もし「論語」を、整合性のない教訓集だと考えたとするなら、「論語」にたいした価値はない。ヘーゲルやウェーバーが、論語を評価しなかったのも、このあたりに由来するだろう。しかし本当に「論語」は、整合性のない教訓集なのだろうか?

憲問第十四 386 にこのようにある。 

「子路君子を問う 己を修めてもって敬す かくのごときのみか? いわく、己を修めてもって人を安んず かくのごときのみか? いわく、己を修めてもって百姓(ひゃくせい)を安んず 己を修めてもって百姓を安んずるは、尭舜(ぎょうしゅん)もなおこれを病めり」 

これを私なりに現代語に変換してみる。

「弟子の子路は孔子に、君子とは何か、と問う。孔子は答える、自分をしっかり持ってそれを維持する。子路はさらに、それだけか、と問う。孔子は答える、自分をしっかり持ってさらに回りの人心も安心させるように助ける。子路はさらに、それだけか、と問う。孔子は答える、自分をしっかり持ってさらに人民全ての心を安心させる、しかし子路よ、このことの実現は古代の聖王でも悩んだことなんだぞ」

君子というものは、仁を体現している人のことだ。 そして狭義の仁の概念というのは、自分が自分であるという自己同一性のことだろう。 論語をトータルで読むと、そもそも孔子は、個人の独力で仁が達成できるとは考えていない。孔子の考えというのは、自己同一性の確立を目指す個人が、同じ道を目指す他者と補い合って、自己と社会の自己同一性を高め合った結果、多くの人たちの思いは尭舜に凝固するであろう、その尭舜の伝説が、仁を求める個人にフィードバックして、その仁を高める。高まった個人個人の仁が、さらに大きく尭舜に凝固する。このような循環によって社会の秩序が強化されることを孔子は期待したのだろう。

これは驚くべき思想だ。一神教的絶対神を導入することなく、広域の地域に秩序を形成しようと言うのだから。この論語の世界観というのは、古代人の空想ではないと思うんだよね。例えば現代日本は、キリスト教やイスラム教のような確固とした宗教もないのに、どうしてその秩序を維持しているんだ? 日本人の精神の根底に、論語の世界観、すなわち個人と世界とがその一体性を互いに強化しあうシステムのようなものが存在しているからではないだろうか。

よく言われるのが、西洋には哲学があって東洋には哲学はないということ。
ふざけるな。ありえない。
そもそも哲学とは何か? 哲学者とは何か?

ニーチェ 「権力への意思」 972 にこのようにある。

「私は最後にこう認めるに至った、哲学者には異なった2種類があると。すなわち、
 1 価値評価の何らかの偉大な事実を確立しようとする哲学者。
 2 そうした価値評価の立法者である哲学者。
前者は全ての過去の事物をその未来の有用のためにつかうという人間の課題に奉仕している。
しかるに後者は命令者である。彼らは言う、かくあるべしと」

前者の哲学者は二流、後者は一流の哲学者だ。西洋近代の大哲学者は全て二流だ。価値評価の立法者である哲学者というのを、私はプラトンと孔子以外に知らない。そして、二つを読み比べた場合、孔子の論語はプラトンをはるかに凌駕している。

論語を、何か役に立つ教訓集だと思ってはダメだよ。論語というのは、これは驚くべきことなのだけれど、その一節一節が互いに互いを保障しあい、互いに互いを持ち上げあい、普遍的世界観というものを形成している。この論語的普遍的世界観が妥当なものであったのかどうかという判断なのだけれど、現在、日本や中国がまとまりとして存在しているところを思えば、妥当であったと判定して問題ないだろう。

この論語的世界観の強力さというのは、プラトン的世界観と比べて明らかだ。西洋は、プラトン的世界観を保障するものとして、一神教のキリスト教を必要とした。東洋には絶対神は存在しない。その理由は、論語的世界観が一定以上の強度を持っていたので、社会の秩序を保障するところの絶対神を必要としなかったからだろう。

論語のすごさを知ってもらうには、実際に読んでもらうしかないのだけれど、一つ論語の深さを紹介します。

論語 里仁第四 073 にこのようにある。

「子日わく、人の過ちや、各々其(そ)の党に於(おい)てす。過ちを観て斯(ここ)に仁を知る」

これをどう読むか。 私なんかは、人の振り見てわが身を、みたいな感じで読んでしまう。例えば、東洋哲学の碩学、宇野 哲人は、
「過失を見ると仁者が不仁者かがわかる」
と解釈している。妥当な線だと思う。

ところが、吉田松陰はこの部分を、講孟箚記の告子上第11章の箚記で以下のように解釈している。

「人を殺すは不仁なり、殺すの心は必ず仁なり。仁は愛を主とす。人を愛する。己を愛する。同じく仁なり。もし愛するところなくんば、憎むところなく、殺すところなし」

驚くべき論理を展開している。「論語」の「過ちを観てここに仁を知る」のなかの「ここ」を、過ちを犯した本人その人自身をさしていると、吉田松陰は判断しているわけだ。

そして、この吉田松陰の強力な論語解釈によって、論語の世界観は崩れるのかというと、そうはならない。論語世界はより強化されている。

論語とは計り知れない強度を備えた命令的言論体系なんだよね。


このシステムは磐石ではない、揺れているよ。この現代日本では、多くの人が精神的に苦しんでいると思う。不登校や引きこもり、分裂症や神経症、しかし彼ら彼女らは、なぜ苦しんでいるんだ? 引きこもりは本人の弱さだと言われるけれど、彼らはなぜ弱いんだ? 突き詰めて考えれば、それは自分が自分であるという自己同一性が、ある一定水準以下だからだろう。さらに、自分の自己同一性を高めるための道が、この世界には存在しないとされているからだろう。 

確かに神経症のやつってめんどくさい。どこの職場にも複数いるだろう。細かいことをぐだぐだと、個人的なこだわりがあるのなら、職場でやらずに家でやれ、とは思う。夏目漱石の「こころ」の先生や「行人」のお兄さんとのような神経症予備軍は、回りにとって迷惑千万なんだけれど、やっぱり本人がいちばん苦しいのだろうと思う。  このようなことを言うとなんなのだけれど、救われるためには「論語」を読めばいいと思うんだよね。 論語みたいな忘れられた言説をアピールするというのも、個人的には気が引けるのだけれど。

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