magaminの雑記ブログ

カテゴリ: ネタバレ書評

かなり出来のいい短編だと思った。



主人公の女性の部屋に、母親と名乗る蛇が住みつく。時には蛇になったり、時には人間になったり。主人公も、この状況を迷惑ではあるけれど、たいして不思議とも思わず受け入れる。そして話はたんたんと進んでいく。



この近代世界においては、価値の序列というものがあらゆる所に侵入している。蛇とはそのアンチテーゼだろう。蛇とは価値を相対化する象徴だろう。蛇の世界とは、価値が全て相対化された世界の事だろう。
蛇の母親は、主人公の女性に対してこのように問う。



「ヒワ子ちゃんは何かに裏切られたことある?」



この質問に対して主人公は、



[何かに裏切られるというからには、その何かにたいそう入り込んでいなければなるまい。何かにたいそう入り込んだことなど、今まであっただろうか]

と考え、

「ないような」



と答える。

主人公の思考は一回転している。自己反省能力がある。これでは蛇の世界には入れない。しかしこれがだんだん崩れていく。

蛇の女性が、主人公に食事を作ってくれる。そのメニューを、主人公はこのように表現している。



[ほうれんそうのごまよごし。昆布と細切り人参のあえもの。さわらの西京漬け。白胡麻のかかるしらす飯。]



ここは料理教室ではないんだよ、詳細すぎるだろう。おそらくさわらがメインなのだから、普通なら、それぞれの料理に価値の序列をつけてもいい。ご飯の上にかかっているしらすの、さらにその上にかかっている胡麻の種類など全くどうでもいいはずだ。しかし主人公は、料理を見たまま表現する。だいぶ蛇の世界に近づいてきた。



作者は、このような細かい誘導で読者を蛇の世界にいざなおうとする。なかなかよくできた仕掛けだと思った。

このような仕掛けにに乗るのも悪くない。乗れば最後まで楽しめる。


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4つの短編から成る連作短編集だった。その冒頭が「夜は短し歩けよ乙女」
まず大正ロマン風の古かわいい文体に驚いた。例えば、

「美しく調和のある人生。その言葉がいたく彼女の心を打った。
 それゆえに、彼女は おともだちパンチ という奥の手を持つ」

というような。悪くないと思う。

この大正ロマン風の古かわいい文体こそが、この小説の整合性を支える根拠だろう。根拠を脅かす敵役というのが存在する。それは酔っ払い。
例えば37ページ、

「とりあえず先輩を起こせ」
「うわ、先輩、よだれがまるで牛のように」

牛のよだれと言えば二葉亭四迷でしょう。二葉亭はしまりのある小説を書くのが嫌になって、だらだらとありのままに書かれた「牛のよだれ」のようなものが書きたいと、近代小説に反旗をひるがえした。

酔っ払いは牛のようによだれをたらした。これに対して、大正ロマンの中心であるこの小説の乙女は、お酒にきわめて強いという。

最後に乙女は、李白という老人と酒の飲み比べをする。
作中に、「一杯一杯、また一杯」とある。完全に詩聖李白のイメージだろう。

  山中与幽人対酌
両人対酌すれば 山花開く
一杯一杯 復(ま)た一杯
我酔いて眠らんと欲す 卿(きみ)且(しばら)く去れ
明朝 意あらば 琴を抱きて来たれ

李白って、同じ唐代の杜甫や白楽天に比べて本当につかみどころがない。上の詩でも、
自分は酔ったから寝ると、だから君はいったん帰ってまた明日来い、
と言っているわけで、突き放しの具合が微妙なんだよね。
この乙女と李白との飲み比べた結果、大団円となりぬ。

森見登美彦のほかの小説も機会があったら読んでみたいと思いました。

「虐殺器官」は近未来SFみたいな感じの小説。あらすじとしては、ジョン.ポールなる人物が後進諸国で内戦を煽っているということで、アメリカがジョン.ポール暗殺部隊を送り込むという話。その暗殺部隊の一人が主人公。

普通に読むと、まあなんというか西洋近代批判みたいなことだろう。そのためにさまざまな思想が動員されているっぽい。例えば、

「仕事だから。19世紀の夜明けからこのかた、仕事だから仕方ないという言葉が虫も殺さぬ凡庸な人間達から、どれだけの残虐さを引き出すことに成功したか、君は知っているのかね。資本主義を生み出したのは、仕事に打ち込み貯蓄を良しとするプロテスタンティズムだ。つまり仕事とは宗教なのだよ」

これはウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」からのインスピレーションだろう。それもかなりうまく要約しているよなーと感心した。
このような西洋思想をつないで、この小説はトータルで近代の枠組み批判みたいなことになっている。どのような枠組みかというと、これを言ってしまうとネタバレになってしまう。

少し視点をずらそう。
怪物ジョン.ポールを狙うアメリカ暗殺部隊のリーダー、クラヴィス.シェパードというのが主人公なのだけれど、こいつちょっとマザコンっぽい。
同情する余地もある。母親が事故で脳死状態になって、主人公は母親の生命維持装置を止める決断をした。これが彼のトラウマになって、自分は母親を殺したのではないかという罪の意識に苛まれる。そしてジョン.ポールの情婦を好きになって、彼女に自分の母親殺しという罪を裁くもしくは赦してもらおうと思う。標的であるジョン.ポールの、その情婦に自分の母親を投影しているわけだ。

このようなちょっと心理的に弱い主人公に読者は同情する。作者もそれを期待している。男はいつまでもマザコンだという。

そんなわけないだろう。母親が死んだ時点でマザコンメンタルは終了だ。
私の母親は20年前に死んだ。実家の風呂場で心筋梗塞を発症したらしい。時は流れて、私も結婚して子供が4人いる。子供は妻の事を、ママー、母さーん、と日々呼んでいる。私もつい、

「ママー、今日のご飯なにー」

などと調子に乗って言ってみる。すると妻、いわく、

「私はあんたのママじゃないよ」

ここまでならいい。さらに続けてこのようにいう。

「あんたのママは風呂場で浮いてたでしょ」

これをマジでいうから。こんなブラックジョーク、創作できないから。厳しい現実生活の中で、マザコンメンタルなんて脆いものですよ。

作者がマザコン魂に訴えようとしても、なかなかついて行けないという。




この作品は漫画にもアニメにもなっています。ここでは小説版の書評をします。

いろんな特徴をもった大学生の男の子たちが、箱根駅伝を目指して頑張るという爽快なスポーツ小説でした。


箱根駅伝を目指すという設定がいいですよね。
私の父親も正月になるとテレビで箱根駅伝をみていました。昔、私が大学生だった時に、父親との正月恒例の会話というのが、
「おまえのところの大学は弱いんじゃのー。箱根に出とりゃーせんがー」
「いや、オレの大学、名古屋だから」
「フン」
というものでした。箱根駅伝人気は箱根をよくわかっていない人も全国的に巻き込んでいるらしいです。

この小説では、互いに練習することで連帯感が生まれて成果が出る、みたいなことになっています。しかし体系的整合性で大事なことは、その根拠です。そもそも連帯感の前提とされている「ただ走りたい」という欲求などとというのはあり得るのでしょうか。
私個人にはそんなものはないです。走りたいどころか出来るだけ走りたくないです。自分が持たない根拠には、誰もが否定的になりがちです。

私には高校3年の娘がいます。子供のころから走るのが好きで、何かというと走っていました。保育園に迎えに行っても、私の自転車に乗るのを拒否して、1キロぐらいはあったと思いますが、走って家まで帰っていました。
娘は高校も陸上部に入りました。しかしその女子陸上部の部員は二人だというのです、先輩一人に新人の娘一人。どんなメンタルをしているのかはわからないのですが、二年間部活動をやって、今は引退して受験生です。
この前、駅伝で女子高生ランナーが最後に力尽きて這ってタスキをつないだというニュースがあったのです。家でそのランナーの話になりまして、私なんかは、児童虐待みたいなことは許せないなんて思うわけです。妻や娘に、

「まわりの大人は何をやってるんだ。足が折れてたっていうじゃん。タスキとかどうでもいいから、子供の健康が優先でしょう」

みたいなことを言ったわけです。そうすると娘は、

「タスキが大事なんだよ。足が折れたって死にはしないんだよ」

というのです。私は男にはいくらでもかぶせていくのですが、女性、特に娘には反論しないようにしています。嫌われたくないですから。
話をつないで考えると、走ることそのものに対する情念が娘にはあるらしい。私にはないけれども、娘にはある。私の中にないように見えるからといって、世界の中にないとは言えないということになります。

走ることについての情念というのはあるんですよ。その情念をうまくつないで箱根を目指す。素晴らしいです。この小説は、小説としての構成要件をほぼ完全に満たしていて、かなり出来のいいエンタメになっていると思います。













ネタバレ的なことを書いてしまっています。ライトノベル出身の作家さんで、直木賞も取りました。

とびきり顔の造作が美しいとされる高校3年生の女の子の日常生活を描いた小説でした。


この小説世界における整合性の根拠は、主人公の女の子の「かんばせの美しさ」だけです。
正直、こういうのはどうかなと思います。言葉で美しいと言われても、ここは漫画ではなく小説世界なのですから、美しさの実感みたいなものがつかめないです。
私の過去の美少女の記憶というものを、この少女に当てはめていけばいいのでしょうが、そこまでする必要も感じられないです。

個別の女性の美しさに関する価値判断というのは、ほぼ男性の性欲に依存しているわけで、あまりこだわるほどのことでもないと思います。
美しいとされる若い女性を男性が過度にちやほやして、何だか勘違いしてしまった女性というのはいっぱいいます。
私はトラックの運転手をしているのですが、無理な割り込みをしてくるのは、だいたいにおいてかつては美しいとされていたであろうオバサンです。男は自分に譲ってくれるものだと勝手に判断しているのでしょう。迷惑千万です。

少女の顔が人並み以上に整っているからと言って、それだけで小説の整合性の根拠になると考えるのは甘すぎます。さらには女性の人間性に対する冒とくです。
この小説が何かの漫画のノベライズというのであれば、もしかしたら許容範囲かとも思うのですが、そうではないのでしょう? 

この小説は280ページぐらいの薄い本なのですが、48歳のすれたオジサンが読むにはちょっとキツすぎました。














ネタバレ的なことを書いてしまっています。ライトノベル出身の作家さんで、直木賞も取りました。

第一部「旅」

コマコは5歳から14歳まで、何かから逃げるように母親と二人で日本の諸都市をめぐります。母親は老人しかいない町で病院の受付をやったり、そこを逃げ出したら次は温泉街で温泉芸者をやったり、またそこを逃げ出したら次は豚の解体工場で働いたりとか。
ロクでもない母親なのですが、そんな母親でもコマコは大好きで、何と言いますか、母親とコマコは互いに依存しあうような関係です。

この本の解説で、
「桜庭一樹という作家は、現実味のないことを、たじろぐくらいの現実味をもって書く」
なんてありましたが、親子で日本の辺境をめぐる人々というのは実際に存在しますよ。

私、20年ちょい前に北海道の美瑛の肉牛牧場で何年か働いていたことがあります。私が何年か暮らした経験をもとに言いますと、北海道在住の方には申し訳ないのですが、北海道の東半分というのはほとんど日本の果てみたいなところです。
そんな場所の牧場に、40ぐらいのさえないオジサンが働かせてくれといって来ました。体形はずんぐりむっくりで、気が弱そうで口数も少なくて、正直ちょっとトロいような感じのオジサンだったのですが、なんと小学4年の女の子を連れているのです。
この女の子はお父さんと全然似ていなくて、口元はキリっと引き締まり目は知性的で、将来はかなりの美人になるのではないかと予感させるような容貌でした。
牧場には従業員のための寮があって、まかないもついていました。その小学4年の女の子は、毎晩お父さんの夜食のためにといって、余ったコメで大きいおにぎりを3つ作っていました。
お母さんはどうしたの? とか聞きにくい話もそのうち聞こうかと思っていたのですが、その父娘は3か月ぐらいで牧場からいなくなってしまいました。

実話です。

あの父娘って何だったのか、20年以上たっても今だに不思議に思います。


第2部「セルフポートレイト」

コマコが14歳の時に、母親は冷たい湖に飛び込んでそのまま居なくなってしまいます。コマコの一人旅が始まります。
この後の流れとして、

コマコ、高校に行く
コマコ、文壇バーでバイトする
コマコ、小説家デビューする
コマコ、出奔して喫茶店でバイトする
コマコ、小説家に復帰して直木賞をとる

となります。

コマコの通っている高校の校庭の隅には姫林檎の木があって実をつけています。音楽室からはブギーの音色が聞こえてきて、覗いてみると少年がピアノを弾いているのです、ジェリー・リースタイルで。
これはブルーハーツです。正確に言うとハイロウズの「青春」です。
コマコは導火線に火が付いたりします。ブルーハーツの「旅人」です。
コマコは幻の銃の引き金を引いたりします。見えない銃を撃つわけです。ブルーハーツの「トレイン・トレイン」です。

コマコは長編小説に挑もうとするのですが、そのコンセプトというのが、

「たくさんの人物が様々な舞台で同時に演じる、多声性に満ちた長い物語だった。最初はこの大人数の中で果たして誰が主人公なのか、作者の自分にもよくわからなかったのだけれど、次第に一人の男の子が、おれだよ、と舞台から立ち上がりだした」

というものです。
コマコ、やけに大きく出たのではないでしょうか。モノローグではなくポリフォニー(多声性)の長い物語で、次第に少年が主人公として立ち上がるというのでは、まさに「カラマーゾフの兄弟」です。コマコを通り越して、桜庭君、ちょっとハッタリかましすぎなのではないの? などと思ってしまいました。

このように第2部にいたって、全部を拾うことはできないのですが、いろんな事象をごった煮的にぶち込んできている感じです。これはこれで悪くないです。

トータルでこの小説はかなり出来がいいと思いました。第1部「旅」がコマコの生きる根拠になっていて、第2部「セルフポートレイト」でコマコがその根拠を表現しようとするわけで、トータルでの整合性は取れています。
同じ作家の「少女七竈と七人の可愛そうな大人」を読んだときは、これはラノベレベルだな、と思ったのですが、この「ファミリーポートレイト」は水準を超えた小説になっているのではないでしょうか。













ネタバレ的なことを書いてしまっています。ライトノベル出身の作家さんで、直木賞も取りました。

13歳の中学生の女の子が主人公です。クラスに転校生がやってきて仲良くなるのですが、一カ月もしないうちに、その転校生が父親に殺されてしまうという話でした。

この小説の題名は「砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない」というものなのですが、なぜ弾丸を撃つのかということについて私の仮説を展開します。
例えば本文にこのようにあります。

「藻屑(転校生の名前)。藻屑。もうずっと、藻屑は砂糖菓子の弾丸を、わたしは実弾を、心許ない、威力の少ない銃につめてぽこぽこ撃ち続けているけれど、まったくなんにも倒せそうにない」

この弾丸というものが何かの隠喩だろうと普通は考えると思うのですが、実際はそうではなく、もっと直截的なものです。
「見えない自由が欲しくて、見えない銃を撃ちまくる、本当の声を聞かせろ」
という意味です。
これはブルーハーツの「トレイントレイン」の歌詞です。桜庭一樹はこの「トレイントレイン」のイメージを膨らませてこの小説を書いています。

なぜそのようなことが言えるのかといいますと、桜庭一樹の「ファミリーポートレート」という小説の中に、ブルーハーツの真島昌利作詞作曲の「青春」と全く同じイメージの高校が出てきます。校庭の隅に姫林檎の実がなっていて、音楽室では少年がジェリーリースタイルでピアノでブギーを弾いています。「青春」の歌詞そのままです。
同じく「少女ナナカマドと七人の可愛そうな大人」では、主人公の女の子は鉄子で、部屋の中に鉄道模型を作って眺めるのが趣味です。これは結局、「栄光に向かって走るあの列車に乗っていこう」ということで、これも「トレイントレイン」の歌詞です。

ですから、この小説で彼女たちがポコポコ撃っているものは、比喩としての弾丸ではなく、見えない銃に込められた弾丸です。

この小説は転校生の女の子が、転校して一カ月で父親に殺されるという救いのない内容なのですが、小説内の雰囲気は全く救いがないというものではないです。それはなぜかというと、
「ここは天国ではない、かといって地獄でもない」
からです。

桜庭一樹は1971年生まれということで、リアルのブルーハーツ世代です。女性でブルーハーツファンというのも珍しいと思います。

おまけ解説

あのラストが悲しすぎる理由なのですが、
10年に一度、同じ月の同じ日に嵐が来ると藻屑は思い込んでいます。それは結局、
「世界中に定められたどんな記念日なんかより、あなたが生きている今日はどんなにすばらしいだろう」
ということになるでしょうし、
藻屑がバラバラにされて積み上げられて置かれるというのは、
「世界中に建てられてるどんな記念碑なんかより、あなたの生きている今日はどんなに意味があるだろう」
ということになると思います。












まずは、沼田まほかる「九月が永遠に続けば」のあらすじ。

主人公は41歳のバツイチ女性で、まずその高校生の息子が失踪する。翌日に主人公女性の25歳の愛人が不審死して、疑われたのが主人公の元夫の再婚相手の連れ子の女子高生。この女子高生のボーイフレンドが主人公の愛人だ。そして、この女子高生は自殺して、主人公のアラフォー女性の息子は、父親の再婚相手の別居先にしけこんでいたのを母親に発見される。で、主人公の25歳の愛人を殺したのは、主人公の息子の同級生の女の子だったという。

このあらすじを一読しただけでは、たぶんよくわからないと思う。さらに、関係性がわかっても、関係性の必然性がわからない。

まず主人公の愛人である25歳の男は、現在、高校生のかわいい女の子に夢中なのだけれど、41歳の主人公の女性とも肉体関係があるわけだ。

おまえどんだけストライクゾーン広いんだよ、と突っ込みたくなる。私が25歳の時を思い出してもこれはない。低目のスライダーを狙っているときに、高めの直球が来たら打てないよ。

次に、主人公の息子が、失踪したと思っていたら、実は父親の再婚相手のその別居先にしけこんでいたという。その前に、主人公の息子は再婚相手の連れ子である自殺した女子高生と仲良くデートしてるんだよ。

これはない。きみは大谷か?二刀流か? 

あと、主人公の息子の同級生の女の子が、主人公の愛人を殺したことを告白するのだけれど、この告白に対して担任の男子教師の発言、

「君の精神は、まるで土の下で腐った球根みたいだ。ボロボロで臭くて、何も生えてこない。僕はまずそのことを君に教えたい」

ありえない。男ならどんな冴えない女子高生にも、これは言わない。

トータルで考えて、この小説にどういう整合性が考えられるかということなんだけれど、結局、ある種のアラフォー女性の奇妙な夢、ということではないだろうか。私たちも男、とくに若い男に対する魅力は、若い女性に負けてませんよということかな。




あまり生産的な考え方だと思わないけれども。

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沼田まほかるの「猫鳴り」は、一匹の猫をめぐる連作短編集。


第一部の主人公は、子供を流産した中年女性だ。彼女がこの猫を拾う。淡白な女性で、いやいや猫を飼うことになる。猫を飼うことで子供を失った寂しさが救われるかというと、別にそういうわけでもない。

第二部の主人公は中学生の男の子。母親が逃げ出したという父子家庭育ち。元気のないような少年で引きこもり傾向。この少年の周りをこの猫がうろうろするのだけれど、別にこの事で少年がとりたてて救われるわけでもない。

第三部の主人公は、妻に先立たれた老人。この猫と一人と一匹暮らし。最後に猫は死ぬのだけれど、このことで老人が救われるかというと、別にそういうことでもない。

はっきり言ってしまうと、それぞれの主人公は、子供を持たない中年女性、母親のいない少年、妻のいない老いた男、となる。状況は厳しい。強く生きた結果であればそれも問題もないのだけれど、世の中強い人ばかりでもないから。

そしてこの小説の全体にほんのりとした絶望感が漂う。

第二部で中学生の息子に父親がこのように言う。

「あのなあ、行雄、大人は普通そういうのを絶望って言うんだ。知らなかったのか? お前、折り合いなんて、たぶん一生つかないぞ」

ところがかたわらにいる猫は、母親もなく子供も持たずパートナーもなく、淡々と生き淡々と死んでいく。

この「猫鳴り」という小説は、現代の軽い絶望感を表現してすばらしいものがある。



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キムタク主演で映画化されます。キムタクは新田という若い刑事役です。そしてホテルと言えば不倫です。

3つの連続殺人事件が既に発生しています。次の殺人が一流ホテルのコルテシア東京で起こるという予告めいた暗号によって、警察がホテル内で潜入捜査をするという。新田という若い刑事が、山岸尚美というホテルのフロント係のリーダーっぽい女性の指導の下、フロント係のふりをして犯人を見つけていこうという話でした。


新田刑事とフロント係山岸尚美の二人だけに内面描写の記述があったので、この二人がコンビで主人公ということになると思います。ですから、連続殺人犯を捕まえるというのがメインではあるのでしょうが、おかしげな客をいかにあしらうかというホテルの日常業務にも話の重点があったりします。
怪しい客は直ちに犯人候補となるわけで、必然性によってコルテシア東京には次々に怪しい客が現れます。ホテルだけに、怪しいといっても大体が切羽詰まった不倫カップルみたいなことになりがちです。

この小説、映画化されるらしいです。この映画の趣旨なのですが、こういうことをいうと何なのですが、日本女性の不倫熱を煽ろうということだと思います。私の知り合いのアラフォーの女性(彼女は未婚です)によると、自分の友達の9割は不倫をしているというのです。
「ホントかよ」
と言うと、
「ホントホント、彼女たちの間ではこういうのを、一花咲かせる、って言うんだよ」
世の夫諸氏は、妻をより大事にした方がいいような気がします。

私は「マスカレード・ホテル」を、美しいミステリーのカテドラルみたいなものを期待して読んだのですが、そういう小説ではないですね。ホテルに次々と怪しい客が来て、その客たちを主人公の二人が次々にこなすという、連作短編的な感じです。最初と最後はミステリーなのですが、間はホテル小説ようなことになっています。ホテル小説の中にミステリーの伏線があったかもしれないのですが、一読者としては伏線探しもおざなりになってしまいました。
さらに、新田刑事とフロント係山岸尚美は仲が良すぎます。捜査情報とか共有したりしてますから。これはもうほとんど夫婦でしょう。このことがこの小説をホテル小説の側に押しやっています。
新田刑事にはイライラさせられます。もう少し自分をしっかり持ってもらわないと。

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