孟子の弟子の公孫丑が、孟子にたずねました。
「先生の得意なものは何ですか?」
孟子はそれに答えて、
「人の議論の欠点が分かる事と、浩然の気というものを大切にしている事の二つである」
と言います。
「浩然の気」とは何かと言うと、自分の信念を実行するところの気魄、まあザックリ言ってしまえば、強い正義感みたいなものです。

この孟子の答えは現代的に見ればおかしくないでしょうか?
孔子から孟子にいたる儒家というものは、戦国時代には失われつつある古代の礼儀作法を復活させようというのが、その中心思想であるわけです。ならば、普通に考えれば、王様の葬式の時にはこんなしきたりがあるよとか、王様に子供が生まれたときはこんな祝い方があるよとか、儒家というものは、そういうこと細かい知識の集積をするものではないのでしょうか。

しかし孟子は、正義とはなんなのかということにはあまり興味がないようです。それよりも、正義感、というものを大事にします。
「孟子」を読むと、孟子の正義というものにはぶれがありますが、孟子の正義感というものにはぶれがありません。

我らの吉田松陰は、この孟子の浩然の気を読んでどのように反応したでしょうか?

うん、まさに全肯定。

「頭は刎ねられても、腰は斬られても、操はついに変えず」
松蔭の名文です。
大事なのは気持ちなわけです。誠実さ、「誠」こそ価値あるものなのです。ですから、明治維新前は尊皇攘夷が旗頭だったのですが、その旗頭が明治維新後に尊王開国に変わったとしても、それは孟子的に言えば許容範囲なのです。

大事なのは、気持ですから。