結論から言うと、ツァラトゥストラにおける永劫回帰とは、終わらない祭りの論理だね。
神が死んだというのも、祭りになれば神は祭り上げられてしまうからだろう。





ツァラトゥストラはちょいちょい歌ったり踊ったりする。さらにこのようなことまで言う。


「戦争や祭りを喜ばなければならない。陰気な人間や、夢見るハンスはいらない。どんなに困難なことにも、自分の祭りのように喜んで取り組まなければならない」

ツァラトゥストラは祭り好きなんだろう。

ニーチェはあらゆる価値観の相対化というものを呼号したけれども、このことと祭りというのは関係性がある。

祭りにおいては、既存の価値観というのは軽くなってしまう。秩序と祝祭とは相容れない。近代以降、秩序体制が強化された日本において祭りは強力に管理されている。何かのきっかけで渋谷のスクランブル交差点に若者が集まったりすると、すかさず大量の警官が動員される。

江戸末期の、ええじゃないか、も祭りが止まらなくなったものだろう。明治政府が最初に行った施政は祭りの規制だった。

ニーチェは価値観を相対化した結果祭りに言及したというより、ニーチェ自身がそもそも祭り好きなんじゃないのかな。永遠の祭りを期待した結果、あらゆる価値観の相対化を発見したのではないだろうか。

ツァラトゥストラはキリスト教を辛気臭いといってさんざん攻撃しているわけで、これはよっぽどの祭り好きだと推測される。

ニーチェの思想に永劫回帰というのがある。長い時間の枠組みの中では、同じ瞬間が繰り返されるであろうという。一度でも繰り返されれば、永遠の時間の中で何度でもその瞬間は繰り返されるだろうという。

終わらない祭りの論理だね。

近代における時間の観念というのは、永遠の過去もしくは過去のある始点から、永遠の未来もしくは未来のある終点まで、時間が一直線に続くというものだ。ビッグバン以前の宇宙はどうなっていたのかという疑問があるとして、私たちはこれを当然の疑問だと考える。しかしビッグバンという想定自体が、時間は一直線に続くはずだという想定の結果ではないだろうか。そしてさらにビッグバン以前という観念は、時間は一直線に続くはずだという想定の結果ではないだろうか。

ニーチェはこのような近代的時間観念のアンチテーゼとして、永劫回帰というものを提唱したのではないかと思う。

時間感覚というのは、世界観というものの基本観念であって、ニーチェは近代的世界観の基本観念である直線的時間観念というものを相対化しようとして、永劫回帰という時間観念をぶっこんできたのだと思う。

終わらない祭り、永遠に続く祝祭、そういう世界もなくはないと思う。新しい世界観には新しい時間感覚が必要だということだろう。


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