ゴーギャンがモデルだろうとか、月は6ペンスは何を象徴しているのだろうとか、この本の前ではそんなことはたいした意味はない。そんなエセインテリチックなところにこだわると、この小説の良さが分からなくなる。

この本のあらすじというのは、

世界大戦前のロンドン、家族や仕事を投げ出して画家を目指した中産階級上層の40男について、ある小説家が戦後になって振り返ってみた。
というものだった。

この小説は一読、とても面白いのだけれど、いったい何が面白いのかという説明をするとなるとちょっと難しい。
まず画家を目指して家庭を捨てた男はゴーギャンがモデルだという。この小説がゴーギャンの自伝的なものであるということは小説の面白さと関係がない感じ。例えば、画家を目指して身を持ち崩した40男に結局絵画の才能がなかったとしても、この小説の面白さの枠組みというものは存在し続けるだろう。

この面白さの枠組みとは何なのかという。
率直に言うと、40男が中産階級上層から下層へ、中産階級下層から下層階級へ、文明の下層階級から辺境の植民地へという階層移動することに対して、それを価値の堕落と考えるか真実の場への降下であると考えるのか、その認識の揺れみたいなものがさわやかなリアルさを表現しているのだと思う。

ゴーギャンと目される40男の妻は良妻賢母の専業主婦で、家をピカピカに磨き上げながらロンドンの名士を家に呼んでサロンの女主人を装うのが趣味なんだよね。人に評価されたいという気持ちは分かるけれどもやりすぎるのもどうか。しかし頑張りすぎの人たちが集まっちゃって一段高い世界観を形成して互いに満足しあうということはあり得る。
こういう持ち上げられた奇怪な世界から逃げ出したいというのはある。ゴーギャンと目される40男のように。

私の勤める会社の取引先のお偉いさんというのが車好きベンツ好き。悪い人ではないのだけれど、ベンツの話になると止まらなくなる。最近のベンツ乗りはタイヤのところに補助ブレーキシステムをつけている奴が多いらしいのだけれど、それはベンツの美学に反するらしい。
ベンツに美学なんて言うものがあるのかと思って。どうやら奇怪な認識共有が一段高い世界観を形成しているらしいのだけれど、ハイソな世界をのぞき見したいような、馬鹿げた世界にはかかわりあいたくないような。

ゴーギャンと目される40男はブルジョア的な相互承認世界にウンザリしたのだろう。ロンドンを逃げ出しパリで絵を描き始める。しかしパリでの唯一の友人が差し伸べる手をやんわりとお断りする。中産階級下層に留まる手段を自ら放棄する。


このような誘惑というのは確かに存在する。
田舎の葬式に出たときに、親戚の叔父さんが近寄ってきて、
「葬式というものは生きている人のためにやるものだってしみじみ思う」
なんて語りかけられたりする。
何言ってんだこの馬鹿。哭泣は生者のためにあらざるなり(孟子)だ。なんて思うのだけれど、これを言ってしまうと田舎での関係性が切れてしまうので、「そうですね」と神妙な顔をしてうなずくわけだ。

ゴーギャンと目される40男は、このようにして下層階級、さらには文明の辺境へと流れつく。このことが堕落であるのか遍歴であるのかの判断となると、普通は堕落ということになるだろう。できるだけ頑張って上の階層にいるほうがいいということになる。
しかしこの「月と6ペンス」が発表されたのは1919年で、世界大戦終戦直後だ。近代ヨーロッパの価値観の転換期であって、ゴーギャンと目される40男の人生が堕落であるか遍歴であるかというのは判断が難しい時代だった。

その判断の揺れみたいなものが、この小説ではうまく表現できていてすばらしい。