ドミートリーは父親殺しの容疑で刑事裁判となる。

近代においての裁判とは国家の枠組みが強烈に照射する場所である。国が人間のプライベートを回収する。
バフーチン的に言えば「最後の言葉」を回収する、それが近代であり、さらに言えば近代裁判だ。


ドミートリーの婚約者であるカテリーナは、裁判の中でこのように告白する。

「あたしと結婚するきになったのだって、あたくしが遺産を相続したからに過ぎません。そうじゃないかとかねがね思っていました。ああ、このひとはけだものです。あたくしがあのとき訪ねていったことを恥じて、一生この人にびくびくしつづけるだろう、だから自分はその子とで永久にあたくしを軽蔑し、優越感をいだいていられると、いつもおもっていたのです。.............  」

カテリーナの最後の言葉は国家に回収された。カテリーナも、ドミートリーを愛していると感じた瞬間だってあっただろうし、もちろん憎んだ瞬間もあっただろう。カテリーナの存在というのはゆれていたのだけれども、「断言」することによって存在が固定されてしまう。
存在が固定されていない人たちを統治するより、存在を固定されている人たちを統治する方がコストが安い。このコストパフォーマンスの優位から、近代国家がたち現れてきたのだと思う。
私たちは日々「断言」してまわなっていないだろうか。注意深く観察して欲しい。不用意な断言が世界には溢れていないだろうか。

ドミートリーの最後に検事の論告と弁護人の最終弁論がある。これが圧巻。近代がいかに人間を固定化するかということが圧倒的な筆力で表現されている。
弁護人はスメルジャコフという人間をこのように表現する。

「彼は自分の出生を憎み、それを恥じて歯ぎしりしながら思い起こしていました。幼いころの恩人だった召使のグリゴーリー夫妻に対して、彼は敬意を払っていませんでした。ロシアを呪い、ばかにしていたのです。彼はフランスに行きフランス人に帰化することを夢見ていました。彼が自分以外のだれも愛さず、不思議なほど高く自分を評価していたように思います」

この断言ぶり。たしかにスメルジャコフは誰もが友達になりたいようなヤツではない。
でも、フランス語の単語を覚える努力をしていた。
実際にフョードルを殺し、その罪をドミートリーになすりつけた。しかし365日ロシアを呪い続けたわけでもないだろう。隣の家の娘とのロマンスだってあった。スメルジャコフの作る料理は一級品だった。スメルジャコフだって、その存在はゆれていた。しかしこの断言ぶり。


「カラマーゾフの兄弟」を読み終わって思うのは、このドストエフスキーという作家のパワーだ。最後の言葉を回収しようとする近代を悪だと設定するわけでもなく、最後の言葉を守ろうとする人が無条件に善だというわけでもない。ただ近代と人間とのギリギリの相克を、底に飛び散る火花や涙を圧倒的な筆力で活写するという。

この世界に最後の言葉を回収されるのを拒否すること。
この世界と向き合って生きるということ。

カラマーゾフはこのギリギリの二律背反の中を生きる。

「カラマーゾフ万歳」

関連記事