梶井基次郎の「桜の樹の下には」は、「桜の樹の下には屍体 が埋まっている!」という出だしで始まります。
なぜ梶井基次郎はいきなり、「桜の樹の下には屍体 が埋まっている!」などと言い出したのか。結論から言うと、梶井基次郎はある出来事によって生と死はつながっているというインスピレーションを得て、そのインスピレーションを桜に応用した、ということです。
この考えを基本にして、「桜の樹の下には」を読んでみましょう。
【桜の樹の下には屍体 が埋まっている!】
「桜の樹の下には」の最初のほうに、このようにあります。
『桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった』
いったい梶井基次郎に二三日前、何があったのか。
彼は渓谷を歩いていたのです。するとウスバカゲロウの大群が上空に登っていくのが見えました。
「ほう、美しい」
と感嘆して、ふと下を見ると、大量のウスバカゲロウの死骸が水面に浮いていました。この出来事で、彼は生と死はつながっている、というインスピレーションを得たのでしょう。
実際にはこのように書かれています。
『何万匹とも数の知れない、薄羽かげろうの屍体だったのだ。隙間なく水の面を被っている、そこが、産卵を終わった彼らの墓場だったのだ。
俺はそれを見たとき、胸が衝 かれるような気がした。墓場を発 いて屍体を嗜 む変質者のような残忍なよろこびを俺は味わった。』
しかし桜の美しさを生の結果としても、ではその美は何の死とつながっているのか?
そこで彼が思い出したのが「安全剃刀の刃」です。
家にあるいろいろな物の中で、彼にとってなぜか安全剃刀の刃はなぜか存在感がある。桜の存在感と安全剃刀の刃の存在感は同じ子ではないのかと彼は考えます。
実際にはこのように書かれています。
『安全剃刀の刃なんぞが、千里眼のように思い浮かんで来るのか――おまえはそれがわからないと言ったが――それもこれもやっぱり同じようなことにちがいない。』
そして急に、ああそうだと、桜の樹の下には屍体 が埋まっているんだと思うに至ります。
この辺は論理の飛躍みたいなものがあるので、少し言葉を埋めてみたいと思います。
死というものが、美しさを感じる気持ちや恐怖感につながっている。そして美や恐怖は桜や安全剃刀の刃のような物に結実するのです。
普通は桜や安全剃刀の刃が、美しいと思う感情や恐怖感を引き起こすと考えるのですが、梶井基次郎は、この常識を逆転して、美しいと思う感情や恐怖感が桜や安全剃刀の刃という物質に結実する、というわけです。
「桜の樹の下には」の最期のほうでこのようにあります。
『――おまえは腋 の下を拭 いているね。冷汗が出るのか。それは俺も同じことだ。何もそれを不愉快がることはない。べたべたとまるで精液のようだと思ってごらん。それで俺達の憂鬱は完成するのだ。』
これは分かりにくいところでしょうが、これまでの論考に準じて考えると、
わきの汗というのは、恐怖感を抱いたときにかくものではなく、死につながっている恐怖感が汗という 物質に結実していると。だからその物は汗である必要性はなく、精液でもかまわないだろう?
という程度の意味だと思います。
そしてこの短編の最期の部分である
『今こそ俺は、あの桜の樹の下で酒宴をひらいている村人たちと同じ権利で、花見の酒が呑 めそうな気がする。』
というのは、美しさというのを頭で考えていたのでは、美そのものに到達することは出来ない、ということでしょう。
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なぜ梶井基次郎はいきなり、「桜の樹の下には
この考えを基本にして、「桜の樹の下には」を読んでみましょう。
【桜の樹の下には
「桜の樹の下には」の最初のほうに、このようにあります。
いったい梶井基次郎に二三日前、何があったのか。
彼は渓谷を歩いていたのです。するとウスバカゲロウの大群が上空に登っていくのが見えました。
「ほう、美しい」
と感嘆して、ふと下を見ると、大量のウスバカゲロウの死骸が水面に浮いていました。この出来事で、彼は生と死はつながっている、というインスピレーションを得たのでしょう。
実際にはこのように書かれています。
『何万匹とも数の知れない、薄羽かげろうの屍体だったのだ。隙間なく水の面を被っている、そこが、産卵を終わった彼らの墓場だったのだ。
俺はそれを見たとき、胸が
しかし桜の美しさを生の結果としても、ではその美は何の死とつながっているのか?
そこで彼が思い出したのが「安全剃刀の刃」です。
家にあるいろいろな物の中で、彼にとってなぜか安全剃刀の刃はなぜか存在感がある。桜の存在感と安全剃刀の刃の存在感は同じ子ではないのかと彼は考えます。
実際にはこのように書かれています。
『安全剃刀の刃なんぞが、千里眼のように思い浮かんで来るのか――おまえはそれがわからないと言ったが――それもこれもやっぱり同じようなことにちがいない。』
そして急に、ああそうだと、桜の樹の下には
この辺は論理の飛躍みたいなものがあるので、少し言葉を埋めてみたいと思います。
死というものが、美しさを感じる気持ちや恐怖感につながっている。そして美や恐怖は桜や安全剃刀の刃のような物に結実するのです。
普通は桜や安全剃刀の刃が、美しいと思う感情や恐怖感を引き起こすと考えるのですが、梶井基次郎は、この常識を逆転して、美しいと思う感情や恐怖感が桜や安全剃刀の刃という物質に結実する、というわけです。
「桜の樹の下には」の最期のほうでこのようにあります。
『――おまえは
わきの汗というのは、恐怖感を抱いたときにかくものではなく、死につながっている恐怖感が汗という 物質に結実していると。だからその物は汗である必要性はなく、精液でもかまわないだろう?
という程度の意味だと思います。
そしてこの短編の最期の部分である
『今こそ俺は、あの桜の樹の下で酒宴をひらいている村人たちと同じ権利で、花見の酒が
というのは、美しさというのを頭で考えていたのでは、美そのものに到達することは出来ない、ということでしょう。
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