夏目漱石とか島崎藤村とか、大作家とか言われていますが、実際に読んでたちどころに面白いとかいうものでもないです。

では日本近代文学に面白いものはないのかというと、そういうわけでもないです。私もすべての日本近代文学をカバーしているわけではないのですが、私の40年の読書人生の中で、

「これは!」

というやつを8作品紹介したいと思います。

江戸川乱歩とか山田風太郎とかの娯楽作品は除いて、「文学」のはんちゅうにはいるであろう作品から選びました。

目次
1 福沢諭吉 「福翁自伝
2 太宰治 「トカトントン
3 坂口安吾 「古都
4 宮本常一 「土佐源氏
5 大江健三郎「火をめぐらす鳥
6 安倍公房 「砂の女
7 森鴎外 「山椒大夫
8 梶井基次郎 「檸檬






1 福沢諭吉 「福翁自伝

福翁自伝は、福沢が晩年に自分の半生を口述筆記させたものです。口述筆記ですから口語体で書かれていてすごく読みやすいです。内容も面白いです。
福澤諭吉というのは現代では一万円札の肖像にもなっているので、小難しいことを喋っているのではないかと思われるかもしれませんが、全くそんなことはないです。

例えば、福沢は大分県中津市育ちなのですが、子供のころ、福沢は神社のご神体はなんだろうかと思って社を開けてみた。石が入っていたから「なんだこんな石」とこれをうっちゃって、その辺の石を拾って入れておいたそうです。

まもなく祭りになって福沢は


「馬鹿め、おれの入れておいた石にお神酒を上げて拝んでいるとは面白い」

と、ひとり嬉しがっていたと書かれています。
まったく、とんでもない悪ガキですよね。


2 太宰治 「トカトントン

太宰の名品。
終戦時の玉音放送という最高に厳粛な場面で、主人公の青年は「トカトントン」いう金槌の音を聞いたら、急にテンションが転換して何もかも馬鹿馬鹿しくなってしまい、あとはその繰り返しという話です。

ホントにうまく書かれている短編なのです。10分ぐらいで読めます。
青空文庫にありました。


3 坂口安吾 「古都

安吾の戦中の自伝小説。
安吾が戦前に京都に下宿していた時の素朴な人たちの人間模様みたいな話。素朴な人というとなんだかいいように聞こえるのですが、欲望と思い込みを抱えて、社会の底辺に張り付いているような人たち。

こういうことを言うと何なのですが、戦中版「浦安鉄筋家族」みたいな感じでしょうか。

「古都」の最後にこのようにあります。  

「ほんまに、そうや。と、親爺は酒を飲む僕を見上げて、ヒヒヒヒと笑った。それは神々しいくらい無邪気であった」  

これも青空文庫で読めます。


4 宮本常一 「土佐源氏

宮本常一「忘れられた日本人」という本の中に、昭和初期に土佐の山奥に住む乞食の老人にインタビューしたものがあります。その表題が「土佐源氏」です。


「忘れられた日本人」という本は、民俗学的聞き取り調査集みたいなものなのですが、この「土佐源氏」は聞き取り調査というレベルをはるかに超えて、完全に「文学」に昇華しています。

老人は自分の女性遍歴を語るのです。老人の語り口はこんな感じです。

その嫁さんがええひとじゃった。眉の濃い、黒い目の大けえ、鼻筋の通った、気のやわらかな人でのお。

それでも相手は身分のある人じゃし、わしなんどにゆるす人ではないと思うとったが、つい手がふれたときに、わしが手をにぎったらふりはなしもしなかった。

秋じゃったのう。

文庫本で30ページ、こんな感じでつづきます。正直、たまらないものがあります。


5 大江健三郎「火をめぐらす鳥

ノーベル賞作家の底力を感じさせる短編です。

大江健三郎は、知的障害者の子供が生まれて、この子供を救おうと決心したのだろう。しかし、人を救うとは何か? 人を救うなんていうことはできるのか? 自分でさえ救われていないのに?  

子供とかかわるうちに、いつしか論理は逆転する。  

養護学校の泊りがけの合宿に行こうとする息子を心配して、父親は語りかける。 

「イーヨー、大丈夫か、一人で行けるか? 」  

子供は答える。 

「お父さんは大丈夫でしょうか? 私がいなくても大丈夫でしょうか?」  

救うものが救われて、救われるものが救う、そういうことってありえると思う。  

「火をめぐらす鳥」のなかで、「私」は障害者の息子と、死後のそれぞれの魂が、より大きい魂の集合体みたいなものに共に合流することを夢見る。しかし本当のところは、「私」は独力で魂の集合体に合流することは無理だろう、そして息子にそこまで一緒にだよ、自分を導いて欲しいと思っているのだろう。   

「火をめぐらす鳥」の最後で、「私」と息子は駅のホームで一緒に倒れて、二人して起き上がれなくなってしまう。「私」は息子に話しかける。 

「イーヨー、イーヨー、困ったよ。一体なんだろうねえ?」  

息子は答える。 

「ウグイス、ですよ」  

論理は完全に逆転しただろう。 救うものが救われて、救われるものが救う。  
渾身の文学だと思う。


6 安倍公房 「砂の女


「砂の女」のあらすじというのは、
砂丘近くの村で主人公の男が村人に拉致されるのです。そして砂丘と村の境目にある竪穴に監禁されて、砂を掻き出す仕事を強制されるのです。誰でもそんな奴隷みたいなことはいやですよね。ところが、まあそこで生活しろということでしょう、女を一人あてがわれるのです。それが砂の女。奴隷的境遇の男は、だんだんと狭い空間での女との生活に満足するようになるのです。で、最後は逃げられるチャンスがあったのに逃げなかったという話。

今から考えると、私は中学のころまで人間恐怖症みたいな感じで友達も少なく、女の子なんかとはほとんど喋れないような感じでした。今の言葉で言えばアスペですね。他人が何を考えているのか分からなくて、人との距離感がつかめないのです。とくに突然の悪意などに弱かったです。その後、陰性アスペは克服しました。他人はたいしたことを考えていいるわけではないということを悟りまして。相手の態度で機械的に自分の態度を決めることにしました。相手が高圧的だと自分も高圧的に、相手が謙虚だと自分も謙虚に。どうせ他人はたいしたことを考えてないのですから、この程度で十分なのです。でも気をつけてください。これをやるとチンピラみたいなやつとは睨み合いになります。でもどうせ相手の心は空っぽなのですから、何も怖くはないですが。

砂の女を読んで、女の子と喋った事もなかった私は、好きな女と狭い空間で寄添って生きるということに憧れました。
大学に入って私には彼女が出来たのです。私が行ったのは国立の上位校でしたし、体育会でバレーボールをやっていました。アスペと知らず近寄ってくる女性もないわけではないのです。こういうのは大事にしないといけない。基本的に女の子にはもてる気がしない上に、「砂の女」に憧れているわけですから。

で、そのまま出来ちゃった結婚です。

20年経って妻に言われるのは、
「アンタには騙された」
ということです。
でもこれ私には私の都合があったのと同様に、妻には妻の都合があったのではないでしょうか。妻の都合がどんなものであったかは知らないですよ。知りたくもないし知る必要もないです。
私、子供がすきなのです。砂の女と妻には感謝しています。
特に砂の女に。


7 森鴎外 「山椒大夫


森鴎外の作風は、時代小説を書き始める以前と以後とでは異なっているという。鴎外は小説世界にまとまりをつけるのが嫌になって時代小説を書きはじめたという。
「山椒大夫」の中にこのようにある。

子供らの母は最初に宿を借ることを許してから、主人の大夫の言うことを聴かなくてはならぬような勢いになった。掟を破ってまで宿を貸してくれたのを、ありがたくは思っても、何事によらず言うがままになるほど、大夫を信じてはいない。こういう勢いになったのは、大夫の詞に人を押しつける強みがあって、母親はそれに抗(あらが)うことが出来ぬからである。その抗うことの出来ぬのは、どこか恐ろしいところがあるからである。しかし母親は自分が大夫を恐れているとは思っていない。自分の心がはっきりわかっていない」

この母には主体性というものがない。相手に強く出られると、「主人の大夫の言うことを聴かなくてはならぬような勢い」になってしまう。「山椒大夫」という小説は、勧善懲悪とかピカレスクとかさらに言えば無常観とか、そのようなものとは全く無縁に、ただこの母のような登場人物達がその運命の中で喜んだり悲しんだりしているだけだ。


これって夢の構造と同じだろう。

「山椒大夫」をヒントに夢の構造について考えてみる。
そういえば夢の中では、抽象的な価値観の序列ってないよね。好きとか嫌いとかはあるけれど、善とか悪とかはない。抽象的な価値の序列というものはなく、ただ好きなもの嫌いなもののリアルな実体のみの世界だという。
だから、その世界において強力な実体があらわれると、もう拒否することが出来ないんだよね。普通は抽象的な価値の序列みたいなものが心を防御していると思うのだけれど、夢の世界においては、その防御がないから、実体が直接心を占拠して確信になってしまう。

志賀直哉の奇妙な小説も同じように説明できる。「暗夜行路」の主人公は気分に支配されている。時任謙作は小説のはじめは不快な気分の状態だったのだけれど、終わりのころになると調和的な気分になってくる。気分の変化に理由とかはない。時任謙作は、ふと自分の父親は本当の父親ではないと思う。するととたんに祖父こそが本当の父親であると確信する。
夢の構造と同じだろう。

「山椒大夫」には近世と近代をつなぐような微妙な感覚が描きこまれています。


8 梶井基次郎 「檸檬

「えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終押さえつけていた」

梶井基次郎の「檸檬」は始まる。
私の心を押さえつけている得体の知れない不吉な塊とは何なのか、とつい探求したくなるのだけれど、梶井基次郎はこのような思考パターンを軽やかに拒否する。

「肺尖カタルや神経衰弱がいけないのではない。また背を焼くような借金がいけないのではない。いけないのはその不吉な塊だ」

強いなって思う。

散歩コースに八百屋があってレモンを一つ買う。レモンの爽やかな香りを胸に吸い込む。胸を膨らませるレモンの香りと、胸を押さえつける不吉な塊。自分の胸をめぐるレモンと不吉な塊との相克。

レモン強し。今日は気分がいい。京都の丸善に突撃しようかという。

そういえば私も大学時代は名古屋の栄の丸善によく行った。30年前の丸善というのは人を選ぶような大型書店で、選ばれたような気持ちになっていた私は4階の洋書コーナーでドイツ語の書籍をあさっていた。カフカとかギュンターグラスとかの原書。もちろんそんなものが読めるわけない。かっこつけて何冊も買ったのはいいのだけれど、結局カフカの「城」だけを辞書を引きながら新潮文庫の「城」と読み比べただけだった。

梶井基次郎は丸善に入って画本の棚の前に行く。

そうそう、丸善にはこんなのをいったい誰が買うの? という本が並んでいたりした。今でも覚えているのは、ヤコブス・デ・ウォラギネのキリスト教の聖者・殉教者たちの列伝である『黄金伝説』という本。分厚いハードカバー本で全5巻だった気がする。ちょっとパラパラめくってみた。犬好きの牧師というのがいて、犬に善行を施しまくった結果神の思し召しによって、この牧師は死後ただちに犬の天国に駆け上っていったという記述があった。
何もかもが謎だよね。

梶井基次郎は丸善に突撃したのはいいのだけれど、丸善の雰囲気にのまれて、また不吉な塊が胸を圧迫し始める。

「私は一冊ずつ抜き出しては見る。そして開けては見るのだが、克明にはぐっていく気持ちはさらに湧いてこない。しかも呪われたことにはまた次の一冊を引き出して来る」

だんだん本が積みあがってくる。30年前、私は引き出した本は元に戻しはしたけれど、梶井基次郎の気持ちは分かる。

そしてラスト。そういえばポケットには黄色いレモンがあったんだ。積み上げてしまった本の上にレモンをそっと置く。

「見わたすと、その檸檬の色彩はガチャガチャした色の諧調をひっそりと紡錘形の身体の中へ吸収してしまって、カーンと冴えかえっていた」

カーンと冴えかえるという。
カーンだよ。

レモンをのこして丸善を立ち去り話は終わるのだけれど、とにかくえたいの知れない不吉な塊にたいする気持ちのかぶせ方がすがすがしい。なかなかこうはいかないよ。



今回はこんなところでしょうか。最後までお読みいただきありがとうございました。