「孟子」離婁(りろう)上第4章を考えてみます。

   反(かえ)りて諸(これ)を己に求む

この意味は、まあ何か自分に不都合な事が起こったときにまず自分に欠点があったのではないかと反省してみる、ということです。

当たり前であるけれど、難しい。
  反りて諸を己に求む
いい言葉です。吉田松陰も
「この言葉は全てが帰着する言葉である」
と言っています。反りて諸を己に求むを略して、
「反求」
とまで言っています。

私の勤めている会社の社長が、ある日携帯の充電を失敗したのです。
社長が言うには、
「携帯使えなくて困ったよ。充電したつもりだったんだけど、充電器がいかれてたんだな。充電器が悪いんだよ。なんなんだあの充電器」
充電器が悪いってなんなの? 自分が管理している充電器なんじゃないの? 社長は吉田松陰を読んだ方がいい。「反求」ですよ。でもまさか社長に松蔭読めとはいえないです。私もそれくらいの空気は読めるのです。反求を社長が自分で悟るように話を持っていていってみましょう。

私は、
「充電できなかったのが充電器の責任だと言うのなら、社長には悩みなんかないんじゃないですか? 悪いのは全部充電器なんですから」
社長
「そうなんだよ。ウチの家内に、あんたは責任感がないってよく言われるんだよ」
私、
「社長は悩みがなくて幸せですよ。まあ、悩みがあるとすれば、世界がなんで自分の思い通りにならないのか?ということ位ですね。そこまでいくと悩みと言うか病気ですけど」
社長
「magamin君うまいこと言うねえー。ハッハッハ」

全くダメ。玉砕。救いようがない。孟子読んでも無駄。