大江健三郎は自らの短編を、その古い順番で読んでいくと、戦後日本の精神史になっていると言っているので、おすすめ短編を古い順番に紹介していきます。

目次
1 奇妙な仕事 1957年5月
2 セブンティーン 1961年
3 空の怪物アグイー 1972年
4 レイン.ツリーを聴く女たち 1982年
5 連作 静かな生活 1990年
6 新しい人よ眼ざめよ 1983年
7 河馬に噛まれる 1985年
8 火をめぐらす鳥 1992年




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「奇妙な仕事」


話自体は大学病院の不要になった実験動物の犬を150匹殺す話で、登場人物は4人。  
犬の殺し方にこだわりを持つ、30歳ぐらいの犬殺しのプロ。後3人はお手伝いのバイト。犬殺しに根本的な疑問を持つ院生の男と、クールで芯の強い若い男と女。  

構造が村上春樹の「ノルウェーの森」そのままだと思った。どういう構造かというと、まじめで弱い人間を踏み台にしながら、こだわりを持つ男に支えられて、クールな男と女はいい感じで盛り上がるということ。  

話の構造も似ているのだけれど、「奇妙な仕事」の主人公の男の話しぶりが、「ノルウェーの森」の主人公とかぶるような。 「奇妙な仕事」の主人公と女子学生との会話での主人公パートを抜粋してみる。  

「たいへんだな、と目をそむけて僕はいった」 
「火山を見に? と僕は気のない返事をした」 
「君はあまり笑わないね、と僕はいった」  

同じ構造、同じテンションで、同じようなことを言われると、そこには否定しがたい同一性が認められると思う。大江健三郎と村上春樹の同一性、これはもちろん村上春樹がオマージュしたのだろうと思うのだけれど、そのあたりのことを調べたらちょっと面白いかも、とは思う。


「セブンティーン」


17歳の弱い青年が、右翼に入って強くなるという話
「セブンティーン」の主人公の青年は、自己同一性が怪しい。  

「この世界の何もかもが疑わしく、充分には理解できず、 なにひとつ自分の手につかめるという気がしない」

と感じている。   
17歳の少年はどうすればいいのだろうか? クールで無関心な青年になるのはお断りだ。   
17歳の少年の父親というのは学校教師で、頼りにならないインテリとして描かれている。家族はあてにならない。国家としての日本は、太平洋戦争でのあの大敗北だ。  
どうするか、17歳の少年はどうやって救われるのか?   

この少年が皇国思想によって救われたからといって、いったい誰が批判できるだろうか。   
この少年が、社会党の浅沼委員長暗殺事件の犯人のモデルだとして、それは「セブンティーン」が直ちに右翼批判小説であるということにはならない。


「空の怪物アグイー」


主人公の知り合いの男が狂人なんだよね。ショックな事件があって、それ以来彼には、カンガルーのような巨大な赤ん坊のような何者かが、自らの傍らに突然舞い降りるようになったという。彼はその何者かをアグイーと名づけた。  
主人公もその影響を受けて、突然舞い降りる何者かが見えるようになったという。   

狂気の話なんだよね。  

居場所を失った若き魂はどうすれば救われるのか、というのが、大江健三郎のテーマだったと思う。そのような意味で、「セブンティーン」では、皇国思想を取り上げた。「空の怪物アグイー」では、狂気によって救われる若者を描いたのだろう。   

しかし、狂気によって救われるということは、近代社会においては難しい。  
近代においての狂人の地位というのは、過去と比べてえらく低い。明治の中ごろまでは、狂人は村の中をふらふらすることが認められていて、村人から愛される馬鹿みたいな扱いだった。

現代ではどうだろうか? 狂人は、精神病院に収容されるか、個人の家に隔離されるか、あれではほとんど人間扱いとはいえないだろう。  

狂気によって救われるということは、近代においては狭き門になった。  

狂気によって救われることは難しい。空の怪物をアグイーと名づけた青年も救われなかった。   
純真な青年が救われるためにはどうすればいいのかっていうことになる。


「レイン.ツリーを聴く女たち」


レインツリーとは、ハワイの精神病院の庭に立つ巨大な木の名称
主人公の大学時代の同級生に高安カッチャンという人物がいて、これがいきがって大学を辞めてアメリカにわたって全く成功しなかったという、救われないオヤジなんだよね。この救われないオヤジ高安カッチャンが、いかにして救われるかというのが、この小説のテーマだ。

高安カッチャンは自分が救われるために奇妙な論理を実践する。大学の同級生で成功したやつと女性を共有すれば自分も救われるみたいな。なくはない論理だと思うけれど、いきなりそんなこと言われても、というのはある。

若い人も救われにくかったけれども、オヤジの場合は絶望的に救われない感じたね。救われないオヤジのそばにそびえるレイン.ツリーというわけ。


「新しい人よ眼ざめよ」



学校の合宿に出かけるとき、知的障害のある大江光さんは、父大江健三郎にこのように言う。  

「しかし僕がいない間、パパは大丈夫でしょうか? パパはこのピンチをよく切りぬけるでしょうか?」  

救うものと救われるものとの逆転。  
知的障害の息子が、戦後日本を代表する作家の父親の魂を救うという。けっして奇跡ではなく、大江健三郎が誠実に子供の声に耳を傾けた結果ではある。   
「新しい人よ眼ざめよ」のなかでは、大江光さんとの会話以外にも、いろんなことが並立的に書いてある。ブレイクの詩がどうだとか、二十歳のころ付き合っていた女性と20何年か後に再開しただとか、キリストの救いだとか、最後の審判についてだとか。  

まあそのような逸話は、たいした意味はないだろう。いうなれば、大江光さんの言葉の引き立て役ということだ。


「河馬に噛まれる」


日本赤軍のリンチ殺人事件での高校生メンバーで便所掃除係りだった少年が、十何年後かに大江健三郎とちょっと文通をして、その後アフリカで暮らしているっていう話だった。

かつて少年だったコイツが、アフリカでカバに噛まれるんだよね。そして現地で「河馬の勇士」という称号をちょうだいしたらしい。だからといって、別に何か冒険が始まるというわけでもなく、彼はアフリカで車の整備なんかをしながら生計を立てるようになる。ぱっとしない人生といえばその通り。唯一つの勲章は、カバに噛まれたということだけ。

大江健三郎の知り合いの女の子が、「河馬の勇士」に会いに行って、大江健三郎の悪口を言う。それに対して「河馬の勇士」はこのように答える。

「大江は大江で自分のカバにかまれているのじゃないか?」

大江健三郎にとってのカバとは何か、というのははっきりとは書かれていないのだけれど、イーヨーのことだと思う。たいした人生ではないけれど、自分の勲章はイーヨーに噛まれたことだというわけだろう。


「連作 静かな生活」


構造的には、「連作 新しい人よ眼ざめよ」と同じ。語り手が、大江健三郎から、大江健三郎の娘に代わっているだけ。知的障害者である長男イーヨーに家族が救われるというパターンに変わりはない。

大江健三郎とイーヨーとは、ちょっとかみ合わないところがあって、その辺のところを長女や次男にフォローしてもらっていた場面がいままで何度かあった。  
今度は長女が語り手で、父親のデリカシーのないところをチクリとやるところなんて、うまいよなーって思った。

長女と次男、長女とイーヨーの音楽の先生との間で、ロシアの「案内者」という映画について、結構長々と喋っていたりする。しかし、このような芸術論はたいして意味はない。そもそも、イーヨーの音楽の先生は、この映画を観ていないのだから。 キリストがどうとか、アンチクリストがどうとか、凡人がぐだぐだ言っているレベルだろう。

いいところは、最後にイーヨーが全部持っていくというやつだね。
それで何の問題もないよ。

私は、大江健三郎を実際に読む前は、彼をとぼけた左翼作家だと思っていた。しかしこのおとぼけけ振りというのは、イーヨーを持ち上げるための演技の可能性が高い。イーヨーを持ち上げることで、他の知的障害者もまとめて持ち上げようということだろう。

はっきり言って、現代社会の知的障害者にたいする扱いはひどい。多くの人が、こんな人間なら生まれてこなかったほうが幸せだったろう、と心の中では思っているだろう。そんな弱い心を、あえてひっくり返そうとするのだから、すごいよ。

大江健三郎を気に入らない人がいるとして、彼が大江健三郎を批判すれば批判するだけ、大江健三郎はぐだぐたになって、そのぶんイーヨーが持ち上がるという、そういうシステムになっている。


「火をめぐらす鳥」


大江健三郎は、知的障害者の子供が生まれて、この子供を救おうと決心したのだろう。しかし、人を救うとは何か? 人を救うなんていうことはできるのか? 自分でさえ救われていないのに?  

子供とかかわるうちに、いつしか論理は逆転する。

養護学校の泊りがけの合宿に行こうとする息子を心配して、父親は語りかける。

「イーヨー、大丈夫か、一人で行けるか?」

子供は答える。

「お父さんは大丈夫でしょうか? 私がいなくても大丈夫でしょうか?」

救うものが救われて、救われるものが救う、そういうことってありえると思う。

「火をめぐらす鳥」のなかで、「私」は障害者の息子と、死後のそれぞれの魂が、より大きい魂の集合体みたいなものに共に合流することを夢見る。しかし本当のところは、「私」は独力で魂の集合体に合流することは無理だろう、そして息子にそこまで一緒にだよ、自分を導いて欲しいと思っているのだろう。

「火をめぐらす鳥」の最後で、「私」と息子は駅のホームで一緒に倒れて、二人して起き上がれなくなってしまう。「私」は息子に話しかける。

「イーヨー、イーヨー、困ったよ。一体なんだろうねえ?」

息子は答える。

「ウグイス、ですよ」

論理は完全に逆転しただろう。救うものが救われて、救われるものが救う。



大江健三郎の8短編を発表順に紹介してみました。


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