「カラマーゾフの兄弟」における大審問官とはなにか?  簡単に説明します。

「大審問官」はカラマーゾフの兄弟、次男と三男、イワンとアリョーシャの会話から始まる。
神の創った世界を認めるかどうかというこということについての話。

イワンは認めないと言う。なぜなら多くの子供達が虐げられているから。神がが与えたもうたこの世界の秩序に犠牲が必要だというのなら、少なくとも無垢な子供達はこの犠牲から排除されていなくてはいけない。にもかかわらず現状はどうだろうか。最近の新聞にこのような話があるとイワンは言う。


「真冬の寒い日に5つの女の子を一晩中便所に閉じ込めたんだよ。それも女の子が夜中にうんちを知らせなかったという理由でね。それも実の母親がだよ。真っ暗な寒い便所の中で、悲しみに張り裂けそうな胸をちっぽな拳で叩き、血をしぼるような涙を恨みもなしにおとなしく流しながら、神様に守ってくださいと泣いて頼んでいるというのに。いったい何のためにこんなバカな話が必要なのか」


この意見に対してアリョーシャは

「キリストの犠牲によってすべては許される」

と答える。
この答えに対して、イワンは自分の創った「大審問官」という叙事詩を語る。

「大審問官」

場面は15世紀スペインのセヴィリア、異端審問の最も激しい時代。そこにキリストが降り立つ。人々はそれがキリストだとわかってキリストの周りに集まりだす。厳しい異端審問によって秩序を維持するセヴィリアにとって、これは秩序の危機だ。枢機卿である大審問官はキリストを捕らえて牢獄に閉じ込める。そして大審問官は夜中、キリストをを訪れて、自らの告白をする。
この大審問官の告白の何を重要視するかで、「大審問官」の意味というのは変わってくるとは思うのだけれど、私が重要だと思うところのその告白を要約する。

人間はキリストによって自由を与えられた。しかし人間は何が善で何が悪であるかという選択の自由の重みに耐えられない。キリストの自由では秩序が保てない。ここセヴィリアではキリストの代わりに我々が市民のために善悪を判断してやっている。三つの力によって、すなわち奇跡と神秘と権威。だから愛などという雲をつかむようなお前の言説はここセヴィリアでは必要ない。

この要約は私なりの要約で、ここは本当は原文を読んでもらった方がいいとは思う。

幼児虐待の話から何故秩序の維持の話になるのか。さらに言えば、この世界はかろうじてとはいえ何故秩序が維持されているのか。秩序維持の根源たる奇跡と神秘と権威とはなんなのか。

この世界の秩序の根源は何かという話。

人間世界はなんらかの秩序体系によって、その社会性が維持されている。この人間世界の秩序体系は、何らかの確固としたものによって保障されているのか、それとも合理的秩序体系であれば何でもいいというレベルのものなのか。

イワンは「保障されていない」と考える。世界と人間秩序がつながっているとするなら、この世界で罪のない子供たちが虐げられるなんていうことはありえない、と主張する。これに対してアリョーシャは、人間秩序には不都合な個別現象があるけれど、キリストの存在によってそれらは贖罪されるという。

このアリョーシャの意見に対する再反論が大審問官の物語だ。

キリストというのは、神もしくは世界と個々の人間との繋がりを保障しているものであって、個々の人間同士の繋がりを保障するものではない。親が偉大だからといって、兄弟同士が仲良くするというものでもない。人間社会の秩序の起源というものは、神と人間なんていう高尚なものではなく、もっと卑近な必要に迫られた結果みたいなものである。
大審問官は15世紀のセヴィリアで、放っておけばバラバラになってしまうような人間集団を、異端審問という過激な手段でかろうじて一つにまとめているという。これは大審問官の罪ではなく功績だということだ。大審問官も状況が許せば異端審問などという手段ではなく、もっと緩やかな、例えば民主主義とか憲法体制などで民衆を統合するということもありえる。

このように大審問官の物語とは、西洋の大哲学者が語ろうとした、この近代世界とはなんなのかという巨大な問いの、一つの出発点であると思う。


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