magaminの雑記ブログ

カテゴリ: ネタバレ書評

「はぐるとはめくるという意味です」

「えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終押さえつけていた」


梶井基次郎の「檸檬」は始まる。
私の心を押さえつけている得体の知れない不吉な塊とは何なのか、とつい探求したくなるのだけれど、梶井基次郎はこのような思考パターンを軽やかに拒否する。






「肺尖カタルや神経衰弱がいけないのではない。また背を焼くような借金がいけないのではない。いけないのはその不吉な塊だ」

強いなって思う。

散歩コースに八百屋があってレモンを一つ買う。レモンの爽やかな香りを胸に吸い込む。胸を膨らませるレモンの香りと、胸を押さえつける不吉な塊。自分の胸をめぐるレモンと不吉な塊との相克。

無題



レモン強し。今日は気分がいい。京都の丸善に突撃しようかという。

そういえば私も大学時代は名古屋の栄の丸善によく行った。30年前の丸善というのは人を選ぶような大型書店で、選ばれたような気持ちになっていた私は4階の洋書コーナーでドイツ語の書籍をあさっていた。カフカとかギュンターグラスとかの原書。もちろんそんなものが読めるわけない。かっこつけて何冊も買ったのはいいのだけれど、結局カフカの「城」だけを辞書を引きながら新潮文庫の「城」と読み比べただけだった。

梶井基次郎は丸善に入って画本の棚の前に行く。

そうそう、丸善にはこんなのをいったい誰が買うの? という本が並んでいたりした。今でも覚えているのは、ヤコブス・デ・ウォラギネのキリスト教の聖者・殉教者たちの列伝である『黄金伝説』という本。分厚いハードカバー本で全5巻だった気がする。ちょっとパラパラめくってみた。犬好きの牧師というのがいて、犬に善行を施しまくった結果神の思し召しによって、この牧師は死後ただちに犬の天国に駆け上っていったという記述があった。
何もかもが謎だよね。

梶井基次郎は丸善に突撃したのはいいのだけれど、丸善の雰囲気にのまれて、また不吉な塊が胸を圧迫し始める。

「私は一冊ずつ抜き出しては見る。そして開けては見るのだが、克明にはぐっていく気持ちはさらに湧いてこない。しかも呪われたことにはまた次の一冊を引き出して来る」

だんだん本が積みあがってくる。30年前、私は引き出した本は元に戻しはしたけれど、梶井基次郎の気持ちは分かる。

そしてラスト。そういえばポケットには黄色いレモンがあったんだ。積み上げてしまった本の上にレモンをそっと置く。

「見わたすと、その檸檬の色彩はガチャガチャした色の諧調をひっそりと紡錘形の身体の中へ吸収してしまって、カーンと冴えかえっていた」

カーンと冴えかえるという。
カーンだよ。

レモンをのこして丸善を立ち去り話は終わるのだけれど、とにかくえたいの知れない不吉な塊にたいする気持ちのかぶせ方がすがすがしい。なかなかこうはいかないよ。

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梶井基次郎の「Kの昇天」は、K君が海で溺死した理由を「私」があれこれ考える、という内容の短編小説です。

ストーリーを追いながら、ゆっくり「Kの昇天」を読んでいきましょう。


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【Kの昇天を読む】


私が夜の浜辺を散歩している時に、私は奇妙な人を見つけます。その人は満月を背にして、うつむきながら前に進んだり後ずさりしたり立ち止まったりしていました。私は思い切って声を掛けました。これが私とK君との出会いでした。

私がK君に最初に抱いた印象は、

「のっぺらぼう」

というものでした。

K君が浜辺で何をしていたのかというと、月の光でつくられた自分の影を見ていたそうです。
本文にこうあります。

『影をじーっと視凝みつめておると、そのなかにだんだん生物の相があらわれて来る。ほかでもない自分自身の姿なのだが。それは電燈の光線のようなものでは駄目だ。月の光が一番いい。』

K君は奇妙なことを言い出しました。さらにこうかぶせてきます。

『影の自分は彼自身の人格を持ちはじめ、それにつれてこちらの自分はだんだん気持がはるかになって、ある瞬間から月へ向かって、スースーッと昇って行く。それはなんとも言えぬ気持で、昇天してゆくのです。』

月の光によってできる影に自分というものが移って、肉体という重しを失った自分は月に登っていくだろう、ということになるでしょう。
そしてK君は、この月への昇天にいつも失敗しているとも告白します。

k君は影にこだわります。

『ちょうど太陽の光の反射のなかへ漕ぎ入った船を見たとき、
「あの逆光線の船は完全に影絵じゃありませんか」
 と突然私に反問しました。』

もう一つ、K君の思い出話。

『「私が高等学校の寄宿舎にいたとき、よその部屋でしたが、一人美少年がいましてね、それが机に向かっている姿を誰が描いたのか、部屋の壁へ、電燈で写したシルウェットですね。その上を墨でなすって描いてあるのです。それがとてもヴィヴィッドでしてね、私はよくその部屋へ行ったものです」』

K君が溺死して、私は、

「K君は月へ登ってしまったのだ」

と感じます。

これで「Kの昇天」という話はだいたい終わりです。


【解釈】


この小説の解釈なのですが、K君は私のドッペルゲンガーである、とか、K君とは梶井基次郎自身の意味である、とか考えてしまうと、少し小説を読者視点に引き付けすぎだと思います。梶井基次郎の小説のいいところは、病という倦怠のなかにあってもチリチリと燃える生きる意志が垣間見えるところであって、あまり無理な読解をする必要もないでしょう。

この小説はファンタジーを読むような感じで接すれば、かなり楽しめます。



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梶井基次郎の「桜の樹の下には」は、「桜の樹の下には屍体したいが埋まっている!」という出だしで始まります。
なぜ梶井基次郎はいきなり、桜の樹の下には屍体したいが埋まっている!」などと言い出したのか。結論から言うと、梶井基次郎はある出来事によって生と死はつながっているというインスピレーションを得て、そのインスピレーションを桜に応用した、ということです。

この考えを基本にして、「桜の樹の下には」を読んでみましょう。



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桜の樹の下には屍体したいが埋まっている!】


桜の樹の下には」の最初のほうに、このようにあります。

『桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった』

いったい梶井基次郎に二三日前、何があったのか。
彼は渓谷を歩いていたのです。するとウスバカゲロウの大群が上空に登っていくのが見えました。
「ほう、美しい」
と感嘆して、ふと下を見ると、大量のウスバカゲロウの死骸が水面に浮いていました。この出来事で、彼は生と死はつながっている、というインスピレーションを得たのでしょう。

実際にはこのように書かれています。

何万匹とも数の知れない、薄羽かげろうの屍体だったのだ。隙間なく水の面を被っている、そこが、産卵を終わった彼らの墓場だったのだ。
 俺はそれを見たとき、胸がかれるような気がした。墓場をあばいて屍体をこのむ変質者のような残忍なよろこびを俺は味わった。』

しかし桜の美しさを生の結果としても、ではその美は何の死とつながっているのか?

そこで彼が思い出したのが「安全剃刀の刃」
です。
家にあるいろいろな物の中で、彼にとってなぜか安全剃刀の刃はなぜか存在感がある。桜の存在感と安全剃刀の刃の存在感は同じ子ではないのかと彼は考えます。

実際にはこのように書かれています。

安全剃刀の刃なんぞが、千里眼のように思い浮かんで来るのか――おまえはそれがわからないと言ったが――それもこれもやっぱり同じようなことにちがいない。』

そして急に、ああそうだと、桜の樹の下には屍体したいが埋まっているんだと思うに至ります。

この辺は論理の飛躍みたいなものがあるので、少し言葉を埋めてみたいと思います。

死というものが、美しさを感じる気持ちや恐怖感につながっている。そして美や恐怖は桜や安全剃刀の刃のような物に結実するのです。
普通は桜や安全剃刀の刃が、美しいと思う感情や恐怖感を引き起こすと考えるのですが、梶井基次郎は、この常識を逆転して、美しいと思う感情や恐怖感が桜や安全剃刀の刃という物質に結実する、というわけです。

「桜の樹の下には」の最期のほうでこのようにあります。

――おまえはわきの下をいているね。冷汗が出るのか。それは俺も同じことだ。何もそれを不愉快がることはない。べたべたとまるで精液のようだと思ってごらん。それで俺達の憂鬱は完成するのだ。』

これは分かりにくいところでしょうが、これまでの論考に準じて考えると、
わきの汗というのは、恐怖感を抱いたときにかくものではなく、死につながっている恐怖感が汗という 物質に結実していると。だからその物は汗である必要性はなく、精液でもかまわないだろう?
という程度の意味だと思います。

そしてこの短編の最期の部分である

今こそ俺は、あの桜の樹の下で酒宴をひらいている村人たちと同じ権利で、花見の酒がめそうな気がする。』

というのは、美しさというのを頭で考えていたのでは、美そのものに到達することは出来ない、ということでしょう。


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桜庭一樹さんの小説を紹介しながら、彼女がラノベ作家から直木賞作家へ飛躍した謎を解きます。

目次
1 少女七竈と七人の可愛そうな大人
2 砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない
3 ファミリーポートレイト
4 結論





【少女七竈と七人の可愛そうな大人】



とびきり顔の造作が美しいとされる高校3年生の女の子の日常生活を描いた小説でした。

この小説世界における整合性の根拠は、主人公の女の子の「かんばせの美しさ」だけです。
正直、こういうのはどうかなと思います。言葉で美しいと言われても、ここは漫画ではなく小説世界なのですから、美しさの実感みたいなものがつかめないです。
私の過去の美少女の記憶というものを、この少女に当てはめていけばいいのでしょうが、そこまでする必要も感じられないです。

個別の女性の美しさに関する価値判断というのは、ほぼ男性の性欲に依存しているわけで、あまりこだわるほどのことでもないと思います。
美しいとされる若い女性を男性が過度にちやほやして、何だか勘違いしてしまった女性というのはいっぱいいます。
私はトラックの運転手をしているのですが、無理な割り込みをしてくるのは、だいたいにおいてかつては美しいとされていたであろうオバサンです。男は自分に譲ってくれるものだと勝手に判断しているのでしょう。迷惑千万です。

少女の顔が人並み以上に整っているからと言って、それだけで小説の整合性の根拠になると考えるのは甘すぎます。さらには女性の人間性に対する冒とくです。
この小説が何かの漫画のノベライズというのであれば、もしかしたら許容範囲かとも思うのですが、そうではないのでしょう? 


【砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない】

砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない A Lollypop or A Bullet (角川文庫)

13歳の中学生の女の子が主人公です。クラスに転校生がやってきて仲良くなるのですが、一カ月もしないうちに、その転校生が父親に殺されてしまうという話でした。

この小説の題名は「砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない」というものなのですが、なぜ弾丸を撃つのかということについて私の仮説を展開します。
例えば本文にこのようにあります。

「藻屑(転校生の名前)。藻屑。もうずっと、藻屑は砂糖菓子の弾丸を、わたしは実弾を、心許ない、威力の少ない銃につめてぽこぽこ撃ち続けているけれど、まったくなんにも倒せそうにない」

この弾丸というものが何かの隠喩だろうと普通は考えると思うのですが、実際はそうではなく、もっと直截的なものです。
「見えない自由が欲しくて、見えない銃を撃ちまくる、本当の声を聞かせろ」
という意味です。
これはブルーハーツの「トレイントレイン」の歌詞です。桜庭一樹はこの「トレイントレイン」のイメージを膨らませてこの小説を書いています。

なぜそのようなことが言えるのかといいますと、桜庭一樹の「ファミリーポートレート」という小説の中に、ブルーハーツの真島昌利作詞作曲の「青春」と全く同じイメージの高校が出てきます。校庭の隅に姫林檎の実がなっていて、音楽室では少年がジェリーリースタイルでピアノでブギーを弾いています。「青春」の歌詞そのままです。
同じく「少女ナナカマドと七人の可愛そうな大人」では、主人公の女の子は鉄子で、部屋の中に鉄道模型を作って眺めるのが趣味です。これは結局、「栄光に向かって走るあの列車に乗っていこう」ということで、これも「トレイントレイン」の歌詞です。

ですから、この小説で彼女たちがポコポコ撃っているものは、比喩としての弾丸ではなく、見えない銃に込められた弾丸です。

この小説は転校生の女の子が、転校して一カ月で父親に殺されるという救いのない内容なのですが、小説内の雰囲気は全く救いがないというものではないです。それはなぜかというと、
「ここは天国ではない、かといって地獄でもない」
からです。

桜庭一樹は1971年生まれということで、リアルのブルーハーツ世代です。女性でブルーハーツファンというのも珍しいと思います。

おまけ解説

あのラストが悲しすぎる理由なのですが、
10年に一度、同じ月の同じ日に嵐が来ると藻屑は思い込んでいます。それは結局、
「世界中に定められたどんな記念日なんかより、あなたが生きている今日はどんなにすばらしいだろう」
ということになるでしょうし、
藻屑がバラバラにされて積み上げられて置かれるというのは、
「世界中に建てられてるどんな記念碑なんかより、あなたの生きている今日はどんなに意味があるだろう」
ということになると思います。


【ファミリーポートレイト】

ファミリーポートレイト (講談社文庫)

第一部「旅」

コマコは5歳から14歳まで、何かから逃げるように母親と二人で日本の諸都市をめぐります。母親は老人しかいない町で病院の受付をやったり、そこを逃げ出したら次は温泉街で温泉芸者をやったり、またそこを逃げ出したら次は豚の解体工場で働いたりとか。
ロクでもない母親なのですが、そんな母親でもコマコは大好きで、何と言いますか、母親とコマコは互いに依存しあうような関係です。

この本の解説で、
「桜庭一樹という作家は、現実味のないことを、たじろぐくらいの現実味をもって書く」
なんてありましたが、親子で日本の辺境をめぐる人々というのは実際に存在しますよ。

私、20年ちょい前に北海道の美瑛の肉牛牧場で何年か働いていたことがあります。私が何年か暮らした経験をもとに言いますと、北海道在住の方には申し訳ないのですが、北海道の東半分というのはほとんど日本の果てみたいなところです。
そんな場所の牧場に、40ぐらいのさえないオジサンが働かせてくれといって来ました。体形はずんぐりむっくりで、気が弱そうで口数も少なくて、正直ちょっとトロいような感じのオジサンだったのですが、なんと小学4年の女の子を連れているのです。
この女の子はお父さんと全然似ていなくて、口元はキリっと引き締まり目は知性的で、将来はかなりの美人になるのではないかと予感させるような容貌でした。
牧場には従業員のための寮があって、まかないもついていました。その小学4年の女の子は、毎晩お父さんの夜食のためにといって、余ったコメで大きいおにぎりを3つ作っていました。
お母さんはどうしたの? とか聞きにくい話もそのうち聞こうかと思っていたのですが、その父娘は3か月ぐらいで牧場からいなくなってしまいました。

実話です。

あの父娘って何だったのか、20年以上たっても今だに不思議に思います。


第2部「セルフポートレイト」

コマコが14歳の時に、母親は冷たい湖に飛び込んでそのまま居なくなってしまいます。コマコの一人旅が始まります。
この後の流れとして、

コマコ、高校に行く
コマコ、文壇バーでバイトする
コマコ、小説家デビューする
コマコ、出奔して喫茶店でバイトする
コマコ、小説家に復帰して直木賞をとる

となります。

コマコの通っている高校の校庭の隅には姫林檎の木があって実をつけています。音楽室からはブギーの音色が聞こえてきて、覗いてみると少年がピアノを弾いているのです、ジェリー・リースタイルで。
これはブルーハーツです。正確に言うとハイロウズの「青春」です。
コマコは導火線に火が付いたりします。ブルーハーツの「旅人」です。
コマコは幻の銃の引き金を引いたりします。見えない銃を撃つわけです。ブルーハーツの「トレイン・トレイン」です。

コマコは長編小説に挑もうとするのですが、そのコンセプトというのが、

「たくさんの人物が様々な舞台で同時に演じる、多声性に満ちた長い物語だった。最初はこの大人数の中で果たして誰が主人公なのか、作者の自分にもよくわからなかったのだけれど、次第に一人の男の子が、おれだよ、と舞台から立ち上がりだした」

というものです。
コマコ、やけに大きく出たのではないでしょうか。モノローグではなくポリフォニー(多声性)の長い物語で、次第に少年が主人公として立ち上がるというのでは、まさに「カラマーゾフの兄弟」です。コマコを通り越して、桜庭君、ちょっとハッタリかましすぎなのではないの? などと思ってしまいました。

このように第2部にいたって、全部を拾うことはできないのですが、いろんな事象をごった煮的にぶち込んできている感じです。これはこれで悪くないです。

トータルでこの小説はかなり出来がいいと思いました。第1部「旅」がコマコの生きる根拠になっていて、第2部「セルフポートレイト」でコマコがその根拠を表現しようとするわけで、トータルでの整合性は取れています。
同じ作家の「少女七竈と七人の可愛そうな大人」を読んだときは、これはラノベレベルだな、と思ったのですが、この「ファミリーポートレイト」は水準を超えた小説になっているのではないでしょうか。

【結論】

桜庭一樹さんはブルーハーツをオマージュすることによって、ラノベ的軽さから脱却したということだと思います。









恩田陸の小説は、ちょっとわかりにくいところがあるのですが、そのへんを解説しながらおすすめ本を紹介していきたいと思います。

目次
1 六番目の小夜子
2 黒と茶の幻想
2 黄昏の百合の骨
4 Q&A
5 ねじの回転―February moment





【六番目の小夜子】


内容は、高校生の青春と後ちょっとオカルトみたいな話だった。全体として悪くない。
高校時代を思い出した。でも私が通っていた学校は、こんな青春学校ではなかったのだけれど。進学校というところは同じなのだけれど、岡山県のド田舎にある中高一貫の全寮制の男子校という、シャレたオカルトよりも横溝の金田一のほうが似合うような場所だった。
とにかく最悪だった。周りのやつらは、医者、歯医者、税理士、大学教授などの息子が多かった。親が自分の跡を継がせようというので、子供をスパルタ式の進学校に押し込んだということなんだろう。私は八百屋の息子で、高校生なのに場違いなところにいるという感覚があった。
大学に入って、体育会男女バレー部仲間と名古屋の東山動物園にピクニックに行った。みんなでワイワイ弁当を食べている時、
「世の中にこんな楽しいことがあるんだ」
と感動したことを覚えている。

この小説の沙世子というのはすごい美人で、美女は権力の源泉だみたいな設定になっているのだけれど、世の中、美人にへつらう馬鹿男ばかりでもないだろう。面の皮1枚で権力でもないと思うけど。


【黒と茶の幻想】


恩田陸「三月は深き紅の淵を」という小説の中で、繰り返し語られた、決して読むことの出来ない幻の本がありまして、実際に書かれた小説がこれということになりますね。


ストーリーは、学生時代の友人である利枝子、節子、彰彦、蒔生(まきお)。
30代後半になった彼らは久しぶりに再会し、伝説の桜を見に行くという目的で、屋久島散策に出かけるというもの。

大学時代の友人である梨枝子、彰彦、蒔生、節子の男女4人が40歳近くになって、屋久島に3泊4日の旅行に行って、学生のころの謎についていろいろ話し合う。

謎といってもたいしたものではない。あのカップルはなぜ別れてしまったのかとか、あの変わり者だった同級生の女の子は今どうしているのかとか、基本的に私たちの同窓会での会話と大差はない。

でもこういうのってすごく楽しかったりする。

男同士で過去を語り合ってもたいしたことはないのだけれど、そこに女性が加わると話の厚みがぐっと増すというのはある。「黒と茶の幻想」は全編そんな感じですごく面白い。

「黒と茶の幻想」での謎を紹介してもいいのですが、こういうのは雰囲気を楽しむもの。

ですから、この本を読んで思い出した、かつて私の参加した同窓会で語られたある男と女の謎とその解答を書いてみたいと思います。


私は大学時代は体育会でバレーをやっていた。男子バレー部と女子バレー部は仲がよかった。私と同学年に高林という男がいて、こいつはうちの大学バレー部のスーパーエースだった。

高林は190近い長身で頭の回転も速かった。女の子に十分もてるレベルだったろう。ただ性格がゲスだった。私は彼のゲスなところが嫌いではなかったけれど。

この高林は1学年下の女子バレー部の女の子と付き合っていたのだけれど、卒業後に2人は別れてしまって、高林は彼女をストーカーするようになったという。互いに大人だしそのうち折り合いをつけたのだろう。別に事件なんていうものにも発展しなかった。よくある話だろう。

20年の時が流れた。

名古屋の名駅の裏の居酒屋で同期の男子バレー部と女子バレー部の同窓会があった。女の子はかわいいまま、昔と変わらない。お前ら美魔女か。

二次会になる。メンバーも絞られる。高林の話になった。なんで高君はストーカーなんてしたのかっていう、熟成された「謎」の登場だ。

まず私が、

「あいつは性格がゲスいから、ストーカーなんていかにもやりそうだ。結局、自分に正直なんだと思うよ」

といってみた。するとある女の子が、

「でも高林君って性格ゲスいかな? 今日も一次会に子供連れてきて、子供を可愛がってたじゃん?」
と言う。まあまあ、高林も立ち直ったのかもしれないねなんて言おうと思ったら、今までニコニコ話を聞いていた我らが女バレのヒロインが、突然このようなことを言う。

「そういえば私、高林君に言われたことがある」

「何を?」

「一発やらせろって。体育館の裏で。減るもんじゃないんだから一発やらせろって。最低って思った」

すばらしい告白だ。ここちょっと押してやれ。

「高林は、そのことをヒロインにだけ言ったのかな?、他の女の子には言っていないのかな?」

「絶対言っているよ。高林君のあの彼女も言われてるよ。あの子、真面目だったから真に受けたんじゃないの?」 

「ゲスいことを言って付き合って振られてストーカーというんだから高林は確かにゲスいでしょう? そこがアイツの正直なところなんだけれど」



謎はすべて解けた。



今回は真理を私の論理に引き付けて解決したけれど、引き付けて引き付けられて、そして謎が解決されていくならすごくリアルで楽しいだろう。

でも年をとるとなかなか旧友と時間を合わせてかつての謎を解くなんてのもまれなわけで、3泊4日の旅行で過去と向き合えるこの小説の主人公たちがうらやましい。

この小説は、これだけ読んで面白いというものでもないだろう。若いころに男女のグループで真剣にかつ軽い感じできゃいきゃいやった世代向けだと思う。


【黄昏の百合の骨】


シリーズものの二作目。一作目に「麦の海に沈む果実」。この後も続くっぽい流れで「黄昏の百合の骨」は終わっていた。
でも、この二作目だけ読んでも別段問題はない。私も前作は存在も知らなかったけれども話は通じた。ただ主人公の女の子が軽く過去を回想したりしてて、例えば
「彼女を見ていると、あのツインテールの女の子を思い出す」
とか語られた時に、
「ツインテールの女の子って誰?」
みたいなことにはなる。

「黄昏の百合の骨」は、猫が死んだり、主人公の叔母さんが事故死したり、友達の友達の男の子が行方不明になったり、ミステリー仕立てにはなっている。しかしこの小説の力点というのはそこにはない。
主人公の女の子は不合理の世界に生きているのだけれど、合理的な世界も理解できるみたいな。言い換えると、主人公の女の子は闇の世界に生きているのだけれど、光の世界も理解できるみたいな。さらに言い換えると、主人公の女の子はマージナルな世界に生きているのだけれど、価値序列的な世界も理解できるという設定になっている。その設定はこの小説の設定というより、恩田陸の小説世界の設定だろうと思う。
いかにも女性作家らしい設定だと思う。

恩田陸の作品に、ホラー味があるのも女性の美しさに異常な価値が付与されているのもこの設定の結果だろう。「黒と茶の幻想 」という恩田陸作品の中でアラフォーのキャリアウーマンが、
「私の仕事って結局、男の子のゲームにただ混ぜてもらっているだけだ」
と独白する場面があるのだけれど、この告白も恩田陸的小説世界設定の延長線上にあるだろう。

恩田陸的小説世界の成立の根拠というのは、やはりここ20年ぐらいの女性の社会進出に伴う日本社会の価値観の変化というところにあると思う。
この小説世界的な気持ちはわかるのだけれど、女性の美しさに異常な価値を付与するというパターンは控えた方がいいと思う。私は男だけれど、私のお尻の形で私の人間性を判断されたりしたら、ちょっと気がめいるだろうというのはある。


【Q&A】


大型ショッピングモールで原因不明のパニック型事故が起こり何十人も死亡する。この事故にかかわった人たちの対話によって事故原因が明らかになるだろうという体裁でこの小説は成立している。

事故原因なるものは明らかにならないままこの小説は終わる。

恩田陸には、真理は明らかにされるべきだというミステリーの基本的枠組みを踏襲する気などさらさらないのだろう。

恩田陸の小説パターンというのは、何か不条理な事象が与えられて、その不条理を受け入れられる人間と受け入れられない人間との相克というものだ。恩田陸の小説世界では不条理を受け入れられる人間を優位に描いているので、不条理は解明されるはずもない。

恩田陸的不条理というのは、特別な女性を神輿の上に掲げながら進行していく。「黒と茶の幻想」では一人芝居をする美人女学生だったし、「ねじの回転」ではネコだったね、ネコ。この「Q&A」では、事故後のショッピングモール内を血塗られたぬいぐるみを引きずって歩く二歳の女の子。

特別な女性を伴って進行する不条理現象とは、すなわちこれ祭りだね。ショッピングモールのパニック事故も祭りの様相を呈している。

祭りの内部においては、なぜ祭りなどというものがあるのかと問うような合理性はさかしらであって、大きな一体性にわが身を任せることが重要とされる。

「Q&A」でも、パニック事故の原因を確定しようとする者は排除されている。

祭りにおいては時間の観念も重要だ。合理的世界観においては、時間とは無限の過去から無限の未来に向かって進歩発展をともないながら一直線に進むもの、という認識になる。ところが、祭り世界においては、時間は循環するという認識になりがちだ。ニーチェ永劫回帰もこのパターンだろう。

「Q&A」でも、祭り上げられた特別の少女のところに、突然未来の本人が尋ねてきていろいろアドバイスをする。今の少女も未来ではかつての自分のところに戻り同じアドバイスをするようになるだろう。完全な時間循環とはいかないけれども、何らかの循環が期待されている。そもそも、恩田陸はそのような時間循環を期待して、未来の少女が現代の少女を突然訪ねてくるというSF的な設定を、この小説に突然割り込ませてきたのだろう。


【ねじの回転―February moment】


二二六事件を読みやすいタイムトラベルSFで紹介しようという、二二六事件ファンにはたまらない一冊(上下で二冊なんだけれど)。

二二六事件の関連記事/

二二六事件に至る経緯をより知りたい方はこちら
 

二二六事件はそもそもが評価の難しい事件だ。それをSFという手法を用いて現代の世界観と関係付けながら表現しようというのだから、この小説はある種のチャレンジだろう。
恩田陸はこの難しい設定をどう解決するのだろうと思いながら読んでみた。

SFだからこの小説内においては21世紀には時間遡行の技術が存在していることになっている。現代の国連は、正義と称し過去に遡ってヒトラーを暗殺したらしいのだけれど、結果さまざまな時間的ひずみが生じて歴史のタガが緩んでしまい、国連が二二六事件当時の日本にも介入しなくてはならなくなったという。
国連職員は二二六事件に関与した安藤輝三と栗原安秀の協力を得ながら歴史を確定しようとするのだけれどなかなかうまくいかないという流れで話は進んでいく。

ヒトラーを暗殺したらしい国連が二二六事件に介入するという設定の結果が、政治思想的に読む者を限定するようになるのではないかと最初は思ったのだけれど、そうでもないね。国連の事務の現場のみを描くことによって、政治的にセンシティブな問題はほとんど回避されている。
ただこのSF小説の中で石原莞爾が

「日本は父親を必要としているだけなんだ。明治維新前、それは中国や朝鮮だった。明治維新後、 父親はヨーロッパになった。今の日本は父親を失って苦しんでいるだけだ」

みたいなことを言わされていた。戦後の日本の父親はアメリカだということなのだろう。挑発的な発言ではあるだろうが、女性作家に言われたのでは腹も立たない。

この小説では、安藤や栗原がリアルな感じでしゃべったり行動したりするのがじつにいい。栗原が国連職員にこのように啖呵を切る。
「おまえら安藤大尉がただの善人だと思ったら大間違いだぞ」
いいぞ栗原、もっと言え。

おまけ。
二二六事件をもっとよく知るための、二二六事件名場面ベスト3。

 第3位
二二六事件で生き残った将校の50年後の座談会での清原康平の発言。

「226の精神は大東亜戦争の終結でそのままよみがえった。 あの事件で死んだ人の魂が、終戦と共に財閥を解体し、重臣政治を潰し民主主義の時代を実現した」

反論の出やすい発言だろうと思うけれど、清原はこの発言の上にさらにこうかぶせてきた。

「陛下の記者会見で、
 記者 おしん、は見ていますか
 陛下 見ています
 記者 ごらんになって如何ですか
 陛下  ああいう具合に国民が苦しんでいるとは知らなかった
 記者 226事件についてどうお考えですか
 陛下 遺憾と思っている

遺憾と思っているという言葉で陛下は陳謝された」

 第2位
磯部浅一 「獄中手記」

「天皇陛下、この惨たんたる国家の現状をご覧ください、陛下が私共の義挙を国賊反徒業と御考え遊ばされているらしいウワサを刑務所内で耳にして、私共は血涙を絞りました。
陛下が、私共の義挙を御きき遊ばして
 日本もロシアのようになりましたね
ということを側近に言われたとのことを耳にして、私は数日間、気が狂いました」

いかんね。ロシア革命というのは貴族と庶民とが懸絶してしまった結果起こったもので、日本一体性のアンカーである天皇自らが、日本もロシアのようになりましたね、では何がなんだかわからない。磯部はさらにこのように続ける。

「日本もロシアのようになりましたね、とはいかなる御聖旨かわかりかねますが、何でもウワサによると、青年将校の思想行動がロシア革命当時のそれであるという意味らしいとのことをそくぶんした時には、神も仏もないものかと思い、神仏をうらみました。
天皇陛下 何という御失政でありますか 何というザマです 皇祖皇宗に御あやまりなされませ」

そりゃあ言われるよ。言われてもしょうがない。

 第1位
安藤輝三部隊の鈴木貫太郎侍従長公邸襲撃

安藤大尉は、拳銃の弾を4発打ち込まれて倒れた鈴木貫太郎にとどめをさそうと軍刀に手をかけた。夫人が侍従長をかばうように体を投げ出すと、安藤大尉は彼女の気持ちにうたれて思いとどまり、折敷け! と命じて自ら黙祷し、立ち上がると、

「閣下に対し、捧げ銃(つつ)!」

と挙手の礼をし、静かに部屋を出て行った。
鈴木貫太郎は回復し、終戦時の総理大臣となりポツダム宣言を受託した。
後、鈴木貫太郎は安藤大尉は命の恩人であると語っていたという。




以上、恩田陸おすすめ小説5選でした。







川上弘美の「センセイの鞄 」は、アラフォー女性と70代男性とのプラトニックラブの話だと思った。



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この本を20代30代のころに読んだとしたら、大人になってプラトニックラブなんてありえない、とにかくやらなきゃ意味ないよなんて思っただろう。48歳にもなると、不思議なことに「やらなきゃ意味ない」とか思わなくなってくる。「センセイの鞄」、あっさりしていいなーなんて思うようになる。

何年か前に高校の同窓会があった。当時気になってた女の子と25年の時を超えてお酒を飲みながら喋る。相手は明らかに恋愛シャッターが開いている感じだ。若かったらどんどん行くけれどさすがに。互いに40代で結婚もしていて子供もいて、やってどうなるというものでもないし。「センセイの鞄」の中で「わたし」と昔の同級生とが花見で出会って手をつないで土手道を歩くという場面があったのだけれど、そういうのが一番いい。

なんだか一周回って高校生に戻ったみたいだ。

でも正直、48歳の男も私みたいにあっさりしたヤツばかりでもない。

老驥櫪に伏すとも志は千里に在り

でね、無理やりバイアグラで奮い立たせようなんていうやつも複数いる。本当にご苦労様だと思う。

この文春文庫の「センセイの鞄」の解説を木田元が書いている。有名な哲学者がこの本の何を解説しようというのか。

「20世紀の作家たちも、近代の超克をはかり、単線状の時間を内的形式とする小説というジャンルを内側から掘り崩すことによって近代的自我の解体を計ろうとした。カフカやムージルやジョイスやフォークナーの文学的営為がそこにむけられていたことは言うまでもない」

「それなのに、河上弘美は、そんな努力はどこ吹く風といった感じで彼らの目指したポストモダンに軽々と身を置いている」



おい、ちょっと褒めすぎだろう。 まあでも最後にこのようにある。

「せっかくのすばらしい傑作に不粋きわまる解説を添えることになってしまった」

だって。さすが木田元、自分をセンセイに重ね合わせてきている。わるくない解説だと思った。


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この小説の骨格。



主人公の「僕」には、ある一定の人と思考を共有する能力がある。ある中学生男子と思考を共有した結果、「僕」はその中学生に自分が、通り魔犯罪を犯したのは自らをありふれたた人間だと認めるのが怖かったからだと告白させる。

その中学生の母親の思考にも共有して、息子の犯罪を恐れていたのは母親としての愛ではなく世間体のためであると告白させる。



こんな感じで、僕は特殊能力を使って何人かに心の空虚さを告白させる。僕が告白させることのできる人は心に空白を抱えている人に限るらしい。心に空隙を抱える原因は、自らの価値を外部に求めることによる。中学生の男の子は自分の価値を他人の評価に望み、その母親は世間体に依存する。ある男は自分の評価をリストラされたところの仕事に願い、別の男は別の男の子供を身ごもった自分の妻に祈る。



「僕」は、自分の価値を外に求めようとする人の思念に同化する。そして彼らの空虚さを告白させて心を解放する。解放された心は支えを失って衰弱していく。「僕」はこの現象のことを呪いと呼んでいる。

この呪いが発動しない相手もいる。医者を聖職と考えている医学部教授と自分の世界を生きる女子中学生だ。



以上がこの小説のあらすじ以前の骨格だ。

正直、この物語の骨格は少し貧弱で、この骨格自体では整合性を保てないだろう。

まず、なぜ医者と女子中学生には呪いが発動しないのか? それは彼らの中に価値があるからだろう。自分の価値を外に求める者には呪いは発動するのだけれど、自分の価値を内に見つける者には呪いは発動しない。



医者に呪いが発動しないのは、医者という職業に特別の価値があるからだという。聖職だという。
作者は勘違いしているのではないだろうか。合理的に考えれば、医者というのは人体調整の技術者であって、べつに聖職などというものではない。聖職意識があるとするならば、それは医学に内在するものではなく社会的に特別に価値が付与されているからだ。



作者は女子中学生に価値が内在していると判断しているらしい。申し訳ないけれどもロリコン発想ではないだろうか。女子中学生に価値が内在しているとしたら、いったいどこに内在しているのだろうか。その下半身にだろうか? それもある一定の男にとって? 



呪いってある程度普遍的な力があるんじゃねーの?

社会的に特別に付与された力でかわせたりとか、ある一定のキモ男の情念で守られたりとか、取るにも足らぬ馬鹿を言うものありだね。



ダメな大人は自分の外に価値があると判断して自分を失っているというのは無くは無いとは思うけれど、それほど当たり前のことでもないだろう。現代日本はそこまで疲れきってはいないだろう。

この小説は、現代日本がこうだったら怖い的な、ホラー小説だととらえたい。


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前作「MOMENT」は大学生「僕」視点での話だったけれども、「WILL」は「MOMENT」から7年後の大学生「僕」の彼女である葬儀屋の看板娘「私」視点からの3つの連作短編集だった。



正直言って、「WILL」は「MOMENT」より小説としての出来が落ちると思う。



大学生「僕」視点での葬儀屋の看板娘「私」22歳は口の悪い不思議娘という感じで魅力的だったのだけれど、7年後の葬儀屋の看板娘「私」29歳は今回自分の視点で語るわけで不思議娘でもなんでもない。これではただの口の悪いおばさんだろう。



例えばだよ、葬儀屋の看板娘?「私」29歳を、かつての大学生「僕」現在はアメリカで翻訳の仕事をしている高学歴「僕」29歳が白馬に乗った王子様よろしく迎えに来たとして、もうこれは作者のアラサー女性へのサービスだろう。オヤジ読者には何の関係もない。



葬儀屋の看板娘?「私」29歳はおせかっいすぎると思う。こんなおせっかいな葬儀屋はいない。ACT1「空に描く」では、あるアラサー女性の本当の父親は先日死んだ父親かそれとも別の男か?というところに話は収束していくのだけれど、そんなのほっといてあげればいいじゃんって思う。葬儀屋がそんなことを解明する必要はないだろうと思う。



司馬遼太郎がどこかに書いていたのだけれど、明治以前の村社会では夜這い婚というものが主流だったという。夜這い婚とは、村の若い男は夜、村の娘のところに夜這いに行く。娘は気に入らない男は拒否することができる。まあいいかと思えば受け入れる。そのうち娘は妊娠する。妊娠した時点で、娘は結婚相手を夜這いに来た男たちの中から1人指名することができる。男はこの指名を拒否することはできない。拒否すれば村八分だ。

この制度では子供と父親とのDNAが一致するとは限らない。かつての日本男児はそのようなことは気にしなかった。自分の子供は自分と血がつながっていないかもしれないが同様によその男が自分の血を受け継いだ子供を育ててくれているかもしれないからだ。



貴族階級でもないのにDNAの一致がどうとか、男はそのような細かいことにこだわるべきではない。愛する女が子供を孕めば責任を取るしかない。女も誰の子供かなどという科学的真実を語る必要もない。ましてや葬儀屋が家族の生物学的真実を解放しようなどと迷惑千万だろう







この小説の主人公である大学生「僕」というのがすごくいい味を出している。地頭がよくてクールで死に行く人への敬意を忘れないという。

患者の最後の願いを叶えるといっても、叶える側がただの大学生なのでたいした願いは叶えられない。人を探すとかデートするとかというようなレベルだ。どうってこともないような話なのだけれど、患者と大学生「僕」との距離感がすばらしい。

この小説世界は、イメージとして患者の死という力の周りをクールさと誠実さのバランスを取りながら大学生「僕」がぐるぐる回っている感じだね。



二話目のWISHが特にいい。心臓手術を間近に控えた女子高生が、キスもせずに死ぬのは嫌だから大学生「僕」にキスをしてという。そしてこのようにある。



「キスはしたくてするものではない、と僕は訂正した。そうせざるをえないからするのだ。そう思った。たぶん、魂というものは確かにそんざいしていて、それが体という不自由なもののなかで悲鳴を上げたとき、それは唇を通して触れ合うことを求めるのだろう」



女子高生とキス?して問題になっている芸能人もいるけれど、このキスはセーフでしょう。そして自分のファーストキスとか思い出したりする。遠い昔の話で、そういえば相手の女の子は未成年だった。私も未成年だったし問題ないよね。あれは唇を通しての魂のふれあいだったのかなー。




この「MOMENT」という本、残念なのは4つ目の短編がいまいちなところ。大学生「僕」が患者世界に踏み込みすぎていているし、患者のオヤジもカッコつけすぎだろう。そもそも借金取りなどというものは別れた妻のところにも行かないし病院の個室にまで来て家捜しみたいなことはしない。
最後の短編が一番弱かったというのは非常に残念だった。でもこの小説には続編があるらしいので、そっちは期待できる予感がする。



ゴーギャンがモデルだろうとか、月は6ペンスは何を象徴しているのだろうとか、この本の前ではそんなことはたいした意味はない。そんなエセインテリチックなところにこだわると、この小説の良さが分からなくなる。

この本のあらすじというのは、

世界大戦前のロンドン、家族や仕事を投げ出して画家を目指した中産階級上層の40男について、ある小説家が戦後になって振り返ってみた。
というものだった。

この小説は一読、とても面白いのだけれど、いったい何が面白いのかという説明をするとなるとちょっと難しい。
まず画家を目指して家庭を捨てた男はゴーギャンがモデルだという。この小説がゴーギャンの自伝的なものであるということは小説の面白さと関係がない感じ。例えば、画家を目指して身を持ち崩した40男に結局絵画の才能がなかったとしても、この小説の面白さの枠組みというものは存在し続けるだろう。

この面白さの枠組みとは何なのかという。
率直に言うと、40男が中産階級上層から下層へ、中産階級下層から下層階級へ、文明の下層階級から辺境の植民地へという階層移動することに対して、それを価値の堕落と考えるか真実の場への降下であると考えるのか、その認識の揺れみたいなものがさわやかなリアルさを表現しているのだと思う。

ゴーギャンと目される40男の妻は良妻賢母の専業主婦で、家をピカピカに磨き上げながらロンドンの名士を家に呼んでサロンの女主人を装うのが趣味なんだよね。人に評価されたいという気持ちは分かるけれどもやりすぎるのもどうか。しかし頑張りすぎの人たちが集まっちゃって一段高い世界観を形成して互いに満足しあうということはあり得る。
こういう持ち上げられた奇怪な世界から逃げ出したいというのはある。ゴーギャンと目される40男のように。

私の勤める会社の取引先のお偉いさんというのが車好きベンツ好き。悪い人ではないのだけれど、ベンツの話になると止まらなくなる。最近のベンツ乗りはタイヤのところに補助ブレーキシステムをつけている奴が多いらしいのだけれど、それはベンツの美学に反するらしい。
ベンツに美学なんて言うものがあるのかと思って。どうやら奇怪な認識共有が一段高い世界観を形成しているらしいのだけれど、ハイソな世界をのぞき見したいような、馬鹿げた世界にはかかわりあいたくないような。

ゴーギャンと目される40男はブルジョア的な相互承認世界にウンザリしたのだろう。ロンドンを逃げ出しパリで絵を描き始める。しかしパリでの唯一の友人が差し伸べる手をやんわりとお断りする。中産階級下層に留まる手段を自ら放棄する。


このような誘惑というのは確かに存在する。
田舎の葬式に出たときに、親戚の叔父さんが近寄ってきて、
「葬式というものは生きている人のためにやるものだってしみじみ思う」
なんて語りかけられたりする。
何言ってんだこの馬鹿。哭泣は生者のためにあらざるなり(孟子)だ。なんて思うのだけれど、これを言ってしまうと田舎での関係性が切れてしまうので、「そうですね」と神妙な顔をしてうなずくわけだ。

ゴーギャンと目される40男は、このようにして下層階級、さらには文明の辺境へと流れつく。このことが堕落であるのか遍歴であるのかの判断となると、普通は堕落ということになるだろう。できるだけ頑張って上の階層にいるほうがいいということになる。
しかしこの「月と6ペンス」が発表されたのは1919年で、世界大戦終戦直後だ。近代ヨーロッパの価値観の転換期であって、ゴーギャンと目される40男の人生が堕落であるか遍歴であるかというのは判断が難しい時代だった。

その判断の揺れみたいなものが、この小説ではうまく表現できていてすばらしい。



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