magaminの雑記ブログ

カテゴリ: 小説書評

この本は何でしようか。小説というわけでもないし、エッセイなんていう洒落たものでもないですし、まあなんて言うか、グダグダ本ですね。
内容はというと、これ別に内容というものないんですよね。書評を書くのもどうしましょう? こうなったら例えましょう。

「たとえます!」

昨日ブックオフに行ったんですよ。事前にネットで調べると、600円以上買うと110円割引のクーポンがあるのです。これはいいわー。このクーポンを印刷するかスマホで表示して店員に見せればいいらしいのですが、私、スマホもプリンターも持ってないんですよね。まあでも何とかなんだろ、と思いまして。600円以上買って、意気揚々とレジに行きまして店員さんに言いました。

「110割引きのクーポンを印刷してきました、頭の中に」

完璧だわ。だいたいさー、スマホのクーポン画面を見せればいいだけなんだから、これすなわち店員がクーポンの画面を見た事実が大事ではなく、クーポンの画面を見たと信じさえすればいいわけで。その辺は空気読むでしょ。店員、にっこり笑ったよ、いけるか、いけるか。

「ネタでしょう?」

なんやねんネタって。そんなネタあるかー。そもそも間髪入れずネタでしょう?って、おまえどんだけフレンドリーやねん。こいつあかんわ。あかんっぽい。でももうちょっと押してやれ。

「でも裁量というのもありますよね。フレキシブルな判断みたいなやつです。そういう裁量を持っている人ってこの店にいたりします?」

でたフレキシブル。フレキシブル最強。もうフレキシブルって言いたいために、ごねてるところもあるかも。いやそれはない。いくらなんでもそれはない。そもそもごねてないし。もう財布から1000円出して渡してるし。

「そういうのは誰が担当してもお断りしてます」

あっそ。頭来た。頭来たからブックオフポイントカードのポイント使ったろ。133ポイント? くほほ。全部使ったろ。133ポイントって結構貯まったよな。いっつも108円の本しか買わんへんのに。
店員、そういうの、って言いよったな。でも、そういうの、って何なん? やっぱり、クーポンを頭の中に印刷してきましたっていうヤツ、多いんちゃうん? 大事なのはお客がクーポンを見たっていうことで、そりゃー見たにきまってるよ。見てなきゃ110円とか言われへんやん?

「頭の中にクーポン印刷しました、なんていう人、他にいたりします?」

なんか店員、めっちゃ笑てるで。オレの話、徹頭徹尾ネタだと思ってんちゃうん? 春夏秋冬ネタだと思ってんちゃうん?

「一人もいないですね」

いねーのかよ。おらへんのか。ほんなら、そういうの、とか言ったらあかんのちゃうん? 言葉の選択ミスちゃうん? 
なんか暑いわ。もう帰ろ。隣のまいばすけっとで、プリン体ゼロの発泡酒でも買って、飲みながら帰ろ。
(以上の話は、実体験をもとに脚色したものです)

何が言いたいのかといいますと、町田康の「バイ貝」という本は、こういうたぐいのぐだぐだ話ということです。ただ登場人物は語り手一人なので、ぐだぐだ度合いというのはかなりのハイレベルです。


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あの安藤が、栗原が、磯部がよみがえる。二二六事件を読みやすいタイムトラベルSFで紹介しようという、二二六事件ファンにはたまらない一冊(上下で二冊なんだけれど)。

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二二六事件に至る経緯をより知りたい方はこちら
 

二二六事件はそもそもが評価の難しい事件だ。それをSFという手法を用いて現代の世界観と関係付けながら表現しようというのだから、この小説はある種のチャレンジだろう。
恩田陸はこの難しい設定をどう解決するのだろうと思いながら読んでみた。

SFだからこの小説内においては21世紀には時間遡行の技術が存在していることになっている。現代の国連は、正義と称し過去に遡ってヒトラーを暗殺したらしいのだけれど、結果さまざまな時間的ひずみが生じて歴史のタガが緩んでしまい、国連が二二六事件当時の日本にも介入しなくてはならなくなったという。
国連職員は二二六事件に関与した安藤輝三と栗原安秀の協力を得ながら歴史を確定しようとするのだけれどなかなかうまくいかないという流れで話は進んでいく。

ヒトラーを暗殺したらしい国連が二二六事件に介入するという設定の結果が、政治思想的に読む者を限定するようになるのではないかと最初は思ったのだけれど、そうでもないね。国連の事務の現場のみを描くことによって、政治的にセンシティブな問題はほとんど回避されている。
ただこのSF小説の中で石原莞爾が

「日本は父親を必要としているだけなんだ。明治維新前、それは中国や朝鮮だった。明治維新後、 父親はヨーロッパになった。今の日本は父親を失って苦しんでいるだけだ」

みたいなことを言わされていた。戦後の日本の父親はアメリカだということなのだろう。挑発的な発言ではあるだろうが、女性作家に言われたのでは腹も立たない。

この小説では、安藤や栗原がリアルな感じでしゃべったり行動したりするのがじつにいい。栗原が国連職員にこのように啖呵を切る。
「おまえら安藤大尉がただの善人だと思ったら大間違いだぞ」
いいぞ栗原、もっと言え。

おまけ。
二二六事件をもっとよく知るための、二二六事件名場面ベスト3。

 第3位
二二六事件で生き残った将校の50年後の座談会での清原康平の発言。

「226の精神は大東亜戦争の終結でそのままよみがえった。 あの事件で死んだ人の魂が、終戦と共に財閥を解体し、重臣政治を潰し民主主義の時代を実現した」

反論の出やすい発言だろうと思うけれど、清原はこの発言の上にさらにこうかぶせてきた。

「陛下の記者会見で、
 記者 おしん、は見ていますか
 陛下 見ています
 記者 ごらんになって如何ですか
 陛下  ああいう具合に国民が苦しんでいるとは知らなかった
 記者 226事件についてどうお考えですか
 陛下 遺憾と思っている

遺憾と思っているという言葉で陛下は陳謝された」

 第2位
磯部浅一 「獄中手記」

「天皇陛下、この惨たんたる国家の現状をご覧ください、陛下が私共の義挙を国賊反徒業と御考え遊ばされているらしいウワサを刑務所内で耳にして、私共は血涙を絞りました。
陛下が、私共の義挙を御きき遊ばして
 日本もロシアのようになりましたね
ということを側近に言われたとのことを耳にして、私は数日間、気が狂いました」

いかんね。ロシア革命というのは貴族と庶民とが懸絶してしまった結果起こったもので、日本一体性のアンカーである天皇自らが、日本もロシアのようになりましたね、では何がなんだかわからない。磯部はさらにこのように続ける。

「日本もロシアのようになりましたね、とはいかなる御聖旨かわかりかねますが、何でもウワサによると、青年将校の思想行動がロシア革命当時のそれであるという意味らしいとのことをそくぶんした時には、神も仏もないものかと思い、神仏をうらみました。
天皇陛下 何という御失政でありますか 何というザマです 皇祖皇宗に御あやまりなされませ」

そりゃあ言われるよ。言われてもしょうがない。

 第1位
安藤輝三部隊の鈴木貫太郎侍従長公邸襲撃

安藤大尉は、拳銃の弾を4発打ち込まれて倒れた鈴木貫太郎にとどめをさそうと軍刀に手をかけた。夫人が侍従長をかばうように体を投げ出すと、安藤大尉は彼女の気持ちにうたれて思いとどまり、折敷け! と命じて自ら黙祷し、立ち上がると、

「閣下に対し、捧げ銃(つつ)!」

と挙手の礼をし、静かに部屋を出て行った。
鈴木貫太郎は回復し、終戦時の総理大臣となりポツダム宣言を受託した。
後、鈴木貫太郎は安藤大尉は命の恩人であると語っていたという。




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大型ショッピングモールで原因不明のパニック型事故が起こり何十人も死亡する。この事故にかかわった人たちの対話によって事故原因が明らかになるだろうという体裁でこの小説は成立している。

事故原因なるものは明らかにならないままこの小説は終わる。私は恩田陸の「真夜中の小夜子」「黒と茶の幻想」「ねじの回転」「黄昏の百合の骨」の4つの小説を読んだけれども、事件の根本原因が明らかになったことなど1度もなかった。

恩田陸には、真理は明らかにされるべきだというミステリーの基本的枠組みを踏襲する気などさらさらないのだろう。

恩田陸の小説パターンというのは、何か不条理な事象が与えられて、その不条理を受け入れられる人間と受け入れられない人間との相克というものだ。恩田陸の小説世界では不条理を受け入れられる人間を優位に描いているので、不条理は解明されるはずもない。

恩田陸的不条理というのは、特別な女性を神輿の上に掲げながら進行していく。「黒と茶の幻想」では一人芝居をする美人女学生だったし、「ねじの回転」ではネコだったね、ネコ。この「Q&A」では、事故後のショッピングモール内を血塗られたぬいぐるみを引きずって歩く二歳の女の子。

特別な女性を伴って進行する不条理現象とは、すなわちこれ祭りだね。ショッピングモールのパニック事故も祭りの様相を呈している。

祭りの内部においては、なぜ祭りなどというものがあるのかと問うような合理性はさかしらであって、大きな一体性にわが身を任せることが重要とされる。

「Q&A」でも、パニック事故の原因を確定しようとする者は排除されている。

祭りにおいては時間の観念も重要だ。合理的世界観においては、時間とは無限の過去から無限の未来に向かって進歩発展をともないながら一直線に進むもの、という認識になる。ところが、祭り世界においては、時間は循環するという認識になりがちだ。ニーチェ永劫回帰もこのパターンだろう。

「Q&A」でも、祭り上げられた特別の少女のところに、突然未来の本人が尋ねてきていろいろアドバイスをする。今の少女も未来ではかつての自分のところに戻り同じアドバイスをするようになるだろう。完全な時間循環とはいかないけれども、何らかの循環が期待されている。そもそも、恩田陸はそのような時間循環を期待して、未来の少女が現代の少女を突然訪ねてくるというSF的な設定を、この小説に突然割り込ませてきたのだろう。



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恩田陸「三月は深き紅の淵を」という小説の中で、繰り返し語られた、決して読むことの出来ない幻の本がありまして、実際に書かれた小説がこれということになりますね。


ストーリーは、学生時代の友人である利枝子、節子、彰彦、蒔生(まきお)。
30代後半になった彼らは久しぶりに再会し、伝説の桜を見に行くという目的で、屋久島散策に出かけるというもの。

大学時代の友人である梨枝子、彰彦、蒔生、節子の男女4人が40歳近くになって、屋久島に3泊4日の旅行に行って、学生のころの謎についていろいろ話し合う。

謎といってもたいしたものではない。あのカップルはなぜ別れてしまったのかとか、あの変わり者だった同級生の女の子は今どうしているのかとか、基本的に私たちの同窓会での会話と大差はない。

でもこういうのってすごく楽しかったりする。

男同士で過去を語り合ってもたいしたことはないのだけれど、そこに女性が加わると話の厚みがぐっと増すというのはある。「黒と茶の幻想」は全編そんな感じですごく面白い。

「黒と茶の幻想」での謎を紹介してもいいのですが、こういうのは雰囲気を楽しむもの。

ですから、この本を読んで思い出した、かつて私の参加した同窓会で語られたある男と女の謎とその解答を書いてみたいと思います。


私は大学時代は体育会でバレーをやっていた。男子バレー部と女子バレー部は仲がよかった。私と同学年に高林という男がいて、こいつはうちの大学バレー部のスーパーエースだった。

高林は190近い長身で頭の回転も速かった。女の子に十分もてるレベルだったろう。ただ性格がゲスだった。私は彼のゲスなところが嫌いではなかったけれど。

この高林は1学年下の女子バレー部の女の子と付き合っていたのだけれど、卒業後に2人は別れてしまって、高林は彼女をストーカーするようになったという。互いに大人だしそのうち折り合いをつけたのだろう。別に事件なんていうものにも発展しなかった。よくある話だろう。

20年の時が流れた。

名古屋の名駅の裏の居酒屋で同期の男子バレー部と女子バレー部の同窓会があった。女の子はかわいいまま、昔と変わらない。お前ら美魔女か。

二次会になる。メンバーも絞られる。高林の話になった。なんで高君はストーカーなんてしたのかっていう、熟成された「謎」の登場だ。

まず私が、

「あいつは性格がゲスいから、ストーカーなんていかにもやりそうだ。結局、自分に正直なんだと思うよ」

といってみた。するとある女の子が、

「でも高林君って性格ゲスいかな? 今日も一次会に子供連れてきて、子供を可愛がってたじゃん?」
と言う。まあまあ、高林も立ち直ったのかもしれないねなんて言おうと思ったら、今までニコニコ話を聞いていた我らが女バレのヒロインが、突然このようなことを言う。

「そういえば私、高林君に言われたことがある」

「何を?」

「一発やらせろって。体育館の裏で。減るもんじゃないんだから一発やらせろって。最低って思った」

すばらしい告白だ。ここちょっと押してやれ。

「高林は、そのことをヒロインにだけ言ったのかな?、他の女の子には言っていないのかな?」

「絶対言っているよ。高林君のあの彼女も言われてるよ。あの子、真面目だったから真に受けたんじゃないの?」 

「ゲスいことを言って付き合って振られてストーカーというんだから高林は確かにゲスいでしょう? そこがアイツの正直なところなんだけれど」



謎はすべて解けた。



今回は真理を私の論理に引き付けて解決したけれど、引き付けて引き付けられて、そして謎が解決されていくならすごくリアルで楽しいだろう。

でも年をとるとなかなか旧友と時間を合わせてかつての謎を解くなんてのもまれなわけで、3泊4日の旅行で過去と向き合えるこの小説の主人公たちがうらやましい。

この小説は、これだけ読んで面白いというものでもないだろう。若いころに男女のグループで真剣にかつ軽い感じできゃいきゃいやった世代向けだと思う。


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「魔の山」は1924年出版だが、内容は第一次世界大戦(1914)前という設定になっている。

トーマスマンは主人公のカストルプ青年を平凡だという。 では平凡とは何なのか? この本の中でトーマスマンはすばらしい答えを用意していた。以下に引用する。

「私たち人間は、個人生活を営むだけではなく、その時代とその時代に生きる人々の生活をも生きるのである。私たちが、私たちの存在の基礎をなしている超個人的な基礎を自明なものと考えて、それにたいして批評を加えようなどとは、考えてもみないとしても、そういう基礎に欠陥がある場合に、私たちの倫理的健康がなんとなくそのために損なわれるように感じることは、大いにありえることである。私たちの全ての努力と活動の究極的な超個人的な絶対的な意味についての問いにたいして、時代がうつろな沈黙をつづけているだけだとしたら、そういう事態による麻痺的な影響は、ことに問いをしている人間がまじめな人間である場合には、ほとんど避けられないであろう。「なんのために」という問いにたいして、時代から納得できるだけの答えを与えられないのに、初めから提供されているものの域をこえた仕事をする考えになるには、世にもまれな英雄的な倫理的孤独と自主性、もしくは頑健無比な生活力のいずれかを必要とした。カストルプ青年は、そのどちらも持ち合わせていないという意味で、やはり平凡であったと言うべきだろう」

平凡とは、一つの時代に生きてその時代の雰囲気を当たり前だと思う、ということになる。これは誰もがそう、誰もが平凡。時代の雰囲気と言うのは、強力にそこに暮らす人を拘束していて、普通逃れることはできない。

ところが、時代の変わり目に生きて、時代の基調の変化を明確に体感するという特別鋭敏な人がいる。日本で言えば福沢諭吉だ。

「一身にして二生を経るが如く、一人にして両身あるが如し」

この福沢の言葉は、時代は変わること、しかし時代は強力にそこに暮らす人間を規定していること、をあからさまに表現している。

トーマス・マンの言おうとしていることも同じだろう。第一次世界大戦の前後ではヨーロッパにおける時代の基調というものは異なっている。世界大戦前まではヨーロッパにおいていまだ貴族主義的な意識は濃厚だった。ところが世界大戦は総力戦の様相を呈し、労働者が戦場に赴く中、貴族的態度などというものはほとんど犯罪だとして認められなくなった。

トーマス.マンはこの時代の転換というのを体感したのだと思う。そして世界大戦を体験することなく、雰囲気の転換を表現しようとしての「魔の山」ということになるだろう。これは私の推測というものではなく、上記の「魔の山」の引用文に表現されているだろう。

トーマス.マンはカストルプ青年に二つの世界を体験させようとしている。カストルプ青年が実際に「魔の山」で二つの世界を体験できたのかと言うと、これは実際微妙だね。二つの世界を体験できなかったから、カストルプ青年は最後世界大戦に従軍してしまうのだろう? 

ただ、カストルプ青年は魔の山でこれまで依存してきた世界観を相対化できたというのはあるかもしれない。新しい世界観を受け入れやすくするための準備完了みたいなものだろう。

準備完了はいいのだけれど、第一次大戦後のドイツが受け入れた新しい世界観というのはナチズムだった。

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本は多数出版されていて、正直どれを読んでいいのかわからないというのはあります。それぞれの人が自分の好みの傾向に従って本を選択するのでしょうが、好みに従って本を選んでいたのでは偏ってしまうのではないか、本当は自分の好みという鉄の檻に閉じ込められてしまっているのではないか、そんな不安が沸き上がったりします。
では無作為に本を選んで読んでみよう、偶然というもので鉄の檻を壊してやろうと思いまして、佐伯泰英という作家の「酔いどれ小籐次留書 状箱騒動」という本を選択しました。
ブックオフに行きまして、100円コーナーにいる客が選んだあと最初に棚に戻した本を買うという方法で、偶然を担保しました。

文庫本の裏カバーのあらすじには、
「無事に仲人を務めた子籐次は水戸に旅立った。だが、街道筋で状箱が盗まれたことを耳にする。その強奪は何を意味するのか......」
と書いてあります。

読み始めると、子籐次は江戸の町人で、マジで結婚式の仲人を始めます。そもそもいったい誰の結婚式なの? 子籐次は説明なしで新郎新婦と仲良く喋っているけど。
調べてみると、この「酔いどれ小籐次留書 状箱騒動」というのは、酔いどれ小籐次留書シリーズの第19弾だそうです。
予想外でしたね。19弾? 人気シリーズではないですか。
小籐次が、シリーズを知っている人にはお馴染みなのであろう新郎新婦の世話をしたりからかったりで20ページほどです。これで水戸に向けて旅に出るのかと思いきや、小籐次は旅に出る前に近所へのあいさつ回りをはじめまして、これが30ページ。もう旅に出るのかと思いきや、近所のぼけ老人が行方不明になってみんなで捜すというので20ページ。やっと旅に出たと思ったら、荒川の先は何橋だとか、水戸藩が用意してくれたかごに乗るだとか乗らないだとかで30ページ。
結局、最初の100ページは何も事件が起こらないです。
100ページ以降事件が起こりまして、状箱なるものをめぐる子籐次と忍びとの争いみたいな。子籐次はやけに強いです。この状箱騒動というものを170ページほどで解決します。
ところがあと70ページほど残っています。これ、どうするのかと思っていたら、小籐次は水戸の職人に竹細工を教え始めます。水戸に竹細工を教えに行くのが旅の目的だったらしく、小籐次はアイツの竹細工はいいとか悪いとか、けっこう真剣に教えます。これが70ページ。トータル340ページです。

読んだ感触として、かなりのゆっくり小説ですね。この小説はお年を召された方向けのラノベ的なものだと思いました。正直、私が読むにはまだ早いです。

やはり本はランダムに選んでいたのではだめです。


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1930年、映画化もされています。

「西部戦線異状なし」は、第一次世界大戦時ドイツのフランス戦線すなわち西部戦線で戦ったある若者の話です。

第一次世界大戦はそれまでの戦争とは全く異なる戦争でした。将軍が馬上で軽やかに全軍の指揮を執るなんていうものではなく、最前線では互いに塹壕を掘りあって対峙し、自国の全ての力を塹壕戦争に注ぎ込むところのものです。いうなれば総力戦です。

総力戦思想が発動する前と後では世界が異なって立ち現れます。総力戦以前の世界では、貴族と平民などという身分の差なんていうものが存在する余地がありえましたが、総力戦以後の世界では一国内における身分の差などというものは許されなくなってきます。国が抱える全ての潜在力を顕現させるというのが総力戦の思想ですから。

「西部戦線異状なし」の主人公は今で言う大学生です。主人公の戦友というは、カチンスキーという40歳の労働者です。大学生と肉体労働者という平時では決して出会う事のなかった二人が、第一次世界大戦という強力な圧縮装置によって出会い、戦友という何よりも強い人間の絆で結び付けられます。総力戦という合理化は学歴や偏見などという人間の精神現象を簡単に押し流してしまうのです。

わたしが思うのは、第一次世界大戦や第二次世界大戦の総力戦、すなわち合理化の上に21世紀の今があると思うのです。

まあ例えば、来る東京オリンピックのロゴ問題について考えてみましょう。なんとかっていうデザイナーのデザインが東京オリンピックのシンボルマークに決まっていたのにそれが撤回されたのでしょう。
ここで問題なのは、このデザイナーのデザインがパクリかパクリでないかということではなく、有名とされるデザイナー達がコネの力によって美味しい賞をたらいまわしにしていたということではないでしょうか。多くの日本人が東京オリンピックデザイン問題にあきれ果てているのは、一般の日本人の多くが経済の総力戦という合理的世界の中で生活しているにもかかわらず、上流デザイナー世界には非現代的な貴族世界が存在していたということにこそあると思います。

合理化を求める人間の叫びがあの世界大戦だったとするなら、戦争反対なんていう言葉がどれほどの意味があるのか。二度にわたる総力戦の、その延長線上に今のわたし達が存在するということをわたし達は自覚した方がいいと思います。







「くっすん大黒」は町田康という作家のデビュー作です。町田康は小説家としてデビューする前はパンクロッカーでした。これは今でもか。

これ、小説というよりも、テンションの高い大阪のおっちゃんのオモシロ日記みたいなものです。普通、話っていうのはオチに向けて多くの出来事を落とし込んでいくというスタイルをとるのですが、この小説はスタイルというものもなくて、面白いところは自分で探してくださいみたいな、なんというかまあそんな感じですね。

こういうのって、小説に慣れてしまった近代人には、逆に新鮮だったりします。

私の知り合いに76歳の中島さんという話好きなお爺さんがいるのですが、この人の話が「くっすん大黒」と同じパターンです。
中島さんは昭和32、3年ごろ中学生で、英語の塾に行っていたという。勉強ができないので親に、
「あんた、塾にでも行きなさいよ」
と言われて、近所の塾、東京の碑文谷なんですけれど、に行かされていたという。60年も前に通っていた塾の話を聞かされるのも、私としてめんどくさいというのはあるのですが、私も暇なんで、フンフンと聞くわけです。
そこの塾長というのは数学を教えるのですが、英語の先生は大学生のバイトを雇うのです。中島さんを教えてくれた英語の先生は早稲田の学生で、すごく温厚ないい人だったらしいですよ。いつもニコニコしていて、中島さん曰く、ぽちゃぽちゃっとした小太り体形の男性だったらしいです。
ここまで昔話としては成立しているのですが、話として何も面白くないです。
その英語の先生は、ある日、塾の生徒に本を配ったというのです。
「その先生、本を出したって言うんだよね。だから塾の生徒にその本を配ったんだよ」
塾の先生が自費出版したような本を配っても、そんなこと全くどうでもいいとは思うのですが、一応マナーとして私も聞くわけです。
「それ、どんな本だったんですか?」
「野獣死すべし、っていう題名だったね」
「えっ?」

なんていうか、とんでもないこと言いだしたんじゃないのかと思いまして。


「その英語の先生、大藪って名前じゃなかったですか?」
「うん、そんな名前だったね」
「ちょっと待ってくださいね。その大藪春彦、いや大藪先生、どんな先生でしたっけ?」
「うん、ぽちゃぽちゃっとして愛想のいい先生だったよ」

実話です。

中島さんがもし大藪春彦を頭に持ってきて話を組み立てたなら、普通の自慢話みたいになってくると思うのです。ところが中島さんの話は、あり得ないレベルのグダグダ話なわけで、話を聞くものは、そのグダグダ畑から宝を見つけたり見つけなかったりするようになるわけです。

これって斬新だよなーと思っていまして、町田康も、もしかしたら同じラインを踏襲しているのではないかと思いまして。

こうなると町田康の評価は分かれるでしょう。意味のある話しか読みたくないという人は、町田康を遠慮するようになるでしょうし、町田康の書くものは必ずあたりというものでもないでしょうし。


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[カザリとヨーコ]
[SEVEN ROOMS]
[SO・far]
[陽だまりの詩]
[ZOO]

という5つの短編からなる短編集でした。
とにかく読みやすいです。全編、僕や私という一人称主観が語り手で、なんというか私小説風です。語り手に合わせて話を理解していけばいいだけで、読む方としてはすごく楽です。
この語り手たちは置かれている環境が酷かったりするのですが、自分のささやかな才覚で酷い状況をできるだけ克服しようとします。ですから、どの話もある意味若干ポジティブな内容となっていて、辛気臭い内容をえんえん読まされてウンザリするということはないです。

[SEVEN ROOMS]が一番出来が良かったです。ただこの短編は、「ミステリーアンソロジーⅡ 放課後の殺人者」というアンソロジー集に書き下ろしで採用され文庫化されていています。私はこの短編は再読になってしまい、出来のいい短編だけにちょっと損したような気持になりました。

[陽だまりの詩]が私的にはいまいちでした。アンドロイドか主観形式で語るのですが、設定に無理があると思います。いい話だと言えなくもないのですが、感情を持ったアンドロイドが主観的に語ってしまっては人間中心主義の世界観が強烈で、逆にアンドロイドが可哀そうになってしまいました。

トータルで悪くない短編集でした。ただZOO〈1〉1は250ページほどの薄い文庫本です。この後にZOO〈2〉があります。これ、二冊に分ける必要があるのかという疑問は残りました。

magamin1029

ボヴァリー夫人はフローベールの知り合いの女性であったシュレザンジェ夫人がモデルであると言われていますが、そんなことはどうでもいいですね。

ボヴァリー夫人は、もっと人から頭のいい女性だと思われたいとか、もっと人から上品で美しい女性だと思われたいとか、そのようなことを願う。 少なくはなってきているとは思うけれど、現代日本にもよくいるタイプの女性だ。奇妙な競争心が、過剰に加速してしまって経済的に行き詰まり、ボヴァリー夫人は最後自殺してしまう。   
なぜボヴァリー夫人は、奇妙な競争心を心の中で育ててしまったのか。  
彼女が暇だったからだ
私の知り合いの女性は、親が金持ちで働く必要がない。趣味が、バレエ、モダンダンス、ジャズ、オイリュトミー、舞踏、狂言だという。最近は舞にこっていて、 日本古代から繋がる無限なる世界を舞で表わしていくことを目指しているらしい。    

奇妙な競争心。   
暇すぎるだろう。    
オイリュトミーってなんだ?   

そもそもボヴァリー夫人はなぜ暇だったのかというと、専業主婦だったからだ。医者の奥さんで、家事をする女性を雇っているから、実質的な仕事というのはボヴァリー夫人にはない。 

では、なぜ医師の旦那は、このようなほぼ無意味な女性を抱えているのか? まあそれは社会的な要請だろう。医者という、19世紀半ばのフランスでは中産階級上位の階層の男は、専業主婦を抱えるべきだという社会的要請。 
これも、男世界での奇妙な競争心の結果というべき現象だろう。  

男が中産階級の大人となったら、専業主婦を抱えて、専業主婦は暇をもてあます。暇をもてあます女性を抱えていることによって、男は周りから中産階級の大人だと認められる。専業主婦は暇だから、家をやたらきれいにする。小物製作みたいな役に立たない趣味を始める。これらの事が、男が周りから中産階級の大人だとより認められるための材料になる。  

すなわち、ある世界観が、事象の循環によって強化されるという。  
ボヴァリー夫人は、奇妙な世界観に囲まれている。自分の無意味な競争心にふと疑問を感じて、このように思う。
「しかしいったい何が彼女をこんなに不幸にしているのだろうか? 彼女を転倒させてしまった異常な禍はどこにあるのか? 自分を苦しめる原因を捜すように彼女は頭をあげて周囲をみまわした」
この本が風俗紊乱で問題になって、フローベールが法廷で、「ボヴァリー夫人は私だ」と言ったのは有名だけれども、そのフローベールの真意というのは、トータルで考えて近代批判みたいなものだと思う。


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