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「怒りの大気に冷たい嬰児が立ち上がって」は大江健三郎「新しい人よ目覚めよ」の中の一編。

大江健三郎は、そのデビュー作から、「人はいかにすれば救われるか」ということをテーマとして考えていると思う。1980年代の、「新しい人よ目覚めよ」シリーズでは、知的障害者の長男について書いている。  

読んで思ったのは、大江健三郎の長男の大江光さんは、頑張っているなーということ。  

「怒りの大気に冷たい嬰児が立ち上がって」という小説が、どこまで真実でどこまで脚色か分からないのだけれど、全て真実だと仮定するなら、救われるべきは、大江光さんではなく、大江健三郎自身だろう。

大江光さんには、この世界で生きようとする意志がある。タクシーの運転手に、ぼっちゃんはたいしたもんだなー、がんばってくださいね、と話しかけられたとき、大江光るさんは、
「ありがとうございました。がんばらせていただきます!」 
と答えた。すばらしいよ。   

そもそも、この世界で救われるためには、この世界は生きる価値があると確信させるところの意思の力がなくてはならない。馬鹿でも愚図でも、たとえ障害者でも、この世界は生きる価値があると確信するのなら、その人はいつか救われる。 
しかし頭がよくて、友達が多くて、金持ちだったりしても、この世界には生きる価値があると確信できなければ、そのひとは決して救われないだろう。

以上は、「怒りの大気に冷たい嬰児が立ち上がって」という小説が全て真実だと仮定しての話だ。全て真実ということはないだろう。大江光さんが、赤ちゃんの時に頭を手術する時の家族との会話あたりとかは、大江健三郎が自らを意図的に下げている部分があるのではないか。 
自らを下げて、そして子供を押し上げる。

愛だと思う。

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大江健三郎の「新しい人よ眼ざめよ」は以下の小説から構成される連作短篇。


無垢の歌、経験の歌

怒りの大気に冷たい嬰児が立ちあがって

落ちる、落ちる、叫びながら

蚤の幽霊

魂が星のように降って、跗骨のところへ

鎖につながれたる魂をして

新しい人よ眼ざめよ


「無垢の歌、経験の歌」は、連作「新しいひとよ目覚めよ」の第一作目。  

1982年発表。   

大江健三郎は、人はいかに救われるか、ということテーマにしていると思う。書記の短編では青年について、レインツリーシリーズでは中年のオヤジがターゲットだったけれど、「新しいひとよ目覚めよ」シリーズでは、知的障害者がいかに救われるかということが問題になっている。  

大江健三郎の長男の大江光さんは知的障害者で、救いというテーマにおいては避けては通れないところだろう。  
大江健三郎は、知的障害者のための分かり易い「定義」の本を書こうとする。例えば、川とは何かとか、足とは何かとか。自分が死んだ後に、息子がじっくりそれを読んでくれればいいと夢想する。 

甘いよ、劇甘だよ。

絶対とはいわないけれども、ほぼ間違いなく、知的障害者は「定義」の本を読んだりしない。
私が働いている会社の隣が、若者の軽度知的障害者の作業場になっている。私は彼らと仲良くやっていて、いろいろ話をしたりすることも多い。彼らは素直ないい子たちで、休みの日は原宿に買い物に行ったり、サークルでバトミントンをやっている子もいる。スマホゲーを無課金で楽しむのが、彼らのたしなみだったりする。しかし彼らは、決して「定義」の本を読んだりしないだろう。それが読めないから、彼らはここにいるのだろう? 

軽度知的障害者の場合、彼らに足りないのは元気だと思う。この世界で生きるんだという、気迫が乏しい。

足りないのは「定義」ではなくエネルギーだ。

大江光さんの場合は、重度の知的障害だから、救われるとか救われないとか考えるにしても、かなりの重さみたいなものを巻き込まなくてはいけないだろうと思う。この「新しいひとよ目覚めよ」という連作は、かなりのチャレンジだろう。

大江健三郎の、このような誠実な精神というのは評価したい。


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「レイン.ツリーを聴く女たち」で、レインツリーとはアンチ近代の象徴だとあっさり断定したのだけれど、今日、「さかさまに立つレイン.ツリー」を読んで、ちょっと待てみたいなことを思った。  

前作の「レイン.ツリーを聴く女たち」は、高安カッチャンというダメオヤジの話だったのだけれど、、「さかさまに立つレイン.ツリー」では、そのカッチャンを評価し始める。
カッチャンの死後に残されたノートにマルカム・ラウリーという小説家の評伝が引用されていて、それを今主人公は読んでいるという。この評伝にでてくる「セフィトロの木」というのが、レインツリーと被っているのではないかという。さすがカッチャンみたいなことになっている。   

マルカム・ラウリーの「セフィトロの木」の概念自体はすばらしい。「さかさまに立つレイン.ツリー」の中で引用されているところをちょっと書き出してみる。   

「カバラの聖なる書物{ゾハール}によれば、神はその世界創造において、かれの存在を10個のセフィトロによって明らかにした。それはプラトンの知的存在に類似しているところの、目に見えぬものと物質世界との間の媒介物である」   

この引用部分は、全くニーチェの香りがする。二元論としての質料と形相をつなぐ者が「セフィトロの木」というわけだろう。すばらしいイメージだと思う。   

ここにいたって、小さい問題と大きい問題がある。小さい問題というのは、主人公はカッチャンの文章を読んでいるのだけれど、カッチャンはただ引用しているだけなんだよね。 大きい問題というのは、マルカム・ラウリーというのは実在する作家だということ。マルカム・ラウリーの「セフィトロの木」と、自分のレインツリーのイメージとかぶせている。ツリーのところしかあってないのではないかと。  

カッチャンの引用が本文中で正当化されたからといって、現実の作家のイメージをオマージュするのが正当化されるかというと、ちょっと微妙だと思う。  

「セフィトロの木」というハイレベルのイメージを導入すると、作品に対するハードルというのがあがると思うけど、そのハードルをクリアーしてのノーベル文学賞なのだろうか。  

この後の作品を読むのが楽しみだ。


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「死者の奢り」 「飼育」 「人間の羊」 「不意のオシ」
「セブンティーン」
「空の怪物アグイー」
「レイン.ツリーを聴く女たち」
「さかさまにたつレイン.ツリー」
「無垢の歌、経験の歌」


「静かな生活」
「河馬に噛まれる/河馬の勇士と愛らしいラベオ」
「ベラックワの十年」
「火をめぐらす鳥」
「大江健三郎自選短編」総まとめ








大江健三郎 「レイン.ツリーを聴く女たち」に出てくるレインツリーとは、ハワイの精神病院の庭に立つ巨大な木の名称だ。レイン.ツリーは暗喩だという。何の暗喩かは明示されていなくて、議論を呼ぶところだろうと思う。
まあしかし、このような議論はどれほど意味があるのかは疑問だ。そもそも大江健三郎自身がレイン.ツリーとは何の暗喩か、明確に理解していない可能性だってあるし。

ぶっちゃけていえば、レイン.ツリーとはアンチ近代の象徴としての意味が与えられているのだろう。私は大江健三郎を、「レイン.ツリーを聴く女たち」より以前の短編を8つしか読んでいないけれども、レイン.ツリーとはアンチ近代の象徴、というのが妥当な判断だと思う。

大江健三郎は、1960年代まで「救われない青年がいかにすれば救われるか」というテーマで小説を書いていたのと思うのだけれど、1981年発表の「レイン.ツリーを聴く女たち」では、救われないオヤジの話になっている。
主人公の大学時代の同級生に高安カッチャンという人物がいて、これがいきがって大学を辞めてアメリカにわたって全く成功しなかったという、救われないオヤジなんだよね。この救われないオヤジ高安カッチャンが、いかにして救われるかというのが、この小説のテーマだ。

高安カッチャンは自分が救われるために奇妙な論理を実践する。大学の同級生で成功したやつと女性を共有すれば自分も救われるみたいな。なくはない論理だと思うけれど、いきなりそんなこと言われても、というのはある。

若い人も救われにくかったけれども、オヤジの場合は絶望的に救われない感じたね。救われないオヤジのそばにそびえるレイン.ツリーというわけ。  

そして レイン.ツリーは何の暗喩だろうか? 

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空の怪物アグイー


大江健三郎の「空の怪物アグイー」は、題名から推測するようなラノベではない。  
主人公の知り合いの男が狂人なんだよね。ショックな事件があって、それ以来彼には、カンガルーのような巨大な赤ん坊が、自らの傍らに突然舞い降りるようになったという。彼はその何者かをアグイーと名づけた。  
主人公もその影響を受けて、突然舞い降りる何者かが見えるようになったという。   

狂気の話なんだよね。  

居場所を失った若き魂はどうすれば救われるのか、というのが、大江健三郎のテーマだったと思う。そのような意味で、「セブンティーン」では、皇国思想を取り上げた。「空の怪物アグイー」では、狂気によって救われる若者を描いたのだろう。   

しかし、狂気によって救われるということは、近代社会においては難しい。  
近代においての狂人の地位というのは、過去と比べてえらく低い。明治の中ごろまでは、狂人は村の中をふらふらすることが認められていて、村人から愛される馬鹿みたいな扱いだった。

現代ではどうだろうか? 狂人は、精神病院に収容されるか、個人の家に隔離されるか、あれではほとんど人間扱いとはいえないだろう。  

狂気によって救われるということは、近代においては狭き門になった。  

狂気によって救われることは難しい。空の怪物をアグイーと名づけた青年も救われなかった。   
純真な青年が救われるためにはどうすればいいのかっていうことになる。  

この流れからすれば、アンチ文明ということになるんじゃないかと思う。誠実な人間が救われないのは、この世界の前提自体が間違っているという論理だ。  
このような簡単な論理に大江健三郎がすぐにでも落ち込むとも思えないのだけれど。


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大江健三郎の「セブンティーン」という短編は、17歳の弱い青年が、右翼に入って強くなるという話だ。  

おそらく、これを読んだ多くの人は、「セブンティーン」という小説は右翼を批判するためのものだと考えるだろう。しかし、私はそのようには思わない。公平に皇国思想を評価している。   

大江健三郎のデビュー作である「奇妙な仕事」では、主人公の青年は、あらゆる価値観が対等だと考えるようなクールで政治に無関心な人間として描かれている。  

村上春樹の「ノルウェーの森」の主人公と同じようん感じで、喋り方まで似ているという。  

大江健三郎は、「奇妙な仕事」の翌年発表の「他人の足」で、はやくもクールで無気力な青年像にたいして批判的な小説を発表している。  
早々と、なぜ戦後の若者は全ての価値観が対等だなどという奇怪な世界に落ち込んでしまったのか、ということを問い始めた。 

ヘーゲルによると、近代社会における要求というのは、個人、家族、国家、それぞれの統一性と、それぞれの関係性にあるという。 個人、家族、国家が、それぞれの統一性を強化しながら、互いにフィードバックし合って、それぞれをより強化しさらに全体を強化するという。  

「セブンティーン」の主人公の青年は、自己同一性が怪しい。  

「この世界の何もかもが疑わしく、充分には理解できず、 なにひとつ自分の手につかめるという気がしない」

と感じている。   
17歳の少年はどうすればいいのだろうか? クールで無関心な青年になるのはお断りだ。   
17歳の少年の父親というのは学校教師で、頼りにならないインテリとして描かれている。家族はあてにならない。国家としての日本は、太平洋戦争でのあの大敗北だ。  
どうするか、17歳の少年はどうやって救われるのか?   

この少年が皇国思想によって救われたからといって、いったい誰が批判できるだろうか。   
この少年が、社会党の浅沼委員長暗殺事件の犯人のモデルだとして、それは「セブンティーン」が直ちに右翼批判小説であるということにはならない。           

戦国策は荊 軻(けい か)を批判しているか?    

大江健三郎は、現代においては戦後リベラルというレッテルが貼られていると思うのだけれど、昭和30年代において、彼は揺れていたのではないだろうか?
 


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大江健三郎の「死者の奢り」のなかで主人公はこのように言う。  

「僕は希望を持っていない」  

この主人公は、あらゆる価値観を対等だと考えている。何かに熱中するとかはない。価値観の序列がないから。   
このあたりまでは村上春樹と同じなのだけれど、大江健三郎は早々と新たな一歩を踏み出した。  

「飼育」以降、大江健三郎は、なぜ戦後の若者は、全ての価値観が対等だなどという奇怪な世界に落ち込んでしまったのか、ということを問い始めた。  
その答えというのは、結局、日本が戦争に負けたからだ、ということになる。   

今から考えればたいした答えでもないとは思うのだけれども、若き大江健三郎の渾身の挑戦という気持ちは伝わってくる。  

「人間の羊」 「不意のオシ」を読んで分かるのは、大江健三郎は、日本敗戦の責任を戦前のインテリの弱さにあると考えていたであろうということだ。   

この論理からの帰結というのは、戦後のインテリというのは強くあらねばならない、ということになるだろう。  

いかにして?  

しかし、一歩踏み出して何かを問う、ということは誰にでも出来ることではない。すばらしいチャレンジだったと思う。  


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大江健三郎の「奇妙な仕事」を読んでみて驚いた。  

これは村上春樹だよ。  

話自体は大学病院の不要になった実験動物の犬を150匹殺す話で、登場人物は4人。  
犬の殺し方にこだわりを持つ、30歳ぐらいの犬殺しのプロ。後3人はお手伝いのバイト。犬殺しに根本的な疑問を持つ院生の男と、クールで芯の強い若い男と女。  

構造が村上春樹の「ノルウェーの森」そのままだと思った。どういう構造かというと、まじめで弱い人間を踏み台にしながら、こだわりを持つ男に支えられて、クールな男と女はいい感じで盛り上がるということ。  

話の構造も似ているのだけれど、「奇妙な仕事」の主人公の男の話しぶりが、「ノルウェーの森」の主人公とかぶるような。 「奇妙な仕事」の主人公と女子学生との会話での主人公パートを抜粋してみる。  

「たいへんだな、と目をそむけて僕はいった」 
「火山を見に? と僕は気のない返事をした」 
「君はあまり笑わないね、と僕はいった」  

同じ構造、同じテンションで、同じようなことを言われると、そこには否定しがたい同一性が認められると思う。大江健三郎と村上春樹の同一性、これはもちろん村上春樹がオマージュしたのだろうと思うのだけれど、そのあたりのことを調べたらちょっと面白いかも、とは思う。


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