孟子は騰文公章句第9章で、楊子、墨子をを批判します。楊子は個人主義を、墨子は博愛主義を主張していたようです。
個人主義と博愛主義の組み合わせ。これを現代的に言えば「民主主義」ということになるのではないでしょうか。
では、孟子はこの民主主義のなにを批判したのでしょうか。

「楊子は我が為にす、これ君を無(なみ)するなり」
楊子は個人主義だから、君臣関係を無視するものである。

「墨子は兼愛す、これ父を無(なみ)するなり」
墨子は博愛主義だから、親子関係の道徳を破壊するものである。

民主主義の精神は道徳のヒエラルキーを破壊します。これは現代において極めて分かりやすい話です。昔の父親というものは今よりも権威があったなんていうことは、多くの父親が感じる事です。楊子、墨子は民主主義の精神を推奨します。孟子は道徳のヒエラルキーを推奨します。2300年前、中国春秋戦国時代、百家争鳴。ワクワクします。

この議論に対する吉田松陰の箚記はどうなっているでしょうか。


松蔭は「初一念」つまり、物事を始める時の最初の志が重要だ、と言います。初一念にもいろいろあって、道義を得ようとするものは上、名誉利益を得ようとするものは下だそうです。
孟子と松蔭との話のつながりが、いまいち明確ではないのですが、おそらく松蔭は、初一念からそれを意志の力でコントロールして、心を民主主義ではなく道徳主義の道へ進ませるべきだ、と言っているのでしょう。

松蔭に言わせれば、現代の日本は下の下です。まず名誉利益を得ようとする、その初一念が下。その初一念のもと努力して立身出世したその結果が下。すなわち下の下です。



孟子における資本主義と道徳主義の優劣比較の話の後で、松蔭はなぜ「初一念」の箚記を記したのでしょうか。
私が考えるに、個々の人間がその社会で何故政治的に中道や左右に分かれるのかという、松蔭の教育者としての疑問の結果ではないでしょうか。

ここに松蔭の凄みを感じます。
私は今まで、リベラルや保守については考えたことはありますが、人間の根源の中にある何がその人間をリベラルや保守に導いているのか、そんなこと考えたことはないです。

金持ちに生まれたら保守で、ドキュンの家に生まれたらドキュン。ああ、そんな答えはダメ。思考力ゼロ。もっと考えるときは、人間の魂に寄り添わないと。その点で、松蔭の「初一念」理論は斬新でかなりいいところまでいっているのではないでしょうか。

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