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カテゴリ:中国思想 > 漢詩

李煜とは、十国南唐(江南)の第3代(最後)の国主。 宋の趙匡胤がほとんど中国を統一しようかという時代。
この李煜の浪淘沙という詩がすばらしい。 内藤湖南によると、中国の中世と近代の境目は宋にあるという。

中国の近代なんて最近始まったのではないか、なんて思っている人も一定数いると思うけれど、中国をなめちゃいかんよ。内藤湖南の直感が正しいのなら、ヨーロッパより500年早く、中国では近代が始まっていることになる。

内藤湖南的に思い込めば、この浪淘沙(ろうとうさ)とは、中世と近代との境目に咲いた華だろう。


     浪淘沙

  簾外(れんがい)に雨 潺潺(せんせん)

簾外とは、すだれの外。潺潺とは、雨の静かにふるさま。 家の外では、雨がしとしと降っているんだね。

  春意 蘭珊(らんさん)たり
  羅衾(らきん)は耐えず五更(ごこう)の寒きに

羅衾とは、寝間着。五更とは、夜明け真近の時間。 春だと思って、薄着して寝たら、明け方意外に寒かったみたいな。

  夢裏に身は是れ客なるを知らずして
  一餉(しばし) 歓(よろこび)を貪(むさぼり)りぬ

明け方の夢うつつの中で、自分が囚われの身だということを忘れて、春らしくない春を春として喜んでいたという。

  独自(ひと)り欄(らん)にもたるること莫かれ

欄とは欄干の意味。 李煜とは南唐最後の王だった。目の前に宋という近代が迫っていた。 これは古い世界にしがみつくべきではなかたのではないか、という独白だろう。

  無限の江山
  別るる時は容易に見(まみ)ゆる時は難し

時代が移ろうとしているのに、山や川は無情にもそのままなんだよね。歴史は取り返しのつかないあり方で変わっていくという。

  流水 落花 春去れり
  天上と人間(じんかん)と

人間(じんかん)とは、人間世界の意味。 ヘーゲルは、
「かつて世界のあらゆる事物は、金色の糸によって天とつながれていた」
と語っていた。あらゆる物には魂が宿っているという世界観がかつて存在した。近代の味気ない言葉を使えば、アニミズムということになるだろう。 天と事物をつないでいた金色の糸が、まさに消えていくさま、
  流水 落花 春去れり 
そして、天と地とは懸絶してしまったんだな。
  天上と人間(じんかん)と

これ以上のリリシズムって、ちょっと考えられないと思う。







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秋浦というのは、唐代の県名。猿がでてくるところをみると長江流域地方だろう。   

五言絶句 

「秋浦(しゅうほ)の歌 5」  

秋浦に白猿多し  
越騰(ちょうとう)することひ飛雪のごとし  
枝の上の児を牽引し  
飲んで水中の月をもてあそぶ   

昨日寝る前にこの詩を読んでいたら、最後の「飲んで水中の月をもてあそぶ」で、猿が水に映った月を掬おうとしている映像が、頭にバンって浮かんじゃって。 あれなに?  なんだか一人でドキドキしちゃった。幻視というかリアルな妄想というか、そういうのって、あの月をすくう猿の映像がずっと続くものなのか。 いやー、危なく向こうの世界に行くところだった。まだ早いっちゅーの。

この白楽天というのは、本当に幸せな人なんだよね。

楽天主義とか楽天家とかの「楽天」というのは、この白楽天に由来するのではないかとネットで検索してみた。出てくるのは三木谷の「楽天」ばかりだ。
その楽天株式会社の由来というが、読みたくもないのに読んでしまったのだけれど、織田信長の楽市楽座の「楽」と楽天的の「天」をあわせて「楽天」だという。

なんだかこれおかしくないかと思って。

楽天的という言葉の中に、すでに「楽天」という言葉が入っているではないか。織田信長の楽市楽座なんて、まずもって関係ないだろう。楽市楽座って言いたいだけなんじゃないのかと思ってしまった。 

 白楽天の最晩年の詩、「達哉楽天行(たっさいらくてんこう)」。  

幸せの人、白楽天の、全く自然体の詩だよね。  白楽天は70歳で官職を引退して収入がなくなった。ちょっと困った。そこでこのように書く。   

起き来たりてなんじと生計を計る   
薄産の処置に後先あり  
先に南坊の十畝の園を売り  
次に東郭の五頃の田を売らん  
しかる後にかねて居る所の宅を売れば  
髣髴として銭の二三千を獲ん   

こうなるともう日記だろう。韻を踏んだ日記だよ。最後の締めはこうだ。  

死生は可もなし不可もなし  
達なるかな達なるかな白楽天  

驚くほどの自然体だよね。頭がよくて憎めないというのは両立が難しいと思うのだけれど。白楽天は別格だろう。

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卯時(ぼうじ)の酒とは朝から飲む酒の事。  
 
白楽天は74歳まで生きたのだけれど、50歳をこえてくると、もう老後みたいになっちゃって、全く自然な感じで詩を書いている。花がどうとか、池がどうとか、酒がどうとか。 

「長恨歌」や「琵琶行」みたいな、リリシズム溢れる物語詩は書く気ぜんぜんありませんみたいな感じだ。  

普通ならイライラするところなんだけれども、白楽天の人徳なのだろう、白翁ならしょうがない感じになってくる。  
白楽天の「卯時(ぼうじ)の酒」という詩を見てみよう。そもそも朝から酒を飲むなんてろくでもない。アル中のダメ人間としか考えられない。  

未だしかず卯時の酒  
神速にして効力倍する  
一杯、掌上に置き  
三嚥して腹内に入る  
温かなること春の腸を貫くがごとく  
暖かなること日の背を炙るがごとし   

朝から飲む酒はダメ癖なのはわかっているのだけれど、敢えて強弁しているという感じだね。さらにこうある。   

行け、魚は泉に帰る  
超然として蝉は抜殻を離る  
是非、分別する事なかれ  
行止(こうし)、疑義することなかれ   

開き直っちゃっているんだよね。琵琶行を書いてあげたのだから、50過ぎたら朝酒飲んじゃってもいいじゃん、みたいな感じなんだよね。ここまで言われたら、ファンとしてはしょうがないみたいになるよ。  

白楽天って、本当に憎めない人なんだ。こういう幸せな人もめずらしい。

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この世界で忙しくしていると、雪が白いとか花がきれいとか、そういうのを大事に思うことが本当になくなっちゃうよね。雪がふると電車が遅れるのではないかと最初に考えてしまう自分は、全く哀れなものだろう。  いつからそうなってしまったのか。  西日本生まれの私は、少なくても中学生のころは、雪が降ると皿に盛り付けて、ファンタグレープをかけてカキ氷にして食べてたけどな。   

白楽天 「夜雪」   

すでに衾枕(きんちん、枕元の意)の冷たさをいぶかり  
また窓戸の明るさを見る  
夜深くして雪の重さを知る  
時に聞く 竹を折る声   

 白楽天は天才だろうと思う。  

夜、うとうとしていたら、いつもより寒いような気がしてちょっと目が覚めてしまったとする。目を窓に向けると、いつもの夜より少し明るい気がする。雪が積もっているのか、と微かに思う。そして耳を澄ましてみると、笹に積もった雪が滑り落ちたであろう音が聞こえて、ああ、雪が積もっているのだなと微かに確信したという。    
主人公は眼球しか動かしてないから。  
眼球をコンマ何秒か動かしただけで、五言絶句になっちゃうという。  
これを言ってしまうと蛇足だとは思うけれど、「夜雪」を西洋哲学風に言えば、時間の無限分割ということになるだろう。

「上陽白髪の人」という詩は、宮廷の大奥みたいなところに15歳で入った少女が、いろいろあって皇帝と会うこともなく50年たってしまったという話。  抜粋しながら見てみる。前もって言っておくと、この詩はすばらしい出来なんだよね。こういうとなんなのだけれど、普通、古典が面白いなんてない。小説で言えば、森鴎外は?夏目漱石は?モーパッサンは?ゾラは?トルストイは? 読んでみた人はわかると思うけれど、これらの巨匠を読むためには、ある一定以上の我慢強さが必要だ。白楽天は近代の巨匠なるものより一枚上手だ。   

入りし時は十六 今は六十  
同時に採択す 百余人   

大奥で50年たった言ったけれど、正確には44年だね。   44年前、15歳の少女はどのような美貌だったのか。   

皆言う 内に入ればすなわち恩を受くと   
顔は芙蓉に似て 胸は玉に似たり   

繰り返して言うと、「胸は玉に似たり」だから。まあなんと言うか、たまらんね。  さらに、「胸は玉に似たり」と自分で言っちゃっているところが個人的にはプラスポイントだ。   
そんな少女がなぜ皇帝の顔も見れなかったのか。  

いまだ君の面を見るを得るをいれざるに 
すでに楊貴の遥かに側目(そくもく)せらる  

楊貴妃の女らしい警戒心でにらまれちゃったんだよね。  

妬みてひそかに上陽宮に配せしめ   
一生 ついに空房に宿る   

白楽天はここから畳み掛けてくる。   

秋の夜は長し  
夜長くして寐ぬる無く天明ならず  
こうこうたる殘燈 壁に背く影  
蕭蕭たる暗雨 窓を打つ声   

まあこんな感じで長い年月がたってしまったという。  
そして最後、   

青黛 眉を点ず 眉細くして長し  
外人は見ず 見ればまさに笑ふべし   
天宝の末年 時世の粧(よそお)い   

要するに、今の人から見れば、私の眉の描き方なんて流行おくれになっているだろうと、あっさりした感じで嘆くわけだ。   

これほど強力に凝縮された物語世界というのも、そうそう考えにくいだろう。


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白楽天はいい。杜甫よりトータルで上だと思う。詩聖に対して、このようなことを言うと申し訳ないのだけれど、杜甫ってなんだかじめじめしているような気がする。日本で言えば、太宰治みたいな。読んでいてテンションの下がるのは、いい気持ちがしない。   

 白楽天 「長恨歌」 

 玄宗皇帝と楊貴妃との、全く哀れな物語。傾国の美女、楊貴妃のせいで、皇帝は政務をないがしろにして、楊貴妃に溺れる毎日。そして安禄山の乱が起こって、皇帝は都を捨てて逃げる。皇帝の楊貴妃に対する特別な恩寵を不満に思っていた兵士たちは、楊貴妃の処刑を要求するに至る。そして、楊貴妃は死に玄宗皇帝は生き残るという、まあそういう歴史的事実がある。
   

 楊家に娘ありて初めて長成す   一朝 選ばれて君主の側にあり  


傾国の美女楊貴妃現る、というわけだ。では楊貴妃とはどれほどの美貌なのか。「長恨歌」の最初のつかみだ。美人を美人だと表現するにはどうすればいいだろうか。ぶっちゃけて言えば、落とそうとしている女の子になんていえば、その女の子は落ちるかみたいなものだろう。さあどうする? 当たり前の事実だけを言ったのでは、彼女はうっとりしない。   
 

 瞳をめぐらして一たび笑えば百媚(ひゃくび)生じ  六宮の粉黛(おしろいをつけている女たち)顔色なし   


本人を持ち上げておいて、さらに回りを落とすという。あっさりしていて、にもかかわらず効果的という。 よいしょされて、まわりを下げられて、気持ちよくなるななていうのは人間の弱さだろう。その弱さを臆面もなく突いてくる白楽天って憎めないなって思う。

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表現力って、結局意味の強弱だと思う。だらだら喋っていても、ここぞという時に強烈な表現をはさんでいけば、話は全体として締まってくるだろう。何が強烈な実際的な表現なのかというと、漢詩というこもの行き着く。歴史のフィルターというのは人智を超える。  

杜甫の、「茅屋(ぼうおく)の秋風の破るところとなるの嘆き」という詩がある。内容としては、台風のせいで、家の屋根に乗っけていた茅が飛ばされて、その茅を近所の悪ガキに全部パクられてくやしいみたいな、杜甫50歳の時の詩。  

南村の群童は我が老いて力なきをあなどり  

むごくもよく対面して盗賊をなし  

公然 茅を抱きて竹に入り去る  

唇は焦げ口は渇き呼べどもかなわず  

帰りきたり杖によりてみずから嘆息す  

俄頃(がけい) 風は定まりて雲は墨色  

秋天漠々として昏黒に向かう  

たいしたことは言っていないとは思うのだけれど、内容の割には言葉の量が明らかに少ない。意味が、何らかの力で凝縮されている。これは驚くべきことだ。生きる意味がわからないといって、日本では年間に何万人も自殺している。にもかかわらず、意味というのは存在するだけではなく凝縮されうるという。どうせ漢詩なんて誰も知らないのだから、ちょいちょいパクって会話にぶっこんでいけばいいよ。何それとか言われても、怯む必要は全くない。相手はどうせ根拠なしなんだし、こっちは2000年の意味の歴史をパクっているわけだから、根本的に勝負にならない。

或いは出師の表と為り  鬼神も壮烈に泣く 

と文天祥の「正気の歌」にあって、そう言えば諸葛孔明ってどんなんだったかなと思い、本棚をひっくり返し宮川尚志の「諸葛孔明」をひっぱり出しもう一度読んでみた。劉備が孔明に会いに行って、孔明が語るところなんだけれど、このようにある。   

「その巖阻(がんそ)を保ち、西、諸戎を和し、外、孫権に結び、内、政理を修め、天下変あらば、将軍みずから益州の衆をしたがえて、もって秦川にいでなば、百姓たれかあえて箪食壺漿(たんしこしょう)してもって将軍を迎えざる者あらんや」  

これ、孟子だろう。  

孟子って結局、総力戦の思想だと思うんだよね。中国が統一されると、総力戦思想は薄れる。当たり前だ、世界が統一されていて平和であるなら、総力戦などというものをする必要はない。世界が分裂して、自らの生存を賭けて戦わなくてはならない秋において、総力戦思想は現れる。総力戦思想の精髄が孟子であり諸葛孔明であり文天祥であるだろう。   

日本がだよ、明治維新から日清日露、太平洋戦争の大敗北まで、強烈に持ち上げられて今にあるという、この歴史的事実貫くものは、東アジア総力戦思想の伝統だと思う。様々な思想が日本には流れ込んできたと思うけれども、近代日本をここまで持ち上げた一貫した言説は、孔明とかのラインにあるだろう。例えばだよ、箪食壺漿(たんしこしょう)してもって将軍を迎えざる者あらんや というのと、515や226の将校たちの感覚というはかなり近いものがあると思うのだけれど。


    

人が時代によって持ち上げられて、そして真理を観るということはありえると思う。現代日本は何十年も平和で、全くクソみたいな時代が継続しつつあるのだけれど、長い未来には真理が再び顕現するということもありえるだろうと思う。  

文 天祥 正気の歌 

天地に正気あり

(天地には正気がある) 

雑然として流形を授く
(様々に物に形を付与する) 

下れば即ち河岳となり
(地においては川や山となり) 

上れば即ち日星となる
(天においては太陽や星となる) 

人においては浩然といい
(人間世界においては孟子のう浩然の気、即ち強烈な正義感となり) 

沛呼として蒼冥に満つ
(この世界にみっしりと満ちている) 

皇路、清夷に当り
(世界が平和であるときは)  

和を含みて明庭に吐く
(穏やかに正義が正義が実行されることもあるだろう) 

時窮まれば節すなわちあらわれ
(困難な時代には正義としての強力な言説が現れ) 

一つ一つ丹青に垂る
(歴史に残る言葉が人類の魂に書き込まれる)  

文天祥の正気の歌の初めの部分。信じるか信じないかという信仰もあると思う。天地には、科学の枠を超えた正義のエネルギーなるものがあるというのだから。もちろんそんなものを信じない自由というのもある。この世界には意味がないという論理はいつでも成り立つ。この世界に意味がないと思うのなら、いつでも安楽死すればいい。しかし、もし少しでも生きる意味があると思うのなら、文天祥の「正気の歌」の続きを聞きたくはないだろうか。そして期待は裏切られない。論理的に裏切られない構造になっている。

文天祥の「正気の歌」って、現代においては右翼の色が着いていてリベラルの人は食わず嫌いということもあるかもしれない。正気の歌を真っ直ぐに読めば、右とか左とか関係ないのは明白だ。  文天祥は感じた。この世界の正気というエネルギーは時において物質に凝固する。思いは叶う、という現象を越えて、思いは厳然たる物になる。中国の歴史上、強い思いはどのような物となったのか。文天祥はこのように書いた。
   

斉にありては太史の簡  

晋にありては董狐の筆  

秦に在っては張良の椎  

漢に在っては蘇武の節  

厳顔将軍の頭と為り  

嵆侍中(けいじちゅう)の血と為る

張雎陽の歯と為り  

顏常山の舌と為る  

或いは遼東の帽と為り  清操、氷雪よりも厲(はげ)し  

或いは出師の表と為り  鬼神も壮烈に泣く  

或いは江を渡る楫と為り  慷慨、胡羯を呑む  

或いは賊を撃つ笏と為り  逆豎、頭、破裂す 
 

別に全てを訳す必要もないだろう。
例えば最初の「斉にありては太史の簡」というやつ。斉というのは春秋戦国時代に存在した有力国家。紀元前何百年かの時代。当時、中国大陸には多くの国家が存在していて、それぞれの国家がそれぞれに年代記を書いていたらしく、国家事業としての年代記の記述は真実を書かなくてはならないという国家同士に暗黙の了解があったらしい。

しかし、自分に都合の悪いことは書いて欲しくないという権力者がいた。まあ、このような者はどこにでもいるだろうが。斉という国で、歴史を改ざんしようとする権力者の横暴を頑として拒んだやつがいた。

「崔杼(さいちょ)、其の君を弑す」

というやつ。
ここは春秋左氏伝で一番有名なところだろう。岩波文庫「春秋左氏伝」の帯に書いてあるレベルだから。太史の簡の太史とは名もなき記述者であり、簡というのは当時の紙の代わりの竹簡のことだろう。すなわち、正気は名もなき記述者を通して竹簡に凝固したということになるだろう。文天祥はこのような事象を重ねているわけだ。  
意味が物に凝固するってありえると思うんだよね。個人的な思いだって、形見の品とか想い出の物とかになったりする。多くの人の協同の想いが竹簡になったとしても何の不思議もないと思う。

よく思うのだけれど、誰もが永遠に生きようとしていないか? お金が大事だなんていうことになっているけれど、永遠に生きようとするからお金が大事になってはくるのだろう。こういうことを言うと申し訳ないのだけれど、ちょっと頭が足りないんじゃないかと思う。  

永遠に生きるなんていうことはありえない。人類史上延べ何人の個人が存在したのかは知らないけれども、誰一人として生物としての人の時間限界を超えて、何百年も生き続けているという個人としての人間というのは存在しない。当たり前なのだけれど、人は生きるということを考えるのではなく、如何に生きるかということを考えるべきだ。
   
  

この気の磅礡(ぼうはく)する所 凛烈として万古に存す 
(正気で満ちるこの世界 正気は時を越え厳然と過去にも未来にもある)  

其の日月を貫くに当っては 生死いずくんぞ論ずるに足らん  
(太陽や月を、正気が貫くほどの時代にあっては、自分の生死などというものは考慮するに値しない)   

文天祥は、その言論を強力に持ち上げてきたと思う。「生死いずくんぞ論ずるに足らん」だって。本当にそうありたいと思うよ。会社での人間関係がどうとか、あの人の考えていることが分からないとか、自分の居場所がないとか、金がいないとか、ハゲだとか、馬鹿が馬鹿を言っているレベルで、自分もそうなのだけれど、全く恥ずかしいかぎりだ。  

時代と歴史をてこにして、詩によって「生死いずくんぞ論ずるに足らん」と確信する枠組みってすごいよね。現代においては、お金を持ちたいとか、人から評価されたいとか、みんな表面的には考えているとは思うよ。でも本音では、何らかの真理とか何らかの正義とか、そんなものがあったらいいなとか、なんとなく感じていると思う。真理とは逆説だから恐ろしい。生きる意味というのは生死を論ずるにたらないところにあるというのだから。



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