長男ドミートリーが父親のフョードルを殺したという容疑で逮捕される。

このフョードルを殺したのは誰なのか。「カラマーゾフの兄弟」では殺人が起こって、犯人が誰なのかという謎があるわけで、この小説は推理小説としても読めるという意見もある。

そもそも推理小説とはなんなのだろうか。

推理小説の形式というのは極めて近代的なものだと思う。推理小説の形式とは何かを説明するために、一つ例を出しましょう。

「古畑任三郎」という推理テレビドラマがある。
古畑任三郎は刑事で、犯人をいろいろ推理するというドラマなんだけど、この犯人というのが将棋の棋士だったり、有名な女優だったり、医者だったりする。犯人は自分の社会的名声を守るために殺人を犯す。
さらに言うなら、犯人は自らが所属する知の体系を維持するためには殺人もしょうがないと思っている。この世界には様々な知の体系があって、それぞれがお互いに切磋琢磨している。頭がいいと思われたい人間は、結局どこかの知の体系に所属しなくてはいけない。それぞれの人間がそれぞれの知の体系に所属して、それぞれの論理を持つ。自分そして自分の所属する知の体系を否定しようとするものは、簡単に排除されてしまう。

しかしこの世界にはより大きな秩序があって、個別の知の体系といえども、全くばらばらに存在することは許されない。殺人などという一線を越えた体系維持運動は認められない。古畑任三郎という探偵は、はみ出た知の体系のオルガナイザーを摘発し、知を回収して回る国家体系の番人なんだよね。

「カラマーゾフの兄弟」でおこる殺人と解決は、この探偵小説の形式とは全く異なる。アリョーシャはいきなり次兄イワンに

「あなたは犯人ではない」


という。当たり前だ、そもそも長男ドミートリーが容疑者として逮捕されているんだから。しかし話の結末というのは、イワンが父親が死んで欲しいと密かに願っていたので、スメルジャコフというヤツがイワンの代わりにフョードルを殺したというものだった。スメルジャコフにしてみれば、イワンは殺人の共犯だが、アリョーシャにしてみれば、「イワンは犯人ではない」ということになる。それぞれにそれぞれの真実がある。アリョーシャは知の体系をより上位の体系に回収しようなんて思っていない。ただただ真実を喝破するだけ。

そこには推理小説特有のカタルシスはなく、巨大な愛があるだけだ。

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