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カテゴリ:中国思想 > 論語

「巧言令色鮮し仁」(こうげんれいしょくすくなしじん) 

飾る者は仁が少ないという意味。
仁を直接説明するのではなく、仁的でないものをまず排除しようという論語的文章。

学、徳、仁、君子、道などの概念において、それにふさわしくない事象を排除することによって、互いの関係性が、より緊密に循環することを孔子は期待しているのではないだろうか。選ばれた概念の循環が、この世界の秩序をより強固にすることを、孔子は願ったのではないだろうか。  

もし「論語」を、整合性のない教訓集だと考えたとするなら、「論語」にたいした価値はない。
ヘーゲルやウェーバーが、論語を評価しなかったのも、このあたりに由来するだろう。  

しかし本当に「論語」は、整合性のない教訓集なのだろうか?  
私は違うと思う。  
確かに、「論語」の主要概念である、学、徳、仁、君子、道、などのものに明確な定義はない。孔子は、例えば仁を問われた時に、問うた人によってその答えが違ったりしている。 

トータルでどう考えるかということなのだけれど、私は、学、徳、仁、君子、道、などの概念が、個人をめぐって互いに影響しあっているので、一つの概念を一人の個人に一つに固定するということが、孔子には構造的に出来なかったということではないだろうか。  

中国は今では一つだけれど、2500年前は異なっていた。孔子の生きた春秋末期というのは、大国の間に小国が分立するという時代だった。これって、今の世界と同じだろう。  

このようにある世界が、どのように秩序を維持できるのか。 これについての渾身の言説が「論語」だと思う。 「論語」とは、この線に沿って読まれなければならない。  
ヘーゲルやウェーバーは、こういうことを言うとなんなのだけれど、ちょっととろかったね。中国古代をなめすぎだ。同時に古代ギリシャを持ち上げすぎた。

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吾十有五にして学に志す  
三十にして立つ  
四十にして惑はず  
五十にして天命を知る  
六十にして耳順(したが)ふ  
七十にして心の欲する所に従へども、矩(のり)を踰(こ)えず

し‐がく【志学】
1:学問に志すこと。
2:[論語為政「吾十有五而志於学」]15歳の称。

じ‐りつ【而立】
[論語為政「三十而立」]30歳の称

ふ‐わく【不惑】
1:[論語子罕]まどわないこと。
2:[論語為政「四十而不惑」]年齢40歳をいう。

ち‐めい【知命】
1:天命を知ること。
2:[論語為政「五十而知天命」]50歳の称。

じ‐じゅん【耳順】
[論語為政「六十而耳順」]
(修養ますます進み、聞く所、理にかなえば何らの障害なく理解しうる意)
60歳の異称。

(『広辞苑』)



孔子は、15歳にして学を志したという。この学というのは何か? 数学とか倫理学とか社会学とか、そのようなものではない。学とは、人格形成への道を意味する。 では、人格形成とは何か? 現代的な言葉で人格形成という概念を言い換えるとするなら、それは、自分が自分であるという自己同一性の確立、ということになるだろう。  

現代世界は整合的に出来ているように見える。歴史的に様々な矛盾を解決して、あるレベルの文明水準を形成している。しかし豊かになったにもかかわらず、精神的な問題で、社会からドロップアウトしてしまう人間が多すぎないだろうか。さらに私の体感的に、ドロップアウト予備軍というのは、かなり多いだろう。  

これはいったいなぜなのかというと、この世界では、自分が自分であるという自己同一性というのが当たり前のものとして前提されているからだと思う。 そして、多くの人々が、当たり前の事が出来ないからといって苦しんでいる。  

しかし、自己同一性というものは本当に当たり前のものなのだろうか?  自己同一性とは生まれ持った才能の一つなのだろうか?   

ここで孔子だ。 

孔子は15歳にして、自己同一性の確立の道を志したという。その結果、三十にして立って、四十にして惑はず、五十にして天命を知り、六十にして耳順(したが)い、七十にして心の欲する所に従へども、矩(のり)を踰(こ)えず、という。文句なしだろう。


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基本的に北朝鮮は中国が何とかするべきだと思うが、中国自身も困っているのではないだろうか。現代というのは、古代中国の春秋時代と同じで、世界には何らかの共通認識が存在し、小国は大国を頼りにし大国は小国を保護するという微妙なバランス構造になっている。歴史的に考えると、北朝鮮は中国の影響下にあるわけだから、中国と北朝鮮はよろしくやってもらうしかないだろう。国家同士の依存関係を考えれば、中国が核をもっているのなら、北朝鮮は核を持つ必要はない。アメリカが核を持っているから日本が核を持つ必要がないのと同じだ。                                                                                                                
 簡単に考えてしまうと、アメリカ、中国、日本、北朝鮮は対等な独立国家なのだから、どの国が何をしようが核を持とうが自由なのではないのかということになってしまう。しかし現実というのはもう少し複雑だと思うんだよね。アメリカ、中国、ロシアという大国は世界に対する責任というものがあって、そのような大国が自分勝手なことをすると小国群に対するヘゲモニーを失うという危険がある。旧ソ連はあまりに無理なことをして結局崩壊した。        
 ソ連とは違って、中国が北朝鮮に対してそう無理をしたニュースも聞かないし、やっぱり北朝鮮の錯乱ぶりは北朝鮮自身に問題があるのではないか。だから中国が何とかするしかないだろう。                       
 まあでも日本もあまりえらそうなことはいえない。そもそも戦前までは朝鮮は日本だった。太平洋戦争のあの負けっぷりで、日本は朝鮮を投げ出してしまった。日本には朝鮮を一つの国として新しい世界に送り出す責任があった。力及ばず、その責任を果たすことが出来なかった。朝鮮半島の南はアメリカに、北はソ連に保護された。朝鮮戦争が始まって、北が崩壊しそうになると中国はその人民解放軍を投入して現在の南北国境線までアメリカ軍を押し戻した。結局ソ連と中国の思想の違いというのが、現状の北朝鮮の独立路線の基になっているのかな。もうソ連なんてないのだから、北朝鮮も奇妙な原理主義にこだわらないで、中国の話を聞くのが普通だと思うけれど。    

なぜならこの世界は春秋なのだから。

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中国には春秋時代というのがあって、紀元前700年ぐらいから紀元前400年ぐらいまで。その時代に魯(ろ)という国があって、「春秋」というのは、その魯という国の年代記。

「春秋左氏伝」とは紀元前500年ぐらいに左丘明なる人物が「春秋」に注釈を書いたものとされているが、実際には紀元前後に劉 歆(りゅう きん)が宮中の秘蔵書のなかから発見したというもので、「春秋左氏伝」自体の出処というのはかなり怪しい。だから「春秋左氏伝」が春秋時代の息吹をどこまで伝えているかというのは、正直確定はできない。

後世の戦国時代や前漢時代の何らかの理想や現実が紛れ込んでいる可能性は否定できないだろう。すなわち春秋時代とはこのようなものであろうと考えてみても、それは絶えず歴史の向こう側で揺れるものであって、誰も春秋を確定することができないという。またそれが春秋の魅力なんだよね。

春秋時代、中国には多数の国があった。周、超大国、大国、中位国、下位国、という序列で国際秩序的なものが存在していた。実際は晋という超大国が中位国、下位国を統率して、秦、斉、楚という大国の挑戦を退けるという歴史のパターンがある。現代で言うと、アメリカが日本やサウジや西ヨーロッパ諸国を統率して、ロシアや中国の挑戦を退けるみたいな感じだと思う。

では晋は何によって中、下位国を統率しているのかというと、軍事力が一番なのだけれど、徳とか礼というものも重要な要素になっている。現代においてアメリカのヘゲモニーも軍事力が大事ではあるのだけれど、人権とか民主主義とかが世界の一体感に重要な要素になっているのと同じようなことだと思う。

これはよく考えてみると不思議なことで、古代中国世界、そこに暮らす人々はこの世界こそ世界の全てだと考えていたのだろうが、この人間世界において何らかの社会的共通認識が存在していたということなんだよね。徳とか礼とか構成していた様々なカテゴリーの多くは、今では全く古びてしまったのかもしれない。しかしそのカテゴリー群の中核概念が2500年の時を貫いて現代に生き残っているとするなら、それこそが人類の哲学であるといえるのではないか。

何故この世界がこのようにあるのか不思議に思ったことはないだろうか? 古びた真理と古びなかった真理。「春秋左氏伝」は雑多な説話の混交であるけれど、その中に人類の真理があるのではないか思う。

この世界をこのように有らしめるもの。それは斉の桓公の死に際、晋の重耳の放浪、鄭の子産のレトリック、呉の闔閭の情念。同時代を貫いたものが、2500年の時代をも貫くのなら、それこそが哲学だと思う。

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プラトンと孔子というのは、こんなことを言うとなんなのだけれど、言っていることにそう差がないなと思う。
その中での最大の共通点というのは、両者とも社会の起源において理想国家的なものを設定しているということだ。

プラトンは「国家」という本の中で、人間の社会は名誉制、寡頭制、民主制、僭主制度、と移行していくと語っているが、名誉制の前段階として哲人制というものを設定した。
孔子の場合はもっと分かりやすい。理想の社会ははるか昔、尭、舜(ぎょう しゅん)の時代だといってはばからない。孔子のいうはるか昔といったって、孔子じたいが古代人かなのだから、尭、舜なんていうのは伝説だよ。

何故プラトンも孔子も過去に理想社会を設定したのか? さらに言うと、過去に理想社会を設定したプラトンと孔子の言説が世界の西と東でそのメインストリームとして生き残っているのかということ。 現代において過去に理想世界を設定すると、必然的に現代は堕落した世界であるということになる。

この世界観にたいして、21世紀の現代は過去に理想世界を設定していない。 21世紀の現代は過去に理想世界を設定を拒否して、世界は進歩発展するものだとしている。 おそらく古代ギリシャ世界や中国の春秋戦国時代にも、過去に理想世界を設定せず世界は進歩発展するという言説が存在しただろう。そのような言説は滅び、プラトンや孔子のような言説が生き残ったことを、私たちはどのように考えればいいのだろうか。

プラトンや孔子を聖人視して人類の進歩というイデオロギーが間違っているなんていう簡単な論理は採用したくない。おそらく、人類は進歩するという簡単な論理の中に、なんらかの罠があるのだと思う。

ではその罠とはいかなるものか? 

それはフーコーの言う過剰なる権力というものだろし、ドストエフスキーの大審問官でもあるだろう。まあ、フーコーやドストエフスキーを持ち出すまでもなく、以下のプラトンの言説にそれはぴったりと表現されている。

「そこでの言論というのは、主人に向かって同じ奴隷仲間のことを云々する言論なのです。しばしばその競争は生命をかけて争われることがあるのです。そしてこれらの全ての結果として彼らには緊張と鋭敏とが生まれるのです。主人に阿諛するにはいかなる言論によるべきかという知識が生まれるのです。とはいえ、これによって彼らの精神は矮小になり、また不正直となるのです。つまりそれは必然的に曲がったことをさせるからなのです。それというのは、まだ若くてやわらかい彼らの精神の上には大きな危険が投げかけられて、はなはだしい危惧を覚えさせるからなのであって、それは彼らには、正しさや真実を失うことなしには持ちこたえることが出来ないものなのです。そのために彼らは幾度も幾度も捻じ曲げられたり折りくじかれたれたりして、ついには少しも健全なところをもつことなしに子供から大人になってしまうのです。そしてそれを自分達は、智恵者になったとか一目おかれるような人物になったとか思っているわけなのです」


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顔淵死す。ああ、天、吾を亡ぼせり。天、吾を亡ぼせりと

(先進第十一 271)


顔淵は孔子の弟子なのですが、その岩淵が死んだ時の孔子の悲しみがぐっと伝わってきます。
論語は言葉を繰り返して意味を強調するという技を使います。これは言葉を大事にする論語において効果抜群です。

論語そのままを読んでみてわかることは、少ない言葉で多くのことを語るという姿勢がいいです。近代文学なんてものは、どんな名著でも、多くの言葉で多くを語るというのがあたりまえです。ネットにおいては、多くの言葉で内容は貧困なんてことはざらです。

誰もが、饒舌は寡黙より何かを伝えられると考えてしまいます。どうしても「一言多く」なってしまうのです。でも論語は違います。

子、仲弓をいう。いわく、り牛の子、赤くして且つ角よくば、用うることなからんと欲するといえども、山川これを捨てんやと。

仲弓というのは孔子の弟子なんですが、親が犯罪者で、仲弓自体は人格が立派なのに親の事で他人にぐだぐだ言われるわけです。しかし、そんな背景説明みたいなものは論語においてざっくり削除です。ただ、

仲弓をいう。

これだけ。
り牛というのは、角が曲がって祭祀において役に立たない牛。でもそんな牛の子供がもし立派な牛だったら、山の神や川の神は祭祀のときに、その立派な牛を親がダメ牛だったからといって拒否はしないだろう。
と、ここまで。
普通は続けたくなりますよね、
「だからおまえら、親がダメ親だったからといって、なんとかかんとか・・・」
しかし、そういう一言多いところはいっさい削除。

論語は言葉を繰り返して意味を強調するという技を使います。これは言葉を大事にする論語において効果抜群です。



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寝る前に、最近は「論語」を読んでいます。すぐ眠くなります。漢字が頭の中をぐるぐる回って、もう一字も読めないって感じになって。

孔子は紀元前500年くらいの、中国春秋時代の人です。「論語」は孔子やその弟子の喋ったことなどをまとめたものなんですが、とりたてて物語があるわけでもなく、オチがあるわけでもなく、ただ会話の断片を寄せ集めたもの、今で言うと、孔子ツイッター語録みたいなものだと思います。

例えばですね、

「お父さんお母さんの年齢は覚えておいた方がいいよ、思いやりが深くなるから」

と、こんな感じの短文が続くわけです。だからなんなの、みたいな事の積み重ねなんですが、そのうち孔子の人格に触れる様な気がしてきて、悪くない気持ちになってくるのです。これは本当に春秋クオリティー。春秋は本当にいい。

中国で一番行きたい町は、臨淄(りんし)。

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