主人公アリョーシャが尊敬するゾシマ長老の若いころの話。

ゾシマ長老、今はロシアのある修道院で尊敬を集める修道僧であるけれども、若いころはかなりヤンチャをした。つまらないことで決闘沙汰にまでなる。ところが決闘当日の朝、突然神に目覚めるんだよね。優しくて敬虔だった、若くして死んだ兄の事を思い出した。
決闘で相手の先行の一発、ピストルの弾丸を耐えた後、修道院に行く宣言をする。

人よりも仕事が出来るアピールとか、私の家系は由緒あるアピールとかいろいろな世間体みたいなものが誰にでもある。そういうものをすべて切り捨てて神に直結するという、そんな願望はありえる。
若きゾシマ長老にあこがれた人が、自分は昔、人を殺したなんていう告白をしてくる。ゾシマ長老はその人に自首を勧めるんだけど、これは苦しいよ。殺人宣言なんてすれば、神と直結できる代わりに世間体は崩壊してしまうから。世間体というものは空気のようなもので、どうでもいいように思えて、なくなると思うと急に苦しくなるようなものなんだよね。

人間世界における、神とのつながりと人とのつながり。このベクトルの異なる二つのつながりというのは、何らかの関係があるのだろうか。あるといえばあるし、ないといえばない。

ゾシマ長老は最後にこのようなことを言う。

「行って、人々に告白なさい。何もかもがやがて過ぎ去り、真実だけが残るのです」

この孤独にどれだけの人間が耐えられるのだろうかという。

大審問官の独白とゾシマ長老の昔話はシンクロしている。縦の強調と横の強調。人間の強さと弱さ。ただ、何もかもがやがて過ぎ去り、真実だけが残る、っていうことがありえるとするなら、それは歴史の偉大さであると思う。

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