自己肯定感が低いというのは、自分が周りの人に比べて劣っているとか、いろんなことをうまくできない自分が何だか恥ずかしいとか、そのような意味だと思います。



「フリー画像 イラスト」の画像検索結果



【恥ずかしいとは?】


「恥ずかしい」とは、あるべき自分と現在ある自分とのギャップから発生する感情でしょう。

ああー、自分は彼らのような立場にいるべきなのに、今のような境遇に甘んじている。彼らに比べたら自分はダメだ、恥ずかしいと。

例えば、自分はかつて有名大学に通っていたとします。ところが途中でドロップアウトして、今ではトラックの運転手をしていると。
今の職業が自分にふさわしくないと思っているなら、大学の友達の前に出れば、自分を恥ずかしいと思うでしょう。
ところが、今の職業は自分に合っていると考えているなら、恥ずかしいとは思わないです。

自己肯定感が低いとは、今の自分とあるべき自分との間にかなりのギャップがあるということで、自分が分裂している状態では、一体性という幸せな状態に至ることは出来ません。

一体性こそが幸せなのです。
おいしいものを食べることが幸せなのは、おいしいものと一体になれるからです。
彼女がいるのが幸せなのは、好きな女性と一体になれるからです。

あるべき自分と今の自分が分裂している自己肯定感の低い状態は、ただちに不幸であると言えます。ですから、自己肯定感が低いから不幸なのではなく、自己肯定感の低さは、ただちに不幸であるということになります。


【自己肯定感の低さの解消】


自己肯定感の低さの解消というのは原理的には簡単です。あるべき自分という幻想を放棄して、今ある自分に自分を統一すればいいのです。

でもこれは、言うは易し行うは難し、です。そんなことは無理だろうと言われるでしょう。


【彼の場合】


有名大学に行って、トラックドライバーをしている彼の場合で考えてみましょうか。

彼はどうすれば救われるか。救われるパターンを考えてみましょう。

そもそも彼はなぜ有名大学に入れたのでしょうか? 
それは高校時代に勉強ができたからです。なぜ勉強ができたのかというと、ただ単にやってみたらできたからです。数学なんかもある程度までなのですが、パッと分かってしまうのです。学校に行くのはダルかったのですが、テストの時にやる気がないからといって、分かる問題を白紙回答するなんてありえないです。

テストでいい点数を取っていたら、君はこの大学だねと学校側から割り振られて、それなりに頑張ったら大学合格したという。
大学というのは、行っても行かなくてもいいわけで、やる気のない彼は大学に行かなくなりました。ただ無職だと食べて行かれないので、トラックの運転を始めるようになったら、何だか意外と居心地がよくて10年20年たってしまいました。

労働者の人って意外といい人たちなんですよね。給料日前、同僚に1万円を貸してくれと言われます。お金を貸すということはお金をあげるのと同じことだと、世知辛い世の中では教えられるわけです。彼もお金は帰ってこなくてもしょうがない、というつもりで1万円を渡します。ところが給料日当日、同僚は一万円を返しながら、

「ありがとね、これうちのカミさんが作った焼き豚」

と言いながら、なんだか味の濃そうなパック入りの焼き豚を差し出してきます。
みんなで助け合って生きているんだなー、と彼は感じます。
彼にとっては、気取った一流大学よりも、味の濃い焼き豚のほうが何だかほっとするのです。


このような話を考えた場合、あるべき自分を放棄して、今ある自分に自分を統一するということは全く無理ということはないです。


【歴史】


自分にあるべき自分を期待しているだろう人たちは、なぜそんな期待をしているのかというと、彼らも周りからあるべき自分の達成を期待されているからです。

壮大な循環になっています。

いつからそんなことになってしまったのかというと、歴史的にみれば、農民身分の上層部分は西南戦争後、農民身分の中層部分は第一次大戦後ぐらいから、そして下層階級まで一億総中流と言い出したのは昭和40年ぐらいでしょうか。

あるべき自分と今ある自分とのギャップというのは何らかの真理というものではなく、単に歴史的条件にすぎません。

自己肯定感の低さの解消というのは、全く無理というものではないと思います。