講孟箚記とは吉田松陰が牢屋に入れられたとき、その囚人仲間に「孟子」を解説したものです。

孟子という人は中国の戦国時代(だいたい紀元前400年から200年くらいまで)の人です。中国の戦国時代には七つの大きな国があって、西から、秦、趙、韓、魏、斉、南に楚、北に燕、となります。

これ、めんどくさいようですが、いちおう戦国時代の常識です。

で、題名にある「梁惠王」というのは、梁(りょう)という国の惠という王様のことです。梁というのは七つの大きな国の一つである「魏」という国のの別名です。めんどくさっ、と思った方。戦国時代のマイナールールと思って我慢してください。

「孟子」という書物は、孟子と梁の惠王との会話から始まります。
梁の惠王は孟子に、
「孟子さん、遠いところを私の国までよく来てくれました。わざわざ来てくれたということは、私のこの魏の国の利益になる何かすばらしいアイデアを持ってきてくれたんですよね?」

千里を遠しとせずして来る。また将にもってわが国を利することあらんとするか

孟子は答えます。
「王様というものは、利益というものを期待してはいけません。ただ、仁義のことだけをお気にかけていらっしゃればよろしいのです。

王なんぞ必ずしも利をいわん。ただ仁義あるのみ

この会話を普通に判断すればどうでしょう。孟子はわざわざ遠くから魏まで来ているわけです。それを王様も知っている。弱肉強食の戦国時代、仁義だけで国を維持できるわけないのは、当たり前の話。。仁義の後ろに利益がチラチラ見える気がします。

これを吉田松陰が解説します。
まず松蔭は、
「仁義を実行した後、利益は期待できる」
といいます。ここまでは普通です。しかし、松蔭はさらにこれを押していって、
「仁義を実行した後、利益は自然と期待できる。だから仁義さえ実行すればいい」
といいいます。さらにこれを押して、
「仁義さえ実行すれば、利益なんて考える必要はない」
という境地にまでいたります。

最終的には感動的でさえあります。松蔭はこういいます。
「私達は今、再びこの牢獄から出るという希望のない状況にある。この状況で孟子を学んでなんに成るのであろうか。
しかし、その考えこそ孟子のいう「利」の考えなのだ。
努力によって正しい道を知ることが出たのなら、それは喜ばしい事であり、実行の効果を考えることなど、問題にならない」
さらに幕末の状況にひきつけて、
「ペリーに対する幕府の態度はまことに恥ずかしい。幕府には必勝の覚悟がないからだ。さらにいえば、その幕府の態度こそが「利」の態度なのだ。日本はただ仁義のみを実行すればいい」

吉田松陰は完全に孟子を越えています。その精神は、ほとんど狂気と熱情の間にある。
全てが最高だ。





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