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中国の長い歴史を、宮崎市定の「中国史」に即してゆっくり記述します。

宮崎史観の基本的な考えは、古代とは集中する時代、中世とは拡散する時代、そして近世以降は再び集中する時代という、循環史観です。
もう少し具体的に言うと、古代は集中する傾向があるので、大漢帝国やローマ帝国のような巨大帝国が現出し、中世とは拡散する時代傾向なので、例えば中国史においても三国志から五代十国まで分裂傾向が強く、唐は巨大帝国を築いたように見えるが、唐の王権自体は強いものではなかった。近世に入り再び集中化の時代に入り、中国史において宋や明のような絶対王権が現れた。近代に入り、遅れてやってきたがゆえによりラディカルに社会の集中化を成し遂げたヨーロッパのために、世界史的集中化の流れはより加速した、というものです。



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21世紀に入り中国の発展はめざましい。さらに言えば、もうめざましいというレベルではなく、世界はアメリカと中国との一騎打ちの様相を呈してきた。

 西洋文明から生まれた鬼子、アメリカ。

 西洋文明の価値観を最後のところで拒否する「共産国家」中国。

冷戦をはるかに上回る壮大な戦いが始まるかもしれないと考えると、ちょっとドキドキする。

だから中国のことを知るのも悪くないと思う。

歴史学において、時代を古代、中世、近世、近代と4つに分けると言う考え方がある。ヨーロッパで言うと、ローマ帝国滅亡までが古代。そこからルネッサンス前までが中世、ルネッサンスから産業革命前までが近世、産業革命以降が近代ということになって、これは馴染み深い。

宮崎市定は、中国においては後漢滅亡までが古代、三国志から隋唐を経て五代十国までが中世、宋から清までが近世、中華民国以降が近代、としている。

注目すべきは、近世の始まりがヨーロッパより中国の方が400年ほど速いというところだろう。ヨーロッパルネッサンスは14世紀半ば、趙匡胤による宋建国は紀元960年だから。中国恐るべしだし、逆に中国の20世紀はショボすぎだろう。

ああそして、眠れる獅子はついに目覚めた。

中国史における古代伝説として、尭(ぎょう)・舜(しゅん)、夏(か)の桀王(けつおう)、殷の紂王(ちゅうおう)などがあるのだけれど、この辺は歴史的事実としてはあやしいと宮崎市定は言う。まずもって確実なのは、紀元前770年ごろの周の東遷だと。ウィキによると、紀元前11世紀ごろ殷をを滅ぼした周は、紀元前770年ごろ犬戎の侵入により東に移動したとある。しかし宮崎市定は、周が東に異動した時に殷という都市国家を滅ぼしたのではないかと推測している。この推測だと、周の成立と春秋時代というのは同時に始まることになる。

古代中国の国は、古代ギリシャのポリスと同じで、自らの周りに城壁をめぐらせた都市国家だった。殷や周もそのような都市国家だったのだろうけれど、春秋時代半ばになるといくつかの都市国家をあわせた領域国家が成立してくる。これが春秋五覇(しゅんじゅうごは)にあげられる斉の桓公や晋の文公などのの国々だ。

春秋時代の後の戦国時代になると、中国は七つの領域国家に収斂した。秦・楚・斉・燕・・魏・韓の七国である。それぞれの国が一癖も二癖もあるツワモノぞろいで、世界統一に向けた渾身の戦いを繰り広げた。

このことは近代と似ている。領域国家が自らの生存をかけて総力戦を戦う。まさに近代だろう。宮崎市定は、古代は求心力の働く時代、中世は遠心力の働く時代、近世以降は再び求心力の働く時代と考えているけれど、それが正しいとするなら、古代と近世以降の状況が似てくるというのもありえることになる。

戦国時代は秦による統一(紀元前221年)によって終わる。それで、なぜ秦が強大になりえたのかという問題に、宮崎市定は乗馬をあげている。

「長く馬を飼育したならば、その背に乗って走ることは誰しもすぐ考え付きそうに思えるのだが、実際はそうではない」

乗馬のためには、馬に対する調教と調教のための道具が必要らしい。乗馬が中国に伝わったのが紀元前4世紀、この乗馬を最初に戦争に取り入れたのが、趙の武霊王(ぶれいおう在位紀元前326年 - 紀元前298年)だった。それまでの騎馬戦というのは、馬に車を引かせて、その車に人が乗って互いに戦うというものだった。この戦車戦は戦いの花であって、さまざまな伝統的価値が上乗せされていた。趙の武霊王は、このような伝統的価値観をひっくり返す形で乗馬戦法を導入したわけだ。

武霊王は最後非業の死を遂げるのだけれど、結局彼の価値破壊的なところが嫌われたのであろう。

この乗馬戦法(胡服騎射というのだけれど)を本格的に取り入れたのが秦だ。秦という国は中華の西のヘリにあった国で、中原の文明から外れるところがあった。文化的に一段落ちる国だと他の国からは思われていた。だからこそ秦は、伝統的価値観を乗り越えて胡服騎射を導入するのが容易だったわけだ。

秦は中国統一のチャンスを掴んだ。チャンスというのは偶然に与えられるものかもしれないが、それをつかむというのは、つかもうとする意思が存在しなくてはならない。秦にその意思を与えたところのものは、古代という求心力が働く時代精神だったかもしれない。

秦の統一はすぐ崩壊して、劉邦によって漢が建国される。

しかしこの劉邦なる人物は、なぜ皇帝にまで上り詰めたのかよくわからない。戦争が強いわけでもない。項羽や韓信のほうがはるかに軍事的才能があっただろう。陳勝のように後世に残る名言を語ったわけでもない。蕭何や曹参などの人材に恵まれていたというが、蕭何と曹参は、劉邦がその才能を見込んで広い世界の中から引っ張った人材というものではなく、有能そうではあるがまずもって同郷の知り合いだから。

宮崎市定は劉邦という人物についてこのように評論する。

「劉邦は江蘇省の北端にあたる沛県に生まれ、中流の農民の子であった。この付近が当時においては華北と華中との境界に当たる地であった。由来独裁者は文化の境界線から現れるものであって、それはあい異なる両種の文明によって鍛錬され、頭脳が複雑に働くので、乱世に処して難局を切り抜けるのに最も適しているからである」

言われてみると、そうかもしれないと思う。さすが宮崎市定だね。
ヒトラーも豊臣秀吉も伊藤博文も同じ類だと言う。ヒトラーはドイツとオーストリアの国境近くで生まれているし、豊臣秀吉の生まれた尾張は西日本文化と東日本文化との境目に当たる。伊藤博文の生まれた長州は、江戸時代に対馬を通じて密貿易を行っていた。長州藩と対馬藩とのつながりが深いというのは有名だ。長州藩は日本と外国との境目に位置していたことになる。

前漢後漢あわせて400年ぐらい続くのだけれど、だいたいにおいて外戚と宦官に悩まされる。官僚組織というものが宋以後に比べて未整備だったのだろう。前漢は西暦9年、王莽(おうもう)の簒奪よって滅びた。

王莽は古来評判がすこぶる悪いのだけれども、人物自体は頭がよく正義感と名誉心が強いという分かりやすいタイプだと思う。

前漢末期においては儒教的思考パターンはいまだ社会に確立されていなかった。にもかかわらず王莽は儒教哲学を前面に押し出した。ある種の理想主義だ。宋代以降の朱子学は「論語」と「孟子」を前面に押し出した四書重視のものだけれども、それ以前の儒教は五経重視だった。私は五経の一つである「春秋」を読んだことがあるけれども、あれはただの戦国時代魯の年代記だろう。あそこから何かの意味を汲み取るというのは簡単ではないよ。

王莽の新しく建てた「新」という国は数年で崩壊した。正義の観念が確立されていないのに正義を押し出すという芸当は、王莽には荷が重すぎたということだろう。日本の歴史でいうと、後醍醐天皇に似ている気がする。

前漢を継いだ後漢は200年続いた。ここでも前漢と同じように宦官による専横がはびこり、これに怒った袁紹によって宮中の宦官が全て殺されるという事件が起こった。皇帝の衣は失われ、実質的にこれで古代は終わった。以降中世が始まる。天下大乱、三国志。

日本人は三国志が好きな人も多いだろうけれど、この三国というのは恐ろしい時代なんだよね。前漢末の人口調査で、中国の人口は6000万人弱というのがある。三国時代の人口調査において、

魏 443万人

呉 230万人

蜀  94万人

というのがある。足しても767万人にしかならない。驚くべき人口崩壊が起こっている。世界が荒れ果て、食料は普通のやり方では手に入らなくなった。そこで魏の曹操が行ったのが屯田制だ。兵士自らが耕すというやつ。兵士が耕し国家が回収し兵士に再分配するという。こうなると兵営国家だろう。曹操は長城外の蛮族まで取り込んで強力な兵営国家を作り上げた。ところが魏の後を受けた晋が崩壊すると、彼らを抑えることが出来なくなった。黄河以北に五胡十六国時代(ごこじゅうろっこくじだい)が現出する。これが北魏によって統一された以降を南北朝と呼んでいる。

この南北朝が、隋によって統一されて、それを唐が受け継ぐ。唐という中国の最盛期みたいに思うかも知れないけれども、そういうものでもないらしいよ。宮崎市定によると、唐というのは遠心力の働く中世世界に現れたつかの間の統一状態という。、唐の初代皇帝李淵(り えん)は漢民族ということになっているけれども、これは怪しい。北魏時代の国境警備の役割を担っていた武川鎮軍閥由来ではないかと宮崎市定は語っている。

そう考えると、唐代初期には奇妙なことが起こる。その一つが則天武后だ。女帝、中国史上空前絶後の女帝。

別に女帝が悪いというわけでもないよ。日本にだって女性の天皇はいた。別にそれで何の問題もない。

ただ武則天は、、唐朝の第2代皇帝李世民の後宮にいた。李世民が死んで武則天は尼寺に入ったのだけれど、そこで李世民の息子である第3代皇帝高宗に見初められたという。父親の女性を好きになってものにするというのだから、儒教的考え方からするとどうだろうか。唐の皇室が蛮族由来だという考えも合理性はある。

763年に起こった安史の乱以降、唐は衰微して907年滅亡。50年ほどの五代十国時代を経て、960年趙匡胤によって宋が建国される。

中国の近世は宋に始まる。

近世始まりの曙光はルネッサンスにある。古代復興というやつ。人間は徐々に進歩するものだと考えてしまうと、遅れた中世よりもさらに昔の古代は中世より遅れた世界だろうと推論してしまう。しかしこの推論は間違っている。古代世界というのは、一定レベルの一体性、合理性を体現していた。

あえて言うなら、この現代世界というのは、人類という種が造りだした文明の二周目ということになる。文明二周目を回るに当たり参考にするであろうことは一周目のあり方だろう。すなわちルネッサンスだ。古代が一周目、近世以降が二周目。

北宋(ほくそう960年 - 1127年)を代表する政治家は王安石(おう あんせき)だ。彼の実行する政策の特徴は、国家の一体性を目標にその内部をより合理的にしようという意思にあるように思う。宮崎市定の記述する王安石の政策、例えば均輸法、青苗法、市易法というのは、社会主義的な政策だろう。この王安石流の政策を新法といい、これに反対する政策を旧法という。

王安石のあとを継いだのが蔡京(さいけい、1047年 - 1126年)だ。

新法党と旧法党の争いが激しくなった。そうなると逆に、新法と旧法のどちらが有効かというより、誰が北宋の皇帝、徽宗(きそう)の心をつかむかということになってくる。この徽宗というのが政治は極めて無能だったのだけれど、文化人としては歴史に名を残すレベルだった。徽宗作と言われる「桃鳩図」が日本にあるのだけれど、国宝に指定されている。

蔡京はこの皇帝徽宗にゴマをするのがきわめてうまかった。王安石は国家の一体性と合理性について献身したのだけれど、蔡京は自らの合理性にのみに献身した。蔡京は20年にもわたってゴマをすり続けて、結果、徽宗の代で北宋は滅びる。

蔡京の気持ちも分からなくはない。彼は宋という世界の一体性を磐石だと考えたのだろう。だから自分の合理性のみを考えた。蔡京のような世界観というのは現代日本にも蔓延している。現代日本で最近よく語られる「自己責任論」には、この世界の秩序が磐石であるはずだという前提がある。世界の内側にいて、その世界が50年、100年続くと、世界の秩序はゆるぎないと思ってしまう。

北宋、南宋あわせて320年。西暦1279年、宋は元軍に撃滅され崖山に滅びた

モンゴルって何であんなに強かったのか不思議だ。ユーラシア大陸の西から東まで、空前絶後の大帝国を打ち立てた。

宮崎市定は、モンゴルの力の源泉は鉄だと書いている。中国華北の支配は、宋以降、遼、金と続くのだけれど、宋、遼ともにモンゴル地方への鉄の持ち出しは厳禁していた。しかし金に至って鉄の管理が甘くなったらしい。モンゴルは、この鉄をやじりとして使用したという。

恐ろしい話でね、現代の核拡散防止もちゃんとやらなくてはダメだなと思う。北朝鮮の核問題も、北朝鮮自身が核を使う使わないという問題よりも、北朝鮮の核が他のテロ集団に流れないようにすることのほうがより大切だろう。

元は90年ほどで滅びた。モンゴルの支配というのは最低で、河南以南で反乱が止めどもなく起こった。中国には古来、天子とは人民の利益のために存在するという理念が存在している。モンゴルはこの事を理解できなかった。

これは日本人もえらそうなことはいえない。この中国的理念を理解しなかったから、日中戦争の泥沼に嵌ってしまったのだから。

現在中国は一体性をもって存在している。この一体性を中国共産党の強権から説明しようとする人がいるけれども、歴史的に考えれば明らかに間違いだ。宋以降、中国が分裂していたのは、袁世凱が死んでから蒋介石による統一までのごく短い間だけだ。

西暦1381年、朱元璋(しゅ げんしょう)によって明が成立する。この朱元璋が朝貢貿易制度というのをはじめる。周りの蛮国と中国皇帝様が貿易をしてやるぞ、という態度のやつ。この中国流の朝貢貿易は、宋代に淵源を持っていて、まあなんというか民族国家中国の近世的自己表現みたいなものなんだよね。

子分になったら管理貿易をしてやるぞ、という意味で行われたのが鄭和(ていわ、1371年 - 1434年)の大航海だ。朝貢貿易勧誘のために大船団による示威運動で西南アジア諸国を回ったわけだ。ペリーの黒船と変わるところはない。

鄭和の使者は日本にも来ていて、時の将軍足利義満は朝貢貿易を受け入れて、明の第3代皇帝永楽帝(えいらくてい)によって日本国王に封ぜられている。

管理的朝貢貿易というのは無理な制度であって、明は西暦1566年マカオにおける自由貿易を認めて、形式的朝貢貿易に移行した。国同士というのは面子があるだろうけれど、民間にはそんなものはない。私もそうなのだけれど、頭を下げてすむのならいくらでも頭を下げる。民間にとって大事なのは、管理的か形式的かの違いだけで朝貢貿易という観念はたいした問題ではない。16世紀末の堺の殷賑が目に浮かんでくるようだ。

西暦1644年辺境軍の反乱で、あっけなく北京が陥落して、時の皇帝 崇禎帝(すうていてい)は自殺して明は滅びた。

宮崎市定の「中国史」は中華人民共和国までの記述がある。明の後は清なのだけれど、とくに19世紀以降は現代史になって判断が難しい。また次の機会に。


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宮崎市定といっしょに、ゆるーい感じで「論語」について考えていこうかという。

孔子の弟子で曾子(そうし)というのがいる。こいつが出来るやつなんだよね。論語というのはだいたい孔子が語ったところのものなのだけれど、ちょいちょい孔子の弟子がドヤ顔で語ったりする。孔子の話に比べると、やっぱり弟子だから落ちるところはある。しかし曾子というやつは、なんだかキラリと光る部分を持っている。
例えば、

泰伯第八193
「曽子(そうし)日わく、もって六尺(りくせき)の孤児を託すべく、もって百里の命をよすべく、大節に臨んで奪うべからざるなり、君子人か、君子人なり」

加藤清正が論語のこの部分を思い出しながら、二条城で秀吉の遺児である秀頼を守ったという逸話もある。
言葉の力という点においては、曾子は孔子に負けてない。

曾子はいいよなーと思う。
泰伯第八191はこのように始まる。

曽子、疾(しつ)有り。孟敬子(もうけいし)之を問う。曽子言いて日(い)わく、

病気の曽子に孟敬子というヤツがおみまいに来たんだな。曽子言いて日わく、だから、孟敬子に言霊をぶつける感じだろう。来るよー曾子節ー。

「鳥のまさに死せんとす、その鳴くや哀し。人のまさに死せんとす、その言やよし」

曽子は詩人だろう。私の話を聞け、という代わりの言葉がこれだから。たまらんね、まったくたまらん。いったい曽子は何を孟敬子に語ろうというのか。

君子道に貴(たっと)ぶ所の者、三。容貌を動かして、斯(ここ)に暴慢に遠ざかり、顔色を正しくして、斯に信に近づき、辞気を出して、斯に鄙倍(ひばい)に遠ざかる、籩豆(へんとう)の事は則(すなわ)ち有司(ゆうし)存す。

あれ??? 曽子は普通の事を言い出したね。ちょっと訳してみる。
君子は3つのことを大事にする。顔つきを変えるときもドヤ顔はしたらだめ、顔色はいつも落ち着いた感じで、しゃべるときは下品なことはいかんよ。つまらない仕事は部下にやらせる。

私は正直、曽子も外すということがあるんだな。だってそれ以外考えられないでしょう? まあまあ、「鳥のまさに死せんとす、その鳴くや哀し」という部分だけでもすばらしいからいいだろう、と思っていた。

しかしこの部分を宮崎市定は、目からうろこで解釈している。
まず「君子」という言葉を、「君子であるべきあなた」と解釈する。

これはあるな。

だから泰伯第八191は曽子最後の、友である孟敬子に対する祈りの言葉になるんだろう。
「君子」を「君子であるべきあなた」と解釈しなおして、泰伯第八191の後半部分をもう一度訳してみる。

君子であるべき孟敬子さんは3つの事を大事にして。あんた、話をする時はすぐ自慢話になってドヤ顔になっとるよ、そういうのはアカンよ。顔色はいつも穏やかにして、喋る時はあんまりヒドイ言葉を使ったらアカン。あんたちょいちょいカッとなるからなー。あと、何でもこまごま部下に言ったらアカン、最後のところは部下にまかせていかんと

おーー、関西弁風に訳してみたけれど、前半と後半の語調を整えれば、かなりピッタリ来る感じだろう。
こんな解決策があったとは。さすが宮崎市定だよなー。

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