ヘーゲル「歴史哲学講義 」 を分かりやすく説明します

ヘーゲルというと、19世紀最大の哲学者といわれている。そうなるとよっぽどお難しいのでしょう?ということになる。


実はそんなことはないのだけれど、ただ、ヘーゲル哲学における「歴史」とか「自由」という概念が、普通よりちょっと違うんだよね。だから、予備知識なしで読んでしまうと、だんだん分からなくなるということはある。

普通に歴史というと、過去にあった出来事の積み重ねの記録、みたいなことになる。こう考えると、人間のいたところどこにでも歴史は存在することになる。文字がなくたっていい、口述でもいいのだから。

しかし、ヘーゲルの言う「歴史」とは、もう少し厳密なものだ。厳密すぎて、ちょっとついていけないところもあるのだけれど。ついていけない所は、「ヘーゲル節」みたいなものとして理解していけばいい。

人間は社会を作る。社会的動物とか言われている。

人間集団が、広範な地域で秩序を形成するためには、何らかの普遍的観念の体系が共有されていなくてはならない。例えば、人を殺してはいけないとか、まじめに働かなくてはいけないとか、約束を破ってはいけないとか、そういうものだ。

この普遍的観念の具合によって、その社会の性格みたいなものが出てくる。時がたつと、その社会の普遍的観念が変わってきて、その社会の性格も変わってくる。この変化を社会の内部から観察すると、社会の雰囲気が変わったように見える。

これは別に難しい話でもなんでもない。私は現在47歳なのだけれど、バブルが崩壊して何年かたったあたりから日本社会の雰囲気が変わり始めて、30年前と現在とでは、日本はかなり雰囲気の違った社会になっていると思う。

この変化の原因を、経済の低成長などの唯物的なものにのみ求めてもいいと思うけれども、私は、日本社会の普遍的観念体系の変化についても考えていきたいと思う。

この私の意見に賛成された方は、ヘーゲル哲学の第一関門をクリアーしたわけだ。

ヘーゲルにおける歴史というものは、この時代の雰囲気の変化の記述をいう。

すなわち、普遍的観念体系が共有されていない社会では、ヘーゲル的歴史というものは存在しない。

ヘーゲルはアフリカ中南部には歴史は存在しないという。歴史が存在しないとはどのような意味か。

かつてアフリカからアメリカに、黒人がひどい扱いで奴隷として運ばれたというのはよく知られている。イギリスひどいみたいな、ネットの議論もある。 しかしなぜアフリカの黒人は、あのような奴隷船に乗せられ、システマティックに運ばれていったのか不思議ではないだろうか。彼らにも親やふるさとがあっただろう。

ヘーゲルはこのように語る。

「黒人はヨーロッパ人の奴隷にされアメリカに売られますが、アフリカ現地での運命の方がもっと悲惨だといえます」

どのように悲惨か?

「現地においてすでに、両親が子供を売ったり、反対に子供が両親を売ったりする」

本当かよ? と思う。 さらに

「黒人の一夫多妻制は、しばしば子供をたくさんつくって、つぎつぎと奴隷に売り飛ばすという目的を持っていて、ロンドンの黒人がつぶやいたという、自分の親族全員を売ってしまったために貧乏になったという、素朴な嘆きは珍しいものではありません」

ヘーゲルの歴史に対する研究熱心さを考えれば、これらのことはおそらく事実だったろう。

普遍的観念が共有できなくなった社会は、歴史を失い、奈落の底を見ることになるだろう、とヘーゲルは言うわけだ。

ここまでのヘーゲル歴史哲学の基礎構造は、間違っていないと思うんだけれども、ここから先の、自由主義的進歩史観にいたる論理部分に、ちょっとついていけないというか、ヘーゲル節炸裂みたいなところがある。

広範な地域に社会秩序が成立するためには、そこに暮らす人々に普遍的観念の体系が共有されていなくてはならない。

例えば、人を殺してはいけないとか、まじめには働かなくてはいけないとか、約束をまもらなくてはいけないとか、そういうことの概念体系だ。

では、なぜ人を殺してはいけないのか? 

日本人的に考えると、そんな殺していいというと社会が存在しなくなるよね、みたいな、歴史に育まれた直感みたいなことになるだろう。

ヘーゲルは、ヨーロッパ社会は一神教的キリスト教によって、社会の普遍的観念体系が保障されているという。だから、絶対神の存在しない中国(歴史哲学講義においては日本に対する言及はない)は、社会の一体性においてヨーロッパより構造的に劣っている、という。

絶対神が存在しないのは、日本も同じである。

受け入れがたい第一のヘーゲル節だ。

この第一のヘーゲル節をてこに、ユーラシア大陸の東から西に、空間的時間的に人類は進歩してきたという。最低は中国(ヘーゲルが中国という場合、東アジアを指す)で、最高はヨーロッパだ。

進歩史観の原型とは、このようなものだったわけで、これが受け入れがたい第二のヘーゲル節だ。

社会の一体性は個人の一体性、すなわち個人の自己同一性の強度にシンクロしている。そして、人間の自由というものは、個人の一体性に依存している、とヘーゲルは言う。

これは認めてもいいかと、個人的には思うのだけれど、この後がまたヘーゲル節なんだよね。

神によって保障された一体性を持つヨーロッパ社会は、人類を自由の世界に導くところの選ばれた者だ、とヘーゲルは言う。

これが受け入れられない第三のヘーゲル節だ。

この第一から第三のヘーゲル節をつなげると、自由主義的進歩史観ということになる。一言で言えば「リベラル」ということだろう。

まず第一のヘーゲル節、ヨーロッパ社会はキリスト教に保障されているからすごいんだというヤツ。しかしそもそも、神に保障されているからヨーロッパはすごい、というのは原因と結果が逆なのではないか。こういうことを言うとキリスト教徒には申し訳ないのだけれど、社会の安定性をより強固にするためにキリスト教はローマ帝国末期に発見されたのではないだろうか。東アジアでは、一神教を発見する必要がなかったのではないだろうか。一神教の宗教を信じているからといって自分が優れていると考えるのは、我田引水ではないだろうか。

次に第二のヘーゲル節、人類は東から西に向かって進歩するっていうやつ。生物学的進化というものを軽く考えすぎていないか? たかだか3000年程度の時間で、人類の進歩とか傲慢だろう。確かに20世紀の中国はしょぼかった。日本は本当にそれで苦労した。マジで中国はダメなんじゃないのかと思われた時間もあった。しかし現在はどうか。中国のGDPは日本の3倍を越えている。もう日本は追いつくことは出来ないだろう。



眠れる獅子はついに目覚めた。



自由主義的進歩史観の根底は覆った。現代日本でのリベラルの退潮というのは、中国の発展というのが原因だろう。

そして第三のヘーゲル節、自由の実現について。自由を最高の価値とする考えというのは罪深いと思う。社会や個人の一体性からどれだけ自由が引き出せるかということを価値の基準とするなら、その世界は「一体性」を前提としている。しかしそもそも、「一体性」というものは神に与えられたものではないのか? 神が失われたのなら、前提を変更しなくてはならないはずだ。「一体性」とは何なのか、よく考えなくてはならないにもかかわらず自由を主張し続けるのなら、それは真の自由ではなく、依存の自由、奴隷の自由だろう。

このように、ヘーゲル哲学といっても、受け入れられるところ、そうでないところと重層的になっている。だから、「ヘーゲルの観念論」などという言葉があったとするなら、どこまでの観念論なのか判断が出来ないところがある。