「外科室・海城発電」は、言文一致の近代小説形式とは異なって、会話は口語、それ以外は文語という、言文不一致で書かれている。 

最初は読みにくいと感じるのだけれど、だんだん慣れてくる。慣れてはくるのだけれど、言文不一致の物語というのは、小説を読むような感じではないね。  

だから、「外科室・海城発電」というものは、私がいつも小説や映画を評論するようには評論できない。価値のあり方というのが異なっている。  

小説や映画の価値の源泉は、整合性とその整合性を支える根拠の表現にある。人間の描写や俳優の演技にこだわる人も多いと思うのだけれど、実はそのようなものにたいして価値はない。アニメの声優にこだわる人たちもいるらしいのだけれど、こういうことをいうとなんなのだけれど、ある種のモノマニーだと思う。  

泉鏡花は、この近代小説形式と枠組みが異なっている。海城発電という短編でも、整合性などというものを最初から問題にしていない。なんと言えばいいのか、淡々と空白をうめていって最後に全面でドーンと押すみたいな感じだ。  

泉鏡花の短編の評価というのも、最後全面でうまく押せたとか押せなかったとかということになると思うのだけれど、正直これだと自分でも何を言っているのか分からないレベルだね。  
はっきり分かるのは、明治以前には今とは別の価値判断があったのではないか、ということだ。  

泉鏡花には不思議な面白さがある。