太郎はうまいなと思わせます。




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【伊坂幸太郎「死神の精度」の意味】

小説とは、その世界の整合性の視点みたいなものが超越的な場所に設定されていたりします。分かりやすいところで、例えば推理小説は閉じられた世界の中で起こった事件を、超越者の代弁者である探偵の世界解釈の結果として犯人が告白するという形式になっていたりします。

伊坂幸太郎の小説の場合、この超越的な視点を意識的にいろいろ動かしていこうとしています。

「オーデュボンの祈り」では、カカシが超越的視点と探偵役を併せ持った地位にあって、物語は最後みごとに収束しました。

「魔王」では、超越的視点を持たない少し超能力を使えるだけの普通の人間が主人公で、物語は収束どころか拡散したまま終わります。

そして「死神の精度」では、超越的視点と探偵役をゆるーい死神という視点の低い設定にしているため、物語は予定調和的でとても読みやすいことになっています。

伊坂幸太郎の「オーデュボンの祈り」以外の作品は、運命をつかさどる神のような存在を匂わせはするのですが明確には説明しないというスタンスです。この「死神の精度」でも、下級監視役である死神については解説がありますが、死神を派遣している上部組織については、それが存在するというぐらいしか説明がありません。

伊坂幸太郎のデビュー作である「オーデュボンの祈り」の中で、運命をつかさどるカカシが殺されて以降、運命をつかさる神的存在は、「いるのだけれど上の方まではよく見えない」みたいなことになっています。



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(漫画化もされています。この小説に政治的意味はありません)

伏線回収作業は行わない、という強い意志を感じる小説だった。


主人公の安藤は普通のサラリーマン。犬養というファシズム的政治家が国民の人気を得る中で、安藤は自分のささやかな特殊能力で犬養に政治的ダメージを与えようとするのだけれど失敗してなぜかその後死んでしまう。

その5年後、犬養は総理大臣になっている。憲法改正の国民投票の投票日が近づくなか、安藤の弟潤也は自分に何ができるのだろうかといろいろ考える。

内容はこれだけ。ミステリー要素はほとんどない。確かに安藤兄弟はささやかな特殊能力を持ってはいるが、ささやか故にたいして役にも立たない。ではこの小説に政治的主張があるのかというと別にそういうわけでもない。確かに登場人物たちは犬養の政治手法についてあーでもないこーでもないと語り合う。しかし何か結論めいたものはない。あとがきに著者は、

「この物語は政治に関する特定のメッセージを含んでいません」

と書いてある。この本を読む限り政治的メッセージは読み取れなかったし、著者本人も政治的メッセージは含まれていないと言っているのだから、この小説に政治的主張はないだろう。

伏線を回収しないことで整合性がない、政治的主張がないことで根拠もない。いったいこれはどうなっているのかという話になってくる。


そもそもファシズムとは何か? これは「魔王」内に説明があって、「統一していること」とある。統一していることとは整合性の意味だろう。小説内の整合性とは伏線をばらまいてそれを回収することだろう。伏線をばらまいて最後に回収する小説ジャンルの代表はミステリーだろう。

伊坂幸太郎のデビュー作である『オーデュボンの祈り』は、予言するカカシが二羽の鳩を守るために現在をコントロールしようという話だった。一見心温まる話のように思われるのだけれど、カカシはある一点の未来のために、本来ばらばらであるはずの現在の事象に統一性をもたせようとしているわけだ。これはもうファシズムだろう。

この「魔王」という小説では、ファシズムという統一的意味は犬養に与えられているわけで、アンチ犬養である安藤兄弟は統一的意味から疎外されている。安藤兄弟目線のこの「魔王」という小説は、整合性も根拠もなく、二葉亭四迷的に言えば、

「まとまりのない牛のよだれのようなもの」

ということになる。

伊坂幸太郎は整合性の取れた小説も書けるわけで、この「魔王」のような牛のよだれ小説は、明らかに意識的に書かれている。善意に解釈すれば実験的な小説ということになるだろう。

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あらすじ・ネタバレ解説 あります。 王子はたぶん死んでますね。

「マリアビートル」のあらすじなんですけれど、

蜜柑と檸檬の殺し屋コンビ、たちの悪い中学生と元殺し屋、七尾という腕はいいのだけれど気が弱く運の悪い殺し屋、この3グループが、東北新幹線という閉じられた空間で一つのトランクをめぐって争う、という話でした。

七尾の運の悪さというのは普通ではないのです。簡単な仕事のために入ったお店で銃撃戦に巻き込まれたりとか。
これで私、ピーンときました。
この小説世界で作者の意思を代弁するような何者かが、七尾の運をコントロールすることによって物語を大団円に持っていこうとするだろうって。だっておかしいじゃないですか。殺し屋が携える奇妙な不運さが小説の整合性の根拠に何の関係もないとするなら、その不運さは小説の整合性を棄損するものでしかなくなるわけですから。

特異な設定から作者の代弁者が物語をあからさまにコントロールしようというのは、伊坂幸太郎の得意のパターンです。彼のデビュー作、「オーデュボンの祈り」では「喋るカカシ」がこの役でした。
これが作家の態度として悪いというわけではないです。普通の作家は、近代小説の三人称客観形式を利用して個人的な世界観を普遍的な世界観だと主張しがちです。しかし伊坂幸太郎はそういうのが嫌いなのでしょう。誠実な態度だと思います。
この小説の中で、たちの悪い中学生が大人たちに、
「なぜ人を殺してはいけないのか」
と質問して回ります。どの回答にも中学生は納得しないのですが、こういう小説内問答も、個人的な世界観を普遍的なものだと主張するのを拒否するような、伊坂幸太郎の小説家としての誠実な態度の表れだと思います。

ここからネタバレになります。

七尾の不運が、最終的に小説世界の大団円に役に立ったのかというと、実はそうではなのです。たちの悪い中学生をとっちめたのは、七尾の不運てせはなく突然現れた伝説の殺し屋でした。ちょっとアレッていう肩透かしを食らわされた感じでした。多分この小説は、作者の中で続編予定なのでしょう


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伊坂幸太郎「ラッシュライフ」は映画化もされていますね。ネタバレをしていますので、この作品をもっと知りたい方のためのレビューになります。


「ラッシュライフ」は「オーデュポンの祈り」に続く伊坂幸太郎の第二作目の小説らしい。五つの物語がバラバラに進行する。

たちの悪い拝金主義者の画商の話。
ちょっとスマートな泥棒の話。
未来を予言できるとされる「高橋さん」を信じる集団内での話。
失業して離婚して郵便局強盗未遂までしてしまう豊田という男の話。
それぞれの配偶者を殺す計画を立てるダブル不倫の男と女の話。

この五つの話が小説の残りページが少なくなるにつれて徐々に重なってくるという形式だった。特に五つの話は同時進行的に語られていたのだけれど、実は2.3日のずれがあったらしく、例えば昨日失業者豊田が会った女性は今ダブル不倫の相手である男に裏切られて憔悴した女性であったとか。
空間的だけではなく時間的にも五つの話を関係させて、小説としての一体性を形成しようということになる。

ここまでは表の書評。ここからは裏書評。

伊坂幸太郎の前作「オーデュポンの祈り」では、喋るカカシがでてきて未来を予言したりしていたのだけれど、実はこのカカシは二羽の鳩を救うために状況をコントロールしていたという落ちだった。無意味に見える出来事はカカシによってコントロールされていたということによって、整合性のある小説世界が立ち現れるという。いうなれば小説という表現形式に対するイロニーだ。

同じことが、この「ラッシュライフ」にも言えるのではないだろうか。
この小説の最後で、無職の豊田は拝金主義の画商から野良犬を守るのだけれど、これは守るのではなく守らされているのではないだろうか? 誰によってかというと、未来を予言できるとされる「高橋さん」だ。「高橋さん」は犬を守るために全体をコントロールしたとするなら、これは「オーデュポンの祈り」と構造的には同じとなるだろう。

「高橋さん」は「オーデュポンの祈り」のカカシよりも隠微に世界をコントロールしているのではないだろうか、ただ一匹の野良犬を救うために、さらには世界に小説としての整合性を与えるために。

「ラッシュライフ」を精密に読めば、「高橋さん」が世界を整合的にするためにまいた伏線というを発見できるかもしれないが、私も馬鹿げた暇人でもないからそこまではしないけれど。

伊坂幸太郎というのは油断ならない小説家だと思う。



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