magaminの雑記ブログ

カテゴリ:外国文学 > トーマス・マン

「魔の山」も終盤になって、ペーペルコルンという人物が現れる。 雰囲気を操れるかのような奇怪な人物。 セテムブリーニとナフタの影響から、カストルプ青年をアウフヘーベン、すなわち上に持ち上げるための人物。  どのようにして持ち上げるのか。ペーペルコルンはこのようにいう。 「「私はくりかえしていいます、だから私たちは感情燃焼の義務、宗教的義務を持っているのです。私たちの感情は、いいですか、生命を目ざます男性的な力です。生命はまどろんでいます。生命は目ざまされて、神聖な感情と陶酔的な結婚を結びたがっています。感情は、若い方、神聖です。人間は感じるから神聖なんです。人間は神の感情の器官です。神は人間によって感じようとして人間をつくりました。人間は、神が目ざまされ陶酔した生命と結婚するための器官にほかならないのです。人間が感情的に無力でしたら、神の屈辱がはじまり、神の男性的な力の敗北、宇宙のおわり、想像を絶する恐怖になります」   どういうことかというと、結局は「男と女」ということだ。ヘーゲルとかニーチェとかいったって、それはこの世界だけの話であって、忘れ去られた過去、忘れ去られた文明、においてはヘーゲルやニーチェを適用することは出来ない。しかし、忘れ去られた世界においても男と女はいて、間違いなく互いを求め合っていただろう。 私は男性だから女性のことはいまいちわからないのだけれど、男性には間違いなく「感情燃焼の義務」というものがあるだろう。男は、少なくとも一人の女は救わなくてはいけないということになる。  会社で同年代の同僚が何人かいる。あいつらいつまでたっても結婚せず、彼女がいたという話すら聞いた事がない。もう40代後半だというのにどうしようもない。昼休みは食い物屋の話ばかりだ、昨日なんか、10年前に喰った遠征先での昼飯の話をしていた。文学の話をしろとは言わない、少なくても女の話をしろよ。「magamin君も、あの店に一緒にいったよね」 いや、覚えてねーよ、10年も前にいった定食屋なんて。「magamin君はミックスフライ定食を食べてたよね、俺も同じだったから覚えてるよ」 おまえキメーよ。どんだけ暇なんだよ。 はっきりいって、怒りすらわいてくる。 彼らの考えているだろうことは分かる。 まじめに働いていたら彼女も出来て、結果、結婚ということになるだろうと思っていたのに、ということだろう。そのうち、話すことが食べ物の話しかなくなったのだろう。 根本から間違っているんだよ。 女を救わなくてはならないのに、自らをまず救おうとしてしまっている。「感情燃焼の義務」が果たせていない。自分は間違っていないと思っているのだろうが、それが間違っている。  なにを語るにしても、仕事をするにしても、哲学を探求するにしても、感情燃焼というのは前提だよな。

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トーマスマン 「魔の山」 カストルプ青年はどんな教養を獲得したのか



一昨日だったか、セテムブリーニの世界観は進歩史観の自由主義で、ナフタはそれを相対化するものだろう、と書いたのだけれど、下巻も半ばまで読んで、だいたい予想はあっていたと感じている。 ナフタはこのようにいう、岩波文庫下巻313ページ「進歩は純然たるニヒリズムであって、自由思想的市民は、ほんとうは虚無と悪魔との人間であって、悪魔的な反絶対的なものを信奉し、死と同然の平和主義を不思議にもなにか敬虔なものであるかのように考える」   ニーチェだと思うね。ナフタのモデルはニーチェだろう。となると、セテムブリーニはヘーゲルということになるだろうか。     ニーチェとかヘーゲルとかいうと、なんだか私達と関係のない迂遠で難しい話のように思うこともありえるだろうけれど、全然そんなことない。ヘーゲル的世界、すなわち進歩史観の自由主義というのは、今のこの世界の事だ。この世界のマジョリティーがどうなっているのかということをヘーゲルは説明しているだけなんだよ。しかしこの世界のあり方というのは、唯一絶対のものなのだろうか。様々な違和感を殺して大勢を受け入れることだけが、大人になる唯一の道なのだろうか。座間の殺人鬼のもとで、話を聞いてもらいたいだけの自称自殺志願者の女の子が2ヶ月に8人も殺されるなんていうは許容されるのだろうか。  様々な矛盾の中で、多くの人が言葉に出来ない違和感を抱いていた中で、現れた言説がニーチェだろう。   そういう意味での、ヘーゲルとニーチェ、すなわち、セテムブリーニとナフタということになる。  この程度のラインに沿ってセテムブリーニとナフタの議論は理解していけばいいだろうし、そこからはみ出るようなところは流していけばいいのではないかと思う。私はヨーロッパ人ではないし、あまり細かいところまで100パーセント理解する必要もないでしょう。

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下巻も半ばにいたった。 主人公のカストルプ青年が雪山で遭難しかかって、生死の境で天啓がひらめくみたいな。じつは天啓などというものは結構誰にでも訪れるわけで、思索の中でそれをいかに鍛えるかということが大事だったりする。ここからは、カストルプ青年の思想が、セテムブリーニとナフタとの議論の間でどれだけ鍛えられるかということになるだろう。   岩波文庫「魔の山」下巻はブックオフで買ったのだけれど、ドイツ語表記のスイスの地図のコピーが、折りたたまれて挟み込まれていた。クロストプラッツという町がマークされていたりして、「前の持ち主は、かなり気合をいれてよんでんナー」と感心した。 「魔の山」なんて、漫然と読んだのでは面白くともなんともない、水準以上の集中力がないと下巻までは到達できないだろう、という種類の小説だ。ブックオフで感心しながら「魔の山」下巻をパラパラめくってみたら、ちょいちょい傍線が引っ張ってある。ますます感心して、レジに持っていって、「この本、書き込みがあるのだけれど、割り引いてもらえないか」と聞いたら、510円が100円(税抜)になった。 読みながら、前の持ち主はどんなところに傍線を引いたのか、ということも楽しみで読んでみた。  傍線は、「雪」という章の、カストルプ青年が雪山で遭難しかかった場面に集中していた。まず地名。「アムゼルフルーの山塊」とか、「レディコン山系」とか。あとは、スキーにかんするところ。「テレマーク回転方」とか、「カストルプは本通りの専門店でスマートなスキーを買い込んだ」とか、「(スキーは)普通では行けないところにも行かせてくれ」とか。  正直、そんなところに傍線を引っ張って意味があるのかと思うのだけれど、やっぱり人それぞれなのだろう。彼(彼女)にとっては、この部分が「魔の山」を読み切る原動力だったのだろうね。

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岩波文庫で「魔の山」の下巻に突入。 文庫本下巻の100ページ前後に、セテムブリーニとナフタの、自らの世界観をめぐる議論がある。どのような議論かというと、実際に読んでもらうしかないのだけれど、論理が錯綜していてわかりにくいところがある。 だからちょっと整理をしてみたい。  セテムブリーニの論理というのは比較的明快だ。彼の世界観というのは、進歩史観の自由主義というもので、ヘーゲルとか日本で言えば福沢諭吉みたいな感じだ。 現代においても、進歩史観の自由主義というのはもっともメジャーな世界観であり、現代日本においても、大概の人がこの世界観のラインに沿って、物事の価値判断を行っている。進歩史観の自由主義という世界観から、民主主義、平和主義、国際的連帯などという概念が引き出されている。  この世界観の王様に対して、ナフタは挑戦するんだよ。ナフタは、進歩史観の自由主義を、「無仮定的な非哲学的な自然科学」だという。 どういうことかというと、進歩史観の自由主義者は、自らの世界観を「無仮定的」、すなわち「必然的」な進歩の歴史だと考えているけれども、それは本当に「無仮定的」なのか、実際は何らかの仮定があるのではないのか? というわけだ。 もし何らかの仮定があるとするなら、その仮定が明らかにされた時には、磐石だと思われた「進歩史観の自由主義的世界観」が相対化されてしまうだろう。  ナフタは、あの手この手でセテムブリーニの世界観を相対化しようとしている。だから、セテムブリーニの論理は一貫しているのだけれど、ナフタの論理は錯綜している。トータルとして、二人の議論は理解しにくいように見えるのだろう。  では、進歩史観の自由主義は何を前提として成立しているのか? まあ、その辺を考えながら「魔の山」を読めば、より楽しめるのではないかと思う。

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トーマスマン 「魔の山」 カストルプ青年はどんな教養を獲得したのか

上巻を読み終わった。  主人公のカストルプ青年は一皮むけてきた。結核サナトリウム内で、本当に死にそうな人を花をもって訪ねるようになった。これ、本当は禁じ手なんだよね。  このサナトリウムは、金持ちが病気のふりをして貴族的閑暇をアピールしあう場なんだよ。本当の病人を見舞ってしまったら、虚構世界が崩れてしまうということになる。例えて言うなら、金持ちが車自慢をしている中に、マジの車好きが車哲学を語り出したみたいな感じだろう。  しかし、死に行く病人を見舞うということは、悪いことではない。この世界には、空気を読むことよりも大事なことがあるという考えは、一つの見識だと思う。   一皮むけたカストルプ青年は、次に憧れの女性を口説く。今まで遠慮していたのだけれど、謝肉祭の夜にショーシャという女性を徹底的に口説く。  普通、口説くといっても限度というものがある。私も経験があるけれど、やりたいからといって直接おっぱいやお尻をほめることはできない。女性の精神と肉体を両方持ち上げるような感じで口説いたと思う。たいがいうまくいかないのだけれど、志を遂げたことも何回かあった。やりたいのがメインなのに、女性の人間性を褒めるというのは、ちょっと偽善な感じがしていやだったのだけれど、ちょっと他に方法が思いつかなかった。 ところがカストルプ青年はすごい、ショーシャ夫人の脛骨(けいこつ)の2本の動脈の大腿骨に合流している様を褒めだすから。ショーシャ夫人の皮膚の下の肩甲骨が動く様を褒めだすから。これが成り立つのなら何でも成り立つだろう。  これでインテリジェンスな女性が落とせるのなら、昔の私ってかっこつけすぎていたのかと思っちゃう。  まあ、カストルプ青年みたいにオープンマインドになれなかったということだろう。      トーマスマンの「魔の山」って、ハードルが高そうな感じなんだけれど、上巻まではそうでもないね。

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トーマスマン 「魔の山」 カストルプ青年はどんな教養を獲得したのか



「魔の山」は、主人公カストルプがスイス高原のサナトリウムで療養生活を送るうちに、様々な人と出会い精神的に成長していく教養小説、ということになっている。 しかし、実際に読んでみると違うような、まだ400ページほどしか読んでいないのだけれど。  カストルプは療養所生活でどんどん堕落していっている。何で堕落していっているかというと、暇だからなんだよね。療養所だから療養しかすることがないという。療養所ではみんなが暇で、堕落した雰囲気みたいなものが充満する。療養所生活が長くなると、だんだん堕落的雰囲気みたいなものに感化されてくる。 まあ、「恒産無くして恒心なし」 というわけだ。 日本においては、金持ちの子息が通う大学のサークルなんかが、同じような感じではないかと思う。  カストルプは療養所で女性を好きになるのだけれど、この女性がよく言えばアンニュイ、悪く言えばだらしないみたいな女性で、この恋がカストルプをさらなる怠惰に押し込んでいく。 トーマスマンはこの恋をこう表現する。 岩波文庫397ページ「その恋情は、きわめてそこはかとなとない茫漠とした気持ち、一つの想念、、ひとつの夢であり、無意識ではあってもはっきりと提出された「なんのために?」という疑問にたいしてうつろな沈黙のほかに答えを与えられなかった青年が夢見た恐ろしい夢、無限に誘いよせる夢であった」  この部分は、「魔の山」の最初の方の、「私たち人間は、個人生活を営むだけではなく、その時代とその時代に生きる人々の生活をも生きるのである。私たちが、私たちの存在の基礎をなしている超個人的な基礎を自明なものと考えて、それにたいして批評を加えようなどとは、考えてもみないとしても、そういう基礎に欠陥がある場合に、私たちの倫理的健康がなんとなくそのために損なわれるように感じることは、大いにありえることである。私たちの全ての努力と活動の究極的な超個人的な絶対的な意味についての問いにたいして、時代がうつろな沈黙をつづけているだけだとしたら、そういう事態による麻痺的な影響は、ことに問いをしている人間がまじめな人間である場合には、ほとんど避けられないであろう。「なんのために」という問いにたいして、時代から納得できるだけの答えを与えられないのに、初めから提供されているものの域をこえた仕事をする考えになるには、世にもまれな英雄的な倫理的孤独と自主性、もしくは頑健無比な生活力のいずれかを必要とした。カストルプ青年は、そのどちらも持ち合わせていないといういみで、やはり平凡であったと言うべきだろう」 という言説に対応している。  「なんのために?」  この世界を「なんのために?」生きるのかという疑問に時代が答えようとしないから、状況次第で人間は怠惰な世界に落ち込んでいくことがありえるということになる。

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主人公のカストルプ青年は、就職前にちょっと気晴らしみたいな感じで、アルプスのふもとの療養所に3週間の予定で滞在する。 しかし、この療養所って結核療養時だろう。 カストルプは3週間目に熱がでて、療養所滞在無期延長みたいになるのだけれど、これって結核がうつったんじゃないのかな。 おまけにみんな煙草とか吸っているし。結核に煙草ってよくないでしょう。  この療養所にいる人たちは、科学とか文明とかをよく問題にしたりするのだけれど、熱く科学を語るワリには、いまいちな認識レベルだろう。 こういうところは面白い。100年たったら、私達の医学も批判されることもあるのだろう。古びるもの古びないもの、そういうのってあるよ。   あと、カストルプ青年が暮らすこの療養所の利用料金なのだけれど、1週間で160フランというんだよね。カストルプはこれを安いという。では、160フランとは現代の円換算でいくらなのか?  第一次世界大戦前のフランスは金本位制で、1フランは金9/31 gに固定されていた。これを現在の円換算にすると、金1g5000円として、1フラン1450円となる。160フランは13万2千円だ。 1週間で13万2千円だから、1ヶ月で53万円となる。 これは安いだろうか?  カストルプ青年は若くして両親が死んで、その遺産を引き継いで1ヶ月53万円以上の不労所得があった。 金利収入が年1000万として、利率が5パーだとすると総資産は2億円ということになる。  資産2億を引き継いだ24歳の青年の療養所金利生活を延々と表現する「魔の山」という小説世界とはなんなのか。  別に貴族小説というわけでもない、カストルプ青年は多少恵まれていたという書かれ方だろう。  かつてのヨーロッパの金満ぶりというのはすごいなって思う。

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主人公のカストルプ青年は、セテムプリーニにこのように語る。 「つまり、病気と愚かとではぴったりとしません、しっくりしません。私たちはこの2つを結びつけて考えることをしていません。愚かな人間は健康で平凡でなくてはならないし、病気は人間を洗練し、賢くし、特殊にするはずだと考えられています」  そういえば昔、結核信仰というか、結核はかっこいいみたいな風潮があった。現実の結核というのは悲惨なのだけれど、イメージとしてね。 これは日本においては、徳富蘆花の不如帰(ほととぎす)あたりから始まったのではないか思う。 現代文学で言えば、「ベルサイユのバラ」のオスカルも結核だった。文学作品に出てくる結核というのは、単に死のフラグであって、実際に結核自体で死ぬことはない。 病気、結核、という観念と、洗練された知性というものが、つながっていたんだよね。この二つには普通に考えれば断絶があると思うのだけれど、この相容れない「結核」と「洗練」を結びつけたのは貴族性だと思う。 連想ゲームというわけではないのだけれど、「結核」~「療養」~「閑暇」~「貴族」~「洗練」 みたいな。 結局どういうことかというと、貴族のイメージというものが過大に評価されていたということだろう。このような貴族の残滓は現代にも残っていて、高級車とか高級ブランドなどが売れ続けるのも、同じ文脈だろう。   カストルプ青年は、おかしげなことを言っているようで、実は誰もがとらわれている奇妙なこだわりを告白しているにすぎない。  これに対してセテムプリーニは、敢然と反論する。  「病気は少しも高貴ではなく、尊敬すべきものでもありません。そういう考え方そのものが病気であり、病気に導く考え方です」  まあ、正論だね。  言葉を入れ替えれば、同じ正論をいくつか作れる。  「暇は少しも高貴ではなく、尊敬すべきものでもありません。そういう考え方そのものが暇であり、暇に導く考え方です」   「高級車は少しも高貴ではなく、尊敬すべきものでもありません。そういう考え方そのものが高級車であり、高級車に導く考え方です」   「ブランド物は少しも高貴ではなく、尊敬すべきものでもありません。そういう考え方そのものがブランド物であり、ブランド物に導く考え方です」   カストルプ青年とセテムプリーニとの間には、世界観の対立みたいなものがある。まだ物語は始まったばかりなのだけれど。

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「魔の山」は1924年出版だが、内容は第一次世界大戦前(1914)という設定になっている。

トーマスマンは主人公のカストルプ青年を平凡だという。

では平凡とは何なのか? トーマスマンはすばらしい答えを用意していた。以下に引用するが、注意深く読んで欲しい。

「私たち人間は、個人生活を営むだけではなく、その時代とその時代に生きる人々の生活をも生きるのである。私たちが、私たちの存在の基礎をなしている超個人的な基礎を自明なものと考えて、それにたいして批評を加えようなどとは、考えてもみないとしても、そういう基礎に欠陥がある場合に、私たちの倫理的健康がなんとなくそのために損なわれるように感じることは、大いにありえることである。私たちの全ての努力と活動の究極的な超個人的な絶対的な意味についての問いにたいして、時代がうつろな沈黙をつづけているだけだとしたら、そういう事態による麻痺的な影響は、ことに問いをしている人間がまじめな人間である場合には、ほとんど避けられないであろう。「なんのために」という問いにたいして、時代から納得できるだけの答えを与えられないのに、初めから提供されているものの域をこえた仕事をする考えになるには、世にもまれな英雄的な倫理的孤独と自主性、もしくは頑健無比な生活力のいずれかを必要とした。カストルプ青年は、そのどちらも持ち合わせていないといういみで、やはり平凡であったと言うべきだろう」   

全く明快な凡庸についての定義だと思う。  

べつに凡庸でも悪いというわけではない。「なんのために」と問いさえしなければ、一つの世界を絶対だと思って暮らして死んで、何の問題もない。しかし、「なんのために」という問いにとりつかれたなら、2つの世界観が必要となるだろう。福沢諭吉みたいに、「一身にして二生を経るが如く、. 一人にして両身あるが如し」のような。    

蓮實 重彥の「凡庸な芸術家の肖像」という本を昔読んだことがあるんだけど、この凡庸な芸術家というのは、マキシム.デュ.カンという人のこと。 

蓮實 重彥はマキシム.デュ.カンの凡庸さを延々と書いている。では、マキシム.デュ.カンは誰と比べて凡庸なのかというと、フローベールに対してなんだよね。しかし、フローベールの非凡さを書かずしてフローベールの友人の凡庸さを長々と描くなんて、蓮實 重彥ってもったいぶらせすぎるだろう。ちょっとはトーマスマンの率直さを見習ったらいいと思う。 蓮實 重彥は最近、フローベール論というのを出したらしいけれど、ちゃんとフローベールの非凡さ、すなわち、フローベールの2つの世界観を説明しきっているのだろうか。

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