孟子は騰文公章句上3章で井田(せいでん)制というものを発表します。井田制といのは、人民に田んぼを等しく割り当てるという、現代的に言えばある種の社会主義政策のようなものです。今まで精神論ばかりであった「孟子」において、この井田制論というものは、孟子の政治スタンスを知るのに非常に重要です。

人間を判断するのに一番簡単な方法というのは、その人の政治スタンスを知る事です。真ん中の自由主義なのか、少し左のリベラルか、少し右の保守か、左の社会主義者か、右の国家主義者か。

孟子の井田制を総合的に判断すれば、孟子は社会主義者ということになるとおもいます。

で、講孟箚記で吉田松陰はこの井田制をどう判断したかと言うと、まあ、ほとんどスルーです。

問題は次の「孟子」騰文公章句上4章です。
この中で孟子は、農本主義者の「許行」なる人物を批判します。この許行が言うのは、
「国の基本は農業である。人民は農業共同体のようなものを形成するべきである。君主や貴族も農業に携わるべきである」
ということです。この考えはかなり左になります。一言で言えば毛沢東主義です。孟子は許行の極左ぶりがきにいりません。孟子は井田制を唱えながらも極左の厳しい締め付けはいやなのです。この第3章、第4章を総合的に考えて、さらに現代的な言葉を当てはめれば、孟子は国家社会主義者ということになります。

この「孟子」騰文公章句上4章に対する吉田松陰の箚記は、3章の箚記よりもかなり長くなっています。松蔭は孟子の国家社会主義者ぶりが気に入ったようです。以下に、この章の松蔭の箚記を見てみましょう。

まず孟子に批判された許行に松蔭は同情的です。
「一概に許行を非とせば、大いに非なり」
とあります。松蔭は許行を幕末日本に引きつけて考えていて、武士という非生産階級が農民に対して威張ったり、優雅な生活を見せびらかせたりするなら、農民が許行のような極端な説に流れてしまう事はありえる、だから武士というものは文武に習熟することにより、威張ったり見栄を張ったりという精神的な弱さを克服しつづけなくてはいけない、と言います。
武士道があれば、農本主義も井田制も必要ないということでしょう。

私は、この松蔭の考え方は素朴ではあるが論理的一貫性のある一つの見識だと思います。

支配者層に武士道精神がなくなった昭和初期、農本主義や井田制的農地解放論が出てくるのは歴史の必然なんですね。