プラトンの洞窟の比喩の意味を簡単に解説すると、

「より合理的な考え方をしましょう」

みたいなことになります。





【洞窟の比喩とは】


ウィキペディアには、

「洞窟に住む縛られた人々が見ているのは「実体」の「影」であるが、それを実体だと思い込んでいる[1]。「実体」を運んで行く人々の声が洞窟の奥に反響して、この思い込みは確信に変わる。同じように、われわれが現実に見ているものは、イデアの「影」に過ぎないとプラトンは考える」

とあります。
知らずに縛られてしまった人は実体と影を区別することができず、与えられた影を実体と勘違いしてしまうことになるだろうということです。

簡単に考えてしまうと、自分の理解している世界は実体で、気に入らないあいつが理解している世界は影だ、みたいなことになってしまいます。
よくあるのは、韓国の考えている歴史は嘘を教えられた影の歴史であって、日本人である自分の理解する歴史こそが実体である、みたいなことです。

プラトンが語る「洞窟の比喩」というのは、実体と影との二元論ではないです。今いる環境が影だと思って実体の世界に飛び出してみたら、じつはそこも影の世界だったということがありうる、ということが、「洞窟の比喩」の話の中には含まれています。そのように考えないと、プラトンの「国家」という本の中に「洞窟の比喩」が存在する理由が分からなくなってしまいます。

「洞窟の比喩」とは、人間は影の濃い世界から、より実態のある世界へと移行し続けなくてはならないという、知性の決意表明みたいなものだと判断するべきです。


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【夢と現実の差とは】

影を夢、実体を現実、と当てはめてみます。

夢と現実というのは大体は区別のつくものなのでしょうが、厳密に夢と現実の何が違うのかと問われると、ちょっと難しいものがあります。

中国古代の「荘子」のなかに胡蝶の夢というのがあります。書き下し文で書くと、

昔者荘周夢に胡蝶と為る。栩然として胡蝶なり。
自ら喩しみて志に適えるかな。周たるを知らざるなり。 俄然として覚むれば、則ち蘧々然として周なり。
知らず、周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるかを。

とあります。
夢で蝶であるのなら、みじめな現実の自分より蝶である方がましなのではないのか、という含意があると思います。蝶である方がましだと思った瞬間に、夢と現実との区切りが重要ではなくなってくるわけです。

プラトンは「胡蝶の夢」のような、幸福感というか堕落というか、そのような考えを断固拒否するわけです。夢と現実との差というのは、プラトン的に考えれば、より大きくより整合性の高い世界観を上位に置くことによって判断されるべきだ、ということになるでしょう。

【プラトン的世界観の結果】

より大きくより整合性の高い世界観を求めるプラトン的思考は、最後はローマ帝国という巨大な歴史的帝国に結実します。より大きくより整合性の高い社会がより実体的であるとするなら、当時のヨーロッパ地域においてローマ帝国こそが正義の世界であるということになります。少なくても、紀元前後にヨーロッパ地域に暮らしていた人々はローマ帝国こそがより正義を含意していると考えていたでしょう。

中国も同じです。
「荘子」の胡蝶の夢的世界を孔子や孟子の儒家や韓非子などの法家は拒否して、より巨大でより整合性の高い社会こそが実体であるという儒家や法家の考えが主流になります。より巨大な整合性への希求が、秦をへて大漢帝国へと結実します。

【洞窟の比喩の現代的意味】

長い時間の中で大漢帝国やローマ帝国は現れています。
ですから、どちらが影でどちらが実体であるか、というのは長い時間の中で判明してくることがあり得ます。戦前、日本は中国を侵略したということになっています。私は侵略の事実を否定するものではありませんが、当時の日本人には、
「中国がいくら図体がでかいといっても、あんな黄昏の帝国の後に付いていっていたのでは、日本まで西洋の植民地になってしまうだろう。こうなったら、中国を切り従えて日本がアジアの盟主となって西洋と対決するべきだ」
という考えがあっても不思議ではない状況でした。

あれから100年、現状はどうなっているでしょうか。

まさに日本こそが黄昏の帝国。100年前、中国こそが影であると思われていたのですが、冷戦崩壊以降に中国は西洋に猛烈な勢いでキャッチアップしています。

これは中国が蘇ったというより、中国があるべき世界史的地位に復帰しつつあると考えることもできるでしょう。100年前の中国は、影の中に実体を潜めていたわけです。

何が影で何が実体であるかというのは、短い時間軸の中では簡単には知ることは出来ないのです。

【洞窟の比喩再び】

プラトンは洞窟の比喩を「国家」という本の中で語っています。洞窟の比喩とは、国家のような巨大な枠組みの中で語られてこそ意味がある、とプラトンは考えているのでしょう。

「国家」という本は、正義とは何か、という議論から始まります。
正義が何かから与えられるのであれば話は終わりです。私たちはアポロンの神々の言うことに従いましょう、ということになります。

しかしプラトンは、正義ほどの大切な観念は、その根拠を自らの中に持つべきだ、と考えて論理を展開します。
大切な観念は根拠を自らの中に持つべきだ、という思想の中に、より巨大で整合性の高い思想、社会体制、哲学こそが必要だ、という思考パターンが潜んでいます。
ですから「洞窟の比喩」は
単独で理解するべきものではなく、より巨大な歴史の中で理解するべきものでしょう。

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