前作「MOMENT」は大学生「僕」視点での話だったけれども、「WILL」は「MOMENT」から7年後の大学生「僕」の彼女である葬儀屋の看板娘「私」視点からの3つの連作短編集だった。



正直言って、「WILL」は「MOMENT」より小説としての出来が落ちると思う。



大学生「僕」視点での葬儀屋の看板娘「私」22歳は口の悪い不思議娘という感じで魅力的だったのだけれど、7年後の葬儀屋の看板娘「私」29歳は今回自分の視点で語るわけで不思議娘でもなんでもない。これではただの口の悪いおばさんだろう。



例えばだよ、葬儀屋の看板娘?「私」29歳を、かつての大学生「僕」現在はアメリカで翻訳の仕事をしている高学歴「僕」29歳が白馬に乗った王子様よろしく迎えに来たとして、もうこれは作者のアラサー女性へのサービスだろう。オヤジ読者には何の関係もない。



葬儀屋の看板娘?「私」29歳はおせかっいすぎると思う。こんなおせっかいな葬儀屋はいない。ACT1「空に描く」では、あるアラサー女性の本当の父親は先日死んだ父親かそれとも別の男か?というところに話は収束していくのだけれど、そんなのほっといてあげればいいじゃんって思う。葬儀屋がそんなことを解明する必要はないだろうと思う。



司馬遼太郎がどこかに書いていたのだけれど、明治以前の村社会では夜這い婚というものが主流だったという。夜這い婚とは、村の若い男は夜、村の娘のところに夜這いに行く。娘は気に入らない男は拒否することができる。まあいいかと思えば受け入れる。そのうち娘は妊娠する。妊娠した時点で、娘は結婚相手を夜這いに来た男たちの中から1人指名することができる。男はこの指名を拒否することはできない。拒否すれば村八分だ。

この制度では子供と父親とのDNAが一致するとは限らない。かつての日本男児はそのようなことは気にしなかった。自分の子供は自分と血がつながっていないかもしれないが同様によその男が自分の血を受け継いだ子供を育ててくれているかもしれないからだ。



貴族階級でもないのにDNAの一致がどうとか、男はそのような細かいことにこだわるべきではない。愛する女が子供を孕めば責任を取るしかない。女も誰の子供かなどという科学的真実を語る必要もない。ましてや葬儀屋が家族の生物学的真実を解放しようなどと迷惑千万だろう