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「わが闘争」を読む限り、ヒトラーが目指したものはドイツの一体性というものだろう。

何かの一体性を形成するというのは、じつは難しい。
国家においても、独裁者が強権によって統一を維持するということは理論上はありえるけれども、その程度の一体性では、その国はたいしたことないだろうということは容易に想像がつく。
風邪を引いたとする。病院にいくといろいろ薬をくれる。しかしあんなものは気休めであって、風邪のウイルスを撃退するのは体の免疫機能だ。免疫とは結局個体の内と外とをわける機構であり、免疫力はその個体の一体性を維持する力に依存している。そして、体の一体性をいかに高めるかというと、これは難しい。

ヒトラーはどのようにドイツの一体性を高めようとしたか。
まずドイツの内と外を区別する。ドイツの内側はアーリア人で、ドイツの外側はユダヤ人だという。ヒトラーのユダヤ人差別というのは、それが目的というよりも、ドイツの一体性を高めようとすることの手段だろう。
ヒトラーのユダヤ人にたいする歴史的事実は確かに極悪だった。だからといって、ヒトラーを知らなくていいということにはならないだろう。それほどヒトラーの思想というのは強力なんだよね。

国家でも人でも、その一体性というのは極めて重要で、それは価値といってもいいくらなものだ。ヒトラーはこのように言う。

「同盟政策についての問題。誰の目にも明白な欠陥に満ちたワイマールのドイツと、およそ同盟する国があるかどうか」

これは男についても同じで、誰の目にも明白な欠陥に満ちた男と、およそ結婚する女があるかどうか、という文章も成り立つ。明白な欠陥とは、国家においても人格においても、その一体性の欠如に由来すると考えてそう的外れでもないと思う。

ヒトラーは、一体性において大事なことはその形式ではなく内実であるという。そりゃそうだ。ではヒトラーの考える一体性ふあれる国家の内実とはどのようなものか。

「ただ健全であるものだけが子供を生むべきで、自分が病身であり欠陥があるにもかかわらず子供をつくることは恥辱であり、むしろ子供を生むことを断念することが最高の名誉である、ということに留意しなければならない。しかし反対に、国民の健全な子供を生まないことは非難されねばならない」
「病身であったり虚弱であったりすることは、恥ではなくただ気の毒な不幸に過ぎない。しかしこの不幸を自分のエゴイズムから、何の罪もない子供に負わすことは犯罪であり、これに対して罪のない病人が自分の子供を持つことを断念し、他日力強い社会の力強い一員になることを約束されている民族の見知らぬ貧しい幼い子供に愛情を注ぐのは賞賛すべき人間性の尊さであると、国家は一人ひとりに教えるべきである」

現代の建前的常識によっては、このようなヒトラーの言論は認められない。人間の価値は平等であるとされている。ところが多くの人の本音はどうか。
ネットでは知的障害者やその親に対する差別の言説があふれている。多くの人がそれを見て、ああ他の人の本音もそうなんだ、と思い安心する。
思考が分裂していて一体性に欠けているわけだ。結果、ヒトラーの一体性のある言説に比べて、このような人が何を語ろうが、言葉の力が劣ることになる。

そう、そして誰もがしょうがないよねって思う。本音と建前を分けるのは、この世界を生きるためにしょうがないと思う。
このような意見に対して、ヒトラーはこのように言う。

「もちろん、今日のあわれむべきおおぜいの俗物どもには、このようなことは決して理解できないであろう。なるほどおまえたちにはとてもできない。おまえたちの世界はこういうためには適当ではないのだ。おまえたちはただ一つだけ心配がある。つまりおまえたち個人の生活だ。そしておまえたちにはただ一つの神かある。つまりおまえたちの金だ。たが、我々はおまえたちに用はない。自分たちの生存を支配しているものを金とは考えずに、他の神を信じているおおぜいの人々に向かうのだ。われわれはなによりもまず青年に呼びかける。彼らの父たちの怠惰と無関心が犯した罪に彼ら自身で挑戦するのだ」

この「わが闘争」という本は口述筆記だという。だからヒトラーは、自らの思想を語ると同時に、それに対する異論への反論を考えているわけだ。ヒトラーというのは、一体性の思想と懸絶した言語能力を併せ持った、ある種の怪物だろう。

一体性の思想が成立するとするなら、それは強力なものとなる。近代以降、一体性の思想というのは基本、存在しない。何らかの一体性の存在には何らかの力が必要だろう。例えば、地球がその一体性を維持しているのは重力という力があるからだ。生物の個体も一体性を維持しているわけだから、おそらく何らかの力が作用していると思うのだけれど、その何というか生物力みたいなものがあるのかないのか、どのようなものか全く問題にされない。

すなわち近代以降においては、生物の一体性、さらには個々の人間精神の一体性まで前提とされてしまっている。人間精神の一体性を直接問題にしてしまうと、生物力みたいなオカルトになってしまう。
この社会では、自分の自己同一性の懐疑に悩む人も多い。しかし現代医学のレベルではこのような人を救うことは難しい。科学というものが、直接精神の一体性の根源を問題にすることができないからだ。

ヒトラーは、このような近代社会の不手際に対して別の世界観を提示する。
国家と個人。国家の一体性と個人の一体性が、互いに互いを強化し合うシステムを形成できれば、今までよりも強力な世界が立ち現れるだろうというわけだ。

西洋近代哲学のなかで一頭地を抜く思想だろう。

竹田 青嗣 「ニーチェ入門」 は、ニーチェをヨーロッパ思想史のなかにうまく当てはめながら、分かりやすく説明している。 

竹田青嗣は、ニーチェの思想には

「近代の世界観を相対化する」
「近代が陥るであろうニヒリズムをどのように克服するか」

ということとの2つのテーマがあるという。フーコー等のポストモダニズムの思想家は、この前者「近代の世界観を相対化する」ことについては取り組んでいるのだけれど、後者「近代が陥るであろうニヒリズムをどのように克服するか」ということについては沈黙しているという。  

それはある。私もそう思う。  

しかし何故フーコーが、「近代が陥るであろうニヒリズムをどのように克服するか」というテーマに触れることが出来なかったのかというと、これはフーコーの能力不足というより、ここを掘ってしまうと必然的にヒトラーの思想に行き着いてしまうから、ということだったと思う。 

竹田青嗣 「ニーチェ入門」 においても、ニーチェとヒトラーとの関係というのが、全く薄い論理で否定されている。ニーチェは反ユダヤ主義者ではなかったとか、ニーチェの作品内でナチスよりの言説が多いのは、ニーチェの妹がこれを編集したからだとか、正直話にならない。  

アカデミズムが、自らの正当性を守るために、あったことをなかったことにするなんて、ちょっと感心しない。そのようなことは、ニーチェが一番批判したことではないだろうか。   

私が、ヒトラーとニーチェとの関係性について説明する。  

ニーチェ以降の実存主義系統の哲学者が目指した 「近代の世界観を相対化する」 とは結局どういうことなのか。結論から言うと、近代世界というのは、当たり前に存在するのではなく、人間存在に関する一つの前提があるということだ。ある世界観に前提があるということは、その前提を変えれば世界は変わるだろうから、前提を発見するということは、世界を相対化するということになる。  

では、私たちのこの世界の前提とは何か?  

それは、自分が自分であること、自己の一体性、自分と他人とは明確に異なる、などの自己同一観念は当たり前であり、人間なら誰もが持っているはずだという信仰だ。  

このような信仰から、民主主義や人権観念というのは発生している。人間は成人になると、自然と自分が自分であると認識するようになり、少なくとも最低限の大人にはなる。だから、成人にはほとんど無条件に政治参加の機会や基本的人権が認められているわけだ。  

このような世界観というのは、一つの見識ではあると思う。この世界の前提を発見したとしても、とりたててこの世界の整合性に不都合がないのなら、その前提をそっとしておくという考えも成り立つ。  しかしなかなかそういうわけにはいかない。  

この世界の弱点というのは、「自分が自分である」ということが当たり前になっているから、「自分が自分である」ための訓練などというものはしない。よって、自己同一性の怪しいようなやつまで、ジャンジャン同じ社会に参加してくる。この社会というのは、「自分が自分である」ということが前提されているわけだから社会的プレッシャーがきつめで、脱落者が多く出る。社会から脱落する同胞が多くなれば、それだけ社会の生産性は落ちてくる。それでいいのかという議論は当然でてくる。 

これがニーチェの、「近代が陥るであろうニヒリズムをどのように克服するか」ということにつながってくる。この問題を大きく解決しようとしたのがヒトラーだ。ヒトラーは、自己の同一性なるものは無条件に与えられるものではなく、自らが勝ち取るものであると、国家がその枠組みを与えるべきだと主張した。このような枠みにそって、ヒトラーの「わが闘争」のなかには近代世界観を相対化し、さらにドイツのニヒリズムを克服するためのアイデアが多数存在している。  

ニーチェは、ニヒリズムを克服するために「力への意思」という漠然としたことを主張したけれども、ヒトラーは、ワイマールのニヒリズムを克服するために、国家の一体性、個人の一体性の強化を主張した。「力への意思」というものを、一体性への志向と理解したのだろう。ヒトラーの論理は正しい。近代以降、個人の人格の一体性が空洞化しつつあるから、そのあたりを国家主動で再編成しようというわけで、きわめてわかりやすい論理に帰着する。  

ヒトラーは彼自身としては失敗したのだけれど、ニーチェの思想を現実の政治世界で実践して、現代にまで総力戦思想という巨大な影響を及ぼしている。  

ニーチェとヒトラーを切り離してしまうと、哲学のみを論じるアカデミズムにとっては快適かもしれないが、ニーチェそれ自身の価値というは、極端に低下すると思う。


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ヒトラーの言論自体は合理性にあふれいてる。よく言われるのが、きわめて民主的なワイマールからヒトラーが現れた、ということなのだけれど、ヒトラーの言説を加味して考えると、これは間違いだね。普通選挙があってそれによる議会が存在しても、それだけで民主主義とはいえない。民主主義には、国家がその成員の能力を引き出すシステムを持っているという条件がなくてはならない。社会保障、生活保護、最低賃金、労働関連についての法律の強制力、所得を平均させるような税制、はたしてこのようなものがワイマール共和国に存在しただろうか。もし存在していなかったとするなら、ワイマールは民主国家ではなく、金持ち支配制国家だ。   金持ち支配制国家のたちの悪いところは、これらの国家の支配者層は自らの国家を民主国家だと主張するところだ。普通選挙が行われているから民主国家でしょ? というわけだ。 馬鹿が。 そんなものにだまされてはダメだ。金持ちの支配者層が自分に都合の良い事を言っているだけ、そのようなことでは国全体が合理化できない。どことはいわないけれども、普通選挙は行われているのだけれども、いつまでたっても発展途上国っていうのあるだろう? その原因は金持ち支配制国家と民主国家を取り違えているせいだろう。   ヒトラーは、金持ち支配制国家を民主国家に合理化しようとしたのだと思う。   さらに独ソ戦についてなのだけれど、私は今まで、ヒトラーはチンピラだと思っていたから、独ソ戦の原因を勘違いしていた。ヒトラーは戦争状態の継続を望んでソ連に攻め込んだと思っていたのだが、これを、ソ連を甘く見ていたから、という理由に訂正する。日露戦争でのロシアの敗北、第一次世界大戦でのロシアの崩壊と共産化、アーリア人種優位思想と共産主義への蔑視観念、これらのものが重なって、ヒトラーはソ連を甘く見すぎたという見解に変更する。そうなるとこのあたりは、日本が中国を甘くみすぎて、日中戦争の泥沼にはまったことと重なってくる。  確かにヒトラーの思想や実行力というのは、ずば抜けたものがあった。しかし相手もそれなりに頑張る力があったわけで、ずば抜けているから自分は変えられるだろうが、相手も変えられるという訳ではなかったということだろう。

「わが闘争」を読み終わって思うのは、ヒトラーとは、チンピラでもごろつきでも馬鹿でも狂人でもないということだ。ヒトラーの思想を一言で言えば、総力戦思想となるだろう。第二次大戦前に総力戦思想を唱えた者は多い。日本で言えば北一輝だって、革新官僚だって総力戦思想だった。226事件で処刑された将校たちも、その動機は、このように農村が疲弊していて兵隊個々のふるさとが劣悪なら、トータルとして日本が守れないだろう、というものだった。これも広義の意味の総力戦思想だろう。ルーズベルトもスターリンも、やったことは、国の合理化、すなわち総力戦思想の実現化だ。    様々な総力戦思想の中で、全くずば抜けた完成度を持つ言説が、ヒトラーの「わが闘争」だと思う。   現代民主主義は総力戦思想の中から生まれてきた。だから逆説的に聞こえるかもしれないけれど、ヒトラーとは民主主義を破壊するものではなく民主主義をつくるものだ。   そもそも民主主義とはなんだろうか。普通選挙が行われ議会が存在すれば、その国は民主主義といえるのだろうか? 日本に普通選挙法が施行されたのは大正14年、実際に普通選挙が行われたのは昭和2年だ。そして戦前の日本は果たして民主国家だっただろうか。事実はそうではない。昭和初期の日本は、寡頭制国家、金持ち支配制国家だった。普通選挙が行われているからといって、それだけで民主主義とはいえないということになる。  再び問う、民主主義とはなんだろうか。 民主主義世界とは、この世界で社会の成員それぞれが、自分が社会の中で何が出来るのかと問われる空間ではないだろうか。出来ないことをやれといわれているのではなく、出来ることを出来るだけやれといわれている。現代日本には年金とか国民保健とかあるけれど、日本国民が、出来ることをできるだけやれるようにというための社会保障だろう。  ヒトラーは、ワイマールという寡頭制国家の堕落形態から、新しい民主国家を創ろうとしたというところは認めなくていけない。ヒトラーというのは普通に狂人扱いなのだけれども、あのホロコーストというのがあまりにひどいから、誰も何も言わないということになってしまったのだろうと思う。私だって、ヒトラーを擁護するというのは気が引ける。   私が小学生の時に、図書室にアウシュビッツについての本があって読んじゃったんだよね。40年近く昔だから、子供にふさわしいかの内容までの検閲というのがなかったのだろう、きわめて残酷な内容だった。一ヶ月に一回か、アウシュビッツにおいてユダヤ人の囚人は使えるかどうかのチェックのために全裸で看守の前を順次歩かされる。しょぼくれていたらガス室送りだから、生気を出すために囚人は太ももや顔を手で叩いて赤味を出したという。40年たっても小学生の頃に読んだこの部分を覚えている。  この世界はきれいごとばかりで成り立っているわけではない。

ヒトラーの言説の切れ味というのは、随所にすばらしいものがある。   ちょっと前に、安倍首相とトランプ大統領が会談したというニースがあった。そのことを思い出しながら、以下のヒトラーの話を聞いて欲しい。独を日と入れ替えて。  「どれほどわが民族が外交政策的に考える力に欠けているかは、どこどこの国の政治家が多かれ少なかれ「親独感情」を持っているかなどと、現在の新聞が報じていることからもっとも明白に知ることができる。その上この場合には、そのような人物がわが民族に対してもつ架空の態度の中に、われわれに対する慈悲深い政策の特別の保障が読み込まれているのだ。これはまったく信じられぬほどのナンセンスである。アメリカ人はすべてアメリカ人であり、アメリカのためでない政策を進んで行おうというアメリカ人はいないだろう。したがって、他者との同盟をその国の指導的政治家のドイツびいきの見解に基づいて打ち建てることができると信じるものは、愚者か詐欺師である」  日本の一般紙やテレビのニュースコメンテーターは、国のトップが仲良くすると、その国同志は蜜月だみたいな希望的な報道を垂れ流す。オメでたいインテリ階層というは存在するのだろう。よっぽどママに甘やかされたか。  付き合いのながいソープ嬢がいるのだけれど、彼女は私に、 「客の中で、指輪を持ってきて結婚してくれと言ってきた人もいたし、君のためにマンションを買ったなんていう人もいた。何で嬢と客なのに、そういうことを考えちゃうのかなーって思うよ」 といっていた。そりゃそうだ。  ある大手電気メーカーの重役の機密書類を回収したことがあった。特に重要だという密閉された箱を渡されて後で開封したら(焼却の前に中身が本当に紙であるかどうか確認しなくてはならない)、すべてクラブのチーママからの手紙だったことがあった。これは本当にマジ。チーママからの手紙を10キロぐらいはあったと思うあの箱いっぱいに溜め込んだあの重役は、女に関して全くおめでたいと思う。   ヒトラーは現代のあからさまな真理というものを、たびたびうまく表現してくる。

ホロコーストについて語らなくてはならない。ヒトラーがなぜユダヤ人大量虐殺などということをしたのかという問題がある。ヒトラーは狂人だったとか、さらに脳炎だったなどという説がある。このような説は認められない。物事を簡単に考えすぎている。一国を動かした言説が、狂人のたわごとだったなどということは、普通に考えてありえない。ヒトラーが狂人だったなどという観念が流布するのは、文明は進歩するという漠然とした観念があるからだろう。しかしこのような観念はまやかしに過ぎない。100年前のギリギリの天才が、現代の平和をぼんやり生きている馬鹿より馬鹿ということはありえない。   では、ヒトラーとホロコーストとはどのようにつながっていたのか。   そもそもドイツという国は、ドイツ帝国として1871年にプロイセンのヘゲモニーによって成立した連邦国家が始まりだ。明治維新が1867年だから、それより4年後というこになる。おもいのほか新しい国家だ。そもそもが連邦国家だったのだから、第一次大戦の敗北によって、ドイツの一体性が怪しくなったということはあるだろう。さらにドイツにはカトリックとプロテスタントとの確執というのがイギリスやフランスよりも大きくて、さらに一体性を維持するのが難しい状況が重なっていた。 ヒトラーはドイツの一体性を必要としていた。アーリア人というのは、ヒトラーにとってドイツの一体性を補完する概念だった。そして、アーリア人のアンチテーゼとしてユダヤ人を設定することによって、アーリア人という観念をより固定しようということだろう。   別の見方をすることも出来る。そもそもユダヤ人というはメジャー概念だ。ユダヤ教は、プラトンにもキリストにも決定的な影響を与えたところの、西洋においては概念の王様だ。ヒトラーは、ユダヤ人のアンチテーゼとして、アーリア人という概念を確定しようとした。  ユダヤ人のアンチテーゼがアーリア人である。アーリア人のアンチテーゼがユダヤ人である。  このようになると、互いが互いをフィードバックしあい、二つの概念が寄り強固に対立するようになるだろう。その結果のホロコーストだと思う。ヒトラーを擁護するわけではないのだが、ホロコーストの原因というのは、ヒトラーの思想から直接導き出せるというものではなく、ドイツの歴史的不安定性も考えに入れていかないと、知的に誠実ということにはならないと思う。  とにかくアウシュビッツとい強烈な悪が存在するから、ヒトラーを擁護するというのはきわめて危険だと思うけれど、それでも知的誠実さというのはゆずれないところなんだよね。

総力戦思想というものがある。日本も昭和に入って、金持ちと貧乏人が分裂した社会では、日本の総合力が発揮できないということで、国家が民衆の生活にまで手を突っ込むような、準戦時体制みたいなものになった。年金などの社会保障は、その淵源を戦中に発する。  ヒトラーの国家社会主義主義思想というのは、共産主義に少し遅れてはいるが、右からの総力戦思想のはしりだよな。  ヒトラーはホロコーストの悪辣ぶりで、その思想を言及することすら憚れるのだけれど、ヒトラーの思想の強力さというのは認めざるをえないと思う。    あと、プラトンの哲人国家と、ヒトラーの理想的ドイツ国家というのは確かに似たところがある。プラトンとヒトラーというのは対極にあると思うのだけれど、二人の理想国家がこれほどかぶるというのは、どういうことなのだろうか。プラトンは対話編という話し言葉の表現形式を採用したが、ヒトラーも演説重視、話し言葉の威力というものを強調している。この辺も不思議な一致ではある。ニーチェは、「プラトンごときが」などと言い、プラトンが基礎付けた西洋世界を相対化することに精力を傾けた。ニーチェ思想の完成形ともいうべきヒトラーが、またプラトンに近づくというのが、不思議なんだよね。この辺、循環しているのか?  もしかして永劫回帰?   もしかして、私、深遠を覗き込んでる?  

ヒトラーというのは、超一級の思想家だ。「わが闘争」を誠実に読めば、そのような結論に至るしかない。  ニーチェ哲学というものがある。 天才ニーチェ。 世界を相対化する者。 フーコーもウェーバーもニーチェの哲学のスカートのすそをちょっとめくったというレベルだろう。ニーチェでさえ自分の哲学を断片の言説でしか表現できなかった。ニーチェの哲学を一言で言えば、近代世界の主要な価値観を相対化すれば、強い意志の支配という真の自然が立ち現れるだろうというものだ。キリスト教や民主主義を相対化すれば、それだけで新しい世界が出現するというものでもないだろう。ニーチェには足りないものがある。この世界と新世界とをつなぐ環みたいなものが欠けている。この環がないから、ニーチェの哲学は体系にならなかったし、ニーチェの言う超人というのがよくわからなくなる。  ヒトラーはニーチェが見つけられなかった環を発見する。これが、人種。ドイツの血。アーリア人。  アーリア人なる優秀な民族の血なるものをてこに、人権、平等、民主主義という観念集合を、別の世界観に転換していこうという。「優秀なアーリア人」という概念を導入することによって、ニーチェの限界を突破しようというのだ。ここで問題となるのは、アーリア人なる概念の正当性だろう。科学的に考えれば、そのような概念は認められないということになるだろう。ヒトラーの狂気というのは、このあたりに由来すると思う。  ヒトラーの巧妙なところは、アーリア人なる概念の自立性は科学的に証明される必要はない、ただドイツの民衆にのみ信じさせればよいと考えたところだ。そのためのプロパガンダとなる。    全くすごい、ニーチェの上をかぶせていこうというのだから。   ワイマール時代のドイツのエスタブリッシュメントが、ヒトラーに政権を任せてみようと考えたのは全くの迂闊だったね。ヒトラーとは、守られてきたハイブルジョアが同じ土俵に立って勝てる相手ではない。   「わが闘争」における言説は、全く強力だ。ここまで来ると、プラトンレベルだろう。 戦争が起こって、このような強力な言説を操るヒトラーがいたとするなら、未来は見えないわけだし、ヒトラーにBETするという気持ちもわからなくもない。

私はファシストではないが、この本のすばらしさというのは認めざるをえない。ヒトラーとは、超一級品の思想、リアルな歴史観、懸絶した言語能力、を併せ持つ怪物だね。   ヒトラーの言語能力のすばらしさをいくつか上げてみよう。第一次大戦ドイツ敗北時の責任ある政治家について、ヒトラーはこのように語る。 「世界大戦で無益な犠牲となったすべての死者を念頭におくならば、そしてまた、われわれが今日直面している無限の惨めさを考えるならば、これら全てがただ、良心のない野心家や、官職を求める連中の群れに、大臣の椅子への通路を空けてやるだけだったことを知るならば、これらの卑劣な人間は、実際のところ、ごろつき、ならずもの、やくざ、犯罪者といったような言葉でしか呼ぶことができない」  ここまで言って、さらにここからのかぶせ方がすごい。  「そうでなければ、このような表現が言語の慣用中に存在する意味と目的が全く理解できなくなるだろう。これらの国民を裏切る連中に比較すれば売春仲介者はみんな、まだ紳士といえるだろう」   これが推敲した文章というのではなく、口述筆記されたものだというのだから驚く。   もう一つ例をあげよう。現代日本においてリベラルというのは急速に力を失っている。リベラルは結局口さきだけみたいなイメージになってきている。このイメージをヒトラーが語れば、このようになる。  「我々はより深い必然性の認識に従い、平和主義的おしゃべり連中の空想に抗議する。彼らはまぎらわしいことを言っていても、ほんとうはなお臆病なエゴイストだからである。われわれの理想は、公衆のための個人の献身によって実現されるものであって、臆病な知ったかぶりの連中や、自然の批判者の病的な観念によって実現されるものではない」  この言説の中には、リベラルのぼんやりとしたイメージが、ズバリ実体化されている。  この「わが闘争」という本は、日本においてどこにでも売られていて、全く自由に読むことができる。さらにヒトラーに対する評論は、ヒトラーのすばらしい言説は黙殺して、結果論を盾にヒトラーの失敗をほじくり返すばかりだ。  これは恐ろしいことだよ。  いい気になってやっていたことは、実は自らの足元を掘り崩すことだったという結果になるだろう。

ヒトラーの「世界に冠たるアーリア人」なる概念が意味不明で、ここがヒトラーの突っ込まれるところではあると思う。ヒトラーは悪人だろうから、その論理の最も弱い環を拡大して貶めようという考え方はありえる。ヒトラーの悪口を言っておけば安全だということだろう。  馬鹿が。  私はこのような思考法は選択しない。   「わが闘争」を読む限り、アーリア人というのはユダヤ人のアンチテーゼだね。ユダヤ人が世界を征服しようとしているというヒトラーの考えは、行き過ぎだとは思うけれど全く根拠のないことではない。ユダヤ陰謀論なんていうものでもない。そもそも西洋文明にはユダヤ教というものが明確に刻印されている。キリスト教の聖典である聖書は、新約聖書と旧約聖書からなっていて、旧約聖書はユダヤ教の聖典だろう。新約と旧約を貼りあわせて「聖書」とかいうのは、キリスト教に関係ない人間から見れば、そんな不徹底なことでよくやっていけるよなとは思う。もう一つ、プラトンのイデア論というのは西洋近代哲学の根底を貫いている。プラトン自身はイデア論のアイデアをユダヤ教から借りてきたというのは、よく言われることなんだよね。近代西洋を現今のように持ち上げた力の大きい部分がユダヤというのは、間違いないところだろう。ベルサイユ体制下での苦境にあえぐドイツにおいては、何らかの実体としての概念が必要だったのだろう。それがヒトラーにとっては、ユダヤ人のアンチテーゼとしてのアーリア人だった。だから、アーリア人が優秀であるという既存の根拠はない。それはこれからの戦争に勝つことで証明されるだろうことになるだろう。    日本人の立場からすれば、独ソ戦とか必要ない。ソビエト連邦なんて共産主義のはみ出し国家なんてほっておけばいいと普通、思う。ところがドイツには、アーリア人なるものの優秀性を証明しなくてはならない特別の事情があったという。ヒトラー自身の思想というのはすばらしい。ヒトラーは何年かにわたる世界大戦の過酷な従軍によって思想の天啓を受けた。過酷な戦争状態によって進化したヒトラーは、戦争状態を加速するよってドイツを試そうとしたのだろう。  

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