ネタバレあります

【「火星に住むつもりかい?」 あらすじ】

舞台はいつものように仙台です。警察内部に「平和警察」という部署が新設されています。平和警察は、昔の特高や今の公安をもっとたちの悪くしたような部署です。
平和警察は市民を互いに密告させあい、密告を手掛かりに証拠も不十分なまま逮捕し、容疑者を拷問によって自白させます。犯罪者とされた者は、裁判も受けることもなく公開で処刑されることになります。

平和警察を告発するために、3人の男たちが清掃員に化けて、平和警察内部に隠しカメラをつけようとするのですがバレて捕まってしまいます。

捕まった男たちが拷問されようとしているところに、一人の「正義の味方」が現れます。強力な磁石の玉を使って相手の気をそらせている間に木刀でやっつけるという戦い方で、平和警察の職員を10人ほど叩きのめし、捕まった男たちを救出します。

平和警察は「正義の味方」をおびき出すために、公開処刑大会を開催します。

処刑大会当日、平和警察は「正義の味方」が名乗り出ないのならば、その場にいた罪のない人々を何十人か処刑すると宣言します。

名乗り出た「正義の味方」が処刑されそうになった時、平和警察内部の反平和警察派が「正義の味方」を助けることによって、平和警察内のたちの悪い高級官僚を陥れるという結末になります。


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【「火星に住むつもりかい?」 意味の解説】

この作品は伊坂幸太郎の失敗作だと思います。

小さい瑕疵から説明します。

「正義の味方」の武器が磁石というのはどうかな、と思います。敵が身に着けている物の鉄の部分や拳銃などが磁石に引き寄せられて、敵がバランスを崩したり拳銃が無効化したりするのですが、磁石程度のものが、戦闘で簡単に有効活用できるものでしょうか。

「正義の味方」の正体は一般人の床屋です。格闘技経験は、昔、剣道を習っていた程度です。しかしこの床屋が、平和警察内部に単身乗り込んで、10人の警官を叩きのめして3人を救出します。普通に考えたら無理ではないかと思われます。いくら磁石の助けがあると言っても、所詮は磁石ですから。

「火星に住むつもりかい?」は文庫本で500ページあるのですが、これは無駄に長いように思われます。単純にページ稼ぎではないかと思われるところもありますし、さらに、「正義の味方」は平和警察に対抗するための予行演習として、いじめられていた中学生と強姦されそうになっていた女子高生の二人を助けます。

二人も助ける必要はないでしょう。

「正義の味方」が何人助けてもかまわないのですが、小説内では1例をあげれば十分なのではないかと思います。

大きい方の瑕疵を説明します。

「火星に住むつもりかい?」は平和警察支配のデストピアを表現していますが、本文の中で官僚支配の恐ろしさを小林多喜二の拷問死を例にして説明しています。
小林多喜二は拷問死した昭和8年時点では、作家というよりすでに共産党の中核構成員として特高にマークされていました。「火星に住むつもりかい?」で処刑されていく一般市民と小林多喜二とでは、覚悟という点で全く異なります。

「火星に住むつもりかい?」では疑わしいというだけで公開処刑されていく人々を、民衆はただ面白そうに眺めるだけとありますが、現実にはあり得ないでしょう。日本人はそんなにおとなしくはないです。

ネットでは、失敗した人を多くの匿名の人たちが叩くという場面が多くありますが、それは弱い者たちがさらに弱い者たちを叩くという現象であって、弱い者たちの背後には無言で控える強い者たちが存在しています。罪のない人たちが公開処刑をされそうになったのなら間違いなく暴動が起こるでしょう。

太平洋戦争の原因を、反戦という正しいことを正しいと言えなかったからだと考えてしまうと、悪の権化である軍部官僚制が日本を泥沼の戦争に引きずり込んだということになってしまうのですが、実際はそのようなものではないです。
戦争という悪の目的のために、軍部高級官僚が国民を悪の方向に先導したというのではやはり無理があります。
もう一つ。

「火星に住むつもりかい?」で、偽善とは特定の人だけ助けて全員を救わないこと、みたいな定義になっています。
誰かを助けたなら、困っている人すべてを救わないと、最初に救った人に対する善は偽善であるという論理なのでしょう。

「火星に住むつもりかい?」の主人公は、一人を救ったなら他の全ての困っている人を救わなくては、のようなプレッシャーがあるようですが、弱いくせにとてつもないヒーローになろうとする気持ちの持ちように無理があります。

できる範囲で人を助けたのなら、自分の力及ばない所は人に任せるというような考え方で十分に善は実行できるでしょう。自分がすべての善を実行できないからと言って、自分のなした善が偽善であるなんて、

自分の能力を買いかぶるなよ

という話になるでしょう。
そもそも偽善とは、行動と気持ちの差を意味する言葉であって、いいことをしようと思っていいことをするならば、それは直ちに善でしょう。

作家が善について難しく考える必要はなくて、ただそれぞれの人ができる範囲で他人に優しくすればいいだけの話です。

【結論】

伊坂幸太郎は、社会の秩序の崩壊を心配するあまり、無理に正義のヒーローを作らなくてはならないという強迫観念にとらわれてしまっているのではないでしょうか。

そのような無理なことを考えないで、殺し屋が主人公のような読者を喜ばす方向に転換してほしいです。



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