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プラトンの洞窟の比喩の意味を簡単に解説すると、

「より合理的な考え方をしましょう」

みたいなことになります。





【洞窟の比喩とは】


ウィキペディアには、

「洞窟に住む縛られた人々が見ているのは「実体」の「影」であるが、それを実体だと思い込んでいる[1]。「実体」を運んで行く人々の声が洞窟の奥に反響して、この思い込みは確信に変わる。同じように、われわれが現実に見ているものは、イデアの「影」に過ぎないとプラトンは考える」

とあります。
知らずに縛られてしまった人は実体と影を区別することができず、与えられた影を実体と勘違いしてしまうことになるだろうということです。

簡単に考えてしまうと、自分の理解している世界は実体で、気に入らないあいつが理解している世界は影だ、みたいなことになってしまいます。
よくあるのは、韓国の考えている歴史は嘘を教えられた影の歴史であって、日本人である自分の理解する歴史こそが実体である、みたいなことです。

プラトンが語る「洞窟の比喩」というのは、実体と影との二元論ではないです。今いる環境が影だと思って実体の世界に飛び出してみたら、じつはそこも影の世界だったということがありうる、ということが、「洞窟の比喩」の話の中には含まれています。そのように考えないと、プラトンの「国家」という本の中に「洞窟の比喩」が存在する理由が分からなくなってしまいます。

「洞窟の比喩」とは、人間は影の濃い世界から、より実態のある世界へと移行し続けなくてはならないという、知性の決意表明みたいなものだと判断するべきです。


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【夢と現実の差とは】

影を夢、実体を現実、と当てはめてみます。

夢と現実というのは大体は区別のつくものなのでしょうが、厳密に夢と現実の何が違うのかと問われると、ちょっと難しいものがあります。

中国古代の「荘子」のなかに胡蝶の夢というのがあります。書き下し文で書くと、

昔者荘周夢に胡蝶と為る。栩然として胡蝶なり。
自ら喩しみて志に適えるかな。周たるを知らざるなり。 俄然として覚むれば、則ち蘧々然として周なり。
知らず、周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるかを。

とあります。
夢で蝶であるのなら、みじめな現実の自分より蝶である方がましなのではないのか、という含意があると思います。蝶である方がましだと思った瞬間に、夢と現実との区切りが重要ではなくなってくるわけです。

プラトンは「胡蝶の夢」のような、幸福感というか堕落というか、そのような考えを断固拒否するわけです。夢と現実との差というのは、プラトン的に考えれば、より大きくより整合性の高い世界観を上位に置くことによって判断されるべきだ、ということになるでしょう。

【プラトン的世界観の結果】

より大きくより整合性の高い世界観を求めるプラトン的思考は、最後はローマ帝国という巨大な歴史的帝国に結実します。より大きくより整合性の高い社会がより実体的であるとするなら、当時のヨーロッパ地域においてローマ帝国こそが正義の世界であるということになります。少なくても、紀元前後にヨーロッパ地域に暮らしていた人々はローマ帝国こそがより正義を含意していると考えていたでしょう。

中国も同じです。
「荘子」の胡蝶の夢的世界を孔子や孟子の儒家や韓非子などの法家は拒否して、より巨大でより整合性の高い社会こそが実体であるという儒家や法家の考えが主流になります。より巨大な整合性への希求が、秦をへて大漢帝国へと結実します。

【洞窟の比喩の現代的意味】

長い時間の中で大漢帝国やローマ帝国は現れています。
ですから、どちらが影でどちらが実体であるか、というのは長い時間の中で判明してくることがあり得ます。戦前、日本は中国を侵略したということになっています。私は侵略の事実を否定するものではありませんが、当時の日本人には、
「中国がいくら図体がでかいといっても、あんな黄昏の帝国の後に付いていっていたのでは、日本まで西洋の植民地になってしまうだろう。こうなったら、中国を切り従えて日本がアジアの盟主となって西洋と対決するべきだ」
という考えがあっても不思議ではない状況でした。

あれから100年、現状はどうなっているでしょうか。

まさに日本こそが黄昏の帝国。100年前、中国こそが影であると思われていたのですが、冷戦崩壊以降に中国は西洋に猛烈な勢いでキャッチアップしています。

これは中国が蘇ったというより、中国があるべき世界史的地位に復帰しつつあると考えることもできるでしょう。100年前の中国は、影の中に実体を潜めていたわけです。

何が影で何が実体であるかというのは、短い時間軸の中では簡単には知ることは出来ないのです。

【洞窟の比喩再び】

プラトンは洞窟の比喩を「国家」という本の中で語っています。洞窟の比喩とは、国家のような巨大な枠組みの中で語られてこそ意味がある、とプラトンは考えているのでしょう。

「国家」という本は、正義とは何か、という議論から始まります。
正義が何かから与えられるのであれば話は終わりです。私たちはアポロンの神々の言うことに従いましょう、ということになります。

しかしプラトンは、正義ほどの大切な観念は、その根拠を自らの中に持つべきだ、と考えて論理を展開します。
大切な観念は根拠を自らの中に持つべきだ、という思想の中に、より巨大で整合性の高い思想、社会体制、哲学こそが必要だ、という思考パターンが潜んでいます。
ですから「洞窟の比喩」は
単独で理解するべきものではなく、より巨大な歴史の中で理解するべきものでしょう。

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洞窟の比喩とは簡単に言うと、仮象の世界と真実の世界とがあるのなら、人は仮象の世界から真実の世界へ移行するように努力するべきだ、ということを洞窟に閉じ込められた人々を例として述べたものだ。
映画「マトリックス」みたいな話。

ここで大事なのは、仮象の世界と真実の世界とをどのように区別するのか、ということだ。これ、じつは簡単ではない。この今、生きている世界が仮象なのか真実なのか、下手なことを言うと、精神病あつかいされたりするし。

夢と現実との区別というのは難しくて、厳密に二つを区別するという事は原理的にできない。
だからプラトンは、洞窟の中と外という極端な比喩を用いて、夢と現実の区別をつけようとした。

すなわち、より巨大でより整合性の高い世界観を「現実」だとプラトンは洞窟の比喩によって示したことになる。

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プラトンの「国家」において、ソクラテスは「正義を救ってくれ」と懇願される。どういうことかというと、この世の中、多くの物や観念は何らかの役に立つという理由で存在が許されているわけなんだけれど、「正義」ほどの重要観念ならそれ自身の中に存在の価値を確立して欲しいという。「正義」というものが、人から評価されるとかお金が儲かるとか、そういう下賎な価値で支えられるというのではなく、正義が自らの足で立つにはどうすればいいのかというわけだ。

結論から言うと、プラトンは「正義」とは一体性というものと同義であると言う。

プラトンは国家というもので正義を考える。

国家とは血縁でもない多数の人々が身を寄せ合う集団だ。このような国家において、正義を彫刻するためには、国家の成員たる個々人が能力に応じてやるべきことをやり、優秀な指導者を選抜して全体を秩序付け、外に対しては独立を保つという。

いわれてみると、このような国家の周辺には「正義」が立ち現れているような気がしてくる。

正義を示現する強固な一体性を保持する国家の指導者には、どのような選抜、どのような教育がふさわしいだろうか。

一番よくないのは、物にとらわれるということだ。役に立つから価値が高いだろうとか、そういうゲスな勘ぐりは、一体性の保持を目指す正義国家の指導者にはふさわしくないだろう。価値は、外にあるのではなくその中にあるのだから。

指導者にふさわしい教育というのは、物の価値を見定めることではなく、物のむこうにある真理を感得することだ。

そしてその指導者は、研ぎ澄まされた知性によって、自らの勇気と欲望をコントロールし、確立された自分の一体性、自己同一性によって、国家の一体性を維持する指導が期待される。正義とは、個人においても国家においても、一体性、確立された自己同一性のことだから。

太郎さんが3個のりんごを持っていて、1個食べました。残りは何個でしょう」

こういう問題に、元気に2個、とか答えているようでは話にならない。物のむこうにある真理を感得することが必要だ。「太郎さん」とか「りんご」とか「食べた」とか「何個」とか、そんなものは物の価値であって意味がない。大事なことは、3-2,1 ということだけだ。 これの延長線上に数学がある。


プラトンは理想国家の指導者にもっとも必要な知識は数学だ、という。数学は物にとらわれず、観念のみを展開する知識だから。

近代教育は啓蒙だとよく言われるのだけれど、思い出してみると、高校数学なんて啓蒙の域を超えているだろう。あれは選抜だっただろう。選抜というのはどこにでもあるのだろうけれど、科挙なんかもそうだけれども、数学で選抜と言うのがプラトンの影響を感じる。


日本は別に西洋から教育制度を借りているだけで、実は変幻自在の国だろうと思う。辺境国家の強みだ。しかし西洋自身にとってはどうだろうか。逃れられない呪いとなっているのではないだろうか。近代西洋哲学は、プラトンをひっくり返そうとして、どうしてもそれが出来ない。ヘーゲルもニーチェもハイデガーもフーコーも。


確かにプラトンの言説は強力なのだけれど、「国家」の7章まで読む限りは、どうしても相対化できないというものでもないようにも思われる。しかしプラトンの本領はここからだ。

プラトンは、「正義」とは一体性というものの中にこそあるという。

正直これだけ聞くと、正義を限定しすぎなのではないかと思ってしまう。正義といっても、人によっていろいろ解釈があるだろう。

名誉が正義だったり、お金が正義だったり、自由が正義だったり、快楽が正義だったり。

例えば、今日なんかすごく寒いのだけれど、家に帰って、暑い風呂なんかに入ったりすると、

「あったかいって正義だな」

なんて思ったりしないだろうか。

プラトンは、あえて「正義」とは一体性のことだという。国家の正義とは、国家の一体性のことであるし、個人の正義とは個人の一体性、すなわち自分が自分であるところの自己同一性の確立のことであり、正義の社会システムというのは、国家と個人が互いにその一体性を強化しあうシステムだというんだよね。

このようなことが証明できるのだろうか。そんなことはとても無理だと、普通思う。ところが驚くべきことに、正義の根拠をプラトンはみごとに証明した。


国家と個人が互いにその一体性を強化しあう社会システムが機能しなくなったとき、国家は堕落を始めるという。正義の国家は、名誉支配制国家、金持ち支配制国家、民主国家、僭主国家と、この順番に堕落していくという。この移行していくありさまを、プラトンは詳細に書いているのだけれど、それが近代の歴史そのものだ。全てを説明すると長くなってしまうので、金持ち支配制国家から民主制国家に移行するあたりをここで紹介してみる。


フランスでもドイツでもいいのだけれど、分かりやすいように、日本近代をプラトンの論理と比べてみる。

まず「金持ち支配制国家」とは何かというと、財産の評価に基づく国制だ。かつて日本の明治憲法下においては、選挙も議会も存在はしていた。しかしその選挙制度というものは大正14年まで制限選挙だった。ある一定の税金を納めた成人男子のみに選挙権と被選挙権が与えられていた。このような状況の国家が「金持ち支配性国家」と判断されてもしょうがないよね。

プラトンはこの「金持ち支配制国家」についてこのように言う、

「このような国はどうしても一つの国ではなく、二つの国であらざるをえないということだ。つまり、一方は貧乏な人々の国、他方は金持ちの国であって、共に同じところに住み、互いに策謀し合っている」

戦前の歴史を少しでも知るなら、プラトンのこの言葉がたちどころに当時の日本に当てはまることは理解できるだろう。さらにプラトンはこのように言う、


「金持ち支配制国家においてその支配者は、怠慢な態度で放埓な消費を許しておくことによって、、しばしば凡庸ならざる生まれの人々を貧困へと追い込むのだ」

「こうして貧乏になった人々は、針で身を武装して、この国の中でなすこともなく座していることになるだろう。彼らは財産を手に入れた人々に憎しみを抱いて、陰謀をたくらみ、革命に思いを寄せているのだ」

大正昭和初期には多くの暗殺事件があった。今から考えると不思議な感じがするのだけれど、戦前には戦前の論理があったのだろうと思う。

「このような状態にある支配者達と被支配者達とが何かの都合で一緒になる時に、危険のさなかにあって互いを観察しあうような機会があるとしたならば、そのような条件の下では貧乏な人々が金持ちたちから軽蔑されることは決してないだろう。むしろ逆に、しばしば痩せて日焼けした貧乏人が、戦闘に対して、日陰で育ち贅肉を沢山つけた金持ちのそばに配置された時、貧乏人は金持ちがすっかり息切れして、なすすべもなく困り果てているのを目にするだろう」

戦前の軍部にはびこった下克上ってなんだったんだろうね。制度の問題というより、人間としての力関係に原因があるだろう。このことを指摘した者を、私はプラトン以外には知らないけれども。

結局、金持ち支配制国家はどうなるのかというと、

「貧しい人々が戦いに勝って、あるものを追放し、そして残りの人々を平等に国制に参与させるようになった時、民主制というものが生まれるのだ」

二二六事件の実行犯である湯川康平は、戦後、このように語っている。

「二二六の精神は大東亜戦争の終結でそのままよみがえった。 あの事件で死んだ人の魂が、終戦と共に財閥を解体し、重臣政治を潰し民主主義の時代を実現した」

「陛下の記者会見で、
 
記者 おしんは見ていますか
陛下 見ています
記者 ごらんになって如何ですか
陛下 ああいう具合に国民が苦しんでいるとは知らなかった
記者 226事件についてどうお考えですか
陛下 遺憾と思っている

遺憾と思っているという言葉で陛下は陳謝されたと」

湯川康平は、分裂した日本国に、陛下は陳謝されたと解釈したわけだ。

プラトンの言説は、なぜこうも当たるのか。ここでは紹介しないが、他の部分も驚くべき予言力を発揮している。古代ギリシャと近代日本との、はるかなる時空を越えてだよ。

答えは一つしかない。プラトンの最初の設定、「正義とは一体性にこそある」というものが正しいからだろう。自由こそが正義だなどという、民主主義の正義というのは甘いということだ。

西洋近代は、プラトンの予言どおり、名誉制国家、金持ち支配制国家、を経て現在民主国家にまでいたっている。民主国家の後に来るのは、僭主制国家だという。

僭主制国家とは、最も悲惨な国家体制だとプラトンは言う。西洋はこの呪いの言葉を解くことが出来るだろうか?

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プラトンの「饗宴」とは】、6人の話者が順番に愛(エロス)について語るという内容。

これだけ聞けば、「愛」などという漠然としたものについて6人が語り継いでいくって、これだいじょうぶか?と思うだろう。6人それぞれが、自分勝手な愛認識を語って終わりなのではないかというのが疑われる。
しかし実際にこの「饗宴」を読んでみると、6人の話者はそれぞれに非常に有能であって、強力な論理を順番に積み上げ、最後のソクラテスに全てをたくすという構造になっていた。さすがヨーロッパ文明の古典中の古典だと思った。


Justitia, 螂ウ逾�, 豁」鄒ゥ縺ョ螂ウ逾�, 螂ウ逾槭・逵溷ョ�, 豌エ蟷ウ, 逶ョ髫縺�, 豁」鄒ゥ



トップバッターはファイドロス。彼の論理の骨格はこれ。

「愛は素晴らしい。何故なら少年愛が素晴らしいから」

いきなりヤバイことを言いだしたんじゃないの? 
ファイドロスの少年愛に対するこだわりは止まるところを知らない。
愛する少年を持つことほど素晴らしいことはこの世界にはない、とか、
愛する少年の前では卑怯なことは絶対にできない、とか、
戦争において武器を投げ出して逃げるところを愛する少年に見られるくらいなら何度でも死んだ方がマシだ、とか、
故に、愛する者と愛される少年とから成る国家があるとするなら、それは全く無敵の国家となるだろう、とか、
なるほどと。価値観は様々だろうから。

2人目の話者はパゥサニアス。愛には下級、上級の二種類があるという。分けて考える、悪くない。下級の愛というのは、女性に対する肉体目当ての愛。オヤジ最低だよね。では上級の愛とは何かというと、これが少年愛。

また少年愛かよ!

女性の肉体に対する愛が何故低級なのかというと、女性の花時が過ぎ去ってしまうと男はたちまち飛び去ってしまうからだという。それに対して少年愛は二人にとって永続的であるから、より価値があるという。
(評価は控えたい)
パゥサニアスは少年愛に匹敵する愛があるという。それは徳(アレテー)に対する愛だという。
女性の肉体や富に対する献身は恥辱であるけれども、徳(アレテー)や少年に対する献身は恥辱ではない。故に愛するものがその少年と共に徳(アレテー)に向かって行進することが最もすばらしいエロスである、ということになるらしい。
結局、少年愛というのは今で言うプラトニックラブのことだろう。プラトニックラブを足場に徳に向かって進軍することが第一級のエロスだということになる。
ギリシャ的だなとは思うけれど、言いたいことは分からなくはない。

3人目の話者はエリュキシマコス。彼の職業は医者だ。
彼は語る。少年愛のような良いエロス、女性の肉体を求めるような悪いエロスがあるというが、それは人間それぞれの個体の中にもある。調和的なエロスは人を健康にするが、放縦なエロスは人を不健康にする。医者の役目というのは、人にとってどのエロスが調和的でまたどのエロスが放縦かを判断することだ、という。

言論レベルがちょっと上がったんじゃないの?

さらにこう続く。
いま医者から診ての人のエロスについて語ったけれども、同じことが多くのことにに当てはまるのではないかという。例えば、音楽や詩や季節など。よい音楽というのは、エロスと和合とを喚起するところの音楽である。
良いエロスとは周りの事象を調和的にするある種の力だということだろう。
素晴らしいアイデアだ。さすがエリュキシマコスはアスクレピオスの末裔を自称するだけある。

4番目の話者はアリストファネス。職業は喜劇作家。
彼は喜劇作家らしいことを語る。
現在、人間の種類は男と女の2種類なんだけれど、太古においては、二人で一人的な男男、女女、男女という合体的なあり方で人類は存在していたという。人間はその一体性に満足していたのだけれど、満足したが故の傲慢のために神によって二つに分けられた。
それ以後、かつて同性同士くっついていたものたちは同性を捜し求め、男女とつながっていたものは異性を求めるようになったという。
この寓話はどういう意味かというと、エロスとは失われた一体性を回復しようとする渇望だ、ということだろう。
これまでの話のつながりから言うと、アリストファネスは「良いエロスこそが和合として価値がある」という話の中での「良い」という意味を相対化してやろうとしているのだろう。
医者という権威に対して寓話で挑もうというのだ。さすが喜劇作家だけある。

5番目の話者はアガトン。職業は役者。
彼のスタンスは、とにかくエロスを褒め倒そうというもの。
エロスは若くて、精神的に柔軟で、姿はしなやかで、物腰が優雅である、という。

アガトン君、君は具体的な少年を眼前に思い浮かべながら語っていないか?

アガトンのエロス賛美は続く。
何人も強制によってエロスに手を触れることはできない、とか、
エロスと共に歩めば勇気が沸きおこり「アレスさえも敵ではない」、とか、
エロスがひとたび触れれば、これまでムーサ神に無縁であった者ですら巧妙な詩人となる、とか、
アガトンは、何と言うか「口説きモード」に入っているだろう。彼の言説は意味がないように見えるのだけれど、口説くことの大事さそれ自体を教えている。男として生まれてきて、(少年は口説かないけれど)女性の一人も口説かないでどうするか。白馬に乗った王女様が自分を迎えに来るだろう、という考え方が一番危険だ。人はエロスの導きによって上昇していかなくてはならない。

6番目、最後の話者はソクラテス。西洋史上最大の哲学者。
ソクラテスはディオティマという女性から聞いた話を語り始める。
人間の寿命は有限だ。故に永遠を求める。この永遠を求める情熱がエロスだという。男は美しい女性をはらませたいと、ぶっちゃけて言えばヤリたいと。わかりやすいエロスだ。子供が生まれて子孫が続いていくなら、これは永遠だから。
これだと動物と同じで、肉欲に止まっていてはいけない。肉欲よりも精神の方がより人を永遠に導くわけで、精神のエロスに人は移行しなくてはならない。精神のエロス、これすなわち少年愛。

徹頭徹尾、少年愛。

ここまでは前の5人の話者と内容レベルは同じだ。
さらにソクラテスの話は続く。
一人の少年の中に精神の美を観取したものは、自然と多くのものの中に精神の美を見るようになるだろう。多くの少年や様々な職業や制度の中に。これらの美は互いにつながっている。
(これは3人目の話者エリュキシマコスが語っていたことと被っている)
全ての美はつながっているのだから、一人の女性や一人の少年や一つの職業活動に執着するのは、もはやみじめな奴隷的こだわりである。人は美の大海に乗り出し、崇高な思想を生み出しつつ、ついにはこれによって人は力を増し成熟していくという。

これはもう予言だろう。ギリシャのポリス世界からローマという大帝国の世界へ。ローマが何故あのような大帝国になったのかというと、細かい諸事情はあるだろうが結局のところは「全ての美がつながっている」という確信が古代世界にあったからだろう。現代の私達の世界が多くの国々に分裂してあるのは、「全ての美がつながっている」という確信が今だ十分に育っていないからだろう。

ソクラテスの話はさらに続く。
愛の道についてここまで教導を受けたものは、今ようやく愛の道の極致に近づく。最後にいたり人は突如として驚くべき性質の美を感得する。独立自存し永遠で圧倒的な美が彼の前に表れるでありましょう。
生がここまで到達してこそ、美そのものを観るに至ってこそ、人生は生き甲斐があるのです。

これこそが本物のイデア論だろう。

長々と「饗宴」について書いてきた。このレベルの書物になると、世界を説明する哲学ではなくて、世界に命令する哲学みたいなものだろう。ド迫力だよ。


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経験上、この竹田青嗣という哲学者は信用できる。ちょっと踏み込みが浅いところはあるのだけれど。

謨吩シ�, 繧オ繝ウ繝医Μ繝シ繝句ウカ, D, 繧ョ繝ェ繧キ繝」, 蟲カ, 繧「繝シ繧ュ繝・け繝√Ε, 鬚ィ譎ッ


プラトンというと、「プラトン主義」とか「イデア論」とかになって、それに対する批判というのが普通になっている。ありえない批判だと思う。プラトン現物を読んでいないのだろう。竹田先生には、ずばりプラトンを救って欲しいと思う。

竹田先生はまずこのように言う。

「哲学とは、物語を用いず抽象概念を用いて世界説明を行うというルールの設定だ」

いいよー、出だしはいい。
狭い地域の血族集団なら、物語で秩序を維持するということも出来るだろう。しかし広範な地域で秩序を維持しようとするなら、抽象概念を用いた世界説明が人々の間で共有される必要がある。この場合、その抽象的概念は「絶対的真理」よりも「普遍的観念」の方が望ましい。「絶対的真理」というと、排除の論理というものに陥りやすい。「普遍的観念」で秩序を秩序を形成できるなら、より多くの人を巻き込んで秩序を形成できる。
しかしここで問題なのは、「普遍的観念」とは何か、ということだ。

竹田先生はこのように言う。
「プラトンは「客観的真理」という考えではない仕方で、思考の普遍性の可能性を見いだそうとした」

すばらしい。本当にそうなんだよ。イデア論とか言ってしまうと、イデアと物質の二元論ということになってしまう。結局、西洋合理主義はプラトンが源流だということになってしまう。
数学ってあるよね。あれって本当に客観的真理なんだろうか。そりゃー、人類が存在しなくなっても地球は太陽の周りを回り続けるだろうが、客観的真理なんていうものには意味がなくなるのではないだろうか。
「普遍的観念」という場合、人間相互の共通観念という意味が含意されているわけで、神的なものを必要とはしない。そして、プラトンは何をもって「普遍的観念」としたのか。

竹田先生はこのように言う。
「プラトンのイデア論の基本構造は、はじめに世界への欲望とエロスが存在し、これと相関的に世界が分節されているという欲望論的構造を示しているのである」

ちょっと待て、竹田。 詰めが甘いだろう。

欲望が根拠って何なんだ? そこはもっとさかのぼれるだろう。個人的に言わせてもらえば、プラトンの言う「普遍的観念」とは、それぞれの「一体性」のことだろう。国家においては国家の一体性、個人においては、自分が自分であるところの自己同一性。そもそも自己同一性のないところに欲望の充足はないだろう。

竹田青嗣が、プラトンの一体性の思想にたいして詰めが甘いのもしょうがないところがある。ここを掘っていくと、ヒトラーにつながっちゃうんだよね。プラトンの哲人王とヒトラーのナチズムというのは、明確に相関関係がある。せっかく持ち上げたプラトンが、ヒトラーの思想によってけがされるのが忍びないという意識があるのだろう。

この本はすごくいいところまでプラトンを説明していると思う。北村透谷まで持ち出しているのだけれど、この部分は渾身の言説だと思った。


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哲学者とソフィストの違いとは、「真実を求めることと、真実を求めるふりをすることとの差」であるだろう。

螟慕┥縺�, 隘ソ, 豬キ, 繧ケ繧ォ繧、, 螟�, 繝薙・繝�, 繧ョ繝ェ繧キ繝」, Topio

【真の哲学者とは】


納富信留(のうとみのぶる)の「哲学の誕生 ソクラテスとは何ものか」を読んだのだけれど、納富信留なる人物はかなり優秀だと思った。Wikipediaによると、元国際プラトン学会会長らしい。国際プラトン学会なるものがどのようなものか全く知らないのだけれど、プラトンの言説に対する誠実な態度から、彼のプラトン基礎研究というのは信用できると判断した。   

納富信留によると、ソフィストの言説とソクラテスの言説というのは、古代ギリシャにおいてはとりたてて区別されていなかったという。クセノフォンにおいては、ソフィストとソクラテスとはたいして区別がなかったという。  

私がいくらばかげた暇人だからといって、クセノフォンまで読む時間はない。   

プラトンとクセノフォンを読み比べて、プラトンこそがソフィストと哲学者との違いを主張しようとしたという納富信留の思いというのは、受け入れてもいいのではないかな、と考える。    

ではソフィストとソクラテスの違いとは何か?   

真実を求めることと、真実を求めるふりをすることと、いったい何が違うのだろうか。

プラトンによると、ソクラテスは「知の大家」のところに行っては、その知の体系をぶち壊そうとしていたという。この世界には様々な知の体系というものがある。心理学とか、社会学とか数学とか。個人にはこの世界における生活哲学というものもあるだろう。

ソクラテスは、このようなものをグラつかせに、わざわざやってくる。アニメオタクのところに、真実の女の子のほうがよっぽどいいよとリア充が説教しに来るようなものだ。頼みもしないのに、オタク世界を相対化しようとするわけだ。 

ソクラテスは、古代ギリシャ世界において、そこに存在する様々な価値観を相対化しようとした。それに対して、ソフィストは既存の価値観の尻馬に乗ろうとしていた。微妙だけれど、決定的に違う。  

ソフィストというのは単なる知識人で、ソクラテスというのは世界を相対化する者だ。  

ソクラテスが価値観を相対化して世界観がグラついている状況において、プラトンは世界をより合理的なものに再編成しようとした。プラトンとソクラテスというのはセットなんだよね。ソクラテスが社会の価値観を崩して回り、プラトンがその価値観群を再編成するという。プラトンの「国家」という、あの強力な言説集合はこのようにして生まれたと思う。   

このように考えてくると、ヒトラーの「わが闘争」という書物がどのようにたち現れてきたのか分かってくる。ニーチェがソクラテスで、ヒトラーがプラトンに当てはまる。ニーチェは近代の価値観を相対化しようとして、ヒトラーは結果グラついた世界観をより合理的に再編成しようとしたのだろう。だから、プラトンの哲人国家とヒトラーの第三帝国と、結果的に似ているところが現れるのだろう。   

プラトンの言う哲学者とは、真実を確定する者ではなく世界を相対化する者だ。哲学がプラトンに始まるとするなら、ニーチェこそが哲学者で、カントやヘーゲルはソフィストということになる。ニーチェは、「プラトンごときが」と書き散らすところもあり、かなりプラトンを敵視していたけれど、ただ2000年という時の流れが残酷なだけで、ニーチェとプラトンがかなり近いとするなら、それは皮肉なものだよね。  
イロニーだ。

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ソクラテスというのはプラトンの対話編にしか登場しない、だから横溝正史の金田一 耕助みたいななものかと思っていた。  

でもそうでもないんだね。  

紀元前4世紀初頭のギリシャにおいては、ソクラテス文学というジャンルが存在していたらしい。

紀元前5世紀末、ペロポネソス戦争でのギリシャの混乱、アテネの敗北などによって、紀元前4世紀初頭のアテネはきわめて微妙な状況にあったという。価値観が振動するような状況で、様々な言説が自己の論理の正当性を主張しようとしていて、ソクラテスを非難するプロパガンダに対抗する言説集合が、ソクラテス対話編ソクラテス文学ということになるらしい。

様々なソクラテス文学が当時は存在していて、プラトンはそのうちの一つだということらしい。プラトン以外のソクラテス文学というのは、ほぼ失われてしまっているのだけれど、ローマ帝国時代の文献の引用から、ソクラテス文学のいくつかを推測できるという。けっこう大変な作業の集積だろうけど、ご苦労さんだとおもう。ありがたいよ、素人にはここまで出来ない。   

プラトンだけを読むと、プラトンとはとてつもない天才かと思ってしまうのだけれど、やっぱり時代に押し上げられたということもあったのだろう。  

しんみりしちゃうよね。 

プラトンだって、何もかも分かってあの言説を書いたわけではなく、ギリギリのところ、時代の最高到達点を言葉に残したということなのだろう。

プラトンの「国家」を読んだときの、世界がグラつく感覚というのは忘れられない。正確に表現すれば、何が正しくて何が正しくないかという自分の価値体系が微調整される感覚ということになるだろうか。

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プラトンは人間の個別の魂が不死である、とまでは言っていないが、ただプラトンの「国家」の最後に、天国と地獄の言い伝えみたいな説話が採用されている。正義を実行した度合いによって、人間の魂は個々に天国と地獄にある一定時間振り分けられるみたいな。

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【プラトンの魂についての考え方】


プラトンがなぜ「国家」という書物の最後に、このような伝説を収録したのか、ちょっと不思議な感じがする。プラトンぐらい明晰な思考をするなら、無神論を唱えても全く違和感がないしという意味で。   

正義を実行したりしなかったりするから天国に行ったり地獄に行ったりするのだろうか。論理は逆なのではないだろうか。プラトンは、正義を確定したから、天国や地獄に行ったりする個別の魂を必要としたということもありうる。さらに言えば、プラトンが正義を確定しうるような価値の秩序を作ったことによって、個人別の魂というものが必要になったとも考えられる。

これをトータルで考えるとするなら、正義を引き出す価値観の序列を形成するほどの何らかの力が、私達の死後の魂は存在するという推論を、さらにそのアンチテーゼである無神論を支えているだろうと思う。   

死後の魂などという概念や無神論の必然なるものは、ある特殊な社会状況における帰結であって、唯一の形式というわけではない。  

すなわち、死ねば虚無であるということが疑問であるのと同様、死んで個別に魂が天国か地獄かに振り分けられるということも疑問だろう。ただ、この世界で正義を信じたのなら、死んだ後個別の魂が天国か地獄に振り分けられるかもしれないという覚悟は必要だろう。  

魂なるものは真理ではなく設定なんだろう。


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何故プラトンが歴史を予言できたのかということについて話していきたい。

普通に考えれば、未来は予言できない。最高の知性といえども、精密な予言というもの出来なかった。カント、ヘーゲル、マルクス、などもことごとく失敗している。   

ただ一人だけ例外がいる。それがプラトンだ。

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【プラトンの予言】
  

プラトンは「国家」という書物の中で、社会というものは、名誉制国家、金持ち支配制国家、民主制国家、僭主制国家、という順番で堕落していく書いている。

近代のヨーロッパや日本は、実際にそのような過程の歴史を歩んできた。

封建時代の貴族制国家とは名誉制国家とかぶるし、近代に入って選挙で指導者を選ぶという制度が現れたが、収入の多寡によって選挙権が制限されるという制限選挙だった。これは近代国家が金持ち支配制だったという端的な証拠だろう。

現状の先進国は民主制国家まで辿り着いている。プラトン的に言えば、民主制国家まで堕落したということになる。   

民主制国家の後に僭主制国家が現れたとしたら、プラトンの予言は完結する。ヨーロッパやアメリカでの極右の台頭を見ると、プラトンの役満は近いと思う。

しかし、プラトンの言説はなぜこうも未来を予言できるのか。普通に考えれば、プラトンはすばらしい哲学者だったので人間の精神構造が見えたということになるだろう。まあでもこれは、なさげな考えだ。物事を簡単に判断しすぎている。  

私の考えは、プラトンが哲人国家を設定したことによって、社会が貴族国家から下降し始めたのではないのか、というものだ。もっと分かりやすく言うと、プラトンが哲人国家という価値秩序を理想化したために、その理想をよしとし社会自体がその価値秩序を受け入れた場合、社会は哲人国家に向かって上昇するのではなく、僭主国家に向けての下降を始めるという。  

ニーチェも「権力への意思」の中で同じような考え方をしていた。  

プラトンは自分で社会の価値秩序を設定しているわけだから、何も知らない人よりは社会の未来を予言しやすいだろうとは思う。

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プラトンが語るには、国家の歴史的遍歴とは、名誉国家、寡頭国家、民主国家、僭主国家、この順番で移行するというか堕落するという。その移行の具合、それぞれの国家のあり方は、日本やヨーロッパの近代の歩みとほとんど同じだ。これをどう考えればいいのか。  

まあ普通に考えれば、人間には集団としてある決まった歴史を作り上げるシステムが存在するということになる。もう少し丁寧に言えば、人間集団はその社会としてある一定の条件を満たせば、ある決まった歴史パターンシステムが作動するということになるか。 

このような考え方を基本に、例えば明治国家を考えてみる。明治国家は誰が作ったのかという議論がある。伊藤博文が最有力だ。明治憲法も作ったし。明治の歴史にちょっと詳しい人は井上毅(いのうえこわし)という名前を挙げる。明治憲法を実質的に作ったからだ。このような英雄探しといのは不毛ではないだろうか。

  繝医・繝ゥ繧ケ, 譌・譛ャ, 逾樒、セ, 魑・螻�, 鮟偵→逋ス, 繝ゥ繝ウ繝峨・繝シ繧ッ, 螳玲蕗, 繧イ繝シ繝�


【日本の歴史システム】


歴史のシステムが作動したと考えてみる。

幕末の志士は現状の秩序を破壊して、崖の向こうに飛び降りた。そうしたらそこには明治国家的なものがあったということだろう。そして誰かが明治国家的なものを明治国家と名づけたんだ。  

同じように太平洋戦争について考えてみよう。ここでは英雄探しとは逆の戦犯探しというものになる。衆目の一致する悪役は軍部だ。これは死人にくちなしで、全ての責任を押し付けられたという面がある。個人としては、東条英機とか近衛文麿あたりになるか。ひねる人だと西園寺だとかを挙げる人もいるだろう。しかし、英雄探しが不毛だったように、戦犯探しも不毛なのではないだろうか。

真実はだよ、日本人が太平洋戦争という崖の向こうに飛び降りたら、そこには戦後日本的なものが待っていたということなのではないだろうか。そして戦後日本的なものを戦後日本と名づけた。 

226事件で、その首謀者達には破壊衝動があるばかりで、国家建設のプランがなかったと批判する人がいる。しかしそんな批判は的外れだ。自分達が破壊すれば、その後をついで誰かが新しい国を創るだろう、という226事件のあいつらの直感は正しかった。  

そして現代。私たちが迫られている決断というのは、民主国家か僭主国家かのどちらを選ぶかということになる。正確に言うなら、今の民主国家を選ぶのか、もしくは現在の秩序を拒否して、おそらく僭主国家が待ち受けているであろう崖の向こうに飛び込むかということになる。 

個人的には現状維持を希望。

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