その内容というのは、
こだわりや気取りなんていうものは、結局人を弱くする。人は現実の生活の中からこそ強い自分を作るべきだ、
ということを主張するものです。
「続堕落論」は、日本人のつまらないこだわりを一つ一つ挙げながら、最後に
「戦前のように気取れなくなったからといって、いつまでめそめそしてるんだ!!」
と絶叫するかのようなパターンをいくつも積み重ねていく、という構成になっています。
実際に見ていきましょう。
【続堕落論】
最初は新潟の石油成金の話。
『中野貫一という成金の一人が産をなして後も大いに倹約であり、安い車を拾うという話を校長先生の訓辞に於て幾度となくきかされたものであった。百万長者が五十銭の車代を三十銭にねぎることが美徳なりや。』
金持ちが小銭を節約するのが美徳とされるような気取った社会なんてウンザリだっただろう、というわけです。
次は農村文化の話。
『戦争中は農村文化へかえれ、農村の魂へかえれ、ということが絶叫しつづけられていた。一口に農村文化というけれども、そもそも農村に文化があるか。文化の本質は進歩ということで、農村には進歩に関する毛一筋の影だにない。』
気取った都会人が農村にあこがれて農業を始めてみても、現実は厳しいというのは今でも同じです。
次は、額に汗することが大切だというこだわりについての反論。
『必要をもとめる精神を、日本ではナマクラの精神などと云い、五階六階はエレベータアなどとはナマクラ千万の根性だという。すべてがあべこべなのだ。真理は偽らぬものである。即ち真理によって復讐せられ、今日亡国の悲運をまねいたではないか。』
そんな非合理なことだから戦争に負けたんだ、と言われたら何も言い返せません。
そして、天皇制とは、日本がこだわりや気取りで首が回らなくなった時のための安全弁みたいなものであるという話。
『たえがたきを忍び、忍びがたきを忍んで、朕ちんの命令に服してくれという。すると国民は泣いて、外ならぬ陛下の命令だから、忍びがたいけれども忍んで負けよう、と言う。嘘をつけ! 嘘をつけ! 嘘をつけ!我等国民は戦争をやめたくて仕方がなかったのではないか。そのくせ、それが言えないのだ。』
気取った左翼が天皇制は必要ないなんて言うことがありますが、彼らのような人にこそ天皇制は必要なのでしょう。
【堕落とは】
坂口安吾は、このようにこだわりの馬鹿馬鹿しさを列挙して、気取って持ち上げられた世界からの離脱、すなわち堕落を叫びます。
真実の大地に降り立ち、好きな女には好きと言って、互いに裸で抱き合え、というわけです。
好きあった男と女が真実の大地に降り立ち裸で抱き合うというのは、はるか昔から変わらない真理でしょう。
しかし、この堕落の話は終戦直後の混乱期だったから説得力があったので、いまの平和な時代で堕落とかしていたらまずいのではないのか、という意見はあると思います。
妻や子供がいる立場で淪落の恋とか、あまり自分勝手なことをして人を傷つけてもどうなのかとは思います。
こういう意見に対して坂口安吾は、
『善人は気楽なもので、父母兄弟、人間共の虚しい義理や約束の上に安眠し、社会制度というものに全身を投げかけて平然として死んで行く。だが堕落者は常にそこからハミだして、ただ一人曠野こうやを歩いて行くのである。善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや、とはこの道だ。』
といいます。
歎異抄の有名な部分のなぞ解きまでされては困りましたね。
これはギリギリの場面での話であって、オヤジがキャバクラでキャバ嬢に入れあげいていいということではないでしょう。
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